「ベノム・ディーゴ……?あれの名前か!?」
レイヴは息を呑んだ。巨竜のシルエットを彼は知っている。ナナキを救うべく奔走したあの日に見た影。
遠目で見ただけだと言うのに圧倒される威圧感を覚えている。間近にソイツと対峙している事実に足が竦んだ。
「貴様ら人間はいくら追い払おうとも腐肉に集る蛆虫のように湧いてくる……。これ程までに厚顔無恥な生命は他にはいまい。徹底的に駆除する他なかろう」
巨竜は随分と流暢に人の言葉を口にした。
違和感はない。こんなにも貫禄ある面構えをしているだから言葉の一つくらい話すだろう。そしてこれはチャンスだ。
レイヴは足を動かし、一歩踏みでる事が出来た。
「なんでアンタが人間を嫌ってるのかは知らないけど、俺たちは悪さしに来た訳じゃない。ただ知りたいだけなんだ、なんだってこんな所に森があるのかって事をさ」
刺激してはならない。
焦らず。ゆっくり。丁寧に、言葉を紡ぐ。自分たちに敵意が無い事を巨竜に知らせる。
「囀るな」
説得の効果は砂粒ほどもなく。
巨竜の地を揺るがすような低い声と同時に巨大な爪が振り下ろされた。
「うっ!!」
爪の接触より早くレイヴの身体は巨大な手が掴まれ後方に引っ張られる。振り下ろされた爪はレイヴの立っていた密のある地面を豆腐みたいに大きく抉った。直撃など許されない。
「大丈夫ですかレイヴさん!」
「おお助かった!ありがとう」
いち早くメントが口腕《エンゲル》のクオリアでレイヴを後退させたのは流石この森に詳しいと言ったところか。
「螺旋階段の方に逃げるわよ!!」
踵を返し、ウィッカは素早く魔寄いの森と地上を繋ぐ円筒状の密室へのドアノブに手を掛けた。
「駄目です!非常階段ごとへし折られます!!鉛筆の芯みたいに!!」
「うっそ!?この壁100cmは厚さありそうなのに!?」
「やっぱ戦うしかないってわけだ!」
体勢を立て直し、覚悟を決めたレイヴが勇み足で楔剣を構える。
「そういう事だね。ただし倒すためじゃなく隠れるためだ。それなら文句はないね?メント」
クオリアで速度を溜めるべく軽いステップを踏みながらナナキはレイヴに肩を並べた。メントはこくりと頷き、口腕を出す。そんな中、異議を唱える者が現れる。
「正気!?あの螺旋階段をぶち折れるような化け物よアイツは!無茶だって!変に刺激して状況が悪くなったらどうするのよ!」
ベノム・ディーゴはクオリアを見せていない。あれだけの威圧感を放つ化け物のクオリアの威力はどれほどの物か計り知れないし、下手に怒らせればクオリアの出力は跳ね上がる。ウィッカの恐れているのはそれだ。
しかし。
「無茶でもこれが最善だ」
ウィッカは知らないのだ。魔寄いの森の生物は人間を見ると全力で向かってくることを。どうやってもベノム・ディーゴは全力でレイヴらを潰しに来る。
「危ないからウィッカは下がっててくれ。隙を見てその間に逃げろ」
強がりでもなんでもないレイヴの言葉。一人戦いに参加しないウィッカを責め立てる所か真っ先に逃げろと言う、優しさを通り越した傲慢。
向けた背中は自信に満ち溢れている。自分はここで死なないと心の底から確信したように真っ直ぐな背筋だった。だからウィッカは彼の背中を鋭く睨んだ。
「行くぞ」
号令をあげると共にレイヴとウィッカが前に出る。
ナナキは一歩引いてサポートに徹する。
「四匹の駆除など造作もない」
レイヴを迎え撃つは大地を抉る紫竜の爪。
それを身を翻し容易く避ける。
空気の奔流は肌を涼しく撫で、感性を研ぎ澄ましてくれるようだ。
「割と付け入る隙はあるみたいだな」
少しキレがあるくらいで動きの癖は前に味わった他の獣共と変わりは無かった。動作は大振りで先を読みやすい。しっかり動きを見れば避けられる攻撃だ。当たれば怖いが思っていたほどのタマでもないのかもしれない。
「硬そうな体してるが、楔剣なら少しは効くだろ!!」
巨竜の猛攻をいなしつつ懐に入り込み、鱗の薄い蛍光色の毒々しい緑の腹へ楔剣を突き立てる。
が、楔剣は僅かに巨竜の腹へ沈み込むが次にはトランポリンのように身体ごと勢いよく弾き返されてしまった。
「ううっ!?」
「ちょこまかと鬱陶しい奴だ。棒の切れ端で何が出来るというのか」
まるで応えていないベノム・ディーゴが口を開いた。奥に仄かな緑の光が見える。色だけ切り取れば若葉のような柔らかい緑だがそんな優しいものではない事は明白だった。
引き金を引くより軽く若葉色が放たれる。
スイカ大の大きさをした火球が胴のガラ空きになったレイヴに迫る。
万事休すか?否。メントが割って入って口腕で火球を受け止めた。口腕から灰色の煙があがる。
「貴様一体何を―――」
「何わざわざ受け止めてるんだメント!?」
メントの予想外の行動と予定外の事にベノム・ディーゴの動きが固まる。見慣れていたはずの毒を帯びた紫煙が上がらなかったことに困惑したのだ。昔よく見慣ていた無害な煙に仰天したのだ。
メントの口腕により火球に含まれた望力産の毒を喰らったためなのだが巨竜はそれを知らない。
レイヴもメントも動ける状況ではなかったが
後方から支援役に回っていた男はその限りではなかった。
「少し身体を張りすぎだけどナイス引き付けだメント!
そしてベノム・ディーゴ!いいものをあげよう、この森への入場料と思って受け取ってくれ!」
不敵な笑みを浮かべるナナキが巨竜の首元に赤い足の印が描かれた札を仕掛け、すぐ様離脱した。
「貴様……」
「私たちは囮、本命はナナキさんの方です!」
「メントのやつ、無茶しやがる!」
メントが得意気にしてやったりと言う顔で指を刺す。
「僕の『踏み付け』を百万回分溜めておいた望術符だよ。圧縮された衝撃、余すことなく味わいな……!」
パチン、と指を鳴らす音。それを皮切りに重低音がベノム・ディーゴの首へ直に炸裂し、巨体が弧を描きながら張りぼてみたいに木々を薙ぎ倒しながら吹き飛ぶ。
「ぬううううおおおおおあぁぁ!!?」
自らの動作を保存する。ナナキの『極限』のクオリアの一端だ。本来保存しておける動作は一つのみだが、札など保存媒体を用意すればより多くの動作をまとめて保存できるのだ。
正面に居たレイヴらは寸でのところで伏せて巻き添えを避けた。ほんの僅かでも遅れていれば暴走するダンプカーに轢かれるよりも悲惨な事になっていた事だろう。
「よし!これでヤツはずっと遠くにまで吹き飛ぶ!隠れるだけの時間は稼げるはずだよ」
メントとナナキが慌ただしく隠れ場所を探し始める。巨竜が復帰してくるより早く姿を隠し、上手くやり過ごすのだ。
レイヴもその後に続くのだが、なんとなくチラリと巨竜の吹き飛んでいる方を見た。
自分の目が節穴になったのかと思った。ほんの一瞬見えた光景が信じられなかった。
見間違いだと思い、見間違いだと信じたくて、もう一度祈るように目を凝らしてしっかりと現実を視た。だから視えた物を認めざるおえなかった。
「いや待て、……は、冗談だろ!?」
巨竜が四つの足で大地にしがみつき、衝撃を殺していたのだ。ナナキが何十日も掛けて溜めた衝撃を容易く無に帰して、ベノム・ディーゴは翼を大きく広げ、こちらに戻ってきている。当然のように吹き飛んだダメージは無いようだ。
「ベノム・ディーゴが戻ってくるぞ!!」
「なっ!?」
「なんだって!?予定よりずっと早いぞ!」
巨竜が突っ込んでくる。
巨体と速度を鑑みて激突は不回避。少年たちに選択肢は与えられていなかった。
「これしきの事で私から逃げられると思ったか人間!!」
「受け止めるしかねえ!!」
「そんな!?電車に轢かれるよりも悲惨な事になりますよ!?例え受け止められたとしても―――」
「それしかないよ、僕達に選ぶ道は残されていないんだ。今は受け止めることだけを考えるしかない」
「っ!!」
覚悟を決め全員が構える。受け止めきるなど賭け同然だが半端に避けようとすれば下半身を引きちぎられるだろう。無謀でもこれが最善なのだ。生身で電車を受け止めるより無茶な状況。誰の目に見ても彼らが助かる見込みなどなかった。
「あれを生身で受け止めようだなんてホンット、アンタたち無茶が過ぎるわ」
巨竜と少年たちの隙間に割って入る影があった。青く長い髪を後頭部に纏めた姿は。
「ウィッカ!!」
「最大展開・重《フリュンマウワーズ・スクエア》!!」
とっくに避難した筈の強気な赤目の少女が両手を力いっぱい前方に伸ばして叫ぶ。
2平方mの結界みたいな壁が20枚顕れ隙間なく束ねられ展開される。重ねられた壁はもはや立方体であった。
巨竜が立方体と衝突し、衝撃波が木々を凪ぎ、岩や地面を削る。レイヴらも衝撃で吹き飛ばされる。
立方体は巨竜を押し止められず、歪な線が伝播する。
「全然食い止められないのは悔しいけど、よし!みんな射程範囲から外れた!」
立方体は呆気なく砕け散った。破片が舞散り、キラキラとダイヤモンドのように霧散する。
勢いよく突っ込んでくる巨竜を寸での所でウィッカが横に避ける。たった一秒しか押し止められなかったが、レイヴらの定められた命運を分けるには十分すぎる時間となってくれた。巨竜は後方10m程まで行ったところで止まった。
「ウィッカ、お前なんでまだここに」
へし折られた紫のグラデーションの木と共にすっかり荒らされた地面にうつ伏せのレイヴが問う。
「ふん、アンタらへっぽこやメントが戦ってるのを背にして逃げるなんてエリートの名折れよ」
全く、人をその気にさせるのは上手いんだから。とウィッカは心の中で付け加えた。
凡人の分際でエリートの自分に「逃げろ」と自信満々で言ったのが酷く癪に触った。レイヴの言葉通りに逃げるなどプライドが許さなかった。守られるのはお前たちの方だと分からせるために彼女はここに立ったのだ。
「気をつけてください、ヤツがまた来る!」
メントが叫ぶ。
今のはベノム・ディーゴのなんでもない攻撃をどうにか防いだに過ぎない。危機はまだこれからだと忘れてはならない。
跳び上がり、空より押しつぶさんと強襲するベノム・ディーゴをウィッカは避ける。発生した衝撃の余波は壁を傘にしてやり過ごした。
休む事を知らない巨竜の連撃が続く。ただの引っ掻き攻撃でも壁一枚では二回しか防げず破壊される。強靭な尻尾や顎による攻撃ならば壁など薄皮も同然だった。
「やっぱり仕込みは必須か」
髪留めをコツンと指で叩いた。髪留めから重なっていたトランプがばらけるように小さな板が現れ、ウィッカの左目の視界を覆った。ビジュアルは片眼鏡によく似ている。
「最適望術・入力開始」
呟くと片眼鏡の上を所狭しと文字が踊り始めた。
文字の配置は波と円形を思わせる。
片眼鏡、正確には片眼鏡に刻まれた望術式《プログラミング》が主の代わりに望術を組んでいるのだ。片眼鏡に学習させれば本人より早く望術が組める。自身の生み出す『壁』を媒介にしたウィッカだけの望術式である。
そして画面の裏で巨竜の顎が迫っていた。されどウィッカは焦らない。
「投影開始、対象・壁中央」
自分の盾になる形で出現させた無地の壁の表面を滑るような鮮やかさで横一文字で撫でた。すると片眼鏡に描かれた記号が壁の表面に移されてゆく。
模様が記され、ほんの少しだけ豪華になった壁を自身の前面に掲げる。
が、壁は巨竜の顎に容易く砕かれてしまった。
ベノム・ディーゴの鋭い眼光が次はお前だ、とウィッカを睨み付ける。その眼光に少し気圧されるがそれでも巨竜を嘲笑うような笑みをウィッカはあえて浮かべた。
「望術起動、擬似水《ドリーム・リキッド》!」
巨竜は全身、特に口元に水を掛けられたような感覚を覚えた。
砕かれた壁の破片が一片残らず水に変わったのだ。けれど水は地面に落ちるより早く、極寒の中にぶちまけられた熱湯のように消えてしまった。
それもそのはず。壊れ、消えゆく壁を疑似的な液体へと変換する望術で作っただけでそれ自体は本物の液体ではないのだ。
事実、巨竜にも何の影響も及ぼしていない。バケツに注がれた普通の水を掛けるより無意味な行為だった。
しかし、意味はあった。瞬きほどの時間を稼げるだけの些細なもので良かった。巨竜に僅かでも怯んでもらいたかったのだ。
「コレを溜めるのにほんの数秒欲しかったのさ!
