それから三日三晩、雨はしとしとと降り続いた。
野乃はすっかり渉とは目を合わさなくなり、それでも一緒に摂る食事の席では、沈黙が怖いのか、よく学校の話をするようになった。ちぐはぐなその態度に渉は何度も口を開きかけた。
でも、どう声をかけても野乃を傷つけてしまう気がして、他愛ないその話題に相づちを打つだけだった。
四日目の朝。
「――この前は取り乱したりしてすみませんでした。お互い、あのことは忘れませんか?」
制服に着替えて朝食の席に下りてきた野乃は、困ったように笑って渉に言った。
汐崎君が渉さんと何かあったのかってしつこく聞いてくるから、もう嫌になっちゃって……。そう付け足した野乃に、渉は「……そうだね」と答える以外の選択肢は持ち合わせていなかった。
元樹君にまで心配をかけてしまっては、大人としてどうかと思う。
その日は、計四日間の雨が嘘のように朝から綺麗に晴れていて、朝食を食べ終わり流し台に食器を下げた野乃が「いってきます」とドアベルを鳴らして登校していったときの顔は、ちょうど逆光になっていて少しも見えなかった。
どんな顔で言ったんだろう。どんな気持ちでここにいるんだろう。考えるけれど、十年前の幼い野乃がこぼした屈託のない笑顔も、このときの渉は思い出せなかった。
「いってらっしゃい」
笑って言ったつもりだったけれど、上手く笑えていたか、自信がない。でも、野乃には笑っていてほしいのに、それを奪った渉には、笑顔で送り出す資格などあるはずもない。
やがて上辺だけの会話をするようになってから一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。
邦陽高校では六月中旬に体育祭があるとかで、部活に入っていない人の中から決められたという体育祭実行委員になった野乃は、自分が出る競技の練習や委員の仕事で帰宅時間が今までよりぐんと遅くなる日々が続いている。
元樹君もまた、実行委員に決まったそうで、いつも律義に野乃を送ってくれ、渉は有難いやら申し訳ないやらといった心境だ。
「……野乃、気の強い女子に無理やり委員にさせられたんですよ。早く学校やクラスに馴染んでもらいたいから、なんてもっともらしいことを言って野乃を推薦してましたけど、あれ、完全にやっかみです。野乃と何があったのかは聞きませんけど、つらそうにしてると思ったら、ちゃんと声かけてやってください。あいつきっと、渉さんから声をかけてもらうのを待ってます。淡々としてるように見えて、いっぱいいっぱいなんです」
「でも、どう声をかけたらいいのか……」
早々に二階へ上がった野乃を気遣うようにそちらに視線を投げた元樹君にそう言われても、渉は困るばかりだ。
委員に決まったから体育祭が終わるまでは帰りが遅くなる、と言われたとき、そうじゃないかとは思った。野乃があまり楽しそうではなかったからだ。
「何言ってるんですか、ここでの保護者は渉さんでしょう」
「そうなんだけど……一度、声のