北より玄武が覆い隠す。

「あんた達、もうすぐ進級予定でしょ?こんなとこで油売ってて大丈夫なの?」



「予定って……。しかも、こんなとこって、仮にも自分の店に言うことじゃないだろ……。」


「一応単位は大丈夫だから問題なしっ!」



頻繁に恋粕で寛ぐ炒市と犬申に、鞠畭はおせっかいと思いつつも釘を刺す。



「苦学生なんだから、留年なんてしないでよ。」


「大丈夫ですよ!私が見張ってますから!」



炒市と離れたくない見熊は、バッチリ目を光らせている。



カランッ…………―――



「いらっしゃい!」



出入口のドアに取り付けたベルが来客を知らせる。



「えっと……林残のボーイさん?」


「藺媒焚さん。どうしたんですか?」



少し焦った様子の靱がそこにいた。



「ユーハちゃん、来ていないか?」


「いや、来てませんけど。杠に何か用事ですか?」



「今日店に来る予定なんだが、いつもの時間になっても来ないんだ。携帯は繋がらないし、付近も探したんだがいなくて。」



恋粕の場所は前に杠から話に聞いていた為、当てが無かった靱はここまで探しに来た。



家も林残の周辺もこの恋粕にも、杠はいなかった。

「ショー君!」



「ジーザス?」


「どうしたんだよ?そんなに慌てて。」



大学でまたナンパをしていた為に放っていかれた邃巷が駆け込んで来た。



‥‥トロイメライが鳴り響く。‥‥



「これが道端に落ちてて…!」


「これは……」



邃巷が手にしていたのは、ピンクの匂い袋が付いた白杖。



「ユーハちゃんのものだ。」



‥‥突然突き付けられる真実が壊してゆく常識。‥‥



「道端ってどこだよ!?」



「大学の裏手の小道。ほら前に見熊ちゃんが可愛いって言ってた雑貨屋の通り!」



「その周辺にユーハちゃんは?」


「探したんだけどいなくて…。これって杠ちゃんにとって大切なものでしょ。だから杠ちゃんに何かあったんじゃないかって……」



裏手に建ち並んでいるのは、その雑貨屋と民家しかない。


白杖無しに外出が出来ない杠が、その雑貨屋にいないとなれば。



‥‥逃れられない運命が覚醒め、‥‥



「ショー君、大変!」



飛び込んで来た蛉葭に続いて、蕎寡と莢啝も息を切らして現れる。



「杠ちゃんがっ!」


「誘拐された!!」




‥‥静かな幕開けとなる。‥‥

‥‥手の届く大切なものをたくさん、たくさん、押し退け、踏み台にして一番高いところに実ったとても気高い果実を掴み取った。‥‥



「………ん……っ………こ、こは……?」



杠は目を覚ます。


しかし、ここがどこだか認識出来ない。



何故なら、雑貨屋へハンドクリームを買った帰り、何の前触れもなく布のようなもので口を塞がれ腰に痛みを感じた後、気を失ってしまったからだ。



「部屋…?…誰かいる……?」



屋内でソファーらしきところに寝かされていた。


ただ、知らない場所で無闇に動くと怪我をしかねないので、嗅覚と聴覚を働かせる。



階段をのぼる足音がして、だんだん近付いてきた。



ガチャ………――――――



「目が覚めたかい?ユーハちゃん。」


「憑舌、さん…?」



ドアが開く音と共に聞こえた、鍼蔑の嬉しそうな声。


そう、ここは鍼蔑の自社、憑舌興業の応接室。



しかし、平日にも関わらず、従業員の気配がしない。



「クロロホルムとスタンガンって、最強コンビだと僕は思うんだ。」



受け入れられない現実を歪めて自分の考えに酔っている鍼蔑を、止める者はもうここには居ない。

「憑舌さん。私に一体……?」


「ユーハちゃん。ユーハちゃんは今日から僕と一緒に住むんだよ。もう誰も、あの男にも邪魔させない。」



「住むって………それにあの男……?」



鍼蔑の言葉は支離滅裂で、杠の疑問は解決しない。



‥‥孤高の覇者は憐れな独裁者に成り下がる。‥‥



「待ってて。今、お家に帰る準備するからね。」


「え?憑舌さん…!?憑舌さん!」



言うだけ言って憑舌は出ていき、応接室には杠の声だけが響く。



‥‥果実がいつか枯れ逝く、淡く儚いものとも知らずに破滅の道を歩いて逝く。‥‥



「どうしよう………。これって、誘拐されたのよね…私。」



憑舌以外に周辺には誰もいる気配が無く、車の通る音も遠い。


誘拐された理由は分からないが、落ち着く為にも自分の置かれている状況を整理する。



「白杖……は無さそうだし、携帯は鞄の中…だからこれも無理ね…。」



ただ、打開方法が浮かばない。



「靱さん達心配してるだろうし、どうにか連絡しないと…」



危害を加えるつもりは無いのか縛られていなかったので、連絡手段が部屋に無いか恐る恐るではあるも動いてみることにした。

「駄目ね、電話の類が無いわ。」



そう広くない部屋だったので、淡い希望はすぐに打ち砕かれた。



窓はあるものの2階以上で、さらに面しているのは交通量の少ない道路、


部屋の中には2人掛けソファーが2脚とその間に机が1台、


出入口壁際に造花を生けた小さな花瓶が乗ったキャビネット、


そして出入口には外から鍵、とその全てが絶望的である。



「…!音、…車?でも1台じゃない……?」



鍼蔑が戻ってくる前に、もう一度考えなくては。



そう思っていると早くも車の音が聞こえ、しかもそれは複数だった。



少なくとも1台は鍼蔑だろうが、まさか仲間とかを連れて来たのだろうか?



そうなると鍼蔑の『お家』に直行は確実で、もう望みが無い。



「杠ぁぁあぁ――!!」


「ショー!」



「待てっ!!」


「靱さん?!」



数人のドタバタする音と、炒市と靱の怒鳴り声が聞こえてきた。



バンッ、バンッ、ガチャンッ!!!



