アインス…ツヴァイ…ドライと降り懸かる厄介事

「ね、今日仕事終わったら飯行かない?」


「行きませんー!」

新人弁護士である砧怙驛(キヌタ ゴウ)の軽い誘いを、受付嬢の贔瀞学未(ヒイセ マナミ)は笑顔でにべもなく断る。


「学未ちゃんさー、ちょっとぐらい考えても」


「おいっ!いいから行くぞ!」


「ちょ、ちょっと…」



出勤前にやる気を削がれ驛が拗ねたその時、男の怒号が聞こえてきた。



「あれ、衢肖さんじゃない?」


「なんか揉めてるな、とにかく止めよう。」



男に腕を掴まれ引きずられているのは、同じ弁護士事務所に勤務する所長の秘書兼経理担当の衢肖巫莵(クユキ ミコト)だった。



「何してんだあんた。嫌がってんだろ。」


「砧怙さん……!」



「あ?何だお前ら。関係ないだろ!」


「関係大有りだよ。その人は俺らの先輩だから。」


「先輩とか関係ないだろ、こいつは俺のだ。どけ!連れて帰る。」



「はあ?あんた何言ってるわけ?離せよ!」


「お前が離せ!」



若い新人らしく、そして弁護士らしからぬ物言いで男に迫る驛。


学未は巻き込まれないように、それでいて隙あらば巫莵を引き離そうと機会を伺っている。

「いいから離せってんだろっ!」


「痛っ!痛ってーな!お前、今殴ったよな。訴えてやるからな!」


「は?……っ!ちょっ……!!」



男が巫莵を突き飛ばすように寄越した為、驛は男を追い掛けることが出来なかった。



「衢肖さん大丈夫ですか?」


「大丈夫…。砧怙さんすみません、ありがとうございます。でも訴えるって…」


「問題ないです。訴えるなんて口先だけで出来やしませんよ。」



「しかも殴ったって、肘が当たっただけじゃない!何なのあの男、知り合いですか?」


「い、いや………。とりあえず、行きましょ!遅刻しちゃいますから!」



曖昧に濁された気もするが、巫莵の言う通り出勤時間も迫っているので3人は歩き出す。


その日はクライアントが立て続けで、今朝のことを話題に出す暇も無く過ぎていった。



事が動いたのは翌日、アポイントの無い一人の男が訪ねてきたことに始まった。



「いらっしゃいませ。」


「私財占法律事務所の弁護士、寒紺阜紆奢(サコン フウシャ)と申します。砧怙驛様はいらっしゃいますでしょうか?アポは取っていないのですが、昨日の件だとお伝え頂ければご理解頂けると思います。」

新人の驛を名指しで訪ねるクライアントやお客はまだいない。

上司である挧框節(ウキョウ タカシ)と顔を見合せ、不思議に思いながらも阜紆奢に歩み寄る。



「砧怙驛は僕ですが、昨日の件とは何でしょうか?」


「覚えていらっしゃらないとは………。まあ、いいでしょう。自覚が無いのならば、こちらとしても弁護士の腕の見せどころですから。」



「あの……一体何の話ですか?」



阜紆奢の言っている意味が驛には全く分からない。



「砧怙驛さん、貴方を傷害罪で訴えるという依頼人がおりまして、私はその代理人です。」


「………………はい?」



にこやかに、しかし有無を言わさない雰囲気はやり手の弁護士故なのか?


それとも………?



