レイヴは無機質な廊下で蹲っていた。
腹が熱い。思わず両手で抑えると腹を抑えると手が真っ赤になった。


無還手刀(カータナ・イルフバート)に貫かれる直前だったのだろうか。腹が抉られていた。
確かに詠唱は間に合った筈なのに。


「くっ、そうか……!例の体質か……!」


レイヴはあらゆる望力を半減してしまう体質を持っている。その体質の為に転送が遅れてしまい、絶対貫通が直撃したのだ。この体質のおかげで身体は辛うじて貫かれずに済んだ。受け身な性質を持つが故に不便だが度々役に立つ。もっともこの体質が無ければ腹を抉られることも無かったのだが。

レイヴは廊下の壁に一旦もたれた。ここで寝ていればさかしまのビルの職員が自分を見つけて治療してくれるだろう。
だがイグニットに決闘を申し込んだ以上は逃げる訳にはいかない。毎日あの白線に怯えるのは嫌だし決闘を放り投げて逃げるなんてイグニットを裏切るような事は出来ない。ここで逃げてちゃ開拓者なんて一生なれやしない。

痛みはあるが意識はハッキリしているし出血は多いが身体を動かす血はほとんど使われなかった望力で代替しているため支障はない。
望力を満足に振るえない体質がここではプラスに働いてくれている。

廊下の壁で身体を支えてよろよろと立ち上がる。

次の通路置換がイグニットとの戦いで最後になるだろう。

大丈夫、あの二対の白線の弱点は掴めた。
次の一撃で終わらせる。


―――――――――


「うああああ!!」


逆しまのビルの何処かで、メントの叫びがこだました。メントは毒を帯びた魔寄いの森に生える木の皮を押し付けられていた。


「メントよ、何故お前は仕置きを受けているか分かるか?」


白衣の男、メントの父が怒りと軽蔑を隠さずに問うた。
項垂れた身体を必死に起こし、父の目を見てメントは言う。


「は……はい。無断で、逆さまのビルの望術を、『哀れ逃げ回る無用の末路(ファトル・ロック・コロンザス) 』を使ったからです」


「そうだ。あれは手の込んだ望術で、実に多くの望力と電力など多くのリソースを使う。職員の皆にも迷惑が掛かるのだ。お前が職員なら文字通り首が飛んでいた所だぞ」


メントは自分が理不尽な目に遭っているなんて微塵も思っていなかった。お父さんに教えられた常識を破ったのだから当然だ。


「分かっていて何故使用した?そも、この術式は教えていなかった筈だがね」


「たまたま、職員さんが使う所を見たからです。そして使った理由は、友達を救うためです。」


メントは自信を持って言った。
色々な人に迷惑を掛けて、お父さんの言いつけを破ったから私は悪い子だ。それはいい。
だがメントには分からないことがあった。まだお父さんに教えて貰っていない常識があった。
例えどれほど多くの人に迷惑が掛かる事だったとしても、それが誰かを助ける為だとしたら?それはどうなのだろう。メントは自分が正しいと思っている。誰かを救いたいと言う思いは間違いじゃないと、彼女は考えていた。


「ああそうか。お前はまだ教えていない常識があったな。覚えておきなさい、他人とは利用するもの。特に学生時代の同級生など取るに足らない物だ。命を落とそうとも全く気に病む必要などない。必要なのは利用価値があるかどうかだよ」


父の言葉は冷酷だった。
―――無理もないのかもしれない。
世界は本来なら弱肉強食なんてものが平然とまかり通る程度には残酷なものだ。人は世界の残酷な一面から出来るだけ目を逸らして生きている。父の言葉こそが世の中の本質なのだ。だから、私の思いは間違っているのだろう。


「しばらく苦痛と共に常識をその身に刻み込んでおけ」


毒がメントの身体を侵食する。
その度に神経を無理やり引き剥がされるような苦痛が全身を襲う。


この世界は残酷だ。世の中は良いものだと錯覚し、他者へ無条件に好意や親切を振りまく者は世の中の定めに抗い勝手に自滅する愚か者でしかない。それがお父さんの教えてくれた常識だ。すなわち、それが絶対であり従うべき法だ。
けれど、不条理に抗う姿は地平線を登る朝日よりずっと綺麗だと思う。

例えばレイヴという少年。
昨日まで学校で問題の中心にいつも居る厄介者の一人だと思っていたのに、今日で認識が変わっていた。

あの人は学校で問題を起こしている訳ではなく、起こった問題を止めに行っただけなのだ。やり方が大雑把で不器用で雑だから問題を起こしていると私は勘違いしていたのだ。

友人を救うために奔走するレイヴの姿は、美しいと思った。よく分からない理由で命を狙われて、それを嘆くことなく理不尽に向き合う姿は夜空の星雲より輝いていた。

彼はペルテモントの実を手に入れただろうか。ナナキは救えたのだろうか。無事に魔寄いの森を抜け出せただろうか。

私もあんな風に利害なんか気にせず動きたい。でも私にはもう何も出来ない。

確実に彼の命が危ういのなら私は迷わずここら抜け出し、レイヴを助けに行くだろう。
けれど彼が助かる余地は十分にある。
私自身、レイヴはとっくに脱出済みなのに魔寄いの森で彼を探している所をイグニットに貫かれる、なんて事も考えられる。

