午前最後にして午後最初の授業は体育。先週より続く望力測定試験の時間。
レイヴの日常は学校に着いてここまでいつも通りだった。
ウィッカが試験用の岩を裂いて90点台を叩きだし、メントやナナキなどが程々の点数を出す。
これまでと違う事と言えば、メントと今まで以上に親しくなった事だろう。魔寄いの森でナナキを救うために背中を預け合い、絆が深まったのだ。
「おつかれ、ナイスプレイ!」
「うん!」
測定を終えて戻ってきたメントとハイタッチをするレイヴ。続いてナナキもメントとハイタッチした。
「流石だぜ、魔寄いの森の時もそうだったけど、メントの口腕《エンゲラー》のクオリアは頼りになる」
「望力で出来ているならなんでも食べるクオリア。食べた望力は自分のものに出来るなんて便利なものだね」
「かっこいいし、本当に言うことないクオリアだ」
口々にメントを褒めちぎる二人に、彼女は自分の背中から生えるクオリアを擦りながら首を振った。
「そうかもしれませんけど、私はあまり自分のクオリアは好きじゃないです……」
「ええっ!?なんで!?」
「だって見た目がイカつくて怖いし。確かに風紀委員として暴れん坊を止める分には役に立ってますけど、どうせ背中から生えるならフワッフワの翼が良かったなーって」
「あっはは、フカフカしてたら寝る時とか良さげだね。布団要らずだ」
「女の子向きじゃないのは言えてるかもな」
レイヴが優しくメントのクオリアに手を置いた。
彼女が望まなかったクオリア。なんでか、気持ちが曇る。
「けどこのクオリアは風紀委員としても役に立てたし、二人を助ける事ができたし、お父さんの力になれる。ちゃんと誰かの役に立ててるから、悔いる事はもう無いです」
メントは聖母のような柔らかい笑みを浮かべた。
それがどこか悲しげに見えた事にレイヴは気付いた。
「っ!二人とも気を付けて!」
ナナキがある一点を見ながら叫んだ。
レイヴたちがナナキの視線の先を見ると、底なしの穴みたいに黒い髪に気だるげな目の少年が、試験用に用意された岩に対峙していた。
この学校で最も強い男、されど他人を一切顧みない暴虐武人、正体不明のクオリア。コイツは誰にも止められない。
ソロが脚を曲げ、落ちるハヤブサのように飛び上がり、腕を構える。
落下の勢いと共に重いパンチを大岩を殴った。
岩石は粉微塵に砕け散り、破片が飛び散る。
それだけでは終わらない。地面にまで到達した衝撃は、岩だったものを中心にして蜘蛛の巣を思わせるひびを描き始めた。
ひびはあっと言う間に広がり、近くで待機していたレイヴら生徒達すらも巻き込まんとしていた。
「まーたこれかよ!危ないって!」
「今度は落ちないようにしてください!」
ソロという男は圧倒的な力を持ち、他人の事を全く考えない。誰にも止められない。
その在り方はもはや災害のようなものだった。
止められるとすれば同じく災害が意志を持って歩いているような存在、都市神ニアルパイオくらいのものだろう。
先週の授業に引き続きまたも迫る地を這う蛇。
意外にもこれが、前より大人しかった。
ひびは、生徒たちの手前で止まったのだ。
「あれ?」
身構えていたレイヴたちは以前との違いにキョトンとしていた。
先生も思っていたより小さな被害に拍子抜けした様だった。
ソロはと言うと満足いっていない、と言う様子だった。
「おい先公、とっとと点数を言いやがれ。聞いても無駄だが聞かなきゃ先に進まねえ」
「ああすまん、……百点だ」
「やっぱりな。張り合いねえ、この程度で百点とかもちっと精度上げろよな」
悪態を着きながらソロは他の生徒たちよりやや距離のある所に座った。
先生が次の番の生徒を呼ぶのをよそに、レイヴがソロに近づいた。
ソロは露骨に不愉快そうな顔をして『来るな』と意志表示をしたがレイヴは構わなかった。
「手加減してくれたんだな、ちゃんと俺たちの事まで考えているなんて思わなかった」
旧来の友人に語り掛けるようにレイヴが言う。
「んなわけねえだろ節穴野郎。あれは効率良く攻撃したかったんだよ。
衝撃を分散させることなく、一点に無駄なくダメージを叩き込む。
本来なら地面に傷一つ入れず、岩だけを粉砕する予定だったんだがあのザマだ」
レイヴに説明すると言うよりは、自分に言い聞かせるように、ソロは言った。
「それでも結果的に俺たちは助かった。だから礼は言うぜ」
「気に食わねえな、テメエの頭で練習していいか?一点集中攻撃のよ」
ソロが膝に手を置いて立ち上がろうとする。
「何でだよ!?ありがとうって言っただけじゃねえか!!」
レイヴは慌てた様子で手を横に振った。
「なあ、お前はさ―――」
レイヴが言いかけた時だった。
外と学校の敷地を隔てる壁が。
壊された。
壁に出来た大穴からゾロゾロとタバコやらド派手に染めらあげられた髪のガラの悪そうな連中が入ってくる。人数は500人は居るだろうか。
イグニット勢力ほどでは無いにせよ十分大きな勢力と言える。ここで望力計測をしているクラスメイト全員で戦うとしても勘弁願いたいところだ。
「なんだ!?」
両肩に掛けた学ランをたなびかせた角刈りの男が前に出た。
「テメエがどデカい衝撃出したおかげで見つけたぜ、ソロ」
組の代表だろうか。このソロ、何処ぞの抗争に首を突っ込んで目を付けられたのだろう、とレイヴは勝手に予想した。
「あぁ?テメエみてえな一度見たら忘れらんねえようなブ男なんぞに覚えはねえぞ」
怪訝な様子でソロが答える。
ナチュラルに罵られた角刈りの男は青筋を立てつつ言葉を返した。
「ああそうだろうな!貴様と直接会うのはこれが初めてなんだからな!!
オレはラオヒゼン!テメエが昨日ぶちのめしたウチの者の頭だ!!」
「知らねえな。俺に突っかかってくるバカはいくらでも居るんで目星は付かねえ」
ただ、と続けつつ、立膝に手を置いて立ち上がるソロ。
「経験値が経験値を引き連れて戻ってきたってのは、得した感じで良いことだな」
「……っ!弁明も釈明も、最後の言葉も言う気はないって事だな!ここで袋叩きにされて『死ぬ』のが望みなんだな!」
ピリピリとした、今にも爆発しそうな空気を察し、レイヴが口を開いた。
「何かよく分からないけど、お前一人じゃこの数は流石にキツいんじゃねえのか!?」
多勢に無勢。前のイグニット勢力との抗争で数の暴力の恐ろしさを知っているレイヴは仮にも同じクラスメイトのソロを放っておけなかった。
しかし、ラオヒゼンと名乗った男やその舎弟から飛んでくる罵詈雑言、挙句は加勢すると言ってくれているレイヴすらも無視してソロは人差し指を立てて言った。
「ただ、このままお前らを嬲った所で大した足しにもならねえんで、『ルール』を決めておく事にするぜ。俺だけの『ルール』って奴だ。
俺の後ろには一歩も行かせねえ。単純だがその数なら俺にとってそれなりにキツい『条件』になるだろう。
下手にこの先の有象無象《クラスメイト》を巻き込んで、俺の戦い《経験値確保》の邪魔をされたんじゃ溜まったもんじゃねえんでな。
そら俺を追い詰めてみな。俺のために」
ソロの口元は吊り上がっていた。本人はそのつもりではなかったが口上も相まってラオヒゼンの神経を逆撫でする結果となった。
ラオヒゼンの頭からプツンと、何かが切れる音がした。それを皮切りに指を天高く掲げ、号令の合図。
「テメエら!!やるぜ!!あのスカした野郎をシバキ倒す!!」
五百人の軍勢が一つの巨大な暴力そのものとなって迫り来る。
雄叫び、舞い上がる砂埃、チリチリした殺気。
レイヴの脳裏には先週戦った千人のイグニット勢力がフラッシュバックする。
恐らくこの軍勢は街三天に次ぐ勢力だ。
いくら学校最強と言ってもこの人数を相手にすればただでは済まない。
「俺も加勢するぜソロ!」
楔剣に手を掛けソロに呼び掛ける。
しかしソロからの返事は無かった。そもそもソロの目はレイヴを見ていなかった。ならばラオヒゼオ勢力か?違う。
ソロの双眸は何か、もっと遠くを見ていた。ここには無い何か。
いつもの気だるさなど一切感じさせない、強い意志を含んだ目だ。気高さとドス黒さを含んだ目だ。
その目は最後までレイヴを見なかった。代わりに裏拳が「邪魔」という言葉と共に顔面目掛けて飛んできた。
不意の一撃をノーガードで受けたレイヴは大きく吹っ飛び、5m先のクラスメイトたちがオドオドしている所に突っ込んで止まった。
「レイヴさん大丈夫ですか!?」
真っ先に呼び掛けてきたのはメントだ。
メントがレイヴの肩を掴み、心配そうな表情でレイヴを覗き込んでいた。
「心配するのはソロの方だ!たった一人であんな数を相手にするのは無茶が過ぎるぞ!」
レイヴは顔の痛みを気にせず立ち上がり、ソロの方へ向かおうとする。
「おすすめはしないわよ」
レイヴを呼び止めたのは青い髪の壁使い、ウィッカだった。
「アイツは天災よ。アイツが勝手気ままに行動すればその被害を被るのは近くに居る私たち。落ち着くまで放っておくに限るわ。痛い目見るならそれも良し、アイツに良い薬になるでしょうよ」
他人事のように言うウィッカ。メントは言葉に詰まった様子でまごまごしていた。
「天災って言うけどそれ以前にソロは同じクラスメイトだぞ!放っておけるかよ!俺は一人でも行くぞ!」
レイヴは二人を振り切り、ソロの戦いを見た。
そこには思ってもいない光景があった。
一方的な蹂躙。
ソロが一つ行動を起こすだけで何十人と言う人が宙を舞い、蹴散らされる。人間業とは思えない。
「ウソだろ?」
「驚くのも無理はない」
言葉の主はナナキだった。
「なにか知ってんのか?」
「率直に言うと、彼は街三天の一角にしてファースタ最強の人間だよ」
「なん、だって?」
「なにそれ、初耳なんだけど」
「私もです」
「先生も聞かせてもらおうか」
思わぬナナキの告白にクラスの皆や先生が振り向いた。構わずナナキは続ける。
「街三天とはそこのトップだけではなく、トップに着いてくる人間も含めて街三天と呼ばれるものだ。
けどね、ソロは一人なんだ。着いてくる人間は居ないし、着いてきたとしても彼が追い払う。そんな風に一人だけで街三天の一角を担う。たった一人で勢力を織り成しているんだよ」
以前レイヴが戦ったイグニット勢力の軍勢は恐ろしく強かった。メントと二人で辛うじて戦闘と呼べる立ち振る舞いは出来たが、切り抜けるだけでも命懸けの賭けだった。それをあの男は一人で相手取る実力があると言うのか。
「そんなに凄かったのか、アイツ」
レイヴが今なおワンサイドゲームを展開するソロの方を見た。クラスの皆も釘付けのようだ。
こちらに流れ弾一つ飛んでこない。ソロが宣言通り防いでいるのだ。クラスのためではなく自分のために。
「さて、あの戦いに巻き込まれる心配が全く必要がないと分かったところで、最後の計測を始めましょう先生。もう授業が終わってしまう」
ナナキが目の前に展開される戦いに心奪われている先生に促した。
「あ、ああ。……次はレイヴ!」
「例によって君が最後だ、新生レイヴの力を見せてくれ!」
「お、おう」
そう言ってレイヴはナナキに背中を押され、先生の生成した大岩の前に立った。
目を閉じ深呼吸をしつつ、拳に思いを込める。最近手に入れたクオリア、走る雷道《エレグロード》。
もう無能のレイヴとか呼ばせない、刮目しろ皆、これが新生レイヴだ!!
「でやああああ!!」
カッと目を見開いてレイヴは大岩まで距離を詰める。
――――――――――――――
レイヴのクラスメイトの大半は、レイヴの試験など眼中になく、ソロの戦いに注目が集まっていた。
「少しは焦らせてくれると思ったんだがな。もっと無い頭振り絞ってもらいたかったもんだぜ」
欠伸をしながらごちるソロの背後には倒された五百人が積み上げられ山が出来ていた。
相対するは一人きりとなったラオヒゼン。
「もはやここまで、とは言わん。ここからだぞ、ソロ。
このラオヒゼンは半獣だったのだ!!
獣人形態になると圧倒的な力を手に入れる!ただ理性を失い、舎弟を巻き込むので一人でなければ使えんのが欠点だがもう心配はいらん!」
「口上はいいからとっとと見せやがれ。獣人の力ってやつをよ」
「かああッ!!」
ラオヒゼンが力を込める。
全身の筋肉が隆起し、顔を初めとする全身の骨格がぐじゅりぐじゅりと歪な音を立てて変わってゆく。全身を金毛が覆い、眼光も捕獲者のソレと変わり果てた。
残ったものは飢えた捕獲者の戦闘本能のみ。
「グウウ……」
ソロは一歩も引かない。
顔色一つ変えすらしない。
ギラギラした目は獣人の強さ《価値》を冷たく静かに吟味している。
「ガアッ!!」
飛びかかるラオヒゼン、変化前より遥かに上がった速度にソロが僅かに目を見開く。
その頬に切れ込みが走り、つぅっと血が垂れた。
ラオヒゼンは既にソロの背後まで移動していた。振り向きざまに太い豪腕を振り下ろす。
すんでの所でソロが身体を逸らして避ける。
衝撃でグラウンドにクレーターが生まれ、衝撃でソロは足を地面に着けたまま後方に吹き飛んだ。
ラオヒゼンの猛襲は留まる事を知らず、体勢を立て直すソロへ渾身のラッシュを叩き込んだ。
が、ラオヒゼンのラッシュは突然、停止した。
ソロの手が、ラオヒゼンの太い両腕を抑え込んでいたのだ。
ラオヒゼンが猛獣ならばソロは正確に敵を破壊する暗殺者だ。暗殺者というには派手で、加減を知らないが。
「少しは驚いた。力も速度もさっきとは比べ物にならないくらいに上がった。
だか半端すぎる。こんな程度じゃ、勢力引き連れて頭脳プレイしていた方がずっとマシだってもんだぜ!!」
ソロが拳の甲でラオヒゼンの右肘を叩く。木の棒のようにラオヒゼンの肘が向いてはいけない方向に曲がった。
「―――――――――――――――ッッ!!!」
ラオヒゼンが咆哮のような悲鳴を上げ、右肘を抑えながら仰け反った。ソロは瞬時にその懐に踏み込み、ラオヒゼンの胸の真ん中に拳銃の形を作った手を当てた。
「程度は知れた、もう寝てな」
手の拳銃を拳に変え、手首のスナップだけで胸の真ん中に叩き込む。
大地に響く重低音。がくり、とラオヒゼンの大きな体躯が揺れ、ゆっくりと崩れ落ちた。
―――――――――――――――――――――――
ソロがラオヒゼンに拳を叩き込んだ頃、レイヴもまた僅かなクラスメイトの見守る中、望力《思い》を乗せた己の拳を試験用大岩に叩き込んでいた。
「…………………………。」
ミシミシ、と何かが軋む音。
しばらくして岩の表面に亀裂が入ったかと思うと次には大岩は無数の岩や石となって砕け散った。
クオリアが使えなくともこれくらいは出来た。問題はここから。
先生が望力の測定値を確認する。
十秒にも満たない時間の筈なのに酷く長く感じる。逸る気持ちを抑えて先生の言葉を待った。
「えーっと、二十点」
それは手放しに喜ぶなど出来ないような点数だった。大抵ががっくりと肩を落とすような結果だった。
それでも、だ。
「しゃあっ!!」
レイヴはガッツポーズを決めていた。
レイヴの測定模様を見ていた数少ないクラスメイトも歓声を上げた。
「二十点!!遂に二十点取ったぞ!!ははっ!!ゼロが二十に増えた!!いえーい!!」
飛び跳ねはしゃぎながらみんなのもとへ戻るレイヴにクラスメイトたちがハイタッチしながら祝いの言葉を並べた。
「すげえぞレイヴ!」
「遂にやったじゃん!!」
はしゃぐレイヴに青髪のウィッカがコホンと咳払いをして口を開いた。
「水を差すようで悪いけど、本当にクオリア発現してるの?クオリアを使ったかすらも分かんなかったけど」
指摘されたレイヴの顔が曇る。
「よく分かんねえけどまだ発現したてだからじゃねえの?使っていくうちにもっとくっきり使えるようになるさ、多分」
「そうは言うけど、今日の登校で神様に殺されかけた時ははっきりと雷光が見えたよ?」
「あの時は必死だったからじゃね?魔寄いの森でもすげえ光ってたし」
しれっととんでもない事を言ったナナキの言葉クラスメイトたちがギョッとしていた。
「か、神様ってニアルパイオ様……ですよね?一体何をしたんですか?」
皆の疑問を代弁するようにメントが言う。
「まあ、色々あってな。後で話すわ
とりあえず二十点取れたから良し、だな!」
聞きなれたチャイムの音が、授業の終わりを告げる。
それに合わせて先生が終わりの号令を掛けた。
その最中、レイヴはハッ、ある事を思い出した。
「そうだ!ソロ、ソロはまだ居るか!?」
彼はソロに聞きたいことがあったのだ。
キョロキョロと周囲を見渡す。
クラスメイトが教室に戻り、先生たちがすっかり伸びているラオヒゼン勢力の後始末にアタフタしている混迷の中、一人マイペースに窓から教室へ跳び戻ろうとするソロの姿があった。
「おーいソロ!!」
「あぁ?」
口を開く事すら億劫な様子で、首だけを曲げて真黒の髪の少年はレイヴを見た。
「お前って、何か強い目的があって強さを追い求めてんだろ?何を目指しているんだ?」
ソロの目に見た意思の強さは、自分に通ずるものがあった。レイヴで言う所の開拓者になるという野望。
何がなんでも叶えたい夢がある、そんな頑なな意思をソロに見たのだ。
少なくとも学校でダントツで最強になってなお、強さを求めるのは何故なのか。それが知りたい。
「何って、『自分の人生』だよ」
日が東から昇って西に沈むという常識を語るように、ソロは言った。
「『自分の人生』?なんだそれ」
「さあ、意味もなく高説垂れるって性じゃねえんだ。テメエで勝手に考えな」
「コミュ障か!?自分の人生がどーのこーの言われても分かんねえぞ?」
「……チッ」
ソロは胸糞悪い物でも見たような面になった。気になりはするが、ソロにとってよほど語りたくはないのだろうか。
「……経緯や理由はどうあれ、俺は強くならなくちゃならねえのは確かだ」
そう言って、ソロはようやく振り向いた。
「それと見つけ出す必要がある。アルカディアスとかいうクソふざけた組織をな。
お前、俺に関心があるなら俺を苦戦させるかアルカディアスに関する情報を持ってこい。そしたら少しくらい構ってやるよ」
「待てって。肝心の『理由』が分かんねえぞ。アルカディアスとかいうのと何の関係があるってんだ」
ソロの姿が揺らいだ。そう思った次には胸ぐらを掴まれていた。
「これ以上、踏み込んでくるな」
ソロの鋭い視線がレイヴを貫いた。それでも、やはりレイヴは気になってしょうがなかった。あんな強い意志を含んだ視線など見たことがない。その視線がどこに向かっているのか知りたい。自分の好奇心が抑えられない。
「一言でいい、教えてくれないか?何でか無性に気になって仕方がないんだ」
重厚なプレッシャーを放つソロの視線を真っ向から受け止めて、レイヴは改めて頼んだ。
「分からねえ野郎だな」
レイヴの腹部に強い衝撃が走る。
ソロの空いた拳がレイヴに向けられたのだ。
「ぐっ、あ」
くの字に身体を曲げてレイヴはその場に蹲った。
ソロは唾を吐き捨てて教室に跳び戻った。
「まだ腹痛え、ソロのヤツ思いきりやってくれやがって……」
「傍から見てて笑ったよ。レイヴには悪いけど」
「だからソロには関わらない方が良いって言ったんですよ」
「だって聞きたいことがあったんだもん」
ソロを中心にした騒動から午後の授業は何も起こらず終わった。
放課後に突入したレイヴ、ナナキ、メントはファースタの街を歩いていた。
「ところで何で私の方に来てるんですか二人とも。帰り道は逆でしたよね。まさか魔寄いの森に行くんじゃ」
「いや魔寄いの森に行くんだぞ」
「僕も同じく」
レイヴもナナキも即答だった。
「いやいや駄目ですよそんな!二人とも一歩間違えたら死ぬところだったんですよ!?」
「大丈夫だって、俺たちが死にかけたのは大体イグニット勢力のせいだし。前は全然探索出来なかったから今度こそ謎を探すんだ。魔寄いの森が存在する理由をさ」
レイヴとナナキは数日前にメントの住む魔寄いの森をひょんな事から見つけ、好奇心の向くままに探索しようとした。
しかしそれは叶わなかった。魔寄いの森を根城にしていた街三天の一つ、イグニット勢力に因縁を付けられたからだ。
彼らとの戦いの中で死にかけたナナキを救うべくイグニット勢力に追われつつもレイヴはメントの補助を受けながら魔寄いの森を奔走した。
結果的にナナキは救えたがレイヴもまた瀕死の重症を負ったために探索をしている余裕が無かったのだ。
「そら、もう魔寄いの森の入口まですぐそこだ」
三人は路地裏に入っていった。
人気の無さはここではない異界への入口を思わせた。ここから先に行けば二度と元の場所には帰れないような感覚。しかしそれはただの錯覚に過ぎない。
好奇心に浮かされた二人を止める術を、何だかんだで控えめなメントは持たなかった。
「やっぱり行くべきじゃないですよ!獣はもう敵じゃないと思っているようですがそういう慢心が危ないんです!それにイグニット勢力も度々ここに現れる!それだけじゃない、お父さんが……。あ……」
説得するメントの言葉が、止まった。
うんうんと頷くだけの二人の注意がメントに向かった。
「お前の父さんがどうしたって?」
「いえ……何でも、ないです。
とにかく魔寄いの森には行くべきじゃない!貴方たちの為にも!回れ右するべきです!」
誤魔化すように首を振って、メントはひたすら反対した。しかし無情にも一行は歩を進めていき、魔寄いの森の入口のある空き地が見えてきてしまった。
「……本当に止めてください。もう魔寄いの森には行ってはいけないんです」
その場に居る誰もが空気が強張り侵食していく感覚を味わった。―――と言っても二人だけだが。
メントは俯いて、自分の身体を抱くようにしていた。
俯いた背中からは口腕《エンゲル》のクオリアが出ている。
「やはり、学校の風紀を守る者として、二人の友達として、ここを通すわけには行きません」
「力ずくでも行かせたくないのか」
レイヴの問いにメントは静かに頷く。
「僕達が危険な目に遭うから?」
「そうです。死にかけた時よりもずっと危険な事が起こります、確実に」
「だって?どうするレイヴ。このまま引き下がる?」
ナナキがわざとらしく首を傾げてレイヴに視線を向ける。
「危険か。上等だ。開拓者ってのは危険の連続、ここで経験を積むのも悪くねえ。魔寄いの森の謎を解く」
「そのために死んだとしても、ですか?」
「構わねえ。悔いを残して生きるくらいなら危ない橋を渡って死んでやる」
自信に満ち溢れた目が眩しくてメントはつい視線を逸らしそうになる。
死ぬ気なんて毛頭ないけどな。とレイヴは付け加えた。
「レイヴが暴走しそうな時は僕が止めるし、危ないことにならないように支援する。だから安心して」
ナナキが自分の胸に手を置いて続ける。
「………………………そこまで、言うのなら。」
何かを期待するように、メントは言葉を絞り出した。
「うしっ!!サンキューメント!」
「ただし無茶だけはしないでくださいよ。少しでも危なくなったら即!脱出してもらいますからね!」
二人に釘を刺すメント。そんな彼女をナナキが押し倒した。
倒れる二人を掠めるのは鋭い牙。
「……ッ!?」
レイヴは見た。
ソイツは脚がなく、身体は紫で地面を這っている。口先からチロチロと舌を覗かせている。目を見張るのは全身を走る毒々しい緑のライン。
「蛇!?しかもコイツのこの異様な殺気は魔寄いの森出身なんじゃねえか!?」
レイヴが咄嗟に楔剣を抜く。
「まずいね、こんな狭い場所じゃ上手く立ち回れない」
ナナキは立ち上がり、クオリアの用意をする。
「とにかく絶対に噛まれてはいけません!並の毒じゃありませんから!!」
メントが口腕を構える。
「ああ、よく味わったから分かるぜ!来るぞ!!」
蛇が流れる川みたいに鮮やかな動きでコンクリートを這う。最初に狙いを付けたのはメントの方だった。
メントは口腕で蛇の身体を掴もうとするがヌルリとすり抜け、自分の身体をバネにしてメントの左腕に飛び掛かる。
メントは咄嗟に半身をずらして蛇の牙を避けた。
蛇の牙から液が空き地に茂る雑草に垂れると灰のような粉になって風となり消えてしまった。少しでも触れればどうなるか想像もしたくない。
「ナナキさん!そっちに行きました!」
蛇は近くに居たナナキへ流れるように距離を詰め首筋を狙う。
しかし、蛇の首をナナキは容易く掴んだ。
「問題ない。既に『意識相対加速』は僕に掛かっている」
意識相対加速、その名を冠する望術の効果は単純に言えば反応速度を上げる。全てのものが遅く見えるようになり精密な動きが出来るようになるものだ。
「動きは止めた、僕のクオリアでとどめをさす」
あくまでも冷静に。
空いた右腕を大きく振り回す。
『自らの動作を溜める』それが彼の能力の一端。この場合、腕を振り回した分だけ運動量が溜まり任意で解放できる。
「終わりだ」
運動量を解放したナナキの手刀が苦しそうにキュウキュウ鳴く蛇の頭を捉える。
が。
それより一瞬早く蛇の尾がナナキの顔を叩いた。
「自分の身体をしならせて鞭のように……!?」
怯んで首を離したナナキに今度こそ牙を突き立てるべく蛇が口を開いた。
「ナナキ!!」
レイヴがナナキを突き飛ばす。レイヴの腕を蛇の牙が掠める。
「うっ?くそっ!!」
左腕から血を垂れ流すレイヴは、慌てて地面を這う蛇を踏みつけようとするが、蛇は身体をしならせひらひらと空中の紙のようにレイヴの足を避ける。シャアッと鳴き、がら空きになったレイヴの首筋目掛けて飛び掛かった。
あっ、と声を漏らした次には頸動脈から毒が流し込まれる。
筈だったのだが。
レイヴの足先ギリギリに壁が降ってきた。
それは丁度蛇の首を巻き込み、切断してしまった。
首から下を失ったというのにシャアッ、と威嚇している蛇の頭を、上から降りてきた少女が遠くに蹴り飛ばした。
ラピスラズリみたいに蒼い髪。レイヴたちのクラスの優等生の一人。壁ガール、ウィッカだ。
「あれが魔寄いの森の獣ってやつ?大したことないわね」
ウィッカは肩を竦めて言った。
「お前、何でここに居るんだ……?」
「私も行くからよ?魔寄いの森」
「そんな、ウィッカさんも来るんですか!?危ないですよ!?」
メントが悲鳴をあげるみたいに言う
「大丈夫、レイヴとナナキのヘッポココンビが生きて帰ってこれるくらいに安全って事でしょ?なら安心して街の地下に茂る森を見れる。
私も気になってたんだ、魔寄いの森。
それよりレイヴ、アンタ蛇の毒食らったでしょ。解毒してあげるから見せなさい」
「おおっ?」
そう言うやいなやウィッカは蛇に噛まれたレイヴの腕をずいっと、自分の方へ引き寄せた。
「この毒、望力を帯びてる。クオリアか何かかな?命拾いしたわねアンタ。あの毒を作り出したのが蛇の体質だったら抗望力が働かずに腕が丸ごと死んでた所よ」
蛇が残したコンクリートの噛み跡は水に付けた綿あめみたいに溶けている。強い酸性の毒だったようだ。それに対してレイヴの傷は少し紫がかっているだけだった。痛みもあまり無い。『抗望力』というあらゆる生命が持つ望力に対する抵抗力のおかげだった。
「そうなのか?前にもっと沢山の毒を浴びたけどなんとか生きてられたぞ、俺」
「いいから、毒抜きするからじっとして」
レイヴの傷跡の周囲に何か文字の刻まれた半透明の壁が現れ、規則正しく並ぶと、レーザーのようなものを傷に照射した。
望術。
望力を様々な要素を用いて調理することで、物理法則ともクオリアとも異なる事象を引き起こす術。
「ん、これで終わり。蛇も死んでたし、望力による毒を殺すのは簡単だったわ」
「サンキュ。てかあれで終わり?もっと大仰な儀式でもするのかと思った」
あんまりあっさりしていてレイヴは拍子抜けした。本当に終わったのかと、実感が追いつかない。
「いやいや、凄いことだよ。少ない記述で大きな効果を上げられるものが望術として優れているんだから。流石ウィッカだね」
ナナキが関心したようで言う。
望術とは身振り、記号、音、時間、形、配置……など様々な要素を正しく組み立て、『儀式』を行い『意味』を表現する事で発動するものだ。
優れた望術とは、無駄を省き、最低限の表現で発動できるもの。手間も時間も望力も掛からないからだ。
「へえー!流石優等生だな!すっごい!」
「凡人でも分かる私の凄さ!ふふふー、もっと褒めていいのよ?」
得意気に胸へ手をやり、誇らしげに笑うウィッカ。レイヴとナナキはそんな彼女を平伏しつつ女王様女神様〜とか言って崇め奉っている。
それを端で見るメントは怪訝な顔をしていた。
(魔寄いの森の獣がこんな所に居るなんて、常識的に考えておかしい。お父さん、どういう事ですか。一体どんな『常識』なのですか)
―――人を傷つけてはならない『常識』は?
「おーい、行くぞメント、お前の家、すなわち魔寄いの森に」
呼ぶレイヴの声でメントは現実に引き戻された。
「えっ、はい!本ッ当にくれぐれも無茶しないでくださいよ!」
レイヴたちは既に魔寄いの森へ続く地下への階段に足を掛けていた。―――三人とも地面に肩から下を埋められているシュールな絵面だったが、これは魔寄いの森の入口を見つけられないようにするためのカモフラージュ望術によるものだ。―――
メントは彼らの元へ小走りで駆けてゆく。
「ううっ、何ここ。薄暗いし埃っぽいしジメジメしてるし最悪!!しかも底がさっぱり見えないし!これどこまで続くのよ!ほんっと、無駄に広いッ!
いやっ、なんか踏んだ!」
喚き散らすウィッカの文句が円筒の中を反響する。
コンクリートで出来た空間。その内側から絡みつくように付けられた螺旋階段をレイヴたちは下っている。
照明は螺旋階段に沿って壁に規則正しく取り付けられた物だけしかないため、薄暗い。そのため円筒空間は吹き抜けにも関わらず底が見えない。
「お前、人《メント》の家の玄関にめっちゃケチ付けるな」
「別に魔寄いの森で暮らしているわけじゃないんですが」
メントが困惑した様子でレイヴのツッコミの上から更にツッコミを入れる。
「ちょっとメント、もう少しここ快適にするようお父さんに頼んでよ。こんな空間が作れるならエレベーター付けるくらい簡単でしょ」
「それが難しいんです。
本来、魔寄いの森に行くには地上のビルから地下へ行き、『通路置換《リバーグラウン》』という専用の望術を使って魔寄いの森へ行き来するようになっているんです。
この階段はいわば複数ある裏口の一つで、何かトラブルがあった時にしか使わない。
ろくにお金も掛けずに作られたから環境の悪さもこのせいで、しかもちゃんと整備されずにこの始末……ごめんなさい」
そう言ってメントは頭を深々と下げた。
「ちょ、そんな頭を下げないでよ。メントは悪くないし、私が悪いみたいだし!うう、分かった!魔寄いの森に行くまで我慢する!」
それっきりウィッカが文句垂れる事は無かった。ナナキが楽しそうに笑う。それをウィッカの紅目がジロリ、と睨んだ。
「何がおかしいのよ」
「君って普段は不遜に過ごしてるのに意外と律儀だなって思って」
「私はどこぞの学校最強みたいに誰も彼も見下してるわけじゃないわ。能力を持つ人には相応の敬意を表します。私が不遜に見えるって事はアンタが大したことないって事」
ナナキに指を指してウィッカはきっぱりと言い放つ。
「それは手厳しい事で」
いつもの飄々とした調子でナナキは言う。
やっぱりじゃじゃ馬だ、と口から溢れそうになるのをレイヴは抑えた。
「そういや、あの森はなんで天井からビルが生えてんだ?」
「その辺りの事情なら調べてきたよ、レイヴが寝ている間にね」
レイヴの問にナナキが口を開いた。
「あれは何かトラブルがあった時にいち早く見つけられるようあんな構造になってるんだよ」
「上から見張ってるってのか。魔寄いの森の獣が暴れたとか、部外者が入ってきたとか?」
「それもあるけど、森がちゃんと汚れを吸っているかを確かめるのがメインだ。そもそも魔寄いの森っていうのはね、街の空気清浄機の役目を担っているんだ。排気ガスとか、空気の汚れをこの魔寄いの森が吸い、浄化している。
吸われたガスは木や地面に溜まっていく。木の幹が毒を含んでいるのはそういう事だろう」
「ああ、父さんの会社のサイトに載っている情報ですね」
メントが口を挟む。
「魔寄いの森については一切書いていなかったけどね。君の父さんが社長でこの森を運営している事には驚いたよ」
この事や魔寄いの森への入口が隠れている事からメントの父は森の存在を知られたくないようだ。
「へえ、この森の事を沢山の人に知られるのがそんなに嫌なのかな。観光スポットなんかにすれば人気出そうなのに。『天井に生えるビルから魔寄いの森を見よう!珍獣も居るよ!』みたいにさ。きっと人がいっぱい来るぜ」
レイヴが身振り手振りで語る。
「無理でしょ、あのビルはあくまでオフィスビルなんでしょ。仕事に支障が出るじゃない」
「ははっ、真相はメントの父さんに聞きゃ分かるだろうさ。長い玄関口はもう終わりだ」
ご機嫌にレイヴは指を指す。
その先には重々しい扉から薄く光が漏れていた。
――――――――――――
扉を抜ける。一行の眼前に広がるは野原に生え並ぶ紫の木の幹。ビル郡がさかしまに聳え立った剥き出しの光る岩天蓋は圧迫感を覚える。
レイヴとナナキがここに来るのは二度目だがやはり情報量の多い光景だ。
初めて来たウィッカに至っては異質な世界観に圧倒されている。
「話には聞いていたけど、実際見てみると、とんでもない景色ね。一体どんな発想したらこんな所に森生やしてビル建てる気になったのかしら」
「そいつを知るのが今回の目的だぜ。今度はヤバいやつに因縁つけられるような事はしてないし、じっくり調べられるはずだ」
「しかし万が一、獣やまたイグニット勢力に襲われたら大変です。しっかり警戒しましょう。ホント、無理だけはしないでくださいね」
気張った様子のメントがレイヴらに注意を促す。彼女は以前のイグニット勢力との一件が後を引いているらしい。
「そう言うことなら探知術式を使おう。ウィッカ、壁を借りるよ」
そう言ってウィッカの腰にスカートの如く巻かれた望力の壁を一枚剥ぎ取った。
唐突の事にウィッカは小さく悲鳴をあげた。
「いきなり何すんのよ!!」
反射的に放たれた平手打ちがナナキの頬を打ち、気持ちの良い音が響く。いつになく森がざわめいているのは気のせいだろうか。
「うん、手頃な所に便利な壁があったからつい手が伸びたんだ。壁の一枚や二枚また作れるだろう?」
ジンジンと痛みを訴える頬など気にも止めずにナナキはニコニコ顔で剥ぎ取った壁に望力を仕込んでいく。
「そういう問題じゃない!!乙女のスカートをいきなり剥ぎ取るとかどういう神経してるわけ!?信じられない!!」
「ウィッカ、お前の壁スカートの下はただの短パンだし、そもそもそのスカート透けてるじゃねえか。気にする事ないって」
「ナナキさん、レイヴさん。そもそも女の子の服を剥ぐとか捲るのがアウトなんですよ。風紀委員としても一人の女子としても許し難い行為です」
服を捲ってはならない議題。
女子にとっては下にちゃんと服を着ていようとも捲られたり剥ぎ取られるのは実に不快なのだが、繊細さの欠片のない男共には理解できない。
あまりにも不毛。
男と女の決して分かり合えない悲しき議論であった。
「さて探知術式、出来たよ」
無意味な論争を終わらせたのはナナキの一言だった。
壁の上を光る線が中心を軸にして円を描き、一周する度に壁の上に示された点が移動している。
「ふうん、壁の上に望力回路を通して即席レーダーを作ったのか。私、アンタに壁で望術形成の補助ができるって言ってないし見せてないよね。よく一回で思いついたものね」
落ち着きを取り戻したウィッカが関心した様子で言う。
彼女が優等生と言われる理由の一つは自身の壁のクオリアのおかげで人より望術との距離が近かったからだ。
身近だったからこそ自然と望術構成に触れる機会が多く、クオリア使いとしても望術使いとしても優秀な実力を身に付ける事が出来たのだ。
「真ん中の四つの点は私たちですね。他の点で大きな反応は1、2、3……13個ありますね。範囲はどれくらいなんですか?」
「半径300mだよ。そこそこ大きなサイズのものを対象にしてみた」
女子二人の間からナナキのレーダーを覗き込んだレイヴの表情が怪訝なものへと変わる。
「なあ、このレーダー大丈夫か?周りの点、みんな同じ方向に向かって流れてはじめてるぞ」
反応がレーダーの端から現れては反対側の端り流れて消えてゆく。どれもが一方向に向かって不自然に流れている。
「即席で作ったからミスったんじゃないの?私に言えばもっと精度の良いやつを作ったのに。人のスカート《壁》を剥いでこの程度とかホンット……」
腕を組んで指で貧乏揺すりのウィッカがジト目でナナキに抗議の視線を送る。ナナキは周囲の様子を注意深く探っていた。
獣の声が聞こえる。
「前に来た時この森はもっと静かだった。本当に術式の不具合なのかな」
鳥の羽ばたく音が聞こえる。
「潔く失敗を認めた方がいいわよ。そっちのがアンタの株が下がらないから」
「いえ、確かにいつもより森が騒がしいです。何か嫌な予感がするような……」
木々や草が盛んに擦れ合う音がする。
眉間にしわを寄せ口元に手をやり、レーダーを見るメントが言った。
それを機にウィッカの不機嫌はじわじわと警戒に変わる。
メントにとってこの森は家の庭も同然。彼女の感じる違和感を無視する事はできない。
おい、と言ってレイヴはレーダーを指差した。
「点が一個こっちに来てるぞ。これで術式の不具合か、森の異変かはっきりする」
一行は注意深く点が向かってくる方向を見る。リズミカルに草を踏む音が近付いている。草葉の擦れる音が騒がしい。
「何か、来る」
木々を縫って勢いよく現れたのは軽自動車だ。軽自動車がこちらへ突っ込んでくる。
目を丸くしたウィッカは反射的にクオリアで2m程の壁を盾として展開し、レイヴらは彼女の後ろに隠れた。
軽自動車は壁にぶつかる直前、地面を蹴って『跳んだ』。しかし慌てていたせいなのか壁に後脚を引っ掛け、勢いよく回転しながら弧を描き、木に叩きつけられた。
倒れた『ソレ』は木に叩きつけられた事実など無かったかのように立ち上がる。
ヌーだ。
歪曲した角。逞しい四肢、長い顔。頭からうなじにかけて生える鬣。そして魔寄いの森の生物特有の紫の身体に毒々しい蛍光色の緑の筋。
戦闘の予感があった。
魔寄いの森の獣の共通点は紫の身体に緑のラインだけではない。人間に対する並々ならぬ殺気だ。食事中だろうと寝起きだろうと縄張り争いの最中だろうと彼らは何故か問答無用で襲いかかってくる。
「ナナキのレーダーはおかしくなかった!」
レイヴは勢いよく楔剣を抜き、腰を深くして構える。
「ナナキごめんね!」
やけくそ気味に言いながらウィッカが続く。
「いいよ!」
ナナキが臨戦態勢に入る。
「いえ、待ってください。ヌーの様子が……」
ヌーはこちらをチラリと見た後、慌てた様子で走り去って行った。
その目にあるのは殺気には程遠い『怯え』だ。何かから逃げようとしている逃亡者の恐れだ。
「えっ、何今の。アイツすごい臆病じゃん。聞いてた話と違うんだけど。」
ウィッカは顔にかかる髪を払い、訝しんだ。
「魔寄いの森の生き物が、僕達《人間》から逃げた?」
「違う。それは違いますよナナキさん……!ヌーは私たちを見て逃げたんじゃない!もっと別の……」
風が強く吹いている。あまりにも不自然な風が。
「来るぞ、とんでもねえヤツが―――!!」
強風に目を細めながら、ヌーの見ていた方向を見る。視線の先は上空。巨大な影がレイヴらの若干後方に勢いよく着地した。
あまりの暴風に目は開けられず、各自吹き飛ばされないように踏ん張るので精一杯だ。
『ソイツ』は、口にヌーを咥えていた。既にヌーの息は途絶えていて、ソイツの口から腹にかけて血に濡れている。ソイツは口の中のヌーをいとも容易く噛み砕き、飲み込んでしまった。
「折角の食事が台無しだ。追い払ったはずの人間がまだ残っているなど」
魂にまで響く声で、ソイツは言葉を使う。
毒々しいまでに暗い紫の鱗。蛍光色の双角。タンクローリーのように大きな体躯。鋭い眼光を放つ血走った眼。空気を掌握する重々しき威圧感。他の獣と一線を画す並々ならぬ殺気。
それは魔寄いの森における生態系の突き抜けた頂点。
かつてイグニット勢力を壊滅直前まで追い詰めた怪物。街三天のトップに比肩する災厄。
「何よコイツ!こんなヤバそうなヤツが居るとか聞いてない!!しかもなんでか因縁付けられてるし!!」
取り乱し、誰になく責めるウィッカ。
「僕も実物を見るのは初めてだ。レーダーの反応があまりにも大きい!!」
一瞥されただけでいつもの余裕を失うナナキ。
「俺は見たぜ、遠目から小さくだが確かに見た!魔寄いの森の主!」
震える腕でレイヴは楔剣を構えた。
「最悪です……。まさかこんな早く出くわすとは……。魔寄いの森の主、ベノム・ディーゴ!!」
メントの震える声がソイツの名を叫んだ。
「ベノム・ディーゴ……?あれの名前か!?」
レイヴは息を呑んだ。巨竜のシルエットを彼は知っている。ナナキを救うべく奔走したあの日に見た影。
遠目で見ただけだと言うのに圧倒される威圧感を覚えている。間近にソイツと対峙している事実に足が竦んだ。
「貴様ら人間はいくら追い払おうとも腐肉に集る蛆虫のように湧いてくる……。これ程までに厚顔無恥な生命は他にはいまい。徹底的に駆除する他なかろう」
巨竜は随分と流暢に人の言葉を口にした。
違和感はない。こんなにも貫禄ある面構えをしているだから言葉の一つくらい話すだろう。そしてこれはチャンスだ。
レイヴは足を動かし、一歩踏みでる事が出来た。
「なんでアンタが人間を嫌ってるのかは知らないけど、俺たちは悪さしに来た訳じゃない。ただ知りたいだけなんだ、なんだってこんな所に森があるのかって事をさ」
刺激してはならない。
焦らず。ゆっくり。丁寧に、言葉を紡ぐ。自分たちに敵意が無い事を巨竜に知らせる。
「囀るな」
説得の効果は砂粒ほどもなく。
巨竜の地を揺るがすような低い声と同時に巨大な爪が振り下ろされた。
「うっ!!」
爪の接触より早くレイヴの身体は巨大な手が掴まれ後方に引っ張られる。振り下ろされた爪はレイヴの立っていた密のある地面を豆腐みたいに大きく抉った。直撃など許されない。
「大丈夫ですかレイヴさん!」
「おお助かった!ありがとう」
いち早くメントが口腕《エンゲル》のクオリアでレイヴを後退させたのは流石この森に詳しいと言ったところか。
「螺旋階段の方に逃げるわよ!!」
踵を返し、ウィッカは素早く魔寄いの森と地上を繋ぐ円筒状の密室へのドアノブに手を掛けた。
「駄目です!非常階段ごとへし折られます!!鉛筆の芯みたいに!!」
「うっそ!?この壁100cmは厚さありそうなのに!?」
「やっぱ戦うしかないってわけだ!」
体勢を立て直し、覚悟を決めたレイヴが勇み足で楔剣を構える。
「そういう事だね。ただし倒すためじゃなく隠れるためだ。それなら文句はないね?メント」
クオリアで速度を溜めるべく軽いステップを踏みながらナナキはレイヴに肩を並べた。メントはこくりと頷き、口腕を出す。そんな中、異議を唱える者が現れる。
「正気!?あの螺旋階段をぶち折れるような化け物よアイツは!無茶だって!変に刺激して状況が悪くなったらどうするのよ!」
ベノム・ディーゴはクオリアを見せていない。あれだけの威圧感を放つ化け物のクオリアの威力はどれほどの物か計り知れないし、下手に怒らせればクオリアの出力は跳ね上がる。ウィッカの恐れているのはそれだ。
しかし。
「無茶でもこれが最善だ」
ウィッカは知らないのだ。魔寄いの森の生物は人間を見ると全力で向かってくることを。どうやってもベノム・ディーゴは全力でレイヴらを潰しに来る。
「危ないからウィッカは下がっててくれ。隙を見てその間に逃げろ」
強がりでもなんでもないレイヴの言葉。一人戦いに参加しないウィッカを責め立てる所か真っ先に逃げろと言う、優しさを通り越した傲慢。
向けた背中は自信に満ち溢れている。自分はここで死なないと心の底から確信したように真っ直ぐな背筋だった。だからウィッカは彼の背中を鋭く睨んだ。
「行くぞ」
号令をあげると共にレイヴとウィッカが前に出る。
ナナキは一歩引いてサポートに徹する。
「四匹の駆除など造作もない」
レイヴを迎え撃つは大地を抉る紫竜の爪。
それを身を翻し容易く避ける。
空気の奔流は肌を涼しく撫で、感性を研ぎ澄ましてくれるようだ。
「割と付け入る隙はあるみたいだな」
少しキレがあるくらいで動きの癖は前に味わった他の獣共と変わりは無かった。動作は大振りで先を読みやすい。しっかり動きを見れば避けられる攻撃だ。当たれば怖いが思っていたほどのタマでもないのかもしれない。
「硬そうな体してるが、楔剣なら少しは効くだろ!!」
巨竜の猛攻をいなしつつ懐に入り込み、鱗の薄い蛍光色の毒々しい緑の腹へ楔剣を突き立てる。
が、楔剣は僅かに巨竜の腹へ沈み込むが次にはトランポリンのように身体ごと勢いよく弾き返されてしまった。
「ううっ!?」
「ちょこまかと鬱陶しい奴だ。棒の切れ端で何が出来るというのか」
まるで応えていないベノム・ディーゴが口を開いた。奥に仄かな緑の光が見える。色だけ切り取れば若葉のような柔らかい緑だがそんな優しいものではない事は明白だった。
引き金を引くより軽く若葉色が放たれる。
スイカ大の大きさをした火球が胴のガラ空きになったレイヴに迫る。
万事休すか?否。メントが割って入って口腕で火球を受け止めた。口腕から灰色の煙があがる。
「貴様一体何を―――」
「何わざわざ受け止めてるんだメント!?」
メントの予想外の行動と予定外の事にベノム・ディーゴの動きが固まる。見慣れていたはずの毒を帯びた紫煙が上がらなかったことに困惑したのだ。昔よく見慣ていた無害な煙に仰天したのだ。
メントの口腕により火球に含まれた望力産の毒を喰らったためなのだが巨竜はそれを知らない。
レイヴもメントも動ける状況ではなかったが
後方から支援役に回っていた男はその限りではなかった。
「少し身体を張りすぎだけどナイス引き付けだメント!
