いったん着替えて戻ってきた野乃は、そう言う元樹君と嘉納さんに照れ隠しからか「今私、お風呂に入ってなくてめっちゃ臭いから近寄らないで」と言う。二人はそんな野乃にクスクス笑い、三川さんは「臭いのは普通」と、わざと野乃と距離を詰め、野乃の隣の席を強引に確保する。
最初はぎょっと目を剥いていた野乃も、しかし最後には笑うしかなくなり、「仕方ないなぁ……」とまんざらでもない様子で苦笑した。
頂いた果物と、三人にはブレンド、野乃にはミルクたっぷりのココアを出すと、各々、ありがとうございます、と言った彼らの話題は、早々に学校のことに移っていった。
やはり三川さんへの風当たりは、依然厳しいものらしい。
でも彼女は、
「もう間違えないよ。あの子たち、自分たちがハブいたからって今度は宮内さんや嘉納さんと仲良くするんだ、とか絶対言ってると思うけど、私が間違えたんだもん。何を言われても文句を言える立場じゃないって、ちゃんとわかってる。クラスのみんなにも謝って、それで許してもらえるとは思ってないけどさ。でも、こんなわがままな私を見捨てないでいてくれた三人のクラスメイトがいたってことは、大人になっても忘れないと思う」
清々しい笑顔で言い、くるんと上を向いた彼女のまつ毛と同じように、しっかりと上を――前を向き、これからのことを、そう締めくくった。
「でも、つらくなったら言えよ? 近くにいるのに頼ってもらえないのもつらいし」
「そうだね。そのときはクラスメイトとして助けてもらうよ」
元樹君の気遣いに、そう淀みなく答えた三川さんは、この土日でもう完全に吹っ切ったのだろうか。
どう告白したのか、どんな告白の言葉を選んだのか、間近で聞いていた野乃は渉には話してくれなかったけれど。
でも元樹君がふっと笑って「そうする」と言ったから、きっと、告白した側も、された側も、これから育まれるだろう友情の間にもうそのことは持ち込むつもりはちっともないのだろうことだけは、渉にもわかった。
「渉さんも一緒に食べましょうよ」
席から野乃が声をかけると、残りの三人も一斉に渉に微笑む。渉はいつものように眼鏡の奥の瞳をふっと細め、「じゃあ、ご相伴に預かりましょうか」と四人のもとへ向かう。
「この桃、すっごい甘いんですよ」
そう言った野乃からフォークに差した桃を一切れもらって口に入れる。
「ほんとだ、小ぶりだけどすごく甘い」
口の中いっぱいに広がった桃の甘みや、感想を言っているそばからフォークを伝って滴り落ちてくる果汁は、本当に瑞々しい。
まるでこの子たちのようだと渉は思う。ぎゅっと詰まった甘さと、はち切れんばかりの瑞々しさ。喉を過ぎればわずかに残る、桃独特のあの渋み。
みんな、この桃の味も大人になっても忘れないのだろう。あのとき飲んだ、渉の壊滅的に先鋭的だったラテアートのクマと、その味も。
そのとき、リンリンと店のドアベルが鳴り、一人のお客様が入ってきた。渉はさっと席を立つと、いつもの少しおかしな台詞でお出迎えする。
「いらっしゃいませ。ここは恋し浜珈琲店です、お好きな席へどうぞ」
「……あの、失恋を美味しく淹れてくれるってブログで見たんですけど」
「はい、あ、いえ。僕はただお客様にコーヒーをお出しするだけですので。でも、お話ししてすっきりすることもあります。よかったらお聞かせください」
ほっとしたように緊張した顔をほころばせたその人は、野乃たちに軽く会釈をすると窓際の席へ腰を下ろした。
オーダーはカプチーノ。練習に練習を重ね、リーフの形ならなんとかそれらしく描けるようになった渉は、それを銀盆へ乗せ、お客様のもとへと運ぶ。
変わっていくもの。変わらないもの。
渉は、この『恋し浜珈琲店』はどちらだろうか。
ふと四人を見ると、いつものメンバーである野乃と元樹君以外の二人は、揃って席を立つところだった。「ご馳走様でした、明日学校でね」「授業のノート見せてあげるから早く治しなさいよー」とそれぞれに言って帰っていく二人に、野乃と元樹君が手を振って応える。
今日はあいにくの薄曇りだが、まだ外は十分に明るい。考えるまでもなく、二人が気を利かせてくれたのだとわかる。――もしかしたら、元樹君にも。
「あの、えっと……」
「ああ、この二人は相談役です。僕よりうんと聞き上手ですし、もしかしたらお客様でも気づいていなかったことに気づいてくれるかもしれません。お邪魔ではなかったら、どうぞ僕たちにお話しして頂けませんか? 頼りになる子たちですから」
残った高校生二人に戸惑いの表情を浮かべるその人に、渉はそう言って笑った。
渉はいまだ、変わっていくものと変わらないものの間にいる。でもとりあえず、今はこのお客様にご満足していただくことが先決だ。
ここは、そういう場所。そして、瑞々しく青春を謳歌する彼らには、恋と友情のラテアートがよく似合う。
結局、野乃とまとまった時間が取れたのは、それから数週間後のことだった。
わけあって半年ほど学校に行っていなかった野乃と、卒業してもうかれこれ十年も経った渉はすっかり忘れていたのだけれど、学校というところには『期末試験』というものが存在し、体調が回復し火曜日から行きはじめたその週の週末には、恐ろしいことに期末試験の範囲が各担当教科の先生方から言い渡されたのだという。