喰らいなさい、正面衝突《クラスパー》!」
「ぐぎっ!!」
張り手のように2mサイズの壁がベノム・ディーゴに正面から身が砕けるくらい力一杯衝突する。
巨竜の身体が3m、地面に引きづられた足跡を作りながら後退する。
「本命はこっち!鏡面合わせの周期衝突《ラッシュ・クラスパー》!!」
後退した巨竜の前に再び壁が現れ衝突する。後退し続ける巨竜に何度も壁が現れては衝突し、巨竜を遠ざけてゆく。
強力な一撃を踏ん張って止められるのなら踏ん張らせる暇を与えないよう絶えず攻撃すればいい。
いつの間にやら巨竜は豆のように小さくなっていた。
「すっげえ……」
レイヴらは当初の目的も忘れてウィッカの戦い様に見入っていた。
「ほら、私の凄さに見惚れるのは仕方ないけどそれもここまで!ちゃっちゃと遠くに離れて隠れるわよ!」
肩で息をしながらウィッカが声を上げ、レイヴらの心を現実に戻した。
レイヴは息を呑んだ。巨竜のシルエットを彼は知っている。ナナキを救うべく奔走したあの日に見た影。
遠目で見ただけだと言うのに圧倒される威圧感を覚えている。間近にソイツと対峙している事実に足が竦んだ。
「貴様ら人間はいくら追い払おうとも腐肉に集る蛆虫のように湧いてくる……。これ程までに厚顔無恥な生命は他にはいまい。徹底的に駆除する他なかろう」
巨竜は随分と流暢に人の言葉を口にした。
違和感はない。こんなにも貫禄ある面構えをしているだから言葉の一つくらい話すだろう。そしてこれはチャンスだ。
レイヴは足を動かし、一歩踏みでる事が出来た。
「なんでアンタが人間を嫌ってるのかは知らないけど、俺たちは悪さしに来た訳じゃない。ただ知りたいだけなんだ、なんだってこんな所に森があるのかって事をさ」
刺激してはならない。
焦らず。ゆっくり。丁寧に、言葉を紡ぐ。自分たちに敵意が無い事を巨竜に知らせる。
「囀るな」
説得の効果は砂粒ほどもなく。
巨竜の地を揺るがすような低い声と同時に巨大な爪が振り下ろされた。
「うっ!!」
爪の接触より早くレイヴの身体は巨大な手が掴まれ後方に引っ張られる。振り下ろされた爪はレイヴの立っていた密のある地面を豆腐みたいに大きく抉った。直撃など許されない。
「大丈夫ですかレイヴさん!」
「おお助かった!ありがとう」
いち早くメントが口腕《エンゲル》のクオリアでレイヴを後退させたのは流石この森に詳しいと言ったところか。
「螺旋階段の方に逃げるわよ!!」
踵を返し、ウィッカは素早く魔寄いの森と地上を繋ぐ円筒状の密室へのドアノブに手を掛けた。
「駄目です!非常階段ごとへし折られます!!鉛筆の芯みたいに!!」
「うっそ!?この壁100cmは厚さありそうなのに!?」
「やっぱ戦うしかないってわけだ!」
体勢を立て直し、覚悟を決めたレイヴが勇み足で楔剣を構える。
「そういう事だね。ただし倒すためじゃなく隠れるためだ。それなら文句はないね?メント」
クオリアで速度を溜めるべく軽いステップを踏みながらナナキはレイヴに肩を並べた。メントはこくりと頷き、口腕を出す。そんな中、異議を唱える者が現れる。
「正気!?あの螺旋階段をぶち折れるような化け物よアイツは!無茶だって!変に刺激して状況が悪くなったらどうするのよ!」
ベノム・ディーゴはクオリアを見せていない。あれだけの威圧感を放つ化け物のクオリアの威力はどれほどの物か計り知れないし、下手に怒らせればクオリアの出力は跳ね上がる。ウィッカの恐れているのはそれだ。
しかし。
「無茶でもこれが最善だ」
ウィッカは知らないのだ。魔寄いの森の生物は人間を見ると全力で向かってくることを。どうやってもベノム・ディーゴは全力でレイヴらを潰しに来る。
「危ないからウィッカは下がっててくれ。隙を見てその間に逃げろ」
強がりでもなんでもないレイヴの言葉。一人戦いに参加しないウィッカを責め立てる所か真っ先に逃げろと言う、優しさを通り越した傲慢。
向けた背中は自信に満ち溢れている。自分はここで死なないと心の底から確信したように真っ直ぐな背筋だった。だからウィッカは彼の背中を鋭く睨んだ。
「行くぞ」
号令をあげると共にレイヴとウィッカが前に出る。
ナナキは一歩引いてサポートに徹する。
「四匹の駆除など造作もない」
レイヴを迎え撃つは大地を抉る紫竜の爪。
それを身を翻し容易く避ける。
空気の奔流は肌を涼しく撫で、感性を研ぎ澄ましてくれるようだ。
「割と付け入る隙はあるみたいだな」
少しキレがあるくらいで動きの癖は前に味わった他の獣共と変わりは無かった。動作は大振りで先を読みやすい。しっかり動きを見れば避けられる攻撃だ。当たれば怖いが思っていたほどのタマでもないのかもしれない。
「硬そうな体してるが、楔剣なら少しは効くだろ!!」
巨竜の猛攻をいなしつつ懐に入り込み、鱗の薄い蛍光色の毒々しい緑の腹へ楔剣を突き立てる。
が、楔剣は僅かに巨竜の腹へ沈み込むが次にはトランポリンのように身体ごと勢いよく弾き返されてしまった。
「ううっ!?」
「ちょこまかと鬱陶しい奴だ。棒の切れ端で何が出来るというのか」
まるで応えていないベノム・ディーゴが口を開いた。奥に仄かな緑の光が見える。色だけ切り取れば若葉のような柔らかい緑だがそんな優しいものではない事は明白だった。
引き金を引くより軽く若葉色が放たれる。
スイカ大の大きさをした火球が胴のガラ空きになったレイヴに迫る。
万事休すか?否。メントが割って入って口腕で火球を受け止めた。口腕から灰色の煙があがる。
「貴様一体何を―――」
「何わざわざ受け止めてるんだメント!?」
メントの予想外の行動と予定外の事にベノム・ディーゴの動きが固まる。見慣れていたはずの毒を帯びた紫煙が上がらなかったことに困惑したのだ。昔よく見慣ていた無害な煙に仰天したのだ。
メントの口腕により火球に含まれた望力産の毒を喰らったためなのだが巨竜はそれを知らない。
レイヴもメントも動ける状況ではなかったが
後方から支援役に回っていた男はその限りではなかった。
「少し身体を張りすぎだけどナイス引き付けだメント!