そしてベノム・ディーゴ!いいものをあげよう、この森への入場料と思って受け取ってくれ!」
不敵な笑みを浮かべるナナキが巨竜の首元に赤い足の印が描かれた札を仕掛け、すぐ様離脱した。
「貴様……」
「私たちは囮、本命はナナキさんの方です!」
「メントのやつ、無茶しやがる!」
メントが得意気にしてやったりと言う顔で指を刺す。
「僕の『踏み付け』を百万回分溜めておいた望術符だよ。圧縮された衝撃、余すことなく味わいな……!」
パチン、と指を鳴らす音。それを皮切りに重低音がベノム・ディーゴの首へ直に炸裂し、巨体が弧を描きながら張りぼてみたいに木々を薙ぎ倒しながら吹き飛ぶ。
「ぬううううおおおおおあぁぁ!!?」
自らの動作を保存する。ナナキの『極限』のクオリアの一端だ。本来保存しておける動作は一つのみだが、札など保存媒体を用意すればより多くの動作をまとめて保存できるのだ。
正面に居たレイヴらは寸でのところで伏せて巻き添えを避けた。ほんの僅かでも遅れていれば暴走するダンプカーに轢かれるよりも悲惨な事になっていた事だろう。
「よし!これでヤツはずっと遠くにまで吹き飛ぶ!隠れるだけの時間は稼げるはずだよ」
メントとナナキが慌ただしく隠れ場所を探し始める。巨竜が復帰してくるより早く姿を隠し、上手くやり過ごすのだ。
レイヴもその後に続くのだが、なんとなくチラリと巨竜の吹き飛んでいる方を見た。
自分の目が節穴になったのかと思った。ほんの一瞬見えた光景が信じられなかった。
見間違いだと思い、見間違いだと信じたくて、もう一度祈るように目を凝らしてしっかりと現実を視た。だから視えた物を認めざるおえなかった。
「いや待て、……は、冗談だろ!?」
巨竜が四つの足で大地にしがみつき、衝撃を殺していたのだ。ナナキが何十日も掛けて溜めた衝撃を容易く無に帰して、ベノム・ディーゴは翼を大きく広げ、こちらに戻ってきている。当然のように吹き飛んだダメージは無いようだ。
「ベノム・ディーゴが戻ってくるぞ!!」
「なっ!?」
「なんだって!?予定よりずっと早いぞ!」
巨竜が突っ込んでくる。
巨体と速度を鑑みて激突は不回避。少年たちに選択肢は与えられていなかった。
「これしきの事で私から逃げられると思ったか人間!!」
「受け止めるしかねえ!!」
「そんな!?電車に轢かれるよりも悲惨な事になりますよ!?例え受け止められたとしても―――」
「それしかないよ、僕達に選ぶ道は残されていないんだ。今は受け止めることだけを考えるしかない」
「っ!!」
覚悟を決め全員が構える。受け止めきるなど賭け同然だが半端に避けようとすれば下半身を引きちぎられるだろう。無謀でもこれが最善なのだ。生身で電車を受け止めるより無茶な状況。誰の目に見ても彼らが助かる見込みなどなかった。
「あれを生身で受け止めようだなんてホンット、アンタたち無茶が過ぎるわ」
巨竜と少年たちの隙間に割って入る影があった。青く長い髪を後頭部に纏めた姿は。
「ウィッカ!!」
「最大展開・重《フリュンマウワーズ・スクエア》!!」
とっくに避難した筈の強気な赤目の少女が両手を力いっぱい前方に伸ばして叫ぶ。
2平方mの結界みたいな壁が20枚顕れ隙間なく束ねられ展開される。重ねられた壁はもはや立方体であった。
巨竜が立方体と衝突し、衝撃波が木々を凪ぎ、岩や地面を削る。レイヴらも衝撃で吹き飛ばされる。
立方体は巨竜を押し止められず、歪な線が伝播する。
「全然食い止められないのは悔しいけど、よし!みんな射程範囲から外れた!」
立方体は呆気なく砕け散った。破片が舞散り、キラキラとダイヤモンドのように霧散する。
勢いよく突っ込んでくる巨竜を寸での所でウィッカが横に避ける。たった一秒しか押し止められなかったが、レイヴらの定められた命運を分けるには十分すぎる時間となってくれた。巨竜は後方10m程まで行ったところで止まった。
「ウィッカ、お前なんでまだここに」
へし折られた紫のグラデーションの木と共にすっかり荒らされた地面にうつ伏せのレイヴが問う。
「ふん、アンタらへっぽこやメントが戦ってるのを背にして逃げるなんてエリートの名折れよ」
全く、人をその気にさせるのは上手いんだから。とウィッカは心の中で付け加えた。
凡人の分際でエリートの自分に「逃げろ」と自信満々で言ったのが酷く癪に触った。レイヴの言葉通りに逃げるなどプライドが許さなかった。守られるのはお前たちの方だと分からせるために彼女はここに立ったのだ。
「気をつけてください、ヤツがまた来る!」
メントが叫ぶ。
今のはベノム・ディーゴのなんでもない攻撃をどうにか防いだに過ぎない。危機はまだこれからだと忘れてはならない。
跳び上がり、空より押しつぶさんと強襲するベノム・ディーゴをウィッカは避ける。発生した衝撃の余波は壁を傘にしてやり過ごした。
休む事を知らない巨竜の連撃が続く。ただの引っ掻き攻撃でも壁一枚では二回しか防げず破壊される。強靭な尻尾や顎による攻撃ならば壁など薄皮も同然だった。
「やっぱり仕込みは必須か」
髪留めをコツンと指で叩いた。髪留めから重なっていたトランプがばらけるように小さな板が現れ、ウィッカの左目の視界を覆った。ビジュアルは片眼鏡によく似ている。
「最適望術・入力開始」
呟くと片眼鏡の上を所狭しと文字が踊り始めた。
文字の配置は波と円形を思わせる。
片眼鏡、正確には片眼鏡に刻まれた望術式《プログラミング》が主の代わりに望術を組んでいるのだ。片眼鏡に学習させれば本人より早く望術が組める。自身の生み出す『壁』を媒介にしたウィッカだけの望術式である。
そして画面の裏で巨竜の顎が迫っていた。されどウィッカは焦らない。
「投影開始、対象・壁中央」
自分の盾になる形で出現させた無地の壁の表面を滑るような鮮やかさで横一文字で撫でた。すると片眼鏡に描かれた記号が壁の表面に移されてゆく。
模様が記され、ほんの少しだけ豪華になった壁を自身の前面に掲げる。
が、壁は巨竜の顎に容易く砕かれてしまった。
ベノム・ディーゴの鋭い眼光が次はお前だ、とウィッカを睨み付ける。その眼光に少し気圧されるがそれでも巨竜を嘲笑うような笑みをウィッカはあえて浮かべた。
「望術起動、擬似水《ドリーム・リキッド》!」
巨竜は全身、特に口元に水を掛けられたような感覚を覚えた。
砕かれた壁の破片が一片残らず水に変わったのだ。けれど水は地面に落ちるより早く、極寒の中にぶちまけられた熱湯のように消えてしまった。
それもそのはず。壊れ、消えゆく壁を疑似的な液体へと変換する望術で作っただけでそれ自体は本物の液体ではないのだ。
事実、巨竜にも何の影響も及ぼしていない。バケツに注がれた普通の水を掛けるより無意味な行為だった。
しかし、意味はあった。瞬きほどの時間を稼げるだけの些細なもので良かった。巨竜に僅かでも怯んでもらいたかったのだ。
「コレを溜めるのにほんの数秒欲しかったのさ!
喰らいなさい、正面衝突《クラスパー》!」
「ぐぎっ!!」
張り手のように2mサイズの壁がベノム・ディーゴに正面から身が砕けるくらい力一杯衝突する。
巨竜の身体が3m、地面に引きづられた足跡を作りながら後退する。
「本命はこっち!鏡面合わせの周期衝突《ラッシュ・クラスパー》!!」
後退した巨竜の前に再び壁が現れ衝突する。後退し続ける巨竜に何度も壁が現れては衝突し、巨竜を遠ざけてゆく。
強力な一撃を踏ん張って止められるのなら踏ん張らせる暇を与えないよう絶えず攻撃すればいい。
いつの間にやら巨竜は豆のように小さくなっていた。
「すっげえ……」
レイヴらは当初の目的も忘れてウィッカの戦い様に見入っていた。
「ほら、私の凄さに見惚れるのは仕方ないけどそれもここまで!ちゃっちゃと遠くに離れて隠れるわよ!」
肩で息をしながらウィッカが声を上げ、レイヴらの心を現実に戻した。
木々を薙ぎ倒し段差に足を引っ掛け、地面を転がり続けた巨竜の巨体がようやく止まった。
緩慢な動きでベノム・ディーゴは四足で起き上がると、平らになった道を歩き元いた場所に向かった。丸太のような首を左右に曲げ、周囲を見渡す。
「小賢しい連中め。なまじ私に攻撃が通じないと知ってこのような真似をしおって。やはり人間は不快極まる」
忌々しそうに喉を鳴らす巨竜を離れたところから見つめる目があった。
朽ち果てて倒れた巨木の傍らに身を寄せ、息を潜めているレイヴら四人だ。
木に空いた穴から巨竜を覗き込むメントが言った。
「ベノム・ディーゴ、確実にこちらへ近づいています。今が一番危ない状況ですね、気を張ってください」
「オッケー、私が作ったチャンス、無駄にしないでよ。特にアンタ」
ウィッカがレイヴを指差す。
「俺?」
「この中で一番騒がしくてじっとしてられないのはアンタでしょ」
「流石にこの状況じゃ我慢する。……やべ。なんか鼻がムズムズしてきた」
