ばち、ばち、ばちり、ばち!!


ナナキが糸の切れた人形みたいに地面へ倒れる。
レイヴは脇目も振らず真っ先にナナキへ駆け寄って抱いた。
目頭が熱い。口も目元も頬もこめかみも大きく歪んで悲痛を訴えた。
血に濡れたナナキの胸に顔を押し当てた。

「ナナキッ!!ナナキィッ!!」

ひたすら親友の名を呼んだ。さっきまでと同じように笑いかけてほしくて叫んだ。
ナナキは目を閉じたままで応えてくれなかった。
魂が悲鳴でも上げているのだろうか。胸の奥で紙が破れるような鋭い音が聞こえる。


「良かったなレイヴ!!クオリアを持たない分際で調子に乗るとこうなるって分かってさあ!!一つ賢くなったじゃあねえか!!なんか言ってみろよ!え?何も言えないくらいショックか!?ハハッ!!良かったな、無能のレイヴ!!」


コモノがレイヴへ無遠慮に駆け寄り愉悦を含んだ罵りの言葉を吐いた。
反応を返す気力などレイヴは持ち合わせていなかった。


「カッコよかったぜ、お前を自分の命放り投げて救ったソイツはよ。チームワークも抜群だったし、よっぽど大事に思ってたんだろうなあ、お前の事。それはそれとしてお前は殺すが」


イグニットは俯いたままのレイヴに掌をかざした。レイヴはやはり動かなかった。

「なんだよ、顔くらい上げてみろよレイヴ。最期なんだから無様な面を俺たちに晒してみろよ!!写真撮って一生笑いものにしてやるからさぁ!!」


レイヴの耳元にコモノがギリギリまで近づいて言った。
コモノの軽率な言葉はレイヴには一切届いてなかった。レイヴの中では後悔とナナキへの懺悔だけで埋まっていて、そこにコモノの言葉が入る余地などなかった。


レイヴには抵抗する意思などとっくに尽きていた。この状況ではどの道逃げられないと分かっていた。せめて冥界でちゃんと顔を合わせて謝ろう、そんな事くらいを思うだけで一杯一杯だった。


「離れろコモノ、俺の絶対貫通≪ハーバード≫に巻き込まれるぞ」


「俺にやらせてくださいイグニットさん。いい物持ってきたんですよ」


コモノが自分のポケットを漁りだす音をレイヴは聞いた。最期に目を開け、歪んだ視界でナナキの顔を見た。


目が開いていた。
ナナキの目が、うっすら開いていた。

ばちばち。
視界がにじんでいるからだと思った。もしくはミステリードラマや映画なんかで見る目が開いたまま死んでいる死体と同じかと思った。目を擦って改めて見る。

見間違いじゃなかった。ナナキの眼は確かにレイヴを見ていて、ここから逃げろと促している。
これは一体どういう事だ。心臓を貫かれたのに生きているなんてあり得るのか。先にイグニットのクオリアの餌食になったあんなにも大きい熊は即死だったのに。

意味が分からなかった。けれどナナキは生きている。今はその事実だけで十分だった。
レイヴの思考回路が蘇る。この場を切り抜ける方法を演算するべく脳神経がショートしそうなくらい目まぐるしく活動を始める。

手に届く所に楔剣が落ちているのを見た。手を素早く伸ばして油断しきっているイグニットの脛を殴った。楔剣に刃があったらすっぱりその足を斬り落としていただろう。次に唐突の事でフリーズしているコモノに目一杯の力で足払いを掛けた。

イグニットもコモノも派手にすっころぶ。レイヴはナナキの膝と背中に手をやり、立ち上がって走り出した。
後ろから全てを貫く線がレイヴを追い抜いた。だが後ろも見ずにそのまま走った。


「はっ、はっ、はっ、はっ」


レイヴは木々の間を縫い、森を駆けていく。目指すは天井から伸びる塔。この森の出入口となる階段。

ある程度時間が経って一瞬、後ろを覗くと鬼の形相の二人の追跡者の姿が見えた。全てを貫く矛を携えたイグニットが、火球を産むコモノが、レイヴを仕留めんと迫り来る。

「てめぇふざけんじゃねえぞ!!勝負吹っかけといて敵前逃亡か!?生き汚えぞ、潔くくたばれゴラァ!!」


そんなイグニットの怒号にレイヴは気にも留めなかった。要は死ななければいいのだ。生きてさえいれば必ず勝ちの目はある。だからどれだけみっともなくても今は逃げるのだ。

―――なにより今も腕の中で死に絶えようとしている友のために。


「レ、イヴ、僕を置いて、逃げろ」


レイヴに訴える言葉があった。
今にも消え入りそうなくらい小さな声。途切れ途切れの言葉はよく耳をすまして聞かないと聞き逃してしまいそうだった。
ナナキの手がレイヴの裾を掴んでいなければ気付きすらしなかったかもしれない。