それはいけない。
お父さんに迷惑がかかる。お父さんが一番最初に私へ教えてくれた常識は『決して死ぬな』だった。それが一番多く聞かされた常識だった。

不確定要素の多い状況では私は動けない。
私は綺麗な愚か者にはなれない。



――――――――


最後の通路置換を終え、レイヴは再びイグニットの前に現れた。
飛ぶ前に止血しておいた脇腹の布からは血が滲んでいる。顔色も良くないと思う。
ここに来るまでに多くの血を失った。これでも平気で動けるのはほとんど手付かずの望力が血の代替をしているためだ。それも気休めでしかない。
望力が切れるまでに決着を付ける必要がある。


「今度は随分と時間がかかったな」


イグニットがくるりとこちらに振り返って言う。両手の白線は無くなっていた。


「仕切り直してた。アンタも辛そうだったし、休憩には丁度良かったろ?」


「抜かせ、テメエ相手に辛い事なんざ何にもねえぜ。テメエがぶち抜かれるのが少し伸びただけだ」


「多少は覚悟しなくちゃアンタは……っ……!?」


がくん。
レイヴが膝を付いた。楔剣で身体を支えるのがやっとだ。

俯いた頭は地面へ向いている。
ポタポタと血と汗が混ざって地面に染み込む。息が荒い。
思っていた以上に肉体へガタが来ていたらしい。
アドレナリンのせいだろうか。血の代替はあれど肝心の肉体が限界まで来ている事に気が付かなかった。


「よく見りゃテメエ、脇腹が真っ赤じゃねえか。さっきのオレの攻撃は避けきれてなかったって訳だな。その傷じゃまともに動けねえな。あっけねえ」


イグニットが腰に手をやり、つまらなさそうに言う。
レイヴは草や土を巻き込みながら地面に置いた手を力強く握った。立ち上がろうと腰を浮かす。


「くっ、まだだ……、まだ終わりじゃねえぞ」


「なんだ、まだやる気かよ。そのままくたばるってんならオレがぶち抜いて楽にしてやるってのによ」


「俺にはやり残した事がまだあるからな。ここでくたばったら化けて出てきちまうかも」


「なんだやり残した事って。今ここでくたばる方がよっぽど利口だってのにソイツを覆してでもやる事ってなんだ」


「開拓だ。知らない世界『星』で知らない現象を見て、知らない生き物に触れて、知らない誰かに会う。
ただの一つも俺は何も出来ちゃいねえ。入口にすら立ってねえんだ。死んでも死にきれねえ。
だから俺は死なねえ、お前に何度殺されようとも死なねえぞ」


楔剣を杖にして産まれたてのキリンのようにフラフラと立ち上がろうとする。
ばちばちばちばち!
途中でバランスを崩しそうになったので気合いの雄叫びをあげてレイヴは立ち上がった。
楔剣を構えてイグニットを見据えた。

いや、本当にレイヴが見据えていたのはイグニットではなく自分自身だった。レイヴが叩き伏せようとしているのは己自身の殻。次なる一歩を阻む壁を、レイヴは相手取っていた。


「テメエが殺しても死なねえってんなら、死ぬまで殺してやる。それが舎弟を統べる者としての責務だ。テメエはオレたちの誇りのために死ななくちゃならねえんだよ」


イグニットは|無還手刀≪カータナ≫の名を呟くと、両手から白線が伸びる。同時にがくん、と両手が地面を向いた。
イグニットが腰を落として走り出す。|無還手刀≪カータナ≫が地面を抉る。

レイヴとの距離を詰め大ぶりで無還手刀(カータナ・イルフバート)を突き出した。
レイヴは楔剣で無還手刀(カータナ・イルフバート)を受け流した。
まともに打ち合えば無還手刀(カータナ)の重さに打ち負ける。ならば受け流せばいい。
だがレイヴの見つけた無還手刀(カータナ・イルフバート)の攻略はこんな初歩的な事ではなかった。