そしてベノム・ディーゴ!いいものをあげよう、この森への入場料と思って受け取ってくれ!」
不敵な笑みを浮かべるナナキが巨竜の首元に赤い足の印が描かれた札を仕掛け、すぐ様離脱した。
「貴様……」
「私たちは囮、本命はナナキさんの方です!」
「メントのやつ、無茶しやがる!」
メントが得意気にしてやったりと言う顔で指を刺す。
「僕の『踏み付け』を百万回分溜めておいた望術符だよ。圧縮された衝撃、余すことなく味わいな……!」
パチン、と指を鳴らす音。それを皮切りに重低音がベノム・ディーゴの首へ直に炸裂し、巨体が弧を描きながら張りぼてみたいに木々を薙ぎ倒しながら吹き飛ぶ。
「ぬううううおおおおおあぁぁ!!?」
自らの動作を保存する。ナナキの『極限』のクオリアの一端だ。本来保存しておける動作は一つのみだが、札など保存媒体を用意すればより多くの動作をまとめて保存できるのだ。
正面に居たレイヴらは寸でのところで伏せて巻き添えを避けた。ほんの僅かでも遅れていれば暴走するダンプカーに轢かれるよりも悲惨な事になっていた事だろう。
「よし!これでヤツはずっと遠くにまで吹き飛ぶ!隠れるだけの時間は稼げるはずだよ」
メントとナナキが慌ただしく隠れ場所を探し始める。巨竜が復帰してくるより早く姿を隠し、上手くやり過ごすのだ。
レイヴもその後に続くのだが、なんとなくチラリと巨竜の吹き飛んでいる方を見た。
自分の目が節穴になったのかと思った。ほんの一瞬見えた光景が信じられなかった。
見間違いだと思い、見間違いだと信じたくて、もう一度祈るように目を凝らしてしっかりと現実を視た。だから視えた物を認めざるおえなかった。
「いや待て、……は、冗談だろ!?」
巨竜が四つの足で大地にしがみつき、衝撃を殺していたのだ。ナナキが何十日も掛けて溜めた衝撃を容易く無に帰して、ベノム・ディーゴは翼を大きく広げ、こちらに戻ってきている。当然のように吹き飛んだダメージは無いようだ。
「ベノム・ディーゴが戻ってくるぞ!!」
「なっ!?」
「なんだって!?予定よりずっと早いぞ!」
巨竜が突っ込んでくる。
巨体と速度を鑑みて激突は不回避。少年たちに選択肢は与えられていなかった。
「これしきの事で私から逃げられると思ったか人間!!」
「受け止めるしかねえ!!」
「そんな!?電車に轢かれるよりも悲惨な事になりますよ!?例え受け止められたとしても―――」
「それしかないよ、僕達に選ぶ道は残されていないんだ。今は受け止めることだけを考えるしかない」
「っ!!」
覚悟を決め全員が構える。受け止めきるなど賭け同然だが半端に避けようとすれば下半身を引きちぎられるだろう。無謀でもこれが最善なのだ。生身で電車を受け止めるより無茶な状況。誰の目に見ても彼らが助かる見込みなどなかった。
「あれを生身で受け止めようだなんてホンット、アンタたち無茶が過ぎるわ」
巨竜と少年たちの隙間に割って入る影があった。青く長い髪を後頭部に纏めた姿は。
「ウィッカ!!」
「最大展開・重《フリュンマウワーズ・スクエア》!!」
とっくに避難した筈の強気な赤目の少女が両手を力いっぱい前方に伸ばして叫ぶ。
2平方mの結界みたいな壁が20枚顕れ隙間なく束ねられ展開される。重ねられた壁はもはや立方体であった。
巨竜が立方体と衝突し、衝撃波が木々を凪ぎ、岩や地面を削る。レイヴらも衝撃で吹き飛ばされる。
立方体は巨竜を押し止められず、歪な線が伝播する。
「全然食い止められないのは悔しいけど、よし!みんな射程範囲から外れた!」
立方体は呆気なく砕け散った。破片が舞散り、キラキラとダイヤモンドのように霧散する。
勢いよく突っ込んでくる巨竜を寸での所でウィッカが横に避ける。たった一秒しか押し止められなかったが、レイヴらの定められた命運を分けるには十分すぎる時間となってくれた。巨竜は後方10m程まで行ったところで止まった。