「はあはぁはぁ………、何なんだあいつらっ!!」



乱暴にドアを開け、そしてすぐさま閉め、暴言を吐く鍼蔑。


それでも、ドアの鍵をかけることだけは忘れない。

「おい!開けろ!」


「開けやがれ、クソオヤジ!」


炒市はガチャガチャとドアノブを回す。


木製とはいえ鍵の掛かったドアは、そう簡単には開かない。



「靱さん!ショー!」



「ユーハちゃん!」


「杠!」



杠はドアの外の靱と炒市に叫ぶ。


助けを求めるように。



「何故だ!?ユーハちゃんを助けるのは僕なんだ!」



杠に対する独占欲が膨らみ過ぎて、イラつく感情を隠す気など微塵もないようだ。



「憑舌さん!開けてください!お願い、開けて…」


「ウルサイっ!」



杠の乞いと抗議を遮るように、近くにあった花瓶を投げ捨てる。


林残でも滅多に目にすることのない気性の荒くなった鍼蔑に、花瓶の割れる音も重なり杠の体はビクリと跳ねる。



「ご、ごめんごめん。大きな声出して。怖かったね。」



恐怖に歪んだ顔とへたり込む杠に、鍼蔑は幼子をあやすように言う。



「けれど、お家に帰れないな。」



騒がしいドアの外など気にせず一人悩む鍼蔑。


靱から自由にすると訴えながら、杠の自由を鍼蔑は剥奪しようとする。



‥‥トリカブトで君は僕に、死の機会を与えてしまった。‥‥

「仕方がない、ユーハちゃん。一緒に逝こう。」


「…え?」



‥‥死ぬことは別れとは言わぬ、一緒に死ねぬのが別れ。


それならば。‥‥



「しょうがないんだよ。お家に帰れないんだから。」



‥‥クワを抱いて共に死のう。‥‥



「心配しなくてもいいよ。」



‥‥アイビーが死んでも離れないように、僕達を繋いでてくれるから。


この世でもあの世でも、離れはせぬ。‥‥



「僕もすぐ逝くからね。」



鍼蔑は割れた花瓶の破片を持って杠に近付く。



‥‥誰も望まぬ結末へと誘う。‥‥



「こ…な、で……来ないでっ!」


「ユーハちゃん!」


「杠!」



見えずとも鍼蔑の常軌を逸した雰囲気は伝わってきて。


杠の鬼気迫る叫び声に、靱と炒市は焦りを隠せない。



‥‥逝くその導はあの日抱いた杠と過ごす夢。‥‥



「ユー、ハ、ちゃん…」


「ぁ……」



すぐ傍のドアからの怒号も耳に入らないのか、うっとり杠の名を呼ぶ鍼蔑。


背をソファーに阻まれ大して距離も取れず、杠はもう声が出ない。



「杠ぁぁあぁ――!!」



炒市の声と共に、鍼蔑はドアと一緒に吹っ飛んだ。

「ユーハちゃん!」


「じ、ん、さん……!」



「もう大丈夫、大丈夫だから。」



大きな音がした後、自分を呼ぶ声に強く抱き締められる。


よく知った匂いと体温に、堰を切ったように杠の目から流れる温かい涙。



「大丈夫…、大丈夫……。」



靱は大丈夫と繰り返し、杠の背を優しく撫でる。


杠がしゃくりあげる度に、靱は身体の一部が抉られる様な気がしてならなかった。



「(ったく……。オイシイとこ持って行きやがって…)」



ドアの下敷きになり気絶している鍼蔑を見ながら、炒市もホッとする。


渾身の力でドアを蹴り破ったのは他ならぬ炒市。


中学の頃は不良として名を馳せていたこともあり、火が付けば歳上の靱より力を発揮する。



「(しゃーねぇ。杠の為だ、警察呼ぶか。)」



