567.『あんなこと言われたんじゃ殴れないだろ。』

私には年下で学生、父親が警察の副署長という友達がいる。
でも私と彼女の間にそんなのは全く関係がないから、単なる歳の離れた普通のお友達なんだけれど。

学校帰りの彼女と待ち合わせをして遊びに行こうとしたら、目の前に急ブレーキの音を響かせた黒いワンボックスカー。
スライドドアから出てきた二人組は、黒いシャツに黒いズボン、おまけに黒いフルフェイスヘルメット。
全身黒尽くめの二人は彼女を連れ去る気なのか、車の中に引きずり込もうとする。
抵抗する彼女と二人組を引き剥がそうとしたけれど、はね除けられたはずみにドアの縁に頭をぶつけてしまったらしく私の記憶はそこで途切れた。

ここまでがミニアバン、時間にしたらワンハーフもないだろう。


名前を呼ばれた気がして目を開けた時、心配の中に安堵の表情を滲ませる彼女が目の前にいた。
私もあの二人組に連れ去られてしまったようで、彼女と同じく後ろ手にされた手首と足首には結束バンドが巻かれていた。
ぶつけた頭はまだふらつくし、起き上がるのに一苦労した。

動き回れないからその場で見回した限りだと、どこかの寂れた小屋のような場所で、内装からすると今は使われていないであろうログハウスに見える。
広さは六畳ほど、ドアとすりガラスの窓が一つずつ。
物置に使っていたのか物が散乱していて埃っぽい。
口を塞がれていないから人気はない場所なのだろう。

彼女が目を覚ましたのも十分ほど前で、連れ去られてから何時間経ったのか分からない。
けれど、すりガラスから見える色はだんだん明るくなってきているから、恐らく陽が昇っていると思う。
一度夜が明けているなら、誘拐されてから一日以上は経過している計算になる。


バイクのエンジン音が響いた後に一つの足音が近付きドアが開く。
現れた黒尽くめがビニール袋を放り投げた、と思ったら声を上げる暇も無くドアが閉められてしまった。
けれど、開かれたドアから見えたのは落ち葉と奥に沢山の木、この周辺を山だと仮定したとしたら小屋は小屋でも山小屋の部類だろう。

彼女と顔を見合わせながらビニール袋の中身を覗き見ると、水の入った小さなペットボトル一本と、これまた小さな菓子パンが一つ。

確かにお腹は空いていた。
が。
無いよりマシだけれど、どうやっても二人分ではない。
そもそも身動きが取れないこの状況で、どうやって食べるのだろうか。
まあ、この状況でお腹が空くということは、緊張感の中でも空腹を感じられる程度には落ち着いているということだけれど。

外から男の話し声がする。
すりガラスから黒い人影が見えるから、先程の黒尽くめだろう。
聞こえてくる声に目一杯耳を澄ます。

『はい、ご指示通りに。メールに写真も添付しましたが、お得意の時間稼ぎでしょうか。まだ、回答は得られていません。はい、はい、・・・承知しました。明日実行いたします。』

声が途切れた後、バイクのエンジン音が遠ざかる。

ザ・テンプレートのブラックメールなんて不動な不毛。
彼女の父親であるあの副署長が、そして警察組織が素直に要求を呑むとは思えない。
何故なら、警察は体面を保たなければならない。
露悪を晒し犯人に屈する訳にはいかない。
警察の威信は高止まりとは言い得て妙。
けれど、そんな権力を行使できる警察だって強くはない。
ショートカットの手なんて無く、法を遵守しなければならないから。
法を犯す犯人に対しては、確実な証拠を積み重ねなければ逮捕など出来ないから。
最強といわれているけれど、決して無敵ではないのだから。

それに、なおざりに引き延ばしている警察に焦っているのか。
フラグでもブラフでも無い、聞こえた物騒な単語。
大仰な様相を呈しているからこそ、慎重ではなく寧ろ大胆な行動に出た方が、この状況を打破出来る気がする。
見張らないスタイルの様で、バイクが去って以来穏やかな気配しか無い。

頭の中でシミュレーションしたことは、私の友達には到底及ばない稚拙な計画な上に、夜の山なんて危険なだけだと分かっている。
明日実行するという黒尽くめの言葉を意訳すれば今夜しかないと覚悟を決め、闇に紛れよう作戦を彼女に伝える。


さて、陽が落ちた。
明るい内に見付けておいた空の酒瓶に布切れを巻いて割って簡易の刃を作り、手足の結束バンドを切る。

窓のロックを外し開けるとそこは正しく闇夜。
しかし双眸凝らせば見えてくるのだから、暗順応様々だ。
私が先に出て確認したけれど、思った通り見張りはいない。
しかも耳を澄ませたら幸運なことに籟籟と水の流れる音。
これで猟友会にお世話になりそうなところを彷徨しなくて済みそうで良かった。

山で遭難した場合、登るのが得策なんだけれど。
登山道かどうかも分からないし、そもそも誘拐監禁しているのだから人が出入りしない場所だろうし。
つまり、山を下らないことには知らせることが出来ない。
だから川伝いに下ることを決める。
彼女と手を繋ぎ、比較的太い木の枝を杖代わりにして足元を確かめながら歩みを進めた。


確実に近付いているものの息が上がる。
水の音がもうすぐそこまでなのに。
彼女の支えと杖代わりの枝があっても、ふらついて上手く歩けなくなっている。

だけど、彼女さえ辿り着いてくれれば勝機はある。
警察の中にいるシックスマン的な私の友達。
階級とか年齢とか関係なく、肝胆相照らす心丈夫な友達。
だから、自分のことしか考えていない冷たい人間ではなく多きを助けようとする熱い人間の部分があるんだと、俗説‐レッテル‐を剥がすことが出来た。
友達のおかげで玉石混淆を聞き及んだ上で言及しているとはいえ、警察組織の全てを無条件で信じている訳ではない。
一家言の正義を語源化するのは、操を立てるかの如く難しい。

しかしながらこの捕集‐ゲーム‐は、かくれんぼではなく鬼ごっこ。
私が見付かったとしても彼女が逃げ切れればいい、それが定石。
私はもう一つ覚悟を決め、彼女に相済まぬと開陳する。
確実に足手纏いになろう私であっても置いて行くなんてこと、キャリブレーションいっぱいにアサーションするであろう彼女は優しい子だから。

『確かに警察は貴女の為と比べて私の為に動いてはくれないと思う。
貴女が父親と確執があるのはそのせいでしょう。
けれど黒尽くめは明日実行すると言っていたから時間なんてない。
私のことなら彼や友達が絶対に見付けてくれる。
だからお願い、貴女に託すことを許して。』

目線を合わせながらも冗長しないように。
一人夜の帳へ放り出してしまうから。
負け戦になんてさせないからと力強く。

私を精一杯慮ってくれたシンギュラリティの彼女に友達への伝言を頼む。

『犯人は三人以上。顔は分からないけれど一人は男で、誰からか指示を受けている。
それから私の彼に、上司を殴るなら懲戒免職で済む程度にしときなさいよって。』

刑事であるが故に、この上ない修羅場の真っ最中であろう彼への最大限の譲歩。

『何でもお見通しかよ。』

推し量るより見越した私の言葉に、上申をすっ飛ばして啖呵切りながら掴みかかった貴方が自嘲気味に呟いたことを、私は知らない。

絶対追い掛けるから。
きっと追い付くから。
遠退くその背中に誓えただけでいい。
綺麗事で恙無く守れるほどこの世界は優しくないから、黒尽くめ達を逮捕出来る証拠になれたらそれでいい。
希望的観測であるもしもの話より、頭の片隅でもいいから未来の話をしよう。
分水嶺のように分かれても大海原でまた会えるように、きっと。


彼女と別れて朝朗け。
体力温存の為にビバークよろしく動かなかったけれど、そろそろ歩き出さなければ。
山小屋からどれくらい離れられているか、検討が付かないから。
今日の何時に実行なのか、どんな行動に出てくるのか、予想も付かないから。

崖下の沢の音を聞きながら、綺麗なチンダル現象の中を下っていく。
最悪下りきれなくても、サブマリンの様に息を潜めていつまででも待っていればいい。

そう思って1/fゆらぎを全身に感じながら前進していると、似つかわしくないバイクのエンジン音が響く。
すわ大変と、歩みを止めて木の陰に身を隠す。
思いの外早くバレてしまったけれど、探し回っているようでエンジン音が右往左往している。
黒尽くめ達の目的を達成する為に必要不可欠な彼女が捕まっていないのなら、バイクが入って来れない斜面でこのままやり過ごそう。

エンジン音が遠ざかり胸を撫で下ろした瞬間、『こんにちは。』と、聞こえた男の声はすぐ後ろ。
振り向いて見えた口元の歪みは、愉悦か侮蔑か。
サウンドマスキングされてしまって足音に気付けなかったけれど、ハイライトの希望がスーツの襟にしっかり見えた。
一か八か、一縷の望みにかけて、携帯で黒尽くめを呼ぶその男に掴みかかる。
彼から護身術を教えてもらっていたから、こんな状態でも揉み合える程には役立っている。
それでも振り払われて、その拍子に崖から沢へ転げ落ちてしまって、意識を刈り取られる。
私が沈んだ蕭蕭たる水面を一瞥し、主眼は果たしたと男は乱れた襟を直した。


