「加奈……」

 そこに、体操服を着た同級生の三原(みはら) 加奈(かな)が立っていたからだ。加奈は中学のとき、三年間陸上部で一緒だった。
 高校でも陸上部に入った加奈は、秋の大会では先輩たちに混じってリレーのメンバーに選ばれたと聞いている。
 まだ練習中の時間のはずだけど、どうして加奈がここにいるのだろう?

「歩美、こんなところで何してるの?」
「何って……。加奈こそ、練習は?」
「今度の大会……今週末の日曜なんだけど、当日についての連絡事項を書いたプリントを職員室に取りに行ったの。そしたら、この前を通ったら歩美の姿が見えたから……」

 職員室は美術室のある廊下の突き当たりにある。他にも職員室に行けるルートはあるものの、職員室に用がある生徒がこの廊下を通ること自体、何もおかしなことではない。

「歩美は……?」

 次は私がこたえる番だと言いたげな加奈の瞳。
 いくら私を見かけたからとはいえ、そっとしておいてほしい。
 特に今は、月島くんと一緒だったから。

「絵を、描いてたの」

 実際に今は絵を描くコツを教えてもらおうとスケッチブックを片手に鉛筆を持っていたのだから、それで問題ないだろう。
 月島くんのモデルをしていたとか言ってしまえば、話がややこしくなってしまいそうだし。

「絵……? 歩美が?」

 まるで信じられないと言わんばかりに加奈は目を丸くさせる。
 それもそうだろう。
 中学時代からの付き合いの加奈は、私の絵心が皆無であることをよく知っている。

「うん、今、教えてもらってて……」

 絵の上手い月島くんに絵を教えてもらっている、それなら私が今、月島くんといる理由として不自然な感じはしない気がする。
 何か突っ込まれたことを聞かれたらどうしようかと思ったけれど、加奈は不審そうにまゆを寄せるだけだ。
 そんなに絵心皆無の私が絵を描くことがおかしいとでもいうのだろうか。

「……歩美が絵を描きたいって思ってるなら邪魔はしないけどさ、本当は走りたいんじゃないの?」

 加奈の表情は至極真面目なものだ。きっと本気で言っているのだろう。
 でも、余計なお世話だ。

「そんなことないよ……」
「そんなことなくない! だって歩美、暇さえあれば四六時中走ってたじゃん。それに脚だって、本当は治ってるんでしょ? 門田先生だって……っ」

 つい、先日の門田先生の言葉が思い返される。
 それと同じ顔で同じことを言おうとする加奈の言葉を遮るように、私は口を開いた。

「私はもう走れないの。加奈だって大会前なんだから、こんなところで油売ってないで、早く練習に戻った方がいいよ」

 加奈が何と言おうと、私にはもう戻る場所がない。
 戻る場所がない私には、もう走る資格なんてない。

「歩美……っ」

 もうこの話を終わらせたくて私は加奈に背中を向けるけれど、再び加奈に名前を呼ばれた。