不良でいたおかげで警察嫌いの炒市は、杠の居所が判明した時自ら駆け出した。


だが、杠を傷付けた鍼蔑がこのまま大人しくなるとは思えない。



やはり、警察に引き渡すべきだろう。



「(これで恩が返せたとは思わねぇから安心しろよな。)」



あの時と同じく外は暗く、しかし降るは冷たい雨でなく煌めく星だった。

「ちょっと、ショー!あんた、あたしらに連絡の一本も寄越さずに、朝帰りってどういうことかしら?」


「お、落ち着いて、鞠畭さん!(つか、朝帰りはねぇだろ……)」



現在の時刻は午前3時ちょっと過ぎ。


恋粕には、邃巷と犬申、見熊や蕎寡・莢啝・蛉葭の3人までいて、鞠畭と共に仁王立ちになっている。



「事情聞かれたりしてさ、慌ただしくて………連絡忘れました、すんませんっ!!!」



言い訳もそこそこに、潔く炒市は頭を下げた。



「それで杠ちゃんは?怪我はしてないの?」


「うん、怪我はしてない。藺媒焚さんが家まで送ったから大丈夫。」


「そう、良かったわ。」



杠に何もなかったと分かり、鞠畭は胸を撫で下ろす。



「そんで結局、何がどうなった?」


「ああ、全部話す。」



皆を代表した犬申に促され、炒市は今回の事件の顛末を説明し始めた。



「林残に来てた憑舌っていうオヤジが、杠を誘拐したんだよ。お前ら3人が見た車の。」



蕎寡と莢啝と蛉葭が誘拐されたと恋粕に駆け込んで来たのは、杠が車に連れ込まれるところを見たから。


他に車が無いのか、鍼蔑が使用したのは社名入りの社用車。

そのお陰で連れ去り先が分かり向かったところ、鍼蔑と鉢合わせしたのだった。



「じゃあ、私達がショー君の役に立ったっていうことよね!」


「そうね、私達の貢献は大きいわ。」



蕎寡と蛉葭がそう言うと。



「ねー。誰かさんと違ってー、私達役立つ人よねぇ。」



誰かさんと言葉を濁したが、莢啝の目線は見熊を向いている。



「なんですって!」


「あれぇ?私、誰とは言ってないんだけどぉ?」



「まあまあ、落ち着いて。」



火花バチバチの莢啝と見熊に、邃巷は両者へとなだめにかかる。



「それでその憑舌は?」



「助けるだの邪魔するなだの、何か凄げぇ喚いててさ。杠を誘拐した理由は全く分かんねぇ。今警察が取り調べしてるんだと。」


「そう。杠ちゃんが無事だったんだから、後は警察に任せましょう。」



わちゃわちゃしている5人には触れず、犬申と炒市、鞠畭の3人は話を進めた。



「ほら、あんた達!杠ちゃんも無事だって分かったんだし、帰りなさい。明日……、今日も授業あるでしょ。」


「「はーい。」」



みんなのオカンとなりつつある鞠畭の声で、炒市達7人は元気良く恋粕を後にした。

中央にて黄龍が包み込む。

「大変だったわね。体は大丈夫?」


「はい、大丈夫です。心配をかけてすみません。」



あれから2週間、杠は靱と共に恋粕を訪れていた。



林残でも心配され過ぎた。


主にその原因である竺牽捏がやっと落ち着きを取り戻してくれたから、こうやって恋粕に来れたのだ。


ただ杠一人はまだ危険だからと、靱付きであるが。



「俺も取り乱してしまい、お礼を言うのをすっかり忘れてしまって。これうちの店長からです。」


「あらあら、いいのに。でも、せっかくだから頂くわ。ありがとう。」



竺牽捏からの心配かけたからと持たされたお礼の品を渡し、一息つく。