これは渉の失恋の謎を解いてもらっている場合ではない。
それからは放課後、例の四人で図書室に寄って試験勉強をしたり、店でも四人で教科書とノートを広げ、額を突き合わせるようにしながら、ああでもない、こうでもないと勉強する毎日が続き……。
やっと試験から解放されたのは、七月も十日過ぎ。採点済みの答案用紙が全部揃ったその日の夜、ようやく野乃とまとまった時間が取れたというわけである。
「すみませんでした、あれからもう何週間も経ってしまって……」
「ううん。俺も期末試験のことはすっかり忘れてたから。そういえば、あるんだよねぇ。甲子園の地方予選のこともあるから、一学期ってけっこう早めに試験をしちゃうところもあるし。どうなの? 今年の邦陽高校はいいところまでいけそう?」
夕飯後。後片付けを終え、食後のコーヒーとミニトマトのシロップ漬けをデザートにしながら、渉と野乃は店内の適当な席に向き合い座っていた。
店はもう閉店した。長い話になるだろうことはわかっていたし、どうせ午後六時を過ぎれば客足はぱったり途切れる。
尋ねると野乃は、大皿に盛ったシロップ漬けを何個かまとめて小皿に取り分けつつ、
「うーん、どうなんでしょう。毎日遅くまで練習してるみたいですけど、汐崎君たちから聞くと、二回戦突破がいいところかもしれない、とかなんとか。勝ってほしいなとは思いますけど、私立はやっぱり強いですから。公立校はちょっと歯が立ちませんよね」
ぱくり。皮がしわしわになったトマトを一つ、口に含んだ。
「そっかぁ。でもまあ、私立を引き合いに出されちゃうと、二回戦が限界かなぁ」
「でも、野球部の人たちは楽しそうですし。今年の邦陽高校は、もしかしたらダークホースかもしれませんよ。実際に試合をしてみなきゃ、結果はわかりません」
「そうだね、頑張ってもらいたいね」
「はい。力を出し切ったって思えるまで、頑張ってほしいですよね」
そんな会話の最後に、渉もトマトにプチっと爪楊枝を刺し、甘酸っぱいそれを一つ、口に入れた。
ちなみにこのミニトマトも、以前おすそ分け頂いた近所に住む家庭菜園が趣味のおばあさん――トヨさんがくれたものだ。
なんでも今年はトマトの実の付き具合が非常にいいそうで、一人では食べきれないからと数日に一度、持ってきてくれる。
それをシロップ漬けにして野乃と食べたり、トヨさんにおすそ分け返しをしたりと、渉のご近所付き合いもなかなか堂に入ったものだ。
新鮮な野菜をいつもおすそ分けしてもらっているので、おかげさまで野乃も渉も身体の調子がすこぶるいい夏のはじまりだ。
それから少しの沈黙。
コーヒーカップからゆらゆらと立ち上る湯気を見るともなしに眺めていた渉は、よし、と一つ自分に気合いを入れて、つと野乃を見る。野乃もその視線を感じて顔を上げた。
「――この前の彼女の話、続きを聞いてくれる?」
そうして渉は、ブラックコーヒーに一口、口をつけた。
*
彼女――小湊知世は、一言で例えるなら透明な人だった。物理的にではなく、彼女から醸し出される雰囲気や空気感が、渉には透明に思えたという話だ。
きっと、彼女が持っていた〝ある特徴〟も、その一端を担っているのだろう。とにかく渉は彼女を一目見たときから〝透明だ〟と感じていたので、彼女の印象はそれに終始する。
知り合ったのは大学時代。
同じサークルの一つ上の先輩で、新入生歓迎会のあったその日は、普段は顔を出さないらしい飲み会の席に珍しく彼女の顔もあった、というわけである。
サークルは至って普通のものだった。
天文サークルといって、その名の通り天体観測をするのが主な活動内容で、夏休みには合宿もあり、真夏の夜空を三十人程度のサークルメンバーで見上げ、写真を撮ったり記念撮影をしたり。それを学園祭で展示したりもした。
彼女と関りを持つようになったのは、お互いに一学年上がってからだった。
その年の新入生歓迎会にも彼女はすんなりと顔を出し、その帰り。二次会に行く様子もないのに、どうしてだか一向に帰ろうとしない彼女に不思議に思って声をかけると、
「ねえ、天体観測、しない?」
唐突にそう誘われ、渉が盛大に戸惑ったのは言うまでもなかった。
しかし彼女は、言うだけ言ってさっさと先を歩いて行ってしまう。
「ま、待ってください!」と渉が追いかけたのもまた、言うまでもなかったことで、結局大学のサークル棟まで戻り、部室から望遠鏡を持ち出し、構内にある広場にて天体観測をするに至るまで、渉は彼女のそばを離れられなかったし、帰りはついでに最寄りの駅まで送った。
あとで彼女と同じ学年のサークル部員にその話をしてみると、
「へぇ、珍しい。そんなこともあるんだねぇ!」
大変驚かれ、渉はどういう意味かとまた戸惑うことになった。
風変わりな人だなという印象はあの夜に鮮明に焼き付けられていたが、そんなに驚かれるものでもないように渉には思えていたからだ。
大学は何かと変わり者が多い。この一年でそれをしっかりと認識し、順応していた渉には、普通に許容範囲だったのだ。
しかし先輩は、違うと首を振る。