「訴えるとは穏やかではありませんね。」



ゆったりとした口調でおもむろに立ち上がったのは、所長の劬耡夘薔次(クジョウ ショウジ)。


巫莵と巫莵の上司である稷詫樺堀(キビタ カホリ)とスケジュールの確認後、暫しの雑談中だった。



「砧怙も覚えが無いようですし、私もそのような報告は受けておりません。一度詳しい経緯をお聞かせ願えますか?」


「ええ、もちろん。」

「傷害罪って、砧怙くん何したんですかね?」


「分からないけど財占法律事務所が出てくるなんて、嵐の予感しかないわ。」



事態が飲み込めない総務の娑様瞠屡(サザマ ミハル)は樺堀に聞くが、返ってきた答えは良くも悪くも当たってしまう女の勘。



「財占って確か、所長が唯一嫌いな事務所ですよね。悪徳弁護士事務所だって。」



新人ではないものの勤めて短い学未でもその名を知っているのは、理由が極めて悪いからだ。



財占拳煙(ザイセン ゲンエン)が所長を務める法律事務所なのだが、金になる依頼しか受けず依頼人の利益より己の利益を優先する。


財を拳で掴み煙のように巻き上げ占有されてしまうと、名前を揶揄されるほどだ。



「まぁ、財占法律事務所に依頼する側も金に物を言わせてる奴らだから、どっちもどっちよ。」


「依頼人も弁護側も厄介事しか運んで来ないから、関わりたくないのが本音ですよね。」



瞠屡も学未も、苦い顔をする。


しかし、樺堀の心配は既にそこではなかった。



「衢肖さん大丈夫かしら…?」



応接室へ一緒に入った巫莵の顔色が、阜紆奢より昨日と聞いて以降ずっと真っ青であったから。

「さて、お聞かせ願えますかな。」



態度にも声色にも、幾分か鋭さを含んだ薔次が促す。


上座に阜紆奢、向かいに薔次と節が座り、その後ろに巫莵と驛が控える。


1対4と少々アンバランスだが、応接室にはニ人掛けのペアソファーしかないので致し方ない。



「依頼人は狄(エビス)銀行本部の常務取締役、瀑蛞拓(タキ カツヒロ)。昨日、表の歩道にて話をしていたところ、そちらの砧怙驛さんに話を中断された上に、一方的に殴られたと。」


「は?殴ってなんか…!」



「砧怙、落ち着け。……寒紺さん、こいつは弁護士としてまだまだ未熟者ですが、脈絡も理由も無く人を殴るような性格ではありません。話をしていたとの事ですが、瀑さんは誰とされていたのですか?」



決め付けた阜紆奢の口調に、前へ出かかる驛を止めながら節は冷静にそして丁寧に疑問点を口にする。



「それがそもそもの原因であり、示談の条件でもあります。……瀑の提示した示談の条件は、衢肖巫莵という女性の引き渡しです。」



「「はい??」」



疑問符が2人分、節と驛のものだ。



しかし薔次は顔をしかめ、巫莵に至っては顔色が青から白になりかけていた。

「衢肖巫莵って……うちの衢肖巫莵ですか?」


「ええ、御社に在籍されてる衢肖巫莵さんで間違いありません。瀑から聞きましたが、砧怙驛さんの先輩に当たる方だとか。」



節は驚き確認するが、阜紆奢はさも当たり前のように言う。



「瀑は衢肖巫莵さんとお付き合い…、所謂男女の関係であると聞いています。衢肖巫莵さんが職場を突然辞められてしまい、行方が分からず探していたようですよ。」


「つ、付き合って……?」



「まあ内容が内容だけに、驚かれるのも無理はありませんね。私も瀑が友人なもので引き受けたのが正直な話ですし、示談の条件も従業員のことですから代わりの方を探す時間も必要でしょう。本日は取り急ぎご説明までに伺っただけですから、細かい話はまた後日という事で。」