レイヴは楔剣の間合いの中で無還手刀の二振りをひたすらかわした。避けきれない攻撃は楔剣で受け流した。


「さっきから避けてばかりじゃあねえか!!テメエ、やる気あんのか!?いつになったらぶち抜かれてくれるんだ!?」


「お前の実力次第だ」


レイヴは不敵な笑みと共に言った。それは強がりだ。今にもぶっ倒れそうなのを無茶しての言葉だ。
さあ乗ってこい。そろそろマジに気絶しそうなんだ。乗ってこないと困る。


「くたばり損ないが思い上がってんじゃ、ねえぞ!!」


イグニットが右手で横一文字に振り払う。これを期待していたレイヴは大きく身体を逸らして避ける。
ばちち。
地面に引き寄せられていく身体を両手を柱にしてバネのように足をがら空きになったイグニットの腹に突き出した。
イグニットが地面を抉り、後方に押し出される。
レイヴが距離を詰める。


「くそっ」


イグニットが手刀を振り上げようとするのを見て、レイヴがしめた、と懐に入り込む。
イグニットが手刀を振り上げるのは遅かった。プルプルと震え、上手く持ち上がらないようだった。
そしてレイヴは左の拳をイグニットの腹に捩じ込んだ。
イグニットは腹の鈍い痛みに動きが止まった。
追い打ちをかけるようにイグニットの胴体へ楔剣のスイングを叩き込む。
イグニットが木に叩きつけられる。

イグニットは無還手刀(カータナ・イルフバート)により自分の方が優勢と判断した。更に手負いを負ったレイヴはもはや死に損ないでしかない。レイヴはそこに勝機を見出した。
敵を侮る事で油断が生じる。そこを付けばあっさりと敵のフィジカルもメンタルも崩れ、反撃する余地が出来る。

レイヴが見つけた勝機はそれだけではない。
無還手刀(カータナ・イルフバート)は極めて重い、ナイフ程の長さでやっと振るう事が出来る程の重さだ。
そんなものを長時間振るっていては腕への負担も半端ではないだろう。
それはイグニットが今までの戦いの中で使おうとしなかった事や、レイヴがさかしまのビルに飛んだ僅かな間に奇襲の危険もあるにも関わらず無還手刀(カータナ・イルフバート)をわざわざ解除した事からはっきりしていた。


「うおおおおお!!」


レイヴはバウンドしたイグニットを何度も木に叩きつけた。
攻撃する度に傷口が炎に包まれたような感覚を訴える。これ以上は身体が壊れるから止めろと、命令じみた指示が全身を走る。
そんな指令(目の前の誘惑)は無視した。今ここで全霊の攻撃を叩き込み、イグニットを倒して、さかしまのビルに倒れ込むのが一番賢いのだ。せっかくマウントを取ったのにぶっ倒れてはただのバカでしかない。

ミシミシ、と音がした。
次には木が折れた。

サンドバックから解放されたイグニットは一旦レイヴから距離を置いた。
流石に今の攻撃は堪えたようで腹を抑えている。それでも未だにレイヴより余力はあるようだった。イグニットは自分の顔面を殴った。


「オレの馬鹿野郎、コイツには油断はしねえと言っといてまた甘く見やがって、大バカ野郎だオレは」


イグニットが再度、無還手刀(カータナ・イルフバート)を発動する。
彼は次の攻撃で終わりにする気でいる。彼には絶対に油断しないという確かな意識があった。
レイヴも楔剣を構えた。次で終わりにしたいのはレイヴも同じ気持ちだった。


二人が、走る。イグニットが無還手刀(カータナ・イルフバート)の右手を突き出した。レイヴが楔剣を振り下ろした。
この戦いはリーチが長い方が勝利する。
ナイフ程度の長さの無還手刀(カータナ・イルフバート)と一般的な剣の長さの楔剣。
どちらが勝利するかは明白だった。


血が飛び散った。
広がる血溜まりに沈むのはレイヴの方だった。

イグニットは突き出した右手の無還手刀(カータナ・イルフバート)をただの絶対貫通(ハルバード)に戻したのだ。
楔剣の射程に入ったが堪えた。楔剣が振り下ろされたがまだ堪えた。楔剣が髪に触れた。このタイミングで無還手刀(カータナ・イルフバート)絶対貫通(ハルバード)に戻した。

こうして本来の長さへ戻った絶対貫通はレイヴの胸を貫いた。


「最後に勝つのはこのオレだ」


イグニットが血溜まりのレイヴに宣言する。

レイヴはナナキの支援を受けた事を糧にして飛び道具に対応できる様になった。メントに通路置換(リバーグラウン)を教えてもらい、魔寄いの森限定の緊急回避をこなせるようになった。
楔剣で絶対貫通(ハルバード)の絶対性を封じた。
無還手刀(カータナ・イルフバート)の弱点を見抜いた。

実に多くの手を尽くしてきた。
しかし
ここまでやってなお、届かない。
これがファースタ三大勢力の一角、その頂点に座する者の実力。所詮クオリアの一つも使えないレイヴに敵う筈もなかった。

レイヴはただ死にゆくだけだった。