「喋るなナナキ、これ以上死を早めたら今度こそ手遅れになる」


レイヴは冷静さと穏やかさを含んだ言葉を告げた。
心臓が無くなったにも関わらず生きているだけで奇跡だったのだ。いつぽっくりと魂が抜け落ちてもおかしくない。
なのにナナキは途切れ途切れの言葉を紡ぎ始めた。


「これだけは言っておきたい。僕にとって自分が生きようが死のうが、どっちでもいい。けど君は別だ。君が死ねばそこで君の物語は終わる。僕にはそれが勿体ない。だから庇った。君が生き延びさえすれば僕はそれでいい。だから、一人で逃げて」


またレイヴにはナナキの言葉の意味が理解できなかった。ナナキは単純にレイヴを好いている訳ではない。あくまでレイヴの行動を見る事が楽しみなだけだ。
自分は死んでもいいのにレイヴが死んではないらない?おかしな話だ。自分が死んだらレイヴのこれからは見れないというのに。
それでも。
ナナキへの親愛の情は一方通行だとしてもナナキは命懸けで自分を救ってくれた。なら、俺は死んでやれない。そしてナナキも。


「お前の言ってる事やっぱり分からねえ。最期になるかもしれない言葉くらい分かるよう言ってくれ。それとお前が例え死んでも置いていくつもりはない。まあ、死なすつもりなんて毛頭無いけどよ」


背後から自らを狙い撃つ矛や火球を避けながらレイヴが冷静に言葉を返した。

ナナキの意識は既に途絶えていた。それでもレイヴはその命が続いている事を信じて走り続ける。

妥協なんてしてやるものか。一点の曇りもないハッピーエンドを目指してみせる。
無慈悲の白線にも貫かれない決意で、レイヴでこの足を止めないと決めた。
そう、これは絶望の敗走ではない。俺達がまた笑い会える時のための撤退だと。希望への道だと信じて。

表面上は焦っていないように見えるレイヴだが、それでも焦りはあった。必死に抑えているだけだった。この状況で少しでも気を乱せばそれだけで命取りになる事くらい分かっている。

ナナキを抱えながら逃げているため、単純な走る速度は追跡者たちの方が上だ。連中の足を攻撃していなければとっくに追い付かれていただろう。
だからレイヴは木々、岩、デコボコの地面。地形を活かして上手いこと距離を作って逃げる。

"皮肉だな。さっきまで必死にイグニットとの距離を詰めようとしていたというのに今度は距離を離す事に必死になるなんて。"

心の中でそんな事を考えられる程度にレイヴの調子は戻っていた。ナナキが生きているという事実だけでとても嬉しかった。今の俺ならナナキのために地の果てまで駆けられると本気で思えた。
そのレイヴの足が、止まった。急ブレーキを掛けた。

その先に道は無かった。いや、あるにはあるのだが道の続きは目下に広がる坂道の5m程下だった。ただの坂なら良かったのだがその坂には問題があった。角度がつきすぎている。ここまで急だと、崖と言った方が正しいかもしれない。


普段のビルを縦横無尽に駆け巡るレイヴなら飛び降りるのに全く、なんの問題もない地形だ。だが今はすぐにでも息の絶えそうなナナキを抱えている。この崖を降りるにはナナキへの負担はあまりにも大きすぎるのではないか。
ナナキが健在だとしてもレイヴ自身、度重なる戦闘による疲労やダメージが募っていた。正直言ってこの崖を降り、今まで通りのペースで森を走り抜ける自信は無かった。

レイヴがまた一瞬だけ後ろを見ると火球や矛が自分をを刈り取らんと襲い来る所だった。
レイヴに悩む時間など一時たりとも与えられていない。


「……迷うな!!」


自分に喝を入れ、強襲する飛び道具より寸分早く坂に飛び込む。負担が出来るだけ掛からないようにナナキを庇う。その結果、坂の起伏が無防備なレイヴの身体を容赦なく剃り下ろすように打ち付けた。


