***
高校生活最後の体育祭前日。
毎年クラスごとに布が配られて、クラスカラーのハチマキを自分で作るという決まりがある。裁縫が苦手な私は三年生の年もうまく作れず、前日までかかってしまっていた。
「私も手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。采花は体育祭の前日ミーティングがあるでしょ?」
体育祭実行委員の采花は忙しい。三年生は特にいろいろな業務をやらなければいけないらしく、ここ最近は遅くまで残っているみたいだった。
「ミシンとかあれば、すぐできるんだろうけどねー。私も家にないしなぁ」
「いや……私不器用すぎてミシン使っても悲惨なことになりそう」
「それは……うん、否定できないかも」
私がどれだけ不器用か知っている采花は苦笑していた。
ミシンを使いこなせる自信もないし、中学校の時に家庭科の授業で使ったときは、あまりの速さと振動に驚いて、ものすごく歪なエプロンが仕上がってしまった過去がある。
「毎年作らなくちゃいけないのが本当苦痛だよねー」
「まあ、クラス変わるたびにカラーが変わっちゃうもんね」
「一、二年のときになった色だったら、楽できるんだけどね。未来とか三年間同じ色らしくて羨ましいよ」
残念なことに私たちは一年生のときは黄色で、二年生では緑。三年生では赤がクラスカラーだった。なので毎年ハチマキを自分たちで作っている。
「あ、やば。もう集まる時間だ。じゃ、行ってくるね!」
ミーティングに行く采花を見送って、放課後の教室でひとり黙々とハチマキを縫っていく。体育祭前日は校庭を使用した練習は禁止なので、学校は静かだった。
指先に感じた痛みに顔を歪める。またやってしまった。
どうしても針を使うことが苦手で、指に何度も刺してしまう。あともう少しだけ頑張れば、この針地獄から解放されると気合をいれると逆効果で歪んでしまう。
「あれ? 悠理、まだいたんだ」
とっくに帰ったと思っていた瀬川くんが教室に顔を覗かせた。何故ここにいるのかと驚いていると、どうやらクラスの男子たちとバスケをして遊んでいたらしい。明日は体育祭だというのに体力のある瀬川くんたちは疲れが翌日にくる不安はないようだった。
「それなかなか終わんねーなぁ」
「こういうの苦手で……」
「本当だ。すげー歪」
からかうようににやりと笑いながらも、瀬川くんはこうしたほうがいいと丁寧にアドバイスをくれる。瀬川くんは一年生にクラスカラーが赤だったらしく、今年はハチマキを作らずに済んだらしい。
「悠理は裁縫とか得意そうに見えるのに、案外細かい作業苦手だよな」
「……大雑把ってはっきり言っていいよ」
自分の欠点を晒してしまって恥ずかしい。けれど、声をあげて笑う瀬川くんを見ていると表情が緩みそうになる。
「いいじゃん。ギャップがあって」
「えー……でもそれよくない方のギャップだよね」
「抜けてて不器用なのもいいと思うけど」
一年前の夏から少しずつ育ってきた想いは瀬川くんの言葉に一喜一憂してしまう。あの頃はこのまま抑えきれると思っていた。
たとえ、瀬川くんが采花を好きになっても、采花が瀬川くんを好きになっても、私はふたりの味方でいたいと本気で思っていたのだ。
それなのに育った想いは欲をだしてきた。
采花と瀬川くんがお似合いだ。実は付き合っているんじゃないか。付き合っていなくても、両思いだろう。そう噂されていることを知って、私は心の中にある感情に気づき始めてしまった。
采花が好き。瀬川くんが好き。ふたりとも大事なことにはかわりない。けれど、誰にも瀬川くんを渡したくない。采花にさえも、嫉妬が芽生え始めていた。
このままではダメだ。わかっているのに気づいてしまった想いは止められなかった。
「あ、そうだ。ハチマキのさ、裏側に好きな人の名前を書くと上手くいくって話があるんだって」
ようやくハチマキを縫い終えたところで、瀬川くんがクラスの女子たちから聞いたという話をしだした。