小さく抗議するレイヴだったが口が自然と半開きになり始めた。この男、溜めている、この状況における最悪の生理現象を。
「ちょ、言ってる傍から何不穏な間抜け面晒し始めてんの!?あ、待って止めて死ぬ気で止めろそのくしゃみいっそ死んで耐えろ私が死に物狂いで作ったチャンスを水の泡にする気かこのバカァ!」
必死の形相でレイヴの肩をブンブンと揺らすウィッカだが、悲しいかな。レイヴ本人も止めたくても止められない。ここまで大口を開けてしまったが最後、派手な音を立てて唾を正面に居るウィッカの端正な顔にぶちまける他ないのだ。
だが、傍らで戦慄していたメントは見た。
レイヴとウィッカの間に割り込んでくしゃみ砲発射一秒前のレイヴの鼻と上唇の間へ鮮やかに指を滑り込ませるナナキの姿を。
「は、は、は……はうぅ……?」
盛大に息を溜め、開かれたレイヴの口からは何も出なかった。まるでうっかり安全ピンを外してしまった手榴弾をこれまたうっかり遠くに投げ損なって死を覚悟したが不発だったような拍子抜け。
皆が唖然としている中、ナナキは一人ホッと息を付いた。
「なんとか止められたね」
「ちょ、今どうやったの!?」
小声のまま身を乗り出してナナキに顔を近づけたのはウィッカだった。
事も無げにナナキは答える。
「ああ、くしゃみを誤魔化したんだよ。と言っても鼻の下を押しただけ。望力は欠片も使わないし誰にでも簡単に出来ることだから、覚えておいて損は無いはずだよ」
深く息を吐いて安堵した様子のメントが言った。
「ウィッカさんのおかげでベノム・ディーゴ、ここから離れていきますよ」
見当違いな所を探しながら歩くベノム・ディーゴに誰もが緊張の糸が切れたように背を丸くした。危機が去った訳では無いが峠は越した。後はベノム・ディーゴがこのまま遠ざかってもらうのを待つだけだ。
レイヴはナナキの背中を叩いて無邪気に笑った。
「ははっ、サンキュー、ナナキ。今のはマジ助かった。
それとウィッカ、思ってたより良い奴みたいだな。ここに残って俺たちを助けてくれた。ありがとな。お前が居てくれるなら心強い」
ウィッカへ握手の手を伸ばすレイヴ。
しかしウィッカはその手を握らなかった。
「付け上がらないでよ。私は私の誇りを守るためにやったの。アンタらヘッポコが戦ってるのを背に逃げるのは私のエリートとしての矜恃が許さなかっただけの事」
冷たくキッパリとそう言い放った。彼女の目にはあるのは冷たく孤高なる光だ。
だが、
「あ、でもそれとして褒めてくれるのは良いよ、すごく良い。後でもっと褒めて」
と、付け加えた。かっこよく決めた余韻が台無しである。相手が誰であれ褒められるのは大好きなようでる。やはり口を開くと残念な少女だ。
しかし実力は本物。ウィッカの手腕にはメントも関心していた。
具体的にはウィッカの左のこめかみにある菱形の髪留めにだ。
「あのベノム・ディーゴとの戦闘の最中、簡単なものとは言え望術を仕掛けるなんて器用ですね。流石です。その左目の片眼鏡みたいなのがヒントですか?」
メントの問を受けたウィッカはコツンと自分のクオリアで編まれた髪飾りを叩き、片眼鏡を展開した。
「ああこれ?私が自作した、『O.H.T.B.D《自動望術構築デバイス》』よ。普段は『オートブード』って呼んでる。
私の意思とリンクしてるから使いたい術式をイメージするだけで手を動かすようにコイツが術式を一瞬で構築してくれるの。
なんなら状況を読み取って自動的に最適な望術を提案してくれたりする優れ物よ。造主に似てね。
まあ予め術式データを“学習”させなきゃ構築出来ない。つまり私が自分自身の技量で作れない望術は使えないし、学習させておける量にも限度があるからそこは課題ってとこね。ゆくゆくは学習も自動的に出来るようにしたいわ」
「へえ、興味深いね。そんな小さなデバイスによくそれだけの事が出来るようにしたものだ」
ナナキがオートブートをしきりに覗き込んでいる。それをウィッカは顔が近いと言って片手で制していた。
その傍目でレイヴはメントへ閃いたように言葉をぶつけていた。
「そういやアレ使えば皆助かったんじゃないか?ええと、なんだっけ。ほら、さかしまのビルに飛ぶための望術」
「ソレ、ですか。確かに手ではあったのですが最後の、本当にどうしようもない時の手段にするつもりでした」
レイヴが言いたいのは『通路置換』の事だ。恐らく伝わったはずなのに、メントはその名を口にしなかった。その事にレイヴは怪訝な表情になった。
「“最後の手段”?そりゃなんで。つかなんで名前言わないの?」
「……ええっと、ド忘れしちゃって。肝心な時に忘れちゃいますよねー、こういう大事な事って」
何かを誤魔化すようにメントはあははー、と作り笑いを浮かべた。笑う、と言うより困っていると言った方がいいくらい分かりやすくて下手な笑いだった。
空気を読まないレイヴは容赦なく思った疑問をぶつけようとした時だった。ふと、空を見上げた。黒い大きな影が視界の端で飛び上がったのが見えたからだ。
「ベノム・ディーゴだっけ?アイツ諦めたっぽいぞ。飛び上がった」
「ホントだね。これで本当に一息つけそうだ」
「この私があれくらいやったんだから報われないとおかしいってもんよね」
一息つく一行。が、一人、依然として警戒したままの者がいた。
「いえ違います。口元をよく見て!まさかそういうつもりですか、ベノム・ディーゴ!!」
背筋に冷たいものを感じていたのはメントだった。ベノム・ディーゴを幼少期からずっと窓越しに見てきたから分かったのだ。ヤツの魂胆を。
口元から緑の炎を覗かせながら高く、遥か天井近くまで飛び上がった巨竜の魂胆を。
「しかし、本気ですか……?望力を込めたブレス攻撃なんて、私たち数人のためにそこまでやるというんですか!?」
魔寄いの森の事情にこの中で一番詳しいメントの焦燥は風下に燃え広がる火炎のようにレイヴたちへ燃え移ってゆく。
真っ先に口を開いたのはナナキだった。
「メント落ち着いて聞いてくれ。どういう事かな。ヤツのブレス攻撃が問題なのかそれともクオリアの方なのか、どっちだい?」
冷静さは保ちつつ、ナナキが静かに疑問をぶつける。
「両方です!
ヤツは特大の火球でこの辺り一帯を焼き払おうとしている。それもありったけのクオリアを火球に練りこみながら!!」
「ヤツのクオリアは一体なに!?」
「あの緑は毒の色!一度着弾すれば猛毒を伴った炎と煙があらゆる生物を殺し尽くします!」
天井のある森において炎以上に厄介なのは煙である。燃え広がる炎が亀に見えるような速度で密室の森を包み込み地獄を作る。地獄は毒に対する抗体か相応の耐望力を持たない生物の全てを苦しめて殺す。
「そうか、だからさっきの戦いで俺がヤツの火球を喰らいそうになった時、わざわざダメージ覚悟して口腕《エンゲラー》で防いだのか!ただかわしただけじゃ着弾点から毒煙が広がるから!なるほど!」
「関心してる場合じゃないでしょうが!私の壁のクオリアじゃ炎は防げても毒はどうにもならない!なんだってたかだか人間四人のために天下の生態系トップ様がここまでやるのよ!」
「あの巨竜からは極めて強力な拒絶、嫌悪感、怒りが見られた。自分の住む空間に人間が居ること自体が我慢ならないんだろうね。部屋にゴキブリが居る事を知ったら気になって夜も眠れないように」
ナナキの言葉にメントが頷いた。
「ええ。ベノム・ディーゴを含めてこの森の生物はある一件から人間を酷く憎悪しています。決して相互理解は出来ません」
「参ったね。あれ程のエネルギーが着弾すればあっという間に毒が辺り一帯に広がる。ここから即時退去できる手段でもないと助からないだろう」
薄ら笑みを浮かべどこか他人事みたいに言うナナキだが頬には冷や汗が這っている。
「即時退去……やっぱりアレしかねえ!メント、アレなんだっけ、さかしまのビルに瞬間移動する望術の詠唱!」
レイヴはメントの肩を掴み、彼女の目を見据える。メントは真っ直ぐなレイヴの目から逃れるように視線を外した。
「あれは……あれを使うのはもう……」
「頼む!このままじゃ皆死んじまう!」
風が吹く。木々がざわめく。獣たちも危機を察し慌ただしく離れ始める。
一呼吸置いてメントは口を開いた。
「アレを使ったら最後、私はもう皆の味方でいられない……」
まるで懺悔するようだった。声は小さく、葉が擦れ合う音に掻き消えそうで、耳をすまさないと聞き逃しそうになる。
「それってどういう―――」
レイヴが言いかけた時だった。自然界に似つかわしくない火球は既に魔寄いの森の地面へ落とされた。
着弾。
緑の熱がひっくり返った茶碗の湯のように木も岩も土も飲み込んでゆく
レイヴら四人も例外なく。
草木が尽く焼かれた焦土を緑の炎が燃え、紫の煙が上がる。所々に炎に身体を焼かれ肉や骨が剥き出しになった獣の形をした灰が転がっている。あらゆる生の焼き尽くされた地獄をベノム・ディーゴの凶眼は冷ややかに見つめていた。