レイヴはとうとうペルテモントの樹の麓に辿り着いた。
しかしレイヴは立ち止まっていた。ペルテモントの樹は他の木の幹同様に根元の部分が禍々しい紫色なのだ。そしてやはり上に行くにつれて紫は無くなっている。

ここまではいい。だが問題はペルテモントの樹の大きさだ。普通の木ならひとっ飛びで毒の薄い、あるいは無い箇所に捕まることが出来るが高層ビルの如き高さを誇るペルテモントの樹ではそうはいかない。

今のレイヴではどれだけ高く跳んでも毒の濃密な箇所に触れる事は避けられないだろう。
それでもレイヴには登るしかなかった。メントやプルトーに色々と託された上でレイヴはここに立っている。

レイヴは紫の木の幹に手を置いてみた。

「っあ……!?」

途端、レイヴが顔をしかめる。
手の平に毒が浸透し倦怠感、不快感、そして神経を直接刺されるような痛みがあった。

「なるほど、こんなやべえ毒ってわけか……」

ほんの僅かに触れただけで脂汗が吹き出し、咄嗟に手を離してしまう程の苦痛。
だがどんな苦痛か分かった。
今日何度目になるかも分からない覚悟を決めたレイヴはペルテモントの樹と十分に距離を取り、走り出した。
ありったけの力を振り絞って地面を蹴り、木の幹へ蝉みたいにしがみついた。
瞬間、先の苦痛が手や足、胴体など木の幹を触れた箇所から広がる。
飛距離は全く足りない。幹の紫が無くなるのはずっと遠い。


「があああああああああ!!」


結界全体にレイヴの悲鳴が響き渡る。
それでもレイヴは手を離さなかった。
一歩一歩、着実に樹のてっぺんを目指して手を伸ばす。



―――――――――――――


結界手前、メントは木に磔にされ、イグニットとその舎弟達の見世物のようになっていた。
木の毒は体全体に広がり顔色は酷く悪い。
青いチュニックはメントの血で汚れている。


「いい加減よ、あの結界を消してくれよ。嬢ちゃんをこうして痛ましい姿にするのは趣味じゃねえんだ。むしろ心が痛くて仕方がない」


メントの顔に面を近づけて言うのはイグニットだ。
メントはレイヴが無事にベルテモントの実を入手してここに戻ってくる事を期待し、イグニットたちとたった一人戦いながら待っていたのだ。