「うまい。」


「でしょ。鞠畭さんのカレーはフィードバック、……つまりお袋の味ですね。」



「あら嬉しいこと言ってくれるじゃない。サラダも付けちゃう!」



チェーン店のようなフィードフォワードではなく、毎回微妙に変わる味はまさにお袋の味と言うに相応しい。



「こんにちはー!」


「うーっす。」



「あ、杠ちゃん!藺媒焚さんも!」



見熊と炒市、邃巷が顔を出す。


因みに犬申はバイトで、女子3人衆は部活とサークルに精を出している。

「ねぇ、あの憑舌ってオッサンどうなったの?」


「結局のとこ、杠ちゃんを誘拐した目的って分かった?」



「あんた達、食べてるんだから邪魔しないの!」



矢継ぎ早に質問する見熊と邃巷に、鞠畭は釘を刺す。



「良いですよ。憑舌さん、私を好きだったみたいです。好意があるのは分かってましたけど、まさかそれが恋愛感情だとは………。」



プレゼントならキャバ嬢達も貰っている。


それも、アクセサリーや服など杠よりも高価なものを。



だから、アクセサリーをあまり着けない自分には代わりに花束だっただけだと思っていたのだ。



「憑舌さんの会社、なんか不正があったみたいで。会社が維持出来なくなったのもあって、私を監禁して一緒に過ごしたかったみたいです。」



平日にも関わらず従業員がいなかったのは、給与が払えず辞められてしまったから。



リコールの隠蔽、赤字の揉み消し。


自分で興した会社さえどうでもよくなり、杠と2人、家で過ごしたかったらしい。



「なにそれ!キモッ!」



言い方はともかく、きっと誰もが見熊に同感するだろう。


杠の気持ちなど考えず、身勝手この上ない行為なのだから。

「私が靱さんに無理矢理付き合わされてると勘違いしてたらしくて。靱さんから私を助けようともしたみたいです。」



誘拐した時、杠の鞄は憑舌が持っていた。


しかし、携帯に着信があり表示された名前が靱だったので、怒りに任せ壊してしまった。



携帯が繋がらなかった理由はこれである。



無事に戻ってきたお礼にと竺牽捏がプレゼントさせて欲しいと言ってくれて、それを有り難く受け取ったので連絡手段にはもう問題はない。



「藺媒焚さん、ちょっといいか?」


「ああ、構わないけど。」



ストーカー最悪、と騒ぐ見熊達を横目に、炒市は小声で靱を店の外に誘った。



「なんだ?」


「あんたさ。杠のこと、好きだろ。」



「……っ!!!」



炒市のド直球な言葉に、靱は目を見開く。



「そんな驚くことか?あのクソオヤジの会社に乗り込んだ時のあんたの態度見りゃ、誰だって分かるって………」



大事そうに杠を抱き締める靱を見て、気付かない方がおかしいと炒市は呆れながら思う。



「……俺の気持ちが、君に何か関係があるのか?」


「んー……。あるっちゃー、あるかな?」



意味深に、炒市は微笑む。

「俺はさ、杠に命を救われたんだよ。」


「命を…?」



炒市が口にしたのは、命というかなり意味が大きなことだった。



「中学ん時俺は不良だった。杠に絡んで来たヤンキーに喧嘩ふっかけられて買ったら、そこが工事現場で。やってる内に立て掛けてあった鉄パイプに体が当たって倒れて来たんだ。けど、鉄パイプは俺には当たらなかった。杠が俺を突き飛ばして助けてくれたんだよ。」