「ウィッカ、お前なんでまだここに」
へし折られた紫のグラデーションの木と共にすっかり荒らされた地面にうつ伏せのレイヴが問う。
「ふん、アンタらへっぽこやメントが戦ってるのを背にして逃げるなんてエリートの名折れよ」
全く、人をその気にさせるのは上手いんだから。とウィッカは心の中で付け加えた。
凡人の分際でエリートの自分に「逃げろ」と自信満々で言ったのが酷く癪に触った。レイヴの言葉通りに逃げるなどプライドが許さなかった。守られるのはお前たちの方だと分からせるために彼女はここに立ったのだ。
「気をつけてください、ヤツがまた来る!」
メントが叫ぶ。
今のはベノム・ディーゴのなんでもない攻撃をどうにか防いだに過ぎない。危機はまだこれからだと忘れてはならない。
跳び上がり、空より押しつぶさんと強襲するベノム・ディーゴをウィッカは避ける。発生した衝撃の余波は壁を傘にしてやり過ごした。
休む事を知らない巨竜の連撃が続く。ただの引っ掻き攻撃でも壁一枚では二回しか防げず破壊される。強靭な尻尾や顎による攻撃ならば壁など薄皮も同然だった。
「やっぱり仕込みは必須か」
髪留めをコツンと指で叩いた。髪留めから重なっていたトランプがばらけるように小さな板が現れ、ウィッカの左目の視界を覆った。ビジュアルは片眼鏡によく似ている。
「最適望術・入力開始」
呟くと片眼鏡の上を所狭しと文字が踊り始めた。
文字の配置は波と円形を思わせる。
片眼鏡、正確には片眼鏡に刻まれた望術式《プログラミング》が主の代わりに望術を組んでいるのだ。片眼鏡に学習させれば本人より早く望術が組める。自身の生み出す『壁』を媒介にしたウィッカだけの望術式である。
そして画面の裏で巨竜の顎が迫っていた。されどウィッカは焦らない。
「投影開始、対象・壁中央」
自分の盾になる形で出現させた無地の壁の表面を滑るような鮮やかさで横一文字で撫でた。すると片眼鏡に描かれた記号が壁の表面に移されてゆく。
模様が記され、ほんの少しだけ豪華になった壁を自身の前面に掲げる。
が、壁は巨竜の顎に容易く砕かれてしまった。
ベノム・ディーゴの鋭い眼光が次はお前だ、とウィッカを睨み付ける。その眼光に少し気圧されるがそれでも巨竜を嘲笑うような笑みをウィッカはあえて浮かべた。
「望術起動、擬似水《ドリーム・リキッド》!」
巨竜は全身、特に口元に水を掛けられたような感覚を覚えた。
砕かれた壁の破片が一片残らず水に変わったのだ。けれど水は地面に落ちるより早く、極寒の中にぶちまけられた熱湯のように消えてしまった。
それもそのはず。壊れ、消えゆく壁を疑似的な液体へと変換する望術で作っただけでそれ自体は本物の液体ではないのだ。
事実、巨竜にも何の影響も及ぼしていない。バケツに注がれた普通の水を掛けるより無意味な行為だった。
しかし、意味はあった。瞬きほどの時間を稼げるだけの些細なもので良かった。巨竜に僅かでも怯んでもらいたかったのだ。
「コレを溜めるのにほんの数秒欲しかったのさ!
喰らいなさい、正面衝突《クラスパー》!」
「ぐぎっ!!」
張り手のように2mサイズの壁がベノム・ディーゴに正面から身が砕けるくらい力一杯衝突する。
巨竜の身体が3m、地面に引きづられた足跡を作りながら後退する。
「本命はこっち!鏡面合わせの周期衝突《ラッシュ・クラスパー》!!」
後退した巨竜の前に再び壁が現れ衝突する。後退し続ける巨竜に何度も壁が現れては衝突し、巨竜を遠ざけてゆく。
強力な一撃を踏ん張って止められるのなら踏ん張らせる暇を与えないよう絶えず攻撃すればいい。
いつの間にやら巨竜は豆のように小さくなっていた。
「すっげえ……」
レイヴらは当初の目的も忘れてウィッカの戦い様に見入っていた。
「ほら、私の凄さに見惚れるのは仕方ないけどそれもここまで!ちゃっちゃと遠くに離れて隠れるわよ!」
肩で息をしながらウィッカが声を上げ、レイヴらの心を現実に戻した。