「貴方達がここから立ち去ってくれれば遠慮なくこの結界を解くことが出来るので――――――あっ!!」


途端。
イグニットの絶対貫通(ハルバード)がメントの腕を貫いた。


「そうじゃねえって言ってんだろ。今すぐここであの鬱陶しい結界を消せっつってんだコラ。いい加減にしねえと血の出しすぎで死ぬぞテメエ」


「平気で人を殴り、殺す事の出来る倫理観に欠けた貴方達なんかに従う事なんて何もありません」


メントは冷たく言い放った。彼女の強情さにはイグニットもため息をつく他なかった。


「仕方ねえ。最後の賭けに出るか」


イグニットは掌をメントの顔の前に出した。
掌からは望力が練られ、白い万物を貫くクオリアが編まれていく。


「わ、私を殺してもあの結界は解けませんよ!術式そのものはこの森とあのビル全体で構築されたものですから!」


「嬢ちゃんが口を開かねえんだから仕方ねえだろ。術者が死んだらあの結界が消える事にオレは賭けるぜ」


死の線がメントに触れようとした時だった。

ペルテモントの樹を囲っていた結界が。
消えた。


「な……!?」


メントが目を見開いて消えゆく結界を見ていた。


「確かに嬢ちゃんが言ったことは正しかったらしい。あのビルの誰かが結界を解いてくれたってとこかね?」


イグニットも結界が消えた事を確認すると立ち上がり、改めてメントに絶対貫通(ハルバード)を向けた。


「嬢ちゃんももう用済みだから解放してやる……とはいかねえ。ウチの舎弟を殴った処罰対象だ。じゃあな」


通路置換(リバーグラウン)……!」


絶対貫通(ハルバード)に貫かれるよりも早く忌々しげに唱えたメントが最初からそこに居なかったかのように消える。
イグニットは舌打ちをした。


「逃がしたか……まあいい、どの道あんな怪我じゃ歩くのが精一杯だ。後で探し出して殺す」


「行くぞお前ら!!レイヴはオレが殺す!!お前らは道中の獣を蹴散らせ!!」


イグニットが号令を掛けると舎弟達はオオッ!と返事を返し、ペルテモントの樹へ向かっていった。






レイヴは最初に比べると大分楽に樹を登れていた。
レイヴが掴んでいる木の幹の紫は薄い。あと少しで樹の実に手の届く場所にまで来ていた。

その時、周囲を覆うメントの結界が穴の空いた泡のように弾けて消えてしまった。


「メント……!」


メントの身に何かあったのだろうか。レイヴにはそれを知る術は無かった。だからメントが無事であることを祈ってひたすら登るしかなかった。少しでも早く、タイムリミット|《ナナキの死》が来る前に。


「や、やっと着いたぁ!」


やっとの事で木の枝がたくさん分岐し、葉の生い茂る部分まで来た。枝の上に腰掛け、一息だけつく。ボサっとしている間にナナキが臨終したらやりきれない。
上を見上げるとプルトーから送られた目的の木の実の画像そっくりの実が大量に成っていた。レイヴの目にはペルテモントの実は宝石よりも輝いて見える。
枝から枝に跳び移り、木の実の一つをもぎ取った。
実は中がぎっしりと詰まっていて重かった。ナナキの命の重みを抱いているような思いになる。
プルトーより託された転送術式を展開した。術式の真ん中に木の実を置き、術式を起動する。ペルテモントの実は術式の中心に吸い込まれるように消えた。


「これで……いいんだよな」


なんともあっさりしていてやり切った実感は無かった。
目的を達成した途端にどっと疲れが込み上げてきて思わず後ろの木の幹に振り返り、額を付けて、ずるずると膝をついた。


「つ、疲れた。マジで疲れた。こんなに疲れたのは昔遭難した時以来だ……」


レイヴはしばらくそのままの姿勢でじっとする事にした。





「レイヴめ、遂に成し遂げたか」


プルトーは自らの工房、生命活動の止まりかけたナナキの寝る寝台の前で一人呟いた。
手にはレイヴより送られたペルテモントの実がある。


「クオリアもろくに使えん分際でイグニット共を出し抜きこの実を手に入れた。一人で、という訳にはいかなかったようだが目を瞑ろう。とにかく上出来だ」


「始めよう」


ペルテモントの実が水を抜かれた風呂の水のように圧縮され、プルトーの手には小さな赤黒い痕が刻まれる。
プルトーはそれをナナキの心臓周辺を覆う望術の群れの中心に叩き付けた。術式が不気味に蠢き始める。


「術式構築。世は真かそれとも偽りか。証明する術は無し。其はかくも些末な問題なり。芯は主観。認識こそが正しさ。そこに一片の疑いも在らず。幻想なれど現実を超越する。術式展開、『仮想・臓器再現術式(ローズカクタス・ザクロリリー)』」


プルトーの詠唱を受け、チグハグで散らかった部屋のように混沌としていたプルトーの術式達が踊りだし、お互いに絡み合い、一輪の巨大な花へと形を変える。花びらの一枚一枚がナナキの失われた心臓を優しく抱くように折りたたまれる。


「上手くいったな。私にかかれば当然だが」


プルトーは最後のピースを届けた少年の顔を脳裏に浮かべた。


「レイヴ。今代最後の楔剣の担い手。よくぞ狂暴な獣のみならずファースタ裏の最大勢力すらも跋扈する魔寄いの森を切り抜けたものだ。大した奴、此度こそ我らが望む■■■■■へ到達しうるやもしれんな」