不良で他人に迷惑をかけていた自分が、たった1度だけした気まぐれな善行。


その時の炒市にとってただヤンキーが気に食わなかっただけだとしても、杠にとっては炒市は不良であっても良い人だった。



「ユーハちゃんの言ってた事故っていうのは、そのことか?」


「うん。俺が杠の視力を奪ったんだ。けど、杠は俺を責めなかった。それどころか、俺が怪我しなかったかって心配してさ。」



泣いたであろうことは赤くなった目を見たら一目瞭然なのに、杠は炒市が生きていて良かったと笑った。



「だから俺は救われた命、大事にしようと思った。不良も止めて学校行って。」



不良仲間と縁を切り、努力の甲斐あり苦学生ではあるが大学に通えるまでに学力は上がった。

お見舞いすら杠は遠慮していたのだが、炒市の学校の話を聞くのは楽しそうで、炒市は学校の話を見舞い代わりにしたのだった。



「杠の為に何かしようとしたんだけど、あいつ気にしたから。」



ボランティアとか盲目の人の支援活動とか一通り調べて杠に聞いたのだが、杠は気にせず前を向いてと言った。


恨まれても仕方がないようなことになってしまったのにも関わらず。



「だから俺は、一生懸命生きることにしたんだ。」



杠に貰ったと言っても過言ではない命。


杠に胸を張って生きていると言えるように。



「後、杠に近付く悪い虫退治とか。」



靱を見ながら、炒市はニヤリと笑う。



「………。ユーハちゃんが迷惑なら近付かないが。」


「違ぇーよ。あのクソオヤジのことだ。つーか悪い虫の自覚あんのかよ。」



少し怒りながらも真面目な靱に、軽く否定しながら炒市は苦笑した。



「誰でもはよくねぇけど、杠がいいなら俺はそれでいい。あんたなら尚更な。」



靱の詳しい人となりは分からないが、杠とのやりとりで杠は心を許している気がした。


少なくとも炒市自身が杠の泣き顔を見たのは、今回が初めてだったから。

「あら、男同士の話はもう終わったの?」


「ん、まあ。」



「ちょっとここはそうじゃない!」


「えぇ?こう?」



炒市と靱が店内に戻ると、ストーカーと騒いでいたのも収まって、邃巷は見熊に勉強を怒られながら教えて貰っていた。



「おかえり。」


「おお、ただいま。」



「あ!ショー君、こっち来て!」


「ちょ、引っ張るなって…」



炒市が戻ったのを直ぐ様見付けた見熊は、邃巷の残念そうな顔を気にすることなく炒市を座らせた。



「靱さん、おかえり。」


「ただいま。…そろそろ帰るか?」



「うん。鞠畭さん、ごちそうさまでした。」


「いえいえ、お粗末様。また来てね。」



「はい。ショー、見熊ちゃん、邃巷くん、またね。」



「おう。」


「「またねー!」」



仲睦まじく、杠と靱は帰っていった。



「まるで、雪に塩ね。」



鞠畭はしみじみ思う。



「雪に塩?」


「雪に塩をかけるとそこの部分は溶けるんだけどね、かけた周りは固まるのよ。」



塩をかけた部分は凍結温度が下がり溶けるのだが、塩の無いところは塩が周りの熱を吸収する為に固まってしまうのだ。

この原理を利用して、雪道融雪剤は塩化カルシウムをスキー場では硫酸アンモニウムを用いて溶かしたり固めたりしている。



「だから、杠ちゃんが雪で、塩が藺媒焚さんと憑舌っていう人みたいだなぁって思ったの。」



「なるほど。上手い例え。」


「鞠畭さん、博識~!」



難しい顔の邃巷を置き去りに、炒市は感心し見熊は驚いた。



「あんた達もこれくらいは知っておきなさい。冬ならニュースで雪の話は出てくるんだから。」



「へーい。」



「勉強になります!」


「が、頑張ります。」



世話焼きオバサンになりつつあるなという自覚を持ちながらも、世話を焼かずにはいられない鞠畭だった。



「少し休憩するか。公園があるんだ。」


「うん、そうしょっか。」



恋粕からの帰り道、重いからと薬局で少なくなっていた洗剤などをついでに買いつつ公園に寄る。



「だんだん寒くなってきたね。」


「そう…だな。」



座っているベンチは陽が当たる場所ではあるが、少し風が吹くとやはり寒さを感じる季節になった。



「湾廼君に聞いた。中学の頃の話。」



しばらく無言だったが、靱は覚悟を決め話始めた。

「だからってわけじゃないんだけど、……………俺はユーハちゃんが好きだ。」



杠の横顔を真っ直ぐ見て靱は自分の秘めたる想いを告白する。



「誰かの様にユーハちゃんの目になるなんて俺はそんな無責任なこと言えないし、目が見えない日常生活がどんなに大変かもよくは分かってない。だけど、俺はユーハちゃんと色々な所に行きたいし、色々な事をしたい。」



