四月朔日という変わった苗字の女性がいる。四月朔日つまり四月一日と書いて「わたぬき」と読むのだ。
 彼女の下の名は麻衣夏といい、西瓜が大好物な今年二十歳になる大学生だ。
 西瓜だけではない、夏らしいすべてのものが好きだと言っても過言ではないだろう。海水浴が好きで、夏祭りが好きで、浴衣が好きで、真っ昼間の騒がしい蝉の音が大好きで、とにかく夏を目一杯楽しんで生きている女性である。
 そんな彼女が、朝から嘉島崎爽平の家を訪ねてきた。学生である彼女は、夏休みに入って暇を持てあましているらしい。
 社会人となって間もない爽平は、貴重な休日の睡眠時間を彼女の来訪によって邪魔されてしまう。
「おはよ!」
 合い鍵を持っている彼女は、まだ布団の中で熟睡している爽平にお構いなく勝手に上がり込み、寝室のカーテンをおもむろに開けて、寝ている彼の上に馬乗りになった。
「こら、爽平! 朝だぞ。天気いいぞ。夏真っ盛りだぞ」
 爽平を起こす言葉はそんな感じだ。夏なのだから、早く遊びに連れてってと言わんばかりの勢いである。まるで彼は、夏休み入った子供を持つ父親のような気分だった。
 爽平はうっすらと目を開ける。
 そこにさらに衝撃が加わる。胸の上に何か重みのある物を乗っけられた感じだった。
「なんだ?」
 目の前に緑の球体、黒い縞模様がある。遊びに行くのだからビーチボールなのだろうと眠い頭で考えながらも、その重みに対して別の思考がそれを否定する。
「!」
 急に起きあがったものだから、上に乗っていた麻衣夏が布団の後方へと転がっていく。彼の胸にあった物体はそのまま横にすべり落ち、こちらはまだ布団の中だ。
「もう、急になにすんのよ!」
 眉間にしわを寄せて彼女は起きあがる。口が「よ!」のまま爽平を捉えていた。
 そんな彼女から逃げるように視線を逸らして、ふと横を見ると西瓜が転がっている。
「西瓜?」
「そう西瓜。ここへ来る途中、八百屋さんでね。スーパーじゃないよ、八百屋のおじちゃんにいい西瓜選んでもらったんだから。冷やしといて後で食べよう!」
 満面の笑みを浮かべる彼女に、申し訳なさそうに彼は答える。
「俺、西瓜嫌いなんだけどな」
「え? 嫌いなの? なんで? 夏だよ、西瓜だよ。甘いし、おいしいよ。爽平、果物嫌いじゃないでしょ」
 小さな子供のような無邪気な麻衣夏の笑顔に彼は苛立ちを感じる。
「ぶー、西瓜は野菜です」
 爽平は無性に意地悪がしたくなって、そんなどうでもいい知識をひけらかした。
「ムカツクぅ! そうじゃなくて、そんなにクセのある味じゃないでしょ。メロン食べられるでしょ。梨も食べられるでしょ」
 さすがに「メロンも野菜です」なんて言ったら叩かれるだけであろう。
「うん、だけど嫌いなんだ。なんか赤いし」
 嫌いな物はあまり深く考えないのが吉である。爽平はそういう性格だ。
「ほぉー、爽平、苺嫌いなんだ。トマトもだめなんだ。ボルシチもレッドカレーもタンタン麺もだめじゃん」
 まくしたてるような麻衣夏の言葉に爽平は少し呆れてしまう。
「……」
「そんな事言ってたらね、何も食べられないよ」
 非道い言われようであるが、彼は好き嫌いが激しいわけではなかった。
「いや、西瓜だけダメなんだけど」
「なんかトラウマでもあるっての? もう、嫌だなぁ。夏だってのに健全じゃないんだから」
 爽平はその言葉を聞き流しながら、立ち上がってテレビの電源を入れる。朝起きて一番初めの行動はいつもこれだ。一人暮らしが長くなると、それが習慣のようになってしまっている。
 画面にはどこかの球場のスタンドが映し出され、応援する人たちの声が聞こえてくる。それは高校野球だった。
 見覚えのある学校だったが、彼はすぐさまいくつかチャンネルを切替えて、最終的にはバラエティ番組に落ち着ける。
「えー、高校野球みないの? さっきの爽平とこの地元じゃないの?」
「ん、野球嫌いだから。特に高校野球は」
「もー、どうしてそう夏らしいものばっかり嫌いになるかな」
「なんかね。あの金属バットがカンに障る」
「わがままだなぁ」


 映画に行こうということになった。夏らしいということで、ホラー映画に決まる。友達に先に見に行かれたと麻衣夏が悔しがっていたので、単純にそれに決めた。
 朝の事もあるし、今日はなるべく彼女の機嫌をとるほうが良いだろう。
 爽平の横を歩いている彼女は、腰くらいまであるであろう長い髪をアップにしてバレッタで短くまとめていた。
 出逢った時からそんな感じなので「だったらショートにしてしまえばいいのに」と言うと「髪は女の命なんです、そう簡単に切ってたまるものですか。それにね、あたしギネスブックに載るのを目指しているんだから」と訳のわからない事を言う。
 いや、単純にバレッタを外せばいいのだが。たぶん、それを言うと「長くて鬱陶しいから」と矛盾したことを言い出すだろう。
 今日は気温が上がるということもあって麻衣夏の服装は、上は水色でセーラーカラーのブラウスに下はジーンズ生地のミニスカートだ。彼女はわりと行動的な服装を好む。
 街でゴスロリファッションの少女を見かけて「あんな服とか着てみたくないの?」と問うと「恥ずかしくて着れないよ。それになんか動きにくそうだし、なにより暑そう。どうせなら涼しげな甘ロリチックなのがいいよ」と言う。
 それを聞いて爽平も彼女らしいと納得した。そんな彼女を好きになったのだからと。
 映画を見た後、ファストフードに入ってたわいのない話をする。
「爽平ってホラー映画とか平気なんだね」
「なんで? 俺ってそういうのにビビるタイプだと思ってた?」
「いや、そうじゃなくて。あんまり気乗りしてなかったから」
「まあね、どっちかっていうとSFチックな方が好きだから」
「今日見たのはSF的な要素も入ってたけどね」
「そんな勝ち誇ったように言われてもなぁ」
 その後は、映画についてのあれこれとくだらない議論を交わす。あそこの血しぶきはやりすぎたとか、驚かすならもっと溜めが必要だとか、少女をなぶり殺すシーンがまだまだ甘いとか、ある意味爽平はお腹がいっぱいになった。


 その夜、夢を見た。
 まだ小さい頃の自分だった。
 どこかの少年野球チームのユニフォームを着て、ベンチに座ってみんなと西瓜を頬張っていた。

 赤い。

 味はわからなかった。
 でも、幼い頃に野球チームに入っていた記憶なんてない。だいたい、初めて夢中になったスポーツはサッカーだった。爽平はそう思った。
 たぶん、夕食時に高校野球の話を熱心に麻衣夏が語っていたのと、夕食後に目の前で大皿に山盛りになった西瓜を彼女が必死に食べたのを見ていたからであろう。夢は印象に残った記憶を乱雑に再配置するだけだ。

 記憶の再現ではないのだから。