「があああああああ!!!」


あまりの痛みに叫ばずにはいられなかった。視界が白ばんでいく。白みがかった視界に恐ろしいものが写った気がした。

滑るように落ちる先には毒々しい紫に染まった樹の幹が。



―――――――――――――――――――――――――


「やったか?」


イグニットとコモノが崖みたいな坂を降り、レイヴたちの姿を探す。
しかし二人の姿はどこにもなかった。
樹の側にも、上にも、どこにも居なかった。


「また下らない小細工か……。まあ望術使いの方は潰したし望力もろくに使えない手負いの欠陥生物だけじゃそう遠くには逃げらんねえはずだ。探すぜコモノ。俺の舎弟を皆呼びつけて総出でな」


「皆呼ぶんですか!?レイヴ一人のために!?」


「あー、レイヴって名前だったっけか。すっきりした。そのレイヴってのはちょいと油断ならねえ。さっき俺ですらヤバかったからなあ。念には念を入れておくのさ」


そう言うとイグニットは自らの右手を一瞥した。現れるのは白い線ではなく正方形の望術だった。汎用機能望術。レイヴですら持つ程の普及率を誇るあらゆる便利な機能がコンパクトにまとめられた望術だ。使い捨てではないのが便利で、文明の発展に貢献した大いなる望術の一つと言えるだろう。


「もしもぉし、連絡」


正方形の望術に向かってイグニットが語りかける。


「手ぇ空いてる奴は今すぐ俺の所まで来い」


その一言だけ言うと汎用機能望術を閉じた。
イグニットは一息つくと、コモノの方へ歩み寄った。


「さっきの戦い、助かったぜ。マジでありがとな。お前が居なきゃ俺、負けてたかもだわ」


「役に立てたなら光栄です!」


尻尾を振る犬みたいにコモノが言葉を返す。
そのコモノの額にコツンとイグニットの指が弾いた。


「その上で言っとくが、コモノ、お前はもっと自信持って前に出ていいんだぜ。お前は俺が認めた舎弟の一人なんだからよ」


「は、はい……。けど俺なんか所詮サポートしか出来ないっすよ。素手の望力を使えないクズに負けるくらい弱いし、頼りにはなれませんよ……」


イグニットがコモノの肩をばしばし叩いた。


「甘ったれんな、もっと胸張っていいんだよ、自分一人で色々やってみろ。
そりゃ自分でアレコレやるのは責任背負うって事だ。まあ不安だな。俺だって不安に思う。
だがな、それは仲間への信頼があるんだったら全く躊躇わない筈なんだぜ。仲間のためなら代わりにケツ拭くのに躊躇いはねえだろ。
逆も同じなんだ。だからもっと自分も、俺達も信じて前に出て行動してみろ。それが成長への近道なんだ」


「善処します……しますけどやっぱり自信なんてありませんよ」


萎れた葉っぱみたいなコモノの頭をイグニットの手がくしゃくしゃと乱暴に撫で回す。一通り撫でるとコモノの両肩に手をやって言った。


「コモノ、おめえさっきの戦いでなんであの火球をぶっぱなした?俺の事を思ってくれてたんだろ?
お前が良かれと思ってやったんだろ?いいんだよそれで。例え空回りにやったとしても次に繋げりゃそれは成功なんだよ。だから俺はおめえを責めねえぜ」


イグニットはコモノの父親のようだった。


―――――――――――――――――――――――――


メントはただ黙って天井から伸びるビルからレイヴたちの戦いを見ているしかなかったのだが、ナナキが心臓をイグニットのクオリアで貫かれてからは思わずビルを抜け出し眼下に広がる森、魔寄いの森と父が呼んでいた森林へ走り出してしまった。

レイヴについて、メントには関わりのない対岸の火事でしかない。わざわざ火に飛び込む必要などない。そんなことをすれば彼女にとって絶対である彼女の父親なら飛び込むなど常識外れと言って罰を与えてもおかしくない。
けれど。
風紀委員として活動しているメントにとっていつもトラブルの真ん中に厄介者の筈だった。
風紀委員としても、一人の人間としてもクラスメイトが死ぬのは、嫌だ。
ナナキの死から、そんな衝動でここまで来てしまった。


「私は一体何を……」


父から教えられた常識に背く行為を今、メントはしている。あんなにも厳しく父から常識を叩きつけられ、常識を守る重要さを強く躾られたのに。
父に見つかった時の事を思うと足が震え出す。意識しだしたら嫌な汗がどっと吹き出てくる。

居ても経っても居られないなんて理由で父に背くなんて思いもしなかった。見知った顔が傷つけられ、死にゆく様を見て勢いでこんな事をするなんて。そんな心の熱さが自分にあるなんて思わなかった。心が未熟だから常識を破るのだ、と父にこっ酷く痛めつけられるのだろうか。
今更帰るには歩みが重すぎた。
こうなればレイヴだけでも見つけ出し、地上に戻さなければならない。