説明だけと言う割には衝撃的な爆弾を落として帰って行った阜紆奢。



「戻りました。」


「ただいま。…どうしたの?何かあったの?」



クライアントの元へ出向いていた事務所の稼ぎ頭で弁護士の鵬承鮖(ホウショウ カジカ)とその部下の篁卿焼(タカムラ キョウヤ)が、阜紆奢と入れ違いで帰って来た。


いつもと違う雰囲気に2人は首を傾げる。

「ありましたよ、ありまくりました!」


「砧怙さんがですね…!」



「2人とも落ち着きなさい…。所長、どうなりました?」



瞠屡と学未が状況を説明しようにも興奮し過ぎて文章にならない。


樺堀は2人を落ち着かせると共に薔次へ事情を伺う。



「ああ、それなんだが……。衢肖君、少し風にでも当たって外の空気を吸って来なさい。」


「………は、い……」



所長大好きと公言し、秘書として常に明るく笑顔な巫莵が今、弱々しく返事すら精一杯で青ざめている姿は一体誰が想像出来ただろうか。


出ていく後ろ姿に、誰も声を掛けることは出来なかった。



「所長良いんですか?衢肖さんを一人にして。」


「整理するには時間が必要だろう。私でさえ混乱してるんだ。」



好奇の目ではないが、皆から一旦離れた方が良いと薔次は判断した。



「あの…、衢肖さんのことはとっても気になりますが、一体何があったんです?」


「砧怙さんが訴えられそうなのよ。」



「訴えられそうって、理由は?」


「人を殴った傷害だって、さっき弁護士が来たんですよ。」



落ち着きを取り戻した瞠屡と学未は、卿焼と鮖へ説明をする。

「とりあえず砧怙君、最初から説明してくれるか?寒紺弁護士の言い分だけでは判断出来ないし、時系列もバラバラだったからね。」



「はい。昨日の朝、出勤途中に衢肖さんが男と揉めてる場面に遭遇しました。引き離そうとした時に肘が当たってしまったのは事実ですけど、殴ってはいませんよ。」


「私もその場にいましたから間違いありません。砧怙さんは殴ってません。」



尋ねた薔次に詳細……と言ってもそのままでしかないが、驛と学未も答える。



「しかし砧怙、訴えると言われて、なんで俺に報告しなかったんだ?」


「まさか肘が当たっただけで、訴えられるなんて思わないですよ~。普通口先だけだと思うじゃないですか~」



「お前…、それでも弁護士か…?」



頭をかきながら怒りの込められた苦い顔の節へ、答える驛の軽い口調に卿焼は呆れる。



「けど、事務所の名前まで喋っちゃったんでしょ?」


「しゃ、喋ってませんよ!……あれ?だけどなんであの弁護士、昨日の今日で俺のこと分かったんだろ?」



「金にモノを言わせたんじゃないの?あそこの所長がそうなんだから。」



鮖の疑惑を驛は即座に否定し、瞠屡もそれに続いた。

フィーア~フュンフと巻き戻す

「砧怙の名前は知ってるのに顔は知らないし、衢肖さんに至っては示談の条件にも関わらず知らないって……、金出した割には随分ずさんな調べだな。」



同じ弁護士としてその調査方法に、節は不愉快になる。



「え?衢肖さんが示談の条件って、どういう事ですか?」


「いや、それは俺にも……」



目を見開く卿焼に、理由までは知らないと節は言った。



「その件については、私から話そう。」



薔次が重く話始めたのは、巫莵が事務所に来る前の事。



「橋に佇んでいたんだ。その顔がなんとも言えなくてな。」



それは4年前に遡る。


薔次が小雨降る中帰宅を急いでいると、橋の欄干に両腕をつき凭れ掛かっている女性を見かけた。


傘も差さずに、暗く悲しい顔をしながら遠くを見つめる巫莵を。



「どうかされましたか?雨に濡れては風邪をひきますよ。」


「……いいんです、濡れたい気分なんで…。それにもう、この世に私の居場所なんてありませんから。」


「…良かったら話だけでも聞かせてもらえませんか?私は弁護士であり、決して怪しい者ではありませんから。」



自殺を仄めかす言動に、刺激しないよう努めて誘った。

「ここは私の行き付けの店でしてね。煮物がこれまた美味いんですよ。」



薔次が巫莵を連れて来たのは、落ち着いた雰囲気漂う小料理屋。


座敷の小さな個室に案内され、渡されたタオルで体を拭きながら女将と話す薔次を見る。



「自己紹介がまだでしたね。私は劬耡夘薔次、職業は弁護士…そして従業員5人の小さな事務所を経営しています。」


「……私は衢肖巫莵です。今は…無職、です。」



「そうですか。衢肖さん、料理が来ましたから冷めないうちに食べませんか?」



勧められた料理の数々は確かに美味しく、久しぶりに食べる温かみは全身に染み渡り巫莵の緊張を解していく。


その様子を見て、薔次は本題を切り出す事にした。



「差し支えない範囲で結構ですから、お話聞かせてもらえますか?」



「…はい。私、先月まで狄銀行の本部で役員秘書をしていたんです。ですが、役員同士が社内で揉め事を起こしてしまって。その原因が私だったことから、懲戒解雇に。」


「懲戒解雇……それは随分重い処分ですね。衢肖さんが原因というのは?」



「部長である瀑蛞拓という方の秘書だったのですが、入行当時から好意を寄せられていまして。」

支店の経理部門に大卒で入行した巫莵。


最初の1年は順調に仕事を覚えこなしていたのだが、当時支店長であった蛞拓が一目惚れしたことにより状況は一変する。



「瀑さんの私へのあからさま言動が先輩達の耳にも入ってしまって、それが引き金となったみたいで職場の雰囲気が……。」


「支店長に取り入ってると思われてしまった訳ですか…。」



「はい。その後1年経って瀑さんが本部の部長に栄転するのを機に、私も本部の秘書室に異動になりまして、瀑の秘書をすることに。瀑さんのアプローチと周囲の噂は絶えませんでしたが、瀑さんが常務に昇進してからは、ますます……」


