記憶が欠けたことでつらいことも多かったけれど、渉が一度も記憶喪失について言わないでいてくれたことが何よりの救いだったと、渉に感謝している。だから逆に怖くもあったらしい。


 全部の記憶を持っていた前の自分と、記憶が欠けてしまった自分。どちらが本当の自分だろうとずいぶん思い悩んだとも、そこには書いてある。


 だからこそ、土壇場になってしまったけれど渉には自由になってほしかったと、知世は二年前に渉に語りかけていた。


 甘い夢から覚めたわけでもないし、記憶が戻って自分がいるべきは渉の隣ではないと悟ったわけでもない。ただ、これが〝今〟の自分にできる最善だと思うということだけは、もう知世の中で揺るぎようがなかったようだった。


 いつ戻るかわからない記憶に対する怯えもあったようだ。


 記憶が戻っても渉のそばに居られる自信がなかったこと、渉と一緒にいる自分が変わってしまうかもしれないのが怖かったこと。


 それでも渉は絶対に一緒にいると言ってくれるから。もし戻った記憶に翻弄されて渉が苦しむようなことがあったら、それこそもう自分が渉と一緒にいられないから。


 だから、結婚のことも考えていたはずの渉を、手遅れになる前に自由にしてあげなくてはと思ったと、知世はそこに書き綴っていた。