「言ってる場合ではないか。今はこの術式を記録せねば」


プルトーの意識はナナキの心臓の術式に向き直った。

―――――――――


レイヴを追い、ペルテモントの樹へ走るイグニットは道の真ん中で見知った顔が倒れている事に気が付いた。


「コモノ……!?コモノなのか!?」


イグニットはコモノに駆け寄り、倒れるコモノの胸に手を置いた。脈はある。
安堵したイグニット。そんな彼を虚ろな目でコモノは見た。


「イグニットさん……すいません、オレ良い所までいったんすけど、レイヴにやられちまいました」


「オメエは悪くねえ!むしろよくやったぜ!一人で本当によくやった……!心の底から誇らしいぜオレは!」


嬉しそうにイグニットが言ってコモノを抱きしめる。
コモノの目からつうーっと、涙が一筋流れた。


「ははっ、イグニットさんにそう言われる日が来るなんて、オレ今人生で一番幸せかもしれません」


「オレも無茶苦茶嬉しいぜ。けどお前をボコボコにしたレイヴのクソッタレは放っておけねえ。つうわけでバトンタッチだ、コモノ」


「オレ、もうレイヴをどうこうするとかあんま気になんなくなりました。もう気が済んだっつうか。確かに負けたけどなんでかすごい晴れやかな気持ちなんすよ。清々しい。だからもう帰りましょうや」


「そうはいかねえぜコモノ。アイツはお前の他に沢山俺達の仲間を殴ってる。ソイツらの思いも晴らすために落とし前はしっかり付けなくちゃならない」


「し、しかし」


「止めるなよコモノ。正直、オレはあの野郎にむかっ腹が立って仕方がねえんだ」


イグニットはコモノを岩の側に置くとペルテモントの樹へ足速と向かっていった。コモノは追いかけようとしたが身体がボロボロでイグニットに追いつくことが出来なかった。みるみるとイグニットの背中が小さくなっていく。イグニットとレイヴが戦うのがこんなにも自分の胸をかき乱すのは何故なのか、コモノには分からなかった。


―――――――――



しばらく休憩したレイヴは顔を上げた。


「さて、そろそろナナキの所に行かないとな。それとメントがどうなったのかも調べないと」


レイヴは晴れ晴れとした気分だった。いつ来るか大体でしか分からなかったタイムリミットに追われるのはレイヴにとっても気持ちの良いものではない。緊張の糸を緩めることが出来るだけでずっと心が楽だった。


「ここでの経験は良いもんだった。飛び道具系の攻撃の対処の仕方が大分掴めた。ただ、この魔寄いの森については分からない事だらけだし、ここの獣達も特訓相手には持ってこいだし、また何度でも来よう」


そう言ってレイヴは立ち上がり、駆け出した。
そして、レイヴはあっけなく足場を踏み外した。


「なんとォ!?」


レイヴは木の枝に掴んで事なきを得た。恐る恐る下を見ると遠い地面が振り下ろされる刃みたいにレイヴが落ちるのを待っていた。万が一落ちていたらひとたまりもなく全身の骨が粉々になっていただろう。


「あっぶねえ、ここクソデカい木の上だった」


そう言ってレイヴは逆上がりの要領で身軽に木の上に戻った。


「どうやって戻ればいいんだ?上ってきた時と同じように降りるのは俺の身が持たねえ。毒的な意味で。死にはしないと思うけどイグニット勢力に出会した時の事を考えるとな……」


レイヴは腕を組んでしばらく考える。
考えても坩堝にはまるばかりなのでぼんやりしてみる。
……出た。良い方法が見つかった。良い考えが浮かばない時は一旦頭の中をクリアにし、距離を置いて考えると案外閃くものだ。


「そうか、この手があったな。早速試して―――」


思いついた案を実行に移そうとした瞬間だった。
レイヴのボディバッグの中身が真空になだれ込む空気のように飛び出した。
レイヴのバッグに穴が空いたのだ。
いや、レイヴの背中を悪夢の白い線《矛》が直撃していた。
レイヴは重心を保つ事が出来なくなり、木の枝から足が離れた。
バッグの中身をばら撒きながら、レイヴは地面へ引き寄せられてゆく。

その様子をなんの変哲のない木の上からほくそ笑む男の姿があった。