靱の言っていることは、不可能ではないが容易でもない。


だが、前向きではあった。



「自分勝手なことを言ってるのは分かってる。だけど……」


「靱さん。」



杠はゆったりとした口調で靱の名を呼ぶ。


覚悟を決めたとはいえ、緊張のあまり途中から早口になっていた靱を落ち着かせるように。



「私はね、靱さんといると私でいられるの。」



盲目で可哀想な人でも盲目のピアニストでもなく、20歳の厭侘杠でいられる。



「全盲の私が将来的に介護無しに生活出来ないことは理解してる。この間だって靱さんやショーに助けて貰ったし。」



今現在どんなに日常生活が出来ていたとしても、酔っ払いや特殊ではあるが鍼蔑のような人物に、やはり杠1人で対処は出来ないからだ。

「私はまだ人生で誰も亡くしたことがない。でもあの時、ショーに怪我が無くて本当に良かったって思ったの。」



炒市が怪我無く生きていたことだけが、あの時の杠にとって唯一の救いだった。



「弱視だった頃も、目が見えるということがどれだけ幸せなことか分かってた。全盲になって、それが余計に感じるようになった。でも…。」



‥‥亡くすのは怖いけど、‥‥



「全盲だからこその幸せもあるって、気付かされたわ。」



‥‥私だって色々やりたいことがたくさんある。‥‥



「靱さん。私は、迷惑を、かけるわ。面倒、だってあるはずよ。だけど、」



‥‥出来ることは限られてしまうけれど。‥‥



「私は、靱さんと、生きていきたい。だから………、だから私と……」



‥‥このお願いは、きっと誓いと変わらない。‥‥



「私と生きてくれませんか?」



こちらを向いた2度目の泣き顔は、恐怖ではなく不安そうに歪んでいた。



「ユーハちゃん……。」



林残の仲間と。


恋粕で炒市達と。



支え合いながら、2人で。



「一緒に生きていこう。」



優しく握られた両手は、凄く安心する体温だった。

「はーい!みんなー、おまちどおさま~」



今日の恋粕は、カレーの良い匂いで溢れている。



「うわー、すごーいっ!」


「うっまそー」



「どうしたんだよ、ちょー豪華じゃん」



見熊と犬申、炒市が驚くのも無理はない。


鞠畭から出されたカレーは、カツやら何やらでいつもより豪勢だった。



「あたしから苦学生達への進級祝いよ。有難くお食べなさい。」



炒市達赤点組も無事進級を果たしたので、鞠畭は頑張ってみたのだ。



「ははぁー」


「大袈裟ね。さっ!冷めない内に食べなさい。」



鞠畭を神様のように称え頭を下げる邃巷に、鞠畭は苦笑する。



「おいひぃー」


「あたしらには出せない味ね。」


「亀の甲より年の功ってことかしら。」



莢啝はうっとり舌鼓を打ち、蕎寡と蛉葭はいつもの鞠畭の味ながら感激する。



「(杠、今頃は藺媒焚さんとデートか…?邪魔ならねぇように、進級のことは後でメールでもしとくか。)」



カレーにパクつきながら炒市は思い出す。


付き合うことになったと報告された時の、杠と靱の嬉しそうな顔を。



カレーがより一層、美味しく感じられたのだった。

炒市が杠と靱に思いを馳せている頃、2人は病院からの帰り道だった。


病院といっても怪我や病気などではなく、竺牽捏の妻の代わりを兼ねてたまにピアノを弾きに行っている。


今日もその日だった。



「子供達喜んでたな。」


「うん。こっちが元気を貰ったわ。」



ピアノの音に聞き入っていたり、音楽について質問してきたりする子供達の無邪気な感覚は、杠を初心に返してくれる。



「もう、梅の時期ね。ショー、無事に進級出来たかな?」


「もう少ししたら連絡くるんじゃないか?ユーハちゃんが心配してること知ってるんだし。」


「そうね。」




どこからか梅の花の匂いがするのか、杠は会話をしながらも香りを聞いている。



「……今度の休み、梅園に行こうか?」


「うん、行きたい!梅干しあるかな?」



「分からないけど、ユーハちゃんの好物だしあるといいな。それか漬けてもいい。」


「それもいいかも。」



行く前から話に花が咲いた。





行きたい、生きたい。




生きることは大変だ。




だけど、一人じゃないから。



独りじゃないから。





生きたいところまで行けるんだ。