「酷くなったと。…身勝手なパワハラにセクハラ……、どちらも許せませんね。」



同じ女を冒涜するようなデマまで流れ、貶めようとする狂気の思想に駆られた名も無き集団は、何の疑念もなく暴走していく。


滂沱たる愛を以て相まったのは、惨憺たるイジメの現実。



大変許しがたいのは確かだが薔次に浮かんだ疑問、それは。



「失礼ながら、お辞めになることは考えなかったのでしょうか?いくら就職が簡単で無くなった時勢とはいえ、続けるのは心身共によくありませんから。」

「母が……、母が大学在学中に病気で入院しまして。早くに父を亡くして、女で一つで育ててくれた母に余計な心配をかけたくは無かったんです。」



数字が苦手な母に代わり、家計をやりくりしているうちに簿記を覚え進む道を決めた。


高校を出たら働くと言ったのだが、学ぶことが好きだった巫莵の勉強の機会を奪いたくない、頑張るから大学に行って欲しいと母に言われ、奨学金を受けて入学した。



頑張りすぎた結果とはいえない病名だったが、勉強も楽しくそんな巫莵の話を聞くのが楽しそうな母を見ているのが嬉しかった。



「そんな母が懲戒解雇を受ける数日前に亡くなりまして。」



奨学金返済、入院費と治療費の支払いが給与の殆どを占め、貯金もままならなかった。



「それから夢を……、都合のいい夢を良く見るようになったんです。」



真っ黒な空に浮かぶ真っ白な満月



その光に照らされた貴女


景色ははっきりしているのにその姿はぼやけてる



話しかけたって答えない


困った様に
悲しそうに
寂しそうに


それでも幸せそうに声も無く笑うだけ



これが夢だと認識したのは


貴女がこの世にもう居ないと気付いたから

「病室で毎日してた挨拶さえ、こんなにも私の中で大きくなってたとは思わなくて。」



「行ってきます」

『行ってらっしゃい』


「ただいま」

『お帰り』



行って来るけど必ず帰るよ


そんな暗黙の約束だった



「だからもう潮時かと思いまして。」



懲戒解雇されたことで張りつめていた糸が切れたように無気力になってしまった。



露骨で姑息な仕打ちにも、独占欲ならぬ毒占欲にも。


耐える意味も必要性も無くなってしまったから。



「まあ辞めなかったのは母だけが理由ではなく、仕事にやりがいがあったというのもありましたけど。」



控え目に笑う巫莵の感情を忖度する薔次は、一つ提案をしてみることにした。



「衢肖さん、事情は分かりました。私もね、数年前に妻を事故で亡くしておりましてお気持ちは分かります。ただ、生前妻が言っていたんですよ。」



愛する人が自分の死を悲しんでくれる、それはとても幸せなことよ。


だけど悲しんでばかりでは心配してしまうわ。


だから、



「だから思いっきり悲しんだ後は、時々思い出すぐらいがちょうどいい。」



忘れることなんて出来やしないのだから。

「ここで一つ、私から提案があるのですが……。次が決まっていないのであればうちで働きませんか?」


「……え?」



「いやね、秘書はいるんですがなにぶん少人数なのに案件が多くて事務所に付きっきりなんですよ。私も外に出る時に秘書が欲しいなと、だんだん思うようになりましてね。それに、衢肖さんは経理も出来る。うちにピッタリだと思うんですよ。」



