きみに駆ける

 グッと両の拳を握る幸村先輩の瞳は、やっぱり怒りに満ちている。
 だけど、私もその幸村先輩の言い方にはカチンと来るものがあった。その程度だなんて、私はそんな風に思ってなかったのに。

「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか。私には走ることしかなかったのに、あんなことになってしまって……」
「もう走れるんでしょう? 聞いたわよ。体育の授業の様子を見ても、もう以前みたいに走れるようになってるって」
「……っ」
「どこか間違ってるところある?」

 確かに幸村先輩の言う通りだ。私は、もう以前のように走れる。
 ただ、あの日に感じた挫折と向き合うのが怖かった。陸上部の人たちと向き合うのが怖かった。幸村先輩の言う通り、私は逃げていただけだ。
 自分でもわかっていたけれど、認めたくなかった。
 けれど、こんな風に逃げ場を塞がれては認めざるを得ない。

「……すみませんでした」

 また私は、陸上部の人たちを──幸村先輩をはじめとした先輩たちのことも、がっかりさせてしまったのかもしれない。
 本当にどうしようもなくて、情けなくなる。
 そのとき、再び下げた後頭部にコツンと何か固い感触が触れる。

「……本当に悪いと思ってるならさ、戻って来なよ」
「え……?」

 見ると、練習用で使っていた古びたリレーのバトンが私の後頭部に当てられたようだった。
 幸村先輩は、私に薄汚れた黄色いバトンを差し出して口を開く。

「私はまた、内村さんと走りたい」
「幸村先輩……」
「私も、走りたい! 先輩たちも、そうですよね」

 すかさず横から加奈が口を開く。
 加奈がそばで私たちの会話を見ていた二人の先輩に同意を求めると、二人とも戸惑う様子もなくうなずいてくれる。
 特に二人の先輩のうちの一人は、私が春の大会のリレーの選手になったことでメンバーから外れた先輩だというのに、本当に私のことを嫌だと思っていないのだろうか。

「それに、これ、何だと思う?」

 そう言いながら、幸村先輩はズボンのポケットから小さく折り畳まれたザラ紙を一枚取り出した。
 丁寧に広げてもしわくちゃになってしまっているその紙は、私が何ヶ月か前に門田先生に提出したはずの退部届けだった。

「何で……」

 そこには、確かに退部の意思を示した私の文字が並んでいるが、受領印は押されていない。

「内村さんなら、きっと戻ってきてくれると信じてたから。だから、内村さんは今も陸上部の一員だよ」

 あの日から、ずっと私の居場所はなくなったと思っていた。
 だけど、それは違ったんだと思い知らされる。
 あまりにも重なった辛い現実から目をそらすと同時に、私は目の前にあった優しさも見えなくなってしまっていたんだ。
 厳しい言い方ではあるが、幸村先輩の表情は優しい。
 逆境に立ち向かえずに逃げてしまった私のことを待ってくれていたんだと思うと、腹の底から熱いものが込み上げてくると同時に、頬に熱いものが伝った。


「……私が戻ってもいいんですか?」
「当然よ。また一緒に走りましょう」
「……はい」


 今までずっと悩んでいたのが嘘みたいに、晴れやかな気持ちになる。
 これも、無理やりにでも私をここに連れてきて、私の背を押してくれた月島くんのおかげだ。
 月島くんの方を見ると、彼は頑張ったねとガッツポーズをしてくれた。
 そのとき、陸上競技場内から、女子リレーの決勝戦の招集アナウンスが流れるのが耳に届く。

「そろそろ行かなきゃね。内村さんも、もちろん来るよね」
「はい!」