気が付いた時には川縁だった。
私が露と消えなかったのは大御神からの死生有命なのか。
玉かぎる月明かりで把握出来た状況は、流れが緩やかなカーブで打ち上げられたという事。
固く握り締めたままの右手の拳の中の感触は、賭けに勝ったことを意味している。

それに加えて、見付けられやすくする為だけに沢を更に下るなんて大胆な行動が出来ているのは、彼女が紡いでくれているであろう軌跡を信じられる自信があるから。
そんな彼女をサバイバーズ・ギルトにさせない為にも、もう一回すらもういっかと諦め不戦勝を差し上げるほど往生際は全くもって良くはない。

寄進され開闢されても挙って綯い交ぜにしながらピッチカートを奏でる、威風堂々たるプネウマをカンフル剤にして。
起死を謀れる騎士を求めて岸は軋み、史記は四季に彩られ死期を敷き私記に記すなんてさせはしない。


火を点されたかのように微かに、それでもサウンドスペクトログラムのように明かに。
貴方が探し当てたのか、私に引き寄せられたのか。
耳に届いた貴方の声に向いたその先、幾つもの漫然とした灯りが私を照らす。
崩れ落ちる私を抱き止めてくれた貴方の顔すら焦点が斑雪のようで認識出来ないけれど、か細く訥々と口を動かす私に『彼女は無事ですよ。』と友達は力強く言ってくれた。
掠れ消え入りそうになる声を振り絞って唇の隙間から溢れ落としながらも、固く握り締めたままの右手の拳を開いて掴み取ったそのモノを見せた。

彼女を左けた私を右けに来てくれた彼と友達達。
聞きしに勝る醜聞にまみれた末法末世の物語に、最悪の想定をし最大の最善を尽くして挑んだ、私達の戦いの話がようやく・・・いや、むしろここから然る可く。


金彩が施された調度品を正視するオートクチュールの外套が似合う男は、突然現れた友達と彼に怪訝な顔を向ける。

『君達を呼んだ覚えはないが。』
『ええ。呼ばれた覚えはありませんね。』
『それに生憎ですが、お待ち合わせの事務官はいくら首を長くして待たれても来ませんよ。』
『なんだと?』

モザイクアプローチを駆使して根城にしているバラックで逮捕された私と彼女を拐った二人組は、多額の報酬に目が眩んだまさかの遁刑者。
そしてそれを二人組に依頼し、ワンボックスカーを運転したり山小屋に食料を届けたりして片棒を担いでいたのは、デュープロセスを行使する男の事務官だった。

『そうか。彼はとても優秀な事務官であったんだが、どんな理由があろうと許されないことだ。遺憾の意を表する。』
『随分と他人事のように仰いますね。事務官は、すべて貴方の指示だったと供述しているんですよ。知らないの一言で通し済まされるとお思いですか。』
『知らないことには答えられんよ。彼は犯罪者だ。そんな奴の言葉を真に受けないほうがいい。』


事務官の取調べは彼が担当した。
誘拐脅迫した理由は、上に立つ者が謝罪でもしてブレたら下の者が混乱するという独自の正義を執行する各上層部と与した過去の不義の責任を押し付けられ、下ろされてしまった男を出世レースに戻す為。
男と共に閑職に回された事務官に、『戻りたいなら黙って私の言う通りにしろ。』と色々な手配をさせた。
しかし当の事務官は、不義の記録を隠し持っていた。

『箝口令を敷く程の悪事を企む奴等は、いつ裏切られる事になるか常々戦々恐々としているものなんです。自分がいつでも裏切るから相手も裏切ると思い込む。叛意に神経を尖らせ用心に用心を重ねて、誰のことも信用することはありません。
だから、もしも窮地に陥った時の為に、逆転の一手の証拠となる切り札を用意ぐらいして当然なんです。
世迷言と切り捨てる権力者に丸腰はないですよ。
でもこれで、やっと枕を高くして寝れます。乱高下する黒幕共の裏回しは疲れました。』

長いものに巻かれご相伴にあずかり従順なフリをした慇懃無礼で強かな事務官曰く、生殺与奪権を奪われっぱなしな訳にはいかないとサボタージュ。
傍で働きながら潰す機会を伺っていた、死なば諸共ってやつらしい。


『御尤です。しかし、事務官の自白や状況証拠だけではなく、物的証拠も押収しています。貴方が裏で糸を引いていたのは明白なんですよ。』
『あわよくば私を主犯格にして減刑を図りたいのだろう。そんな繰言など異にしてくれ。だが、確かに君が言った通り、気付かなかった私にも責任の一端はある。これからは生まれ変わったつもりで日日是好日努めていくよ。』

事務官の供述は話半分の眉唾物だと、取るに足らないものだとでも言うかのように、無礼た態度の男。
捜査規範から逸脱しない発言‐クチ‐と、必ず勝つのではなく絶対に負けを認めない本心‐ハラ‐と、型にはまり過ぎる行動‐セナカ‐。
負うべき責任の終着点を間違えるだけでなく好き勝手に、舌先三寸まるで一貫しない。
事務官の遺志を縊死するように殉教者‐スケープゴート‐にして、全ての罪を被せ葬り去る気らしい。

『てめえ!自分が犯した罪を見ねぇふりした挙げ句、償うこともせずに勝手に生まれ変わるなんてふざけたことを抜かすんじゃねぇよ。てめえが清廉潔白に生まれ変わる為の代償なんかにされてたまるか!』

男の胸ぐらを掴み激昂する彼の不敬を、不遣の雨のように友達は緩やかに宥める。
善を守る為ならとシャワー効果のように防御的な友達と、悪を倒す為ならとファウンテン効果のように攻撃的な彼。
対照的な両者だけれど、共に自らの正義を貫く為に手段は問わない、けれど責任を負うことも厭わない類いの人達。
石のような意思を持った医師の如く、手術適用外‐インオペ‐になんかさせない為に。

『言葉を慎みたまえ。これ以上、君達の戯れ言に付き合ってられん。失礼するよ。』
『では、最後に一つだけ。』

乱れた襟を直し空疎な一興はここまでだと、排斥して立ち去ろうとする男の機先を制する。
口を割ったのは事務官だけだと思っているようだ。
完勝を観賞する男、感傷を鑑賞する彼、緩衝に干渉をする友達。
法を犯すこと‐デメリット‐が法を守ること‐メリット‐を越えたら、どれだけ報奨金を積み上げても続ければ続けるだけ赤字‐ソン‐、分の悪い破れかぶれな賭博‐ギャンブル‐に過ぎないことを気付きもしない。

『つかぬことをお聞きしますが、襟元にバッジがお見受け出来ないのです。細かいところが気になってしまう質でして。一体どうされたのかお教え願えますか?』
『どこかで紛失してしまっただけだ。』
『おやおや、それは大変ですね。』
『バッチがどうかしたか?』
『これは貴方のバッジではありませんか?』

突き付けたのは男の職業を表す、秋霜烈日のバッジ。
殺されかけた私が掴み取った、言い逃れなどさせない確定的な証拠。

『・・・いや、私のバッジではないが。』
『おや、そうですか?個人番号と所属番号が、貴方のものと符合したんですけれどね。』
『何が言いたい?』

男は一瞬眉間に皺を寄せたものの、口にしたのはこの期に及んでまだ白を切るつもりの他責かつ他人事らしい言葉だけ。

『俺達に話すことはもうありゃしませんよ。話さなきゃならないのは、そちらの方なんじゃないんですか。』
『それでもお忘れになっていると仰るのならば、貴方方のクリミナルマインドを思い出していただけるように、不肖な私ではありますが全貌を口上申し上げましょう。』


男を歯牙にも掛けない友達の弾幕を張った問わず語り。
そのアンソロジーの中には、上前を撥ね権力を掌握し過ぎた各上層部の雪隠で饅頭を食べるようなお話も含まれていた。

『男が自発的かつ勝手にご意向だと考え忖度して動いただけの話だ。顔色を伺われる立場にある私に、責任が発生することなど全くない。』などと、例によってアイ・アクセシング・キューをフル活用して、稠密に大上段を構えて毒突いていたが、雲隠れも、都落ちも、国替えも、お暇も、委細承知だって通じさせない。
因業の張本、ただの犯罪者‐クリミナルズ‐なのだから。

警察の威信が瓦解しないように、一丁目一番地の課題は自浄努力。
エレベーターピッチのリスクヘッジ、全てを壊して新たな秩序を作るぐらいに隗より始めよ。
嫌疑無しでも、起訴猶予でも、処分保留でも、嫌疑不十分でも、玉虫色など有り得べからざる。
愛娘を誘拐された副署長自ら矢面に立った。


役者の役割は役名に現れ役回りを務めて役目を果たすのみ。

役職などその名の通り職の役の種類の一つであって、左団扇の御褒美や優越感を抱けるような代物ではなく、ただのハロー効果でしかない。
そして、部下の方が優れた知見を得ている場合もあり得るのに、上司である己の方が優れていて部下は常に教えを乞う立場だと信じ込んでいる。
だから授かり効果を忘れられず、面子を潰されただけで気忙しく手段を選ばなくなる。
向こう見ずで脆弱なプライドが裏目に出て逆効果となり、己の首を締め既得権益を手放すことになるなんて夢にも思わず。
研鑽薫陶の誇りに埃をかけて、達者な御為ごかし。

己だけが居心地良く過ごすことのできる理想の世界を、取り戻したい男と死守したい各上層部の攻防戦は、蜥蜴の尻尾切りをした奴も呆気なく切られた。
なんてことない、ファニーなこともない。
言うなれば尻尾が長かっただけの話。
内憂外患を齎す尻尾、切ってしまう尻尾、いや切る為だけに存在する尻尾を大事にする蜥蜴などいないのだから。


『枝葉末節なセンテンスでも与り知らないことを嫌い、何事も自分の目で確かめないと気が済まない志操堅固が、今回は仇となりましたね。』

計画に無かったであろう意外に抵抗してしまった一般市民の私を人質に加え、葬り去る為のハイリスクな指示を事務官に出した理由は、埒が明かない警察組織、延いては各上層部に追い打ちをかけたかったから。
もちろん検察権行使者としてではなく諾否無用の脅迫者として。
厄介払いを兼ねた一石二鳥の様子を、己の眼で見届けようと男は山小屋に来た。
しかし沢に落ちた私を今生の別れと見做して、失くしたことに気付いたバッジを回収しようとしなかったのが運の蹲い。
己が利する為に転がし他を排する為に転がっていた罠でセルフキャンセルカルチャー、八百屋舞台から転げ落ちた。

『何かご釈明されますか?』
『・・・・・・。』

無言という名の肯定。
それは男にとって敗北を喫したことを意味するに等しい。
逆転勝利への延長戦など無い、撤退ではなく降伏、ブザービーターなんかになれるはずがない。

普段理性的な友達の怒気を含んだ皮肉も聞こえないほど茫然自失、進退窮まり今にも膝を折りそうな男に、切歯扼腕をなんとか飲み込みながら彼は重く冷たい手錠をかけた。


ところで、ドクトルもビックリするぐらいの奇跡で低体温症を抱えながら山の中を歩いていた私が、身罷らなかったのは偶さかにかまけたからなどではない。

辿り着いてくれた彼女が母親の制止もきかず、丁々発止取り成してくれて、副署長も片意地を張らずに号令一下で終日(ひねもす)、夜半‐ミッドナイト‐を過ぎてもウェーダーを身に纏いローラーをかけて探し続けてくれていたから。
その中には友達の職業が警察官だったおかげで、昵懇の間柄になった別部署の人や普段捜索隊に加わるはずの無い、所謂お偉いさんもいて。
文字どおりの錚々たるメンバーで構成されていた。
道理でスプリンター並の速さで発見され、照らされた灯りも多かった訳だ。

寡占するお偉方に殺されかけて、群雄割拠するお偉方に助けられた。
同じお偉方でも周回遅れ以上の差がある。
権力は手に入れたら帯水層の立水栓のように便利使いするモノじゃない。
無理矢理行使すれば、様々なセクトからゲバルトが散発的に起こり得てプロメテウスの火になり得るモノだから。


私が病院に運ばれて、男が送致されてから数日。
警察が握り潰すことも検察が隠し通すこともなく、上層部の不祥事に世間は鵜の目鷹の目。
目まぐるしく趨勢していく中で、いつまでも私だけ手をこまねいている訳にはいかないよね。

草葉の陰の一歩手前から意識を取り返すように目を開ければ、明滅していた胡蝶の夢は終わる。
白い天井を背にした彼の姿を、今度はちゃんとハッキリと視界に捉えることができた。
気付いた彼は私の名前を呼ぶから。
『みつけてくれてありがとう』って言ったんだ。

目を覚ました後もこれまた大変だった。
彼女は泣くし、彼女の母親からは心配されまくりだし、普段なら拝謁されるであろう副署長からは稀有なことに頭を下げられたし。
まぁ、父親としての謝罪とお礼だったからご放念くださいなんてお断りせずに有り難く受け取っておいたけど。

ペーソスさえ噯にも出さなず隅に置けない友達もうっすら涙を浮かべ、目を細めたままで固まっていた。

『どうしたの?』
『すみませんね。なんて声をかけたらいいか、月並の言葉さえ浮かばなくて。』
『・・そっか。』

叙情的に吐露されたものだから、最大限に斟酌した上で一言だけ返した。


余談なんだけど。
入院なんて私にとっては鬼の霍乱。
四角い窓から柔らかな日差しが差し込み日溜まりの影絵の模様がゆらゆら、白い床の上に踊り描かれる穏やかな昼下がり。
暇を持て余していたから、彼が来た時に異としていたことを聞いてみた。

『なんで上司の人を殴らなかったの?貴方なら副署長達の捜査方針に怒ると思ったのに。』
『・・・・・・。』

彼は目を反らして私に背を向ける。
あの時は過ぎ去り、その日が終わった後、ここに運んできたのは寸前の往時。
ともすれば九分九厘、公算が大きいと思っていた打打擲の青写真。

しきたりとか威信とか縄張りとか警察の体面とか、拒絶するきらいがある彼。
最初からあった訳じゃなく其処はかとなく、その時の誰かの最善で独断的な判断のもと作られ、附法的に踏襲しているだけなのだから、必ず守らねばならないということでもなく、変節したって構わない。
ただ御下知であっても細工は流流仕上げを御覧じろな精神は、レギュレーション重視の組織人としてはアウトなんだろうけれど。

『                   』

悪し様で露悪的な彼にしては豈図らんや。
小声だったから何て言ったのか聞き取れなかった。

『ねぇ、聞こえなかったんだけど。もう一回言って。』
『・・・っ。・・ノーコメント、ノーコメントだ!』

今度は反対に病院には似つかわしくない大声を出して、食い下がる隙もなく病室からそそくさ出ていった。

おざなりで粗雑かつ、立つ鳥跡を濁しまくり。

簡単な事を難しく説明するのは愚かな人、
難しい事を難しく説明するのは普通の人、
難しい事を簡単に説明するのは優れた人。
そんでもって、二度聞かれて怒る人は隠したいことがある人らしい。

否定でもなく肯定でもなく、解明も証明も定義すらしなくていいノーコメントって、言い訳すら出来ない不器用な彼であってもズルいと思わない?

568.役者が一枚上の首魁‐ペルソナ‐であっても。いや、だからこそ。

土地勘が無いと迷ってしまうような幹線道路から何本か入った住宅街の細い路地を通る。それが事務所へ帰る一番の近道だから。
ダダダッとした音が近付いてきたと思ったら、矢庭に握らされた小さな何か。
タータンチェックのベストが印象的なその人は、闇金に追い込みをかけられたように何かに追い立てられているように、私が何度か目を瞬かせている内に走り去ってしまった。
稀代の出来事にすぐさま諦観出来たのは、慣れてしまったからなのか。
開いた手の中身は一つのUSBだった。
見ず知らずの人に押し付けられた物なんて不気味で、関わるべきか無視するべきかどうしようかと一瞬当惑したけれど、勘案するまでもなく私の彼は警察官だ。

管轄外だけれど話くらいは聞いてくれるだろうと思ったその日に、彼が私に会いに事務所へ彼のバディと共に来た。逢瀬を重ねるという訳ではなく、理由は勿論管轄内の仕事で。

彼によると、私がUSBを渡された数時間後にその人は飛び降りて亡くなってしまった。
《勘気に触れるような大変なことをしてしまった。逃げ切れる訳がない。死んで償う。》
そんな沈鬱な暇乞いをパソコンで打った機械的な遺書を残して。
その人本人の手跡ですらないから確たる証拠に成り得なくて、警察は自殺と他殺の両面で捜査を始めた。
その人は新薬を研究しているポスドクで、その立場を利用して個人情報や研究データを流出させていたという噂があるらしい。
捜査関係事項照会によって集められSSBCが解析している捜査情報の内、住宅の裏門に設置されていた防犯カメラに私がその人と遭遇した場面が映っていて、たたらを踏んだ時に何か手渡されたように見えたことから事情を聞きたいんだって。

話が早くなりそうで助かったなとUSBを出そうとしたら、会ったこともない彼の上司が伴っている一人の男性に平身低頭しながらやって来た。

「少しよろしいでしょうか。」

男性は厚生労働省の役人だと彼の上司は言うけれど、彼も彼のバディも二人の姿に瞠目している。
二人が事務所を訪れたのは彼と同じ理由だった。

「先生は今回のデータの流出に心を痛めておられるんです。渡された物があったり知っていることがあるなら教えていただきたいんですよ。」

哀願されてしまったけれど私はさっきまでと180度違って、申し訳なさそうな困りきった風で答えた。

「その人とはぶつかっただけです。渡された物も知っている事もないです。お役に立てなくて申し訳ありません。」

彼の上司は心底残念そうだったが、役人の男性は納得していなさそうな顔をしている。歪んだ欲望は目線に宿り、偶然にしては出来すぎだと思っているのだろうか。
けれど、彼の上司は役人の顔色に気付くことなく、彼と彼のバディを引き連れて出ていった。
彼に黙っていたのではなくて、役人と関わり合いたくなかったから、彼の上司へ余計なことを話さなかっただけ。

人心地が付いて、鞄の中からUSBを取り出して考える。
一事が万事、このUSBの中身が何であれ、生き馬の目を抜くような感じのする役人が出てきたのなら、一介の警察官である彼に渡すという正規ルートでは宛ら利敵行為、簡単に握り潰されて元の木阿弥になってしまう。
私の父親は弁護士だったし、知り合いにインハウス・ローヤーもいる。役人の語り草‐レピュテーション‐は一貫して良くない。
きっとその人は事務所まで来ようとして、その道すがら折好く私が居たのだろう。
何故ならその人は、逃げ場を失って迷い込んだ先に居た、《ただの通りすがりの私》ではなく《私に託す》と言ったから。

次の日から視線を感じるようになった。
彼の仲間に張り込みや尾行をして貰っていた時のような、間断無く守られている感覚じゃない。
付け狙われているような見張られているような、ストーカー的な嫌な視線。
このタイミングで単なる偶然とは思えない。
私には女優のような演技力は無いに等しいから、見せたあのVARでは役人を魅せられなかったのだろう。
悪い計画が既にされているのならば、役者が揃って動き出してから対策を考えるのでは遅すぎることは言を俟たない。

だったら機運が熟すまで泳がせて誘き寄せ飛び付かせる為の囮に、警察協力援助者災害給付を受けるようなそんな大層なことは出来ないけれど、少しでも力になれるのだったら、ウツボカズラに私がなろう。
伊達に警察官の彼女をやっている訳じゃないからと、チャンスと見せ掛けて罠を仕掛けて手を打って、前例になる覚悟はできているけれど、後に続こうと思う人なんか私以外にいない。普通は君子危うきに近寄らずだ。と彼は呆れてしまうかな。
狙いが私自身だけに向けられて死ぬのは別に構わないとそこから動けないのが弱さであったとしても、自分の周囲に向けられる方が怖いからそれしか出来なくても無駄死なんてしないと自分が決めたことを何があっても絶対に変えないのは強さだと思っている。
大事なものが増えていって尊くなればなるほど、その熱と冷めた時の怖さを再確認させられる。
間違っていないけれど正しくもない、彼は気に入らないだろうけれど。
自分を取り巻く世界ぐらい守りたい。
将を射んと欲すればまず馬を射よ‐モウ、ナクシタクナイ‐。

先だってUSBの安全を確保する為に、事務所からクライアントに郵送する郵便物に、あんじょうおたのもうしますと紛れさせた、彼宛の郵便物‐USB‐。郵便局留のそれの差出人は私の友達の警察官宛。
勿論受け取りになんて来ないから返送される。友達から彼宛なんて、関係性から言っても管轄から言ってもあり得ない。それでもやる価値はある。目端の利く友達ならば、この迂遠で寡聞な陽動作戦であっても気付いてくれるだろう。上には持ち上げられないけれど、下から支えることは出来るはずだから。

さあ、杉玉を吊るすようにして視線の主を誘い出そう。成る丈一人になったり人気のないところを通ったり。多数の仕掛けを以て、対象が動けるように仕向けて作り出した、大掛かりな活躍場面‐シーン‐。
意図的な仕落ちのがらんどう。

やはり返す返す機会を伺われていたのだろう。逢魔が時、仕掛けられた物理的急襲‐ソーシャルハッキング‐。
私に容疑を向けさせる為の計算にまんまと引っかかってくれて、読みは間違っていなかったけれど甘くもあった。
探しているのはデータだからと鞄を奪われるか渡せと脅されるかぐらいだと思っていたのに、ポケットに入れた携帯電話さえ取り出せないなんて想定外。ここまで嗜虐的に飽かして俏されるなんて、会頭‐デバッカー‐を穿ち過ぎたかなぁ。

季節外れのペール・ノエル。

意識を手放した私に膝行寄って鞄や衣服を荒らして、家や事務所、所員宅やクライアント先も跳梁して手当たり次第。関連性があると思われる事案が林立して仕手が早生。
けれど探し物は見付からない。見付かりはしない。見付けられない。見付かるはずがない。
私という信号を断ち切ってしまったから、追いかけるべきUSB‐ターゲット‐が消えてしまった。八つ当たり的に無駄足‐スタンドイン‐が撹乱していくだけで、無い袖は振ることが出来ないのだ。

「目を覚ませよ。聞きたいことも言いたいこともたくさんあるんだよ。」そう煩悶する彼が、マメでない彼が、僅かな時間があれば病室に様子を見に来ていたことを、辛うじて命を繋いでいる最中の私には知る由もないね。

緊急指令室に一報が入って私が意識を取り戻すまで都合数日間、どうやっても出し抜けずに痺れを切らして監視していたのだろう。
彼への連絡をお願いしている最中に看護師を刃物で脅して、私を拉致‐アブダクション‐。
どこかの廃ビルに連れ込んだ男は私に問う。

「USBはどこに隠した?!」

「かくしてません」

「嘘をつくな!あいつから受け取っただろう!鞄にも家にも事務所にも、何処にも無かった。お前が隠してるからだろ!」

形振構っていない男では、ロールシャッハ・テストでも何も見えないだろう。
生にせいぜい正にせいせい喚きながらデータ、つまりUSBの行方を問うだけ。
私の手元にはもう無いし、潜行して彼や友達の手に渡っていると信じているけれど、そこから今現在何処にあるかなんて、当然私には分からない。
裁判官も検察官も弁護士もいない無人の法廷で、何か知っている私を問い詰め続ける何も知らない男だけ。
それにしても、あの役人の手先にしては冷静さを欠きすぎている気がする。
定型の言葉での押し問答が繰り返されて、いよいよ視界が歪んできたところに現れたのは彼と彼のバディ。

「早晩もう逃げ場は無い。諦めろ。」

続けて彼は言った。
USBは確かに受け取った、と。
パスワードを解析するなんて難しいことも無く、注進して掴んだ証左。
我が意を得たり、彼の行動力と友達の知性を持ってすれば、必要とされる捜査方針を変更するのに何の困難もなかった。

彼と友達は竜虎相搏、お互いの捜査方針に意見具申、衝突しながら面と向かって皮肉を言い合うのは日常。
何故なら、この世の不条理に合わせる必要はないと、服務規程を違反したとしても、二人の貫く正義が違うから。
悪趣味でたちの悪い不正を憎み、警察の面子に捕らわれる事なく、譴責を厭わずに手弁当になっても意に介さず捜査にのめり込む。
能力は認められているし優秀だと言われているけれど、組織には向いていないから警察内では当て付けのように疎まれる事もある。
昔誼の私は扱いに長けているお目付け役のように、陣中見舞いを称して仲裁することもあるけれど、たまに嗾けたりもしばしばして、まるでコインの表と裏で混ぜるな危険を、どうにかこうにか共倒れしないように支えられるようにしている。
それでもこうして重い事件を違う思いでも同じ想いで捜査をする。
決して仲が良いとは言えない、薄氷の上の両端にいる二人の、歪で不安定で危ういグラグラのアンバランスだからこそ、噛み合った時の戮力協心の結束力という名の執念は固く強い。

「お前、騙したのかっ!?」

彼を見ていたのにバッと顔を私の方に向けて、騙されたと怒りに燃える目が雄弁に語っている。
直接的な攻撃は避けられたけれど、間接的に回避は失敗した。まだ諦めてはくれない。

「隠していないって言った。勝手に勘違いしたのはそっちじゃない。」

逃げ道を塞がれ刃物を突き付け私を人質に取った男の目線は、彼と彼のバディに向いている。
斜向かいの目の端に映ったのは友達だった。柱の陰に隠れて男からは見えづらい位置だ。
フィールドは違うけれどトランシーバーで交信しているように会話が出来る友達が、人差し指を唇に当てて手話で話し始める。
応援が来るまで時間稼ぎをして後ろの窓から狙撃させるから合図を送る、と。

Who done it?
How done it?
Why done it?

バントからスクイズへの洗いざらい明かされる話題‐リリック‐は、このミステリーにもならないお探し物のデータが入ったポイント‐USB‐。

男は研究所の一員で、私にUSBを託したその人と一緒に新薬の研究をしていた。
臨床試験いわゆる治験に進んだその薬は、高い有効性を示す一方で致命的なリスクも抱えていて安全性が低かった。ただ、確率的にそれは数パーセントのことで、さしあたって優先すべきは圧倒的な有効性の方。
極めてベストではないけれど決してワーストでもない、限りなく全員の希望を叶えることが出来るベターな選択では確かにあった。
微に入り細を穿ちどれだけ安全をきしても安心ではないし、たとえ数パーセントでも万が一にも万が一があってはならないにも関わらず、用量を守らず要領良く容量だけ増やしていく。

「この容体が悪化し急変した患者達は気の毒だったが、全ては新薬を心待ちにしている今まさに病気に蝕まれている大勢の患者の為だ。命の価値と長さは反比例している。短かったからといって価値が無くなる訳ではないんだ。多少御寛恕願うことにはなってしまうが、患者本人や家族が気持ちに整理をつけようとしているのに乱して、いたずらに脅かすことはない。混乱を避ける為の情報統制‐デキャンタージュ‐に過ぎないんだ。何を審査し公に承認するかは、我々が裁定することだ。薬を拝領する患者の為の喜捨‐ネセシティ‐は、君達が累積‐スーパーインポーズ‐する信頼と実績のデータだけなんだよ。たまたまの成功は不必要で、失敗の原因が必要なんだ。失敗を後悔している時間なんてないよ、悔やんでいるなら患者の為にもがくことだ。だからね、君達は難しい功績‐ジュースジャッキング‐は考えずに、我々の簡単な要求‐フィンガークロス‐に、ディレーせず応えることに専念してさえいればいいだけなんだ。命令‐イケン‐しないで、言われたことだけをしていればいいんだ。分かっていると言うのならば、きちんと行動で示してもらわないとね。示せないと言うのならば、どこか色々なところのネジが緩んでいるんだ。たくさん外れてしまわない内に締め直し‐メンテナンス‐をしたまえ。」

視察に招聘されて来た厚生労働省の高官が、効果が出なかった患者や数パーセントのリスクを負った患者の禁帯出の資料を、チラリと見てバサリと投げてスラリと言った。
弱い者に寄り添ったというファシリテーションの行き着く先は、天の配剤だと敬虔なフリで誘導し、待てば海路の日和ありと因果を含め修正するだけ。
ダーティハリーみたいな無能なんて必要無いし、研究する居場所が欲しければ研究者としての有能性を示すことが必要不可欠。これは隠蔽の圧力‐パンプ・アンド・ダンプ‐ではなく需要が無い‐サボタージュマニュアル‐だけ。
行年も享年も自由自在。役割を終えて消えて逝っただけのモノを、わざわざ口外するような好事家ではない。

途中経過‐ダークホース‐には興味の無い言い分には賛同しかねるが、掃き出し窓のように易々と考課するお役人には逆らえない。期待されているのではなくて試されているだけだから。
去就で爵位のように研究者としての扱いが変わるのだから、協調性という名の妥協をして、決定権の顔色を窺い波風立てないよう長い物には巻かれ従って、殷鑑不遠で姥捨山からは距離を置いて、罵倒など雑音に過ぎないと言質を取られないように過ごすのが、立場があるからこそ身動きが取れない72時間の壁を越えられる最も安心安全な生き方。
所詮、胴元‐トワラー‐からの研究費‐キャピタル‐がなければ、研究‐ノマド‐を続けられないのだから。

効果が出ている患者もいる。寧ろその数は多い。良いことと悪いことがトントンなら御の字で、助からない可能性がないとは言い切れない。今まで出来なかったからと諦めるのではなく、今日初めて出来る日かもしれない無限の可能性を秘めている。努力をしていれば必ず実る世界ではないけれど、努力をしていなければ発見‐チャンス‐が廻って来た時に掴めない。掴むことが出来ればそれは巡り巡って患者の為なんだと、どうなるのかと期待しどうするのかと不安を抱くその人は、自分自身に言い聞かせながら精彩を欠いていた。
良心に小さなヒビが入って、取り返しのつかない亀裂となり、果てに砕けた欠片がチクチクと刺さりながら、心の納戸に降り積もる。
信じた信じようとした、だって信じたかったから。新薬で世界が患者にとって良い方に変わっていくのが見たくて同じ船に乗ったのだ。地図など無い道無き未知に、邁進‐フランジ‐すればするほど公序良俗に反し、輪軸の踏面‐トングレール‐は逸脱‐オーバーラン‐していく。
綺麗な元気‐ハナ‐を咲かせられる希望の新薬‐アメ‐になりたかったはずなのに、経験を積んだら‐咲かせてしまったら‐、基礎が疎かになっていく‐枯らせることになる‐、不安は上乗せされていく一方で、一向に解消はされないことに気付かない。

それに留まらず、新薬として認められる確率を確固たるものにするデータが古ければ活かせないからと、他の治療方法で治る患者であったりこの病名は適応外だと確定させたかったり、可能性があると分かっているならそれの疑念を潰して、新薬だと判断を下す前にあり得ないと証明しない限り次にいけないなどと言い訳をして、わざと適応内の悪性の病気ということにして、希望という名の誘い文句を多少オーバー(詐欺レベルに相当)にちらつかせて、強制的に治験をコピーキャットよろしく集める為だけに量産すれば、案の定副作用が現れてスタットコールすら徒労に終わる。

瓜田に履を納れずは事だからと、三十六計逃げるに如かず。予測を立てることは出来なくても、外に漏れる前に内々で済まられるように、上り坂も下り坂もまさかも、起こり得るリスクを想定し、回避する為の対策をして備えることは出来る。通達により決定事項の誤魔化‐バックドア‐を駆使した改竄‐コンゲーム‐。
カスパーの公式に当てはまらない異常‐アンノウン‐も幾度と無く続けば異常‐コモン‐ではなくなり、繰り返す度に改竄が蓄積されてより強固になる。影響する力が強すぎるが故に数値の変化が累積し、帰結として無限の猿定理‐ビッグデータ‐となる。

桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿を気取っても、過ぎたるは猶及ばざるが如し。少数の患者を生かしても多数の医者を葬ってしまう。いくらなんでも承服しかねる人体実験紛いに成り下がった治験。
葛藤して悩み苦しむその人は男に相談した。
対峙する敵と対照的な宿命の好敵手‐ライバル‐のように、同じ方向を向いてお互いを認め合いながらこけら落としを目指して高め合い、やりたいことの希望とやれることの可能で揺れる、そんな昇進‐クイーンビー・シンドローム‐に目もくれない糟糠の同志‐ゴーストライター‐だったから。
しかしながら男はけんもほろろ捲し立てるように、逃げる素振りはないけれど隙だらけのその人を、丸め込みたくてアジるアジる。

「誰にだって自分に正直に生きてるつもりでも、時には全く辻褄が合わない行動をしてしまうことや大小関係なく他人に知られたくない秘密はあるだろう。それをどうにかこうにかしながら社会生活を送ってるんだ。けどもし全てを包み隠さず患者に話してしまったら、果たしてどうなると思う?反対に不安丸出しな俺達を見たせいで些細なことでも研究者を疑い始めたらどうする?すべては患者の為なんだよ。患者の為の薬なんだから。患者にとってこの薬の完成は一條の光だ。やると決めた以上失敗は許されないし可能性があるならそれで押し通さないと、後先考えてる間に何も出来ずに終わって、生成流転‐ダイバーシティ&インクルージョン‐を発揮することは不可能になる。過去の何十年よりも未来の何百年を見据えて考えないと意味がない。この選択は決して勝負から逃げてる訳じゃないんだ。勝ちが極めて低い状況で争うよりも、今出すことができる結果の最大限を見越して、更に能力をどれだけ発揮出来るかを考えてるだけ。患者が生唾を飲みながら求めてる物以外を出すなんて、研究者の自己満足でしかないだろ。下賜する研究者は患者にとって福音をもたらす者でしかあってはならないんだ。患者だって、希望を失っては生きていけないんだから、簡単に絶望なんてしないだろ。現状を受け入れて、緩和ケアや救世主ベビーを選んだとしても、生きられるものなら生きたいと願ってしまうのが患者だろ。闘病は治療なんだから患者じゃなくて、医療が、医者が、俺達研究者が、闘わなくちゃならない。お前は誰かが問題を抱えてると、ズカズカ踏み込んで世話を焼いてしまう悪い癖がある。研究熱心で好奇心旺盛な長所に、お人好しで何でも首を突っ込んでしまう短所の持ち主のお前が出ていって色々と行動を起こすと、自分を見失ったお前のせいで明らかに空回りして、挽回するどころか新たなミスを生んで余計にややこしくなる。患者のことを思うのなら、邪魔しないように静かにしてるのが得策だ。改竄なんて変に勘ぐったところで、この議論は是非もない。」

旧態依然の試金石。
その人は男を分かろうとする気持ちを探したけれど、難色を示すように理解は出来なかった。けれど、今までと変わらない態度をその人が見せたことで現状維持という結論を出したのだと男には伝わった。
お互いに研究一筋だと信頼しているからこそ、その人は男がそうは言っていても改竄なんて止めてくれるだろうと思っていて、男はその人がああは言っていても改竄には適応するだろうと思っている。疑いを持つには切っ掛けがいるけれど、信じることには理由などいらないから。内面は簡単には読み切れないからこそ、その思考の釁隙のすれ違いが、最初から既にどうにもならなくなっている玉鬘であることにも気付かない。けれど、それより何よりその人は、自分自身が重大な罪を犯していることから目を背けたかった。

夜明けでもあり、これから希望が始まることを意味するような、運良く幾つかの幸運に恵まれたとしても奇跡など起きるはずがない。何もせずに定められた運命の結果が変わることもない。けれど、新薬がありさえすれば作為的に起こせる。綺麗事も理想論もそうありたいと願い、のし上がり出世したいと行動しない限り、夢物語を叶えることすら叶わないから。
そう研究者の拡大自殺‐プライド‐だと思い込んでいたのは、患者を良いように利用して、役人の為にデータを取るだけの沙汰。
研究者にとって都合の悪い原因を隠し都合の良い結果を信じて、患者にとって都合の悪い事実は切り捨て都合の良い嘘を並べ立てる。そして、それぞれの利害の真実を重ね合わせて重なった部分を事実とする。知りたくない現実まで容赦なく写し出したとしても、ウェアラブルするのはまるで抄訳したフィルターバブル。
縦の怠慢な忖度と横の傲慢な間柄が、縺れながら編み込まれて、六次の隔たりで織り成すのは、綺麗で素敵で頑丈に雁字搦めになった、外からの侵入も内からの逃亡も許さないと言わんばかりの醜い柵。
患者に見せたい景色と、研究者が見たい景色と、役人から見える景色は、炎色反応のように違って見える。
揉み消したとしても揉み消したという事実は消えてはくれなくて、信じ込ませることが出来たとしても信実にはなってくれない。
乗員乗客を不時着させた先に、山が動くような奇跡は味方なんてしない。

副作用を発症する患者が増加して、もう数パーセントのリスクどころではなくなってしまっていた。
新薬の開発という大きな変革の中で、助けを求めている小さな声をかき消して、前向きに出来ずに見切り発車をしてしまって救えなかった。
研究者が遠くの成果に気を取られていると、近くの弊害を見逃してしまう悪循環の中、臥薪嘗胆なのはいつも臣民‐カンジャ‐。突き動かしてきた前提‐ファクター‐が良心の呵責に苛まれて、もう握り潰される様をこれ以上見過ごしたくないと今更ながら。
人の為と書いて偽となり振り出し以上に戻る、そんな表記の揺れた曰く付きの薬などもう薬とは言えない。

一新紀元できるかもしれないメディウム瓶が並ぶ研究室に、その人は男に顔をかせと呼び出した。

「僕はもうこれ以上治験を続けられない。」

「何言ってんだよ。患者の為の治験だろ?」

一生懸命頑張っている患者のそばで少しでも力になれたらいいと思って、どんどん大きくなった思いを乗せて新薬の開発をしていたけれど、その代わりに研究者達は多くを望み過ぎてしまった。数値でしか知らないことでも体験してしまったことで考え方も変わっていった。

「あんなの治験じゃないだろ。築くことが出来たかもしれない患者の未来を犠牲にして、支えるはずの研究者が壊して、金の為に捨てて傷付けている。」

キラーワードは患者の為、パワーワードは世の為人の為。
けれどもうその重石はきかない。

「治験だけじゃない。総会屋と手を組んで、保秘しなければならない研究の特許を金に変えているみたいじゃないか。真実だけじゃない、いろんな人の人生まで歪めて狂わせているんだぞ。こんな理不尽なこと、許される訳がない。」

「何を言ってる?研究を世の中に広めたいだけだ。ベンチャービジネスとかに委譲して色々なとこで研究すれば、結果的に人の為になる。餅は餅屋っていうだろ。薬を待ってる患者の不利益を回避出来る。」

複数の組織に情報を漏らして、利益供与‐井戸の底のぬるま湯‐は心地良く、おべんちゃらのご機嫌伺いばかり‐井戸の底から這い上がろうとはしない‐で、患者‐井戸の外‐に興味を抱くことも知る‐滑り落ちて全身を打ち付ける‐こともしない。
井の中の蛙は、箱庭‐ビジネス‐を支配したいのではなく、楽園‐ギャンブル‐を独占したいだけ。
同じ希望を抱いていたはずなのに、違う絶望をおぼえて嘆く。

「この治験のデータを公表すれば、本当に患者の為の治験なのか分かる。薬と呼ぶには時期尚早過ぎたんだ。」

その人は手にしたUSBを見る。
一旦引き下がって隠蔽する為ではなく、一歩踏み出し告発する為に、せめてもの罪滅ぼしになるには遅すぎたかもしれないけれど、持ち出した証拠を固めた緒元で弓を引く。

「そんなことをすればただじゃすまない。患者だって困ることになる。正直にそれを渡せば助けてやってもいい。過ぎたことを荒立てて、あまり上の機嫌を損ねない方が良いのはお前も分かってるだろ。俺が取りなしてやるから。こっちに渡せ。」

制裁を加える自分が正義と語るつもりは毛頭ないけれど、腐った組織のくせして偉そうに必要悪‐破滅ではなく革命‐を語るのは、更なる欺瞞でしかない。
清らかな水でなければならないけれども、濁りきった水を全て排除してしまっては、水そのものが枯れてしまう。だから多少濁っていても仕方がないというのか。

「そうやって脅せば言うこと聞いて従うと思っているのか?僕はもう決めたんだ。生半可な覚悟でこんなことはしない。決めたことを取り消すつもりはないし、汚した手を洗い流すつもりもない。僕は過ぎたことには出来ない。」

男は見兼ねて釘を刺すように否定されて卑屈になった悪意ヒャクパーセントだとも言えるし、その人が告げ口をしたと捉えられ逆ギレに耐えきれなくて見放した善意ゼロパーセントだとも言える。
黒だと思っていたものが導いたのは本当は白で、白だと思っていたものが引き出したのは実は黒で、信頼していたからこそ相談した相手の男が護摩の灰だったなんて。
自分達にとっては不都合な事実でも、患者にとってはかけがえのない真実だから。
患者の未来を変える為に罪を犯し、共犯関係になってしまった自分を忸怩たる思いで泣いて馬謖を斬って袂を分かつ。

「渡せって言ってるだろ!」

「止めろ!離してくれ!」

穴を捲った男と揉み合いになりながらも振り切って、その人は座敷牢‐ケンキュウシツ‐を飛び出した。男は一旦見失ったものの、私のところへ来た後も這々の体で直走っていたその人を見付け出し、再び揉み合いになり膂力で振り払われた拍子にその人は衝撃音を響かせて動かなくなった。
切削するはずのアンチウイルスソフトが増長したバグに勝ってしまっても、男の筋書きにないその人の行動の僅かな差で、その人はこの世から消され、持ち出されたデータは姿を消してしまった。

紅を呉れない繰れないにして昏れないに暮れない。
家相の下層に貸そうとした仮装を纏い仮想を火葬と化そう。
公海や紅海を航海しても幸海にはならず後悔が降灰しても公開しないで更改を狡獪する。

その人の遺体を前にしても男は、道義的責任よりも自分自身の保身を一心に考える。
思ったより高く売れた情報で手に入れた私腹を肥やした金満な生活を、開店休業状態で手放すなんてとんでもない。店子の軍需産業が閑古鳥が鳴かないようにしたいが為の、詰めが甘々過ぎる軽挙妄動の浅知恵。
改竄を表沙汰にしない為、データの流出の罪を被せる為、職務を放棄し狂気は加速して暴走し、最後のチャンスを隠蔽の千載一遇のチャンスに変えて、保護責任者遺棄‐ドブ‐に棄てる。
わざと残した遺書で思い込ませ証拠を辿らせ、本当の理由を隠す為に自殺を偽装して、その人を悪者に仕立て上げた。

成る程。深謀遠慮の欠片も無い言動‐ノープラン‐だったのは、オブビアスでインビジブルな閣下からの詰腹だからか。
きっと、私に背くことは許されないのに恥までかかせるなとか、怒っているのではなく対策を考えてくれないかとか、障壁を取り除く為の善後策‐プロパガンダ‐の圧力があったのは想像に難くない。その人が居なくなって終わりかと思ったらお役人の為に駆けずり回るという、転落の一途を辿る始まりだった。
思惑が分からないまま言われるまま、ただデータの回収の為に動かされていたから、偽装工作の完成度は低いのに高い責任だけを負うはめになったみたい。
子飼いの犬というのも楽じゃないね。

「せっかく研究者として患者の為に粉骨砕身してきていたのに、改竄なんて晩節を汚すことを。」

「一年でできることを過大評価して、十年でできる事を過小評価してるんだ。短い時間で出来なきゃ評価なんてされない。あれはただの事故だ。あんなことで死ぬとは思わないだろ。死んだあいつが悪いんだよ。妨害工作みたいなオイタをして俺を困らせ、活躍するどころか足を引っ張って。俺の願いを聞いてくれりゃあそれでいいものを。水を差すどころかバケツの水をぶっかけやがった。俺が掴み取った切符をどう使おうが自由だろ。論功行賞を与えられてもおかしくない俺を逮捕するということは、患者にとって逸失利益でしかない。」

「猛々しい詭弁を弄するのは止めなさい。」

大義名分にアフォガートして読み違えていた傲岸不遜の示威行為。悪業の猛火、不心得者の化けの皮が剥がれる。愚昧な男は自分が犯した罪の重さが分からない。分かろうとしない。それこそが男の罪。

「そんなことしても大切な人は喜ばないとか、正反対に死んだら泣いたり笑ったり出来ないとか、これ以上罪を重ねるなとか。テレビドラマみたいなお涙頂戴のありきたりなこと言うなよ。誰かが必要になったものを用意しただけで、これは罪なんかじゃない。」

交渉はしない要求を承諾するだけだと言わんばかりの三竦み。そろそろ限界だと思っていたら、タイミング良く友達からの合図が来た。

「逮捕なんか俺に必要ない。」

金で患者から逃げて、罪を犯して逃げて、最後は死なずに逃げおおせるつもりかもしれないけれど、逃がさない。逃がす訳がない。
倒るる所に土を掴んで生きて罪を償わせる。

「死人に口無し。生きている人間が都合良く書き換えるだけ。」

ニッと笑って、思いっきり男の足を踏む。

突き付けられていた刃が踏まれた痛みで離れたところに、眇めて狙った銃声が響いて、撃ち抜かれ翻筋斗を打った男の手から刃が飛ぶ。
初速の連携は素晴らしく、彼と彼のバディが男の身柄を確保して、友達は私の安全を確保する。

「この人達を傷付けたら絶対に許さない。」

大切な人達に手を出したら許さない。絶対に許せない。

こんな無断で土足に踏み込んで地雷を踏み抜くような真似。私から手を出すことはないけれど、浅くても広くても狭くても深くてもやられたら必ずやり返す。
重力に逆らえず崩れ落ちた私は、呻きながらも男を見据えながら、応援で到着した輻輳する警察官達さえ過冷却並みに威圧されるほど苛烈に言った。
私の状況は最悪だけれど最高の結果オーライ。銃で撃たれた男より状態が芳しくないから、少し反省はしているけれど、望外に満足しているから全く後悔はしていない。

「無茶しやがって。」

救急隊が血液センターに輸血の発注をかけながら応急措置をされている私に向かって、顔を背けながら悪態つく彼の眦には涙が浮かんでいる。

「泣かないでよ。」

「泣いてねぇよ。」

「怒ってる?」

「怒ってねぇよ。」

「じゃあ、拗ねてる?」

「拗ねてもねぇよ、もう黙ってろ。」

自分を大事にしろとか、少しは自分のことを考えろとか、俺だって許せないけれど危ない目に遭って欲しくないとか、起こった後のことにしか対処出来ないとか、起こる前には何にも出来ないとか、ヒントぐらい言えるかもしれないからまず相談しろとか、人のことばっか気にして少しは自分の心配しろとか。
言いたいことを不問に付して呑み込んだその相好は、心配しているだけなのを知っているから、一刻の猶予もない雰囲気を出来るだけ明るく茶化してみても、これっぽっちも上手くいかない。

闊達出来ずに怒っているよね、黙っていた私に間に合わなかった自分に。私の傷は彼の涙と同じ痛み。
USBが届いた頃には私の計画はもう既に始まっていて、その人の全容に気付いて男の全貌を知った時には、何もかもが終わった後だったんだから。

でもね、買い被りすぎ。私そこまで良い人じゃない。甘んじて巻き込まれたんじゃない、端を発する切っ掛けをもらったんだ。
それで好きな人の役に立ちたかっただけ。ただそれだけ。曖昧模糊な言葉でも愛は伝わるから。だから。

「大丈夫、ちゃんと待っているから。」

大丈夫は、一人と一人と二人。
救急車に同乗しようとして、男の取り調べをする為に警察署へ帰ることを渋る彼に言った、私が信じた正義。
誰かの正義は誰かの悪、光芒‐サーモクロミズム‐だったとしても、清濁併せ呑んだ上で自分の正義を貫く。それが努々忘れない寿く約束。

首を縦に振らないけれど横にも振らない彼は、すぐには答えてはくれなかった。答えたくなかったからだと思うけれど、私を見ているその目はゆらゆらと揺らいでいる。私の言葉は届いていて、少なくとも迷ってはくれている。

他の誰かが言えば世迷言でも彼と友達の非常識さで、私の作戦に手を伸ばして引き継いでくれるというなら、間に合わせられる手段があるということで、イコール諦めなくていいということ。

「彼女は待っていると言いました。だから僕は僕の正義を貫きますよ。それが約束ですから。貴方はどうしますか?」

私が警察官と知り合いだと知っていたからかもしれない。公表してくれると公算があったからなのかもしれない。地に倒るる者は地によりて立つその人は発露を望んでいたに違いない。だって私にUSBを託したのだから。

「行きますよ。USBは俺に届いたものですからね。」

友達が私の気持ちを汲んで確信を請け負ったことで、彼は幾分か落ち着きを取り戻す。彼には珍しく友達の意見を素直に聞いて賛同していると思ったけれど、都合の良い提案だったからなんだろうね。
外聞を気にすることなく阿らないのは、呉越同舟二人の気骨。名残惜しさを残しても、意地ではなく責任を果たしたいから。

六枚目はその人で五枚目は男の事件は終わって目に見える闇は晴れたけれど、七枚目の捜査はまだ終わっていなくて目に見えない闇はまだ晴れていない。最悪の思い出の報いを受けるべき人間はまだ他にもいる。証拠隠滅の恐れがある最重要参考人の、任意同行が無理なら逮捕状を出してでも強制捜査に踏み切る。

「突然で申し訳ありません。お時間いただけますでしょうかねぇ。」

「こちとら緊急の用件なんですよ。」

「騒がしいな、一体何の用件だね?どういうことか説明したまえ。」

「詳しいお話は署に着いてからで結構ですので、署までお送りしたくお迎えに上がった次第です。」

「小さな親切大きなお世話か?ふざけるな。何でここに来たか、その理由を言いたまえ。突然無礼だろ。」

「下手な芝居はもう止めてくださいよ。実行犯である男の研究者の身柄は既に押さえたんで。」

「実行犯?男の研究者?まったく話が見えないな。データの流出の犯人は自殺したのだろう。君達の上司から聞いている。もしかして犯人の遺書に私に対して一言くらいあったのか?それとも書ききれないほどあったというのか?」

「自殺した訳ではありませんし、データが流出した訳でもありませんよ。データを証拠にしたんです。リスクが発症する確率があるのにも関わらず全て正常範囲内で治まっている。だからこそ逆に怪しいと、答えを発見することが出来る突破口の疑問に、所掌人の貴方が気付かない訳がないんですよ。知らないなんてそんな妙な話ありますかねぇ?」

「まさか厚労省のお役人様とあろうお人が、知識がなくて見落としてしまった、とか?」

「今までも改竄‐コウイウコト‐はされているようなのでご存知かと。皆がやっている氷山の一角という悪しき風潮は、正当化する理由にはなりませんからねぇ。」

「芝居がかった胡散臭い勝手な推測は止めていただきたい。好きなだけ疑ってくれて構わないが、隠している訳ではなく、言う必要がないと思った訳でもなく、真実を知らないから私に何を聞いたとしても無駄なことだと言っているんだよ。否定は出来るが肯定など出来る訳がないんだ。第一、我々がそんなことをする訳ないだろう。」

「ご名答でご明察。そうです、貴方方がしてはいけないことなんですよ。一に止まると書いて正となります。その一を越えてはいけないからこそ、調べなければならないんです。ですが、ここまで証拠が揃っていて、手を出さない方が失礼かと思いましてねぇ。作為的な嘘の密室には、必ず重ねた隙間に綻びが生まれるものなのです。上手く隠したつもりでいても丁寧にその綻びを穴埋めしていけば、無数に隠されてしまった嘘が次々と明らかに出来るものなんですよ。」

「我々は口出し無用手出し無用、研究者の応援はしても邪魔はしない。関わり合っていかなければならないけれども、適度な距離を保ち干渉も詮索も協力も情けもしない。もし仮に助言者‐アドバイザー‐や相談役‐コンサルタント‐みたく私が何か言ったとしても、その言葉が助け船になるのかしなくていい苦労への一歩になるのかは、私には分からない。選んだのは研究者の方だ。上は下に押し付けてはいけないし下は支えてくれるものでしょう。」

「曇りガラスに囲われた中で開かれる議会は、結末を決め付けて、結果を検証すらせず、成果を否定するだけですから、御多分に洩れず容易いことですよねぇ。」

「何か勘違いしているようだが、研究というのはゴールなき進化だ。一度失敗したとしても、頼れる仲間‐研究者‐が次の患者‐作戦を練って‐、少数の患者から預かった荷物をいつまでも背負い続けることはなく、多数の別の方法を探すものだ。駄目になることを気にせず恐れず、粉々になったとしてももう一度最初から作り直せばいい。元には戻らないかもしれないが、やり直すことは出来る。何故なら、欠片なら研究者の中に残っているからね。失敗は成功の準備中とか、人生で失敗することはあっても失敗した人生はないとか、いうだろう。中途半端に関わらないのも優しさだ。我々はね、自由に研究させてやっただけの話だ。研究は育てがいがあるが手も掛かる。だが、研究者には目をかけてやりたいじゃないか。しかしながら、強い人間が負けないよう出来ている法律‐ルール‐でも、法律の網や穴を掻い潜る不公平な悪い奴がいるもんだ。綱紀粛正するしか方法はないが。成す術がない患者の為に我を忘れた酷薄な研究者が、勝手に旋毛を曲げていつの間にかやった口惜しいこと。知ることがなければそれは最初から存在しないこと。だからもし知っていたとしても私は知らないってことだ。しかしながら情けない話だね、そんな奴が我々の近くで我々の仲間を名乗っていたというのは。残念なことだよ。」

「男の証言とかなり食い違ってんだよな。曲解して悖って追及を躱すおつもりで?具体的な占いは占いとは言えないのと同じ原理だ。研究者の経験はただの偏見で、患者の区別は一方的な差別だろ。あんたが日常を続けられてるのは、非日常を研究者が背負って、後始末をしてくれてる周りの黒子がいるからなんじゃないんですか?」

「私は研究者の決めたことを応援しただけで、嘘を付いた研究者が自分に後悔して、苦し紛れに私を巻き込んだだけの偽証の証言だろう。患者を連れ去る泥棒猫か我々に群がる寄生虫か。どちらかは私には分からないがね、治療するだけではなく、患者に納得した生き方を選択してもらうのも研究者の役目ではないのか。納得して治験に参加したのは患者の方だろう。各駒‐カンジャ‐の特性に合わせて、的確な指示‐チケン‐をするだけ。良いことが起きて事態がより一層良くなるか、悪いことが起きて事態が悪化の一途を辿るか、未来は常にまっさらな白紙なのだから、必ずしもフィクションの様なお決まりの未来が待っている訳ではないだろう。幸運期からの転落或いは不運をバネに飛躍するか、先行きは不透明でどんな結果になるかなんて、私を含めて誰にも分かるわけがない。」


「正しい情報を伝えたとしても拗れるのに、それすら伝えないと拗れるどころか手に負えなくなって、仕舞いには正しい判断を下せなくなって、手遅れになるというのに。無責任に煽るだけ煽って、自主的という巧妙なトリックを仕掛けたんだろ。罪から逃げ遂せる為によぉ。」

「さっきも言ったが、私は側で見ているだけで邪魔もせずに、助言になるかもしれない、言葉を言ったかもしれない、それだけだ。患者を最終的に説得‐インフォームド・コンセント‐したのは研究者だろう。犯してもいない罪の罪悪感を、私が感じる必要はどこにもない。私は研究者を信じただけだ。疑うことに理由がいるかもしれないが、信じることに理由はいらないだろう。たとえ何も知らずに騙されていたとしても、別に恥ずべきことではない。」

「確かに恥ずべきことではないのかもしれません。ですが、国の機関に裏切られて、研究者に騙されたとしても、新薬を信じ治験を選択した患者が、痛みを引き受ける為だけの存在として、全ての責任を取ればいいということですか?確かめる術がない患者だけが責任を取らされるというのは、全くおかしな話です。それも命をもって。たとえ短く区切られた命であっても、その重さに何一つ変わりはないんです。」

「人を信じるということは、全てを賭けることと同等ではないのかね?私は信じて騙されてしまったが、ただそれでも迷った時は、疑って後悔するより、信じて後悔する方をこれからも選ぶよ。記憶に刻まれ汚点となる事件だったとして、今後の戒めとしようじゃないか。」

「如何を問わず患者の命は道具じゃない。夢も呪いになって、希望も毒となって、願いも淡くなって、帰りを待つ家族の祈りさえも、全てまとめて儚く破壊されたんだ。あんたにとっては大したことがないと思ってても、世の中にとっちゃ大問題なんだよ。望まぬ形で命を奪われた無念も、信頼という名の無関心と責任逃れも、何もしなかった罪っていうのもなぁ。」

「確かに筋は通っているかもしれないが、少し飛躍し過ぎている。親近感が湧くからといって、刑事ドラマの見過ぎではないのかね。物語の登場人物の中に必ず犯人がいるものだと勘違いをしている。熱血主人公のような清廉潔白の正義を振りかざすのは、実に子供じみたことだと思わないか?我々は見ての通り忙しいんだ、赤の他人の犯罪に興味はない。差し出口の責任を取るつもりはないし、差し出がましい無能な人間の巻き添えになるなど、まっぴらごめんだ。その男を虚偽申告罪にでも問いたまえ。」

「言葉は通じるのに、こうまでして考え方が理解し合えないのはなんでなんだろうな。なんで平然とこんなことが出来るんだろうな。まぁ、犯罪者‐あんた‐の言い分をどんだけ考えても、俺達に理解出来る訳がないか。」

「そう思うことは自由だがね、事実はまったく違うんだが。まぁ、信じられないのなら仕方がないが、口の聞き方にさえ気を付けられないそういう態度ならば、こちらも考えを改め直さないといけないようだ。警察に対して厳重に抗議をすることにしよう。もっと利口だと思っていたんだがね。余計な詮索をして、もしもの時は分かっているんだろうな。」

「ええ、勿論です。ご高説は確かに拝聴いたしました。たかが一組織の重役に居座っているだけで、世界を支配した気になっている貴方を、許した訳でも許せる訳でもありませんが、ここでこれ以上のお話は諦めましょうか。」

「実行犯は逮捕出来ても、操った黒幕は逮捕が難しいとお考えで?暴いて追い詰める証拠ぐらいあるんだよ。一事不再理を狙ってるならお門違いだ。あんたは犯した罪を一生背負って生きていかなきゃならないんだ。償っても償っても償いきれずに、もう謝るしか出来ない、謝ることしか出来ないんだよ。」

「ご自分で作り出した改竄‐モノ‐でご自分の首を締め、これから許しを乞わなければならないんですよ、貴方は。さぁ、余罪を含めたお話を。ご同行願えますか?」

二人で軽く手を上げてこれ以上言わさない、お控えくださいとは言わせないと、役人の圧力‐コトバ‐を遮る。出る杭は打たれるなら引っこ抜かれる前に出きってしまえばいい。
性悪説に取り憑かれて中途半端に守る夢から覚めて、いっそのこと性善説ごと全て壊すことから始めよう。

コンパクトなインパクトが眠る組織の本丸‐アングラ‐に、この世にどうかこの様に導火、避けても避け続けることなど出来ない、あの役人が避けなければならない程の攻撃は、待った無しの迫撃砲。
爆発してしまった爆弾‐トップノート‐は二度と爆発はしないけれど、爆発しなかった爆弾‐ミドルノート‐を不発弾なんかにはさせない。埋没した爆弾‐ラストノート‐さえ可及的速やかに掃射掃討する。

歪曲して覆い隠されていた完全犯罪‐ブラックボックス‐の目論見‐ダート‐が、ビューフォート風力階級最大で霧散して、衆目に晒すのはもうすぐ。
その人が見限って役人が見限られ、失われた真実が焙り出され‐プライミング‐、満を持して白日の下‐リベレーション‐された。
見えなかった過去の何かが変化し、見えるようになった未来の何かが、目の前で塗り替えられたその瞬間を、今まさに目の当たりにする。

「勘が当たっているか確かめたかったとしても、勝手に動くなって言ったろ。相も変わらず無茶ばっかしやがって。もっと平和的なやり方があるだろうが。少しは学習しろ。」

「掘り返すつもりなら慎重に進めろ。と仰いましたよね?」

「大事なのはこれ以上の犠牲者を出さないことだ。勘は経験に基づく仮説なんだから。とも仰いましたよね。」

「まさか、お役人様と同様に都合の悪いことは都合良くお忘れになったとか?」

「駄目ですよ。本当のことであっても言ったら・・ねぇ。それに、呼んだところで来ないんですから、こっちから行くしかないでしょう。」

「そりゃあもし何かあったとしても、その時はちゃんと責任をとって決められた進退を受け入れますよ。途中で投げ出したりなんてしません。諦めが悪すぎるもんでね。」

「ええ。ですが退くまでは抗って貫いて、全力を尽くす為に好きにしますよ。我々とて、近付いた方が攻撃はしやすくなりますが、避けにくくもなるのは当然だとちゃんと分かっています。止めたとしても無駄ですよ。」

「お前ら・・・。纏まりがないというか、纏まりきれないというか。いちいち口を挟んで好き勝手言いやがって。指揮するこっちの身にもなれ。」

「指揮権を一任して欲しいなんて、文句や不満と共にも言いませんが、納得して動きたいだけですよ。過去‐イマ‐の問題に縛られずに現在‐ココ‐で頑張らなければ、未来を見失って何も変わらなくなってしまいますからねぇ。」

「はぁ~。遠慮の枠から外れて、疑惑の魅惑に取り憑かれたか。・・・まぁ、でも、二人とも、よくやった。」

お礼を言われたら気分が良いけれど、お礼を言われるためだけにしているのではない。
彼と友達はそう言うかもしれないけれど、私も彼の上司と同じ気持ちだよ。

何の役にも立てなくて足手纏いにしかならなかったのかもしれない。
けれど私の想いを受け取って全力を尽くしてくれてありがとう。