「いや、でも……」


「うちは私にとって気が置けない人物ばかりを採用しています。ただ、男が怖いと思うのなら、私を好きだと言って構いません。初頭効果……?メラビアンの法則……?まぁ何にせよ、私を盾にしてもらってかわせばいい。情けは人のためならず、と言いますでしょ。私の為、事務所の為だと思って、この話引き受けてくれませんかね?」



優しさや気遣いは感じられたが、同情や哀れみの類いは感じられなかった。



「大変有難い話ですが、さっき知り合った私に何故そこまで……。歪んでるかもしれませんが、嘘だとは思わないのですか?何で信じてくれるんですか?」


「それは疑う理由が無いからですよ。」



悪魔の証明にすらならない


長年の経験で培った賜物がこの鑑識眼だから。

黄昏ゼクス

真っ白い部屋に私と貴女



スースー、スースー

カチコチ、カチコチ


規則正しく刻み響く

呼吸する音と時計の音


ス、スー、ス………

カチ、コ、カ………


貴女の呼吸と時計の音が止まる時

私は壊れ、世界は停止する



「衢肖さん。」



卿焼は呼んだ、屋上の手摺に凭れかかり一人佇む巫莵を。


夕陽が照度差幻惑よろしく逆光で表情が見えない上に、呼び掛けにも応えてくれない。



「所長から聞きました、4年前のこと。」



近付いて分かる、巫莵の体が小刻み揺れていることに。



「皆、断固戦うって張り切ってます。………だから…、戻りましょ。戻って作戦練りましょ。」


「……所長って凄いですね。」


「え?」



巫莵は動く気配無く、その代わりポツリと呟いた。



「私の言葉は誰も信じてくれなかった。支店長に限ってあり得ない、先輩も優しいって。なのに所長は初対面の私の話を信じ、最初から最後まで疑わずに聞いてくれた。こんな迷惑だって皆が信じてくれるのは、所長の人徳ですね。」



あの時は薔次の不思議そうな顔に救われ、今も薔次によって救われている。


だから屋上に留まっていられる。

「何で衢肖さんの言葉を疑うんだよ!」


「っ…!」



らしく無かった。


弁護士になる為にがむしゃらに頑張って、今も一人前になる為によそ見なんかしたく無かった。


そんな暇だって無い。



だけど。



「俺自身の意思で信じるだけだ。」



抱き締めたいという衝動が抑えきれなかったのは、過去を知ったという理由だけでは無いはずだ。



「たか、むらさん…」



当然のことのように言う卿焼の言葉が嬉しかった。



「………ぁ、ごめんっ…!何やってんだ、俺……」



耳元で巫莵の声が聞こえたことで、自身の行動に気が付いた卿焼は慌てて体を離し背を向けた。



「もうしない、もうしないから……ってか、そういう問題じゃない…!」



戸惑いが駆け巡る頭を掻いた後、片手だけでも手摺を握り落ち着こうと試みる。



気遣いだけが見え隠れする背に、巫莵は。



「…!」


「少し、少しだけ…、このままで、いい…ですか?すぐ、離します、から……」


「ぁ、ああ……」



重ねられた手から伝わる小刻みな振動と弱い力は、気のせいなんかじゃないから。


微かに聞こえる泣き声が止むまでそうしていた。