「縫う前に書いておくらしいよ。案外やってる人多いらしいけど、もしかして采花も書いてたりして。想像つかねーけど」
上手く笑ってかわせなかった。
采花と瀬川くんが最近特にいい感じだから体育祭で付き合い出すんじゃないかとクラスの女子たちが話していたのを聞いたばかりだった。
「……瀬川くんは書いたことあるの?」
答えなんて予想がついていた。瀬川くんはそういうのを信じていない。それなのに咄嗟に聞いてしまった。思っていた通り、「書いたことないよ」とあっさりと返されたけれど、少しほっとしてしまう。そして、采花はどうなのだろうと考える。
采花は誰かの名前を書いたのだろうか。私たちはお互いの恋愛の話はほとんどしたことがない。けれど、采花が本当は瀬川くんが好きで私に言い出せないのだとしたら。私は一気に焦りを募らせていく。
「悠理は書いた?」
「私は……書いてない、けど」
怖い。伝えたら壊れてしまうかもしれない。三人のあの空間にはもういられなくなる。それでも、采花と瀬川くんが付き合いだしたら三人の空間は崩れる。私はきっと傍で笑えなくなってしまう。
「……もしかして好きなやついる?」
私の反応に察してしまった様子の瀬川くんは少し驚いていた。
瀬川くんとも恋愛の話をしたことがなかったから、私に好きな人がいるとは思いもしていなかったのだろう。
「いるよ」
「え、まじで。知らなかった。……誰? 同じクラス?」
私と瀬川くんだけしかいない放課後の教室。苦労して出来上がったハチマキを握りしめて、視線を上げる。
柔らかそうな黒髪に切れ長の目。白いワイシャツの胸ポケットから出ているのは私が誕生日にあげた青いストラップ。
気づいたら唇が動いていた。
「目の前」
たった一言。想いを明確な言葉にしなくても、瀬川くんには伝わっただろう。
目をまん丸く見開いて硬直している瀬川くんの前から立ち上がり、ハチマキをカバンの中に押し入れた。そして逃げるように教室を出る。
ドアのところに隠れるように立っていた人物に気づいて、息をのんだ。
酷く傷ついた表情で、私を見つめているのは采花だった。
体育祭実行委員のミーティングがこんなに早く終わるとは思っていなかった。聞かれてしまったことに後悔と焦りがじわじわとせり上がってくるけれど、なにも言えなかった。
嫌われたかもしれない。采花が瀬川くんのことを好きかもしれないと思っていたのに止められなかった。
私は采花からも逃げるように廊下を駆け出した。
もう戻れない。取り返しのつかないことをした。そう思いながらも、自分の感情をどう扱えばいいのかわからない。
好きだけど友達も大事で、壊したいわけではなかった。でも諦めたくもなかった。自分のことばかり考えた狡い恋心に気持ちが押しつぶされそうで、その日はなかなか眠れなかった。
体育祭当日は晴天に恵まれた。
本当だったら、采花と瀬川くんと楽しく迎えるはずだった。それなのに朝からふたりと話していない。自業自得だ。采花に取られたくなくて抜け駆けなんてしたからだ。
ふたりと気まずくなってしまい、私はひとりで運動靴へと履き替えて昇降口を抜けていく。校庭の砂利を踏みしめた瞬間だった。
「あのさ」
誰の声なのかわかり、どきりと心臓を震わせる。顔を強張らせながら、おずおずと振り返ると瀬川くんが立っていた。赤色のハチマキをぎゅっと握りしめて、逃げ出したい気持ちを必死に堪える。
「体育祭が終わったら……話があるんだけど」
昨日のことを思い出すと恥ずかしくて、頷くのが精一杯だった。瀬川くんは少し気まずそうに視線を逸らして生徒たちが集まる方へと足を進めていく。その背中を私は見送ることしかできなかった。
そのあとすぐに采花が昇降口から出てきて、なんて声をかけるべきか迷っていると顔を逸らされてしまった。胸がずきりと痛み、下唇を噛み締める。
采花を傷つけてしまった。もしかしたらと思っていたけれど、やっぱり采花も私と同じように瀬川くんが好きだったんだ。三人での関係が崩れていく。きっともう戻れない。
今の私にできるのは瀬川くんからの話を待つだけ。そう思っていた。
高校生活最後の体育祭前日。
毎年クラスごとに布が配られて、クラスカラーのハチマキを自分で作るという決まりがある。裁縫が苦手な私は三年生の年もうまく作れず、前日までかかってしまっていた。
「私も手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。采花は体育祭の前日ミーティングがあるでしょ?」
体育祭実行委員の采花は忙しい。三年生は特にいろいろな業務をやらなければいけないらしく、ここ最近は遅くまで残っているみたいだった。
「ミシンとかあれば、すぐできるんだろうけどねー。私も家にないしなぁ」
「いや……私不器用すぎてミシン使っても悲惨なことになりそう」
「それは……うん、否定できないかも」
私がどれだけ不器用か知っている采花は苦笑していた。
ミシンを使いこなせる自信もないし、中学校の時に家庭科の授業で使ったときは、あまりの速さと振動に驚いて、ものすごく歪なエプロンが仕上がってしまった過去がある。
「毎年作らなくちゃいけないのが本当苦痛だよねー」
「まあ、クラス変わるたびにカラーが変わっちゃうもんね」
「一、二年のときになった色だったら、楽できるんだけどね。未来とか三年間同じ色らしくて羨ましいよ」
残念なことに私たちは一年生のときは黄色で、二年生では緑。三年生では赤がクラスカラーだった。なので毎年ハチマキを自分たちで作っている。
「あ、やば。もう集まる時間だ。じゃ、行ってくるね!」
ミーティングに行く采花を見送って、放課後の教室でひとり黙々とハチマキを縫っていく。体育祭前日は校庭を使用した練習は禁止なので、学校は静かだった。
指先に感じた痛みに顔を歪める。またやってしまった。
どうしても針を使うことが苦手で、指に何度も刺してしまう。あともう少しだけ頑張れば、この針地獄から解放されると気合をいれると逆効果で歪んでしまう。
「あれ? 悠理、まだいたんだ」
とっくに帰ったと思っていた瀬川くんが教室に顔を覗かせた。何故ここにいるのかと驚いていると、どうやらクラスの男子たちとバスケをして遊んでいたらしい。明日は体育祭だというのに体力のある瀬川くんたちは疲れが翌日にくる不安はないようだった。
「それなかなか終わんねーなぁ」
「こういうの苦手で……」
「本当だ。すげー歪」
からかうようににやりと笑いながらも、瀬川くんはこうしたほうがいいと丁寧にアドバイスをくれる。瀬川くんは一年生にクラスカラーが赤だったらしく、今年はハチマキを作らずに済んだらしい。
「悠理は裁縫とか得意そうに見えるのに、案外細かい作業苦手だよな」
「……大雑把ってはっきり言っていいよ」
自分の欠点を晒してしまって恥ずかしい。けれど、声をあげて笑う瀬川くんを見ていると表情が緩みそうになる。
「いいじゃん。ギャップがあって」
「えー……でもそれよくない方のギャップだよね」
「抜けてて不器用なのもいいと思うけど」
一年前の夏から少しずつ育ってきた想いは瀬川くんの言葉に一喜一憂してしまう。あの頃はこのまま抑えきれると思っていた。
たとえ、瀬川くんが采花を好きになっても、采花が瀬川くんを好きになっても、私はふたりの味方でいたいと本気で思っていたのだ。
それなのに育った想いは欲をだしてきた。
采花と瀬川くんがお似合いだ。実は付き合っているんじゃないか。付き合っていなくても、両思いだろう。そう噂されていることを知って、私は心の中にある感情に気づき始めてしまった。
采花が好き。瀬川くんが好き。ふたりとも大事なことにはかわりない。けれど、誰にも瀬川くんを渡したくない。采花にさえも、嫉妬が芽生え始めていた。
このままではダメだ。わかっているのに気づいてしまった想いは止められなかった。
「あ、そうだ。ハチマキのさ、裏側に好きな人の名前を書くと上手くいくって話があるんだって」
ようやくハチマキを縫い終えたところで、瀬川くんがクラスの女子たちから聞いたという話をしだした。
「縫う前に書いておくらしいよ。案外やってる人多いらしいけど、もしかして采花も書いてたりして。想像つかねーけど」
上手く笑ってかわせなかった。
采花と瀬川くんが最近特にいい感じだから体育祭で付き合い出すんじゃないかとクラスの女子たちが話していたのを聞いたばかりだった。
「……瀬川くんは書いたことあるの?」
答えなんて予想がついていた。瀬川くんはそういうのを信じていない。それなのに咄嗟に聞いてしまった。思っていた通り、「書いたことないよ」とあっさりと返されたけれど、少しほっとしてしまう。そして、采花はどうなのだろうと考える。
采花は誰かの名前を書いたのだろうか。私たちはお互いの恋愛の話はほとんどしたことがない。けれど、采花が本当は瀬川くんが好きで私に言い出せないのだとしたら。私は一気に焦りを募らせていく。
「悠理は書いた?」
「私は……書いてない、けど」
怖い。伝えたら壊れてしまうかもしれない。三人のあの空間にはもういられなくなる。それでも、采花と瀬川くんが付き合いだしたら三人の空間は崩れる。私はきっと傍で笑えなくなってしまう。
「……もしかして好きなやついる?」
私の反応に察してしまった様子の瀬川くんは少し驚いていた。
瀬川くんとも恋愛の話をしたことがなかったから、私に好きな人がいるとは思いもしていなかったのだろう。
「いるよ」
「え、まじで。知らなかった。……誰? 同じクラス?」
私と瀬川くんだけしかいない放課後の教室。苦労して出来上がったハチマキを握りしめて、視線を上げる。
柔らかそうな黒髪に切れ長の目。白いワイシャツの胸ポケットから出ているのは私が誕生日にあげた青いストラップ。
気づいたら唇が動いていた。
「目の前」
たった一言。想いを明確な言葉にしなくても、瀬川くんには伝わっただろう。
目をまん丸く見開いて硬直している瀬川くんの前から立ち上がり、ハチマキをカバンの中に押し入れた。そして逃げるように教室を出る。
ドアのところに隠れるように立っていた人物に気づいて、息をのんだ。
酷く傷ついた表情で、私を見つめているのは采花だった。
体育祭実行委員のミーティングがこんなに早く終わるとは思っていなかった。聞かれてしまったことに後悔と焦りがじわじわとせり上がってくるけれど、なにも言えなかった。
嫌われたかもしれない。采花が瀬川くんのことを好きかもしれないと思っていたのに止められなかった。
私は采花からも逃げるように廊下を駆け出した。
もう戻れない。取り返しのつかないことをした。そう思いながらも、自分の感情をどう扱えばいいのかわからない。
好きだけど友達も大事で、壊したいわけではなかった。でも諦めたくもなかった。自分のことばかり考えた狡い恋心に気持ちが押しつぶされそうで、その日はなかなか眠れなかった。
体育祭当日は晴天に恵まれた。
本当だったら、采花と瀬川くんと楽しく迎えるはずだった。それなのに朝からふたりと話していない。自業自得だ。采花に取られたくなくて抜け駆けなんてしたからだ。
ふたりと気まずくなってしまい、私はひとりで運動靴へと履き替えて昇降口を抜けていく。校庭の砂利を踏みしめた瞬間だった。
「あのさ」
誰の声なのかわかり、どきりと心臓を震わせる。顔を強張らせながら、おずおずと振り返ると瀬川くんが立っていた。赤色のハチマキをぎゅっと握りしめて、逃げ出したい気持ちを必死に堪える。
「体育祭が終わったら……話があるんだけど」
昨日のことを思い出すと恥ずかしくて、頷くのが精一杯だった。瀬川くんは少し気まずそうに視線を逸らして生徒たちが集まる方へと足を進めていく。その背中を私は見送ることしかできなかった。
そのあとすぐに采花が昇降口から出てきて、なんて声をかけるべきか迷っていると顔を逸らされてしまった。胸がずきりと痛み、下唇を噛み締める。
采花を傷つけてしまった。もしかしたらと思っていたけれど、やっぱり采花も私と同じように瀬川くんが好きだったんだ。三人での関係が崩れていく。きっともう戻れない。
今の私にできるのは瀬川くんからの話を待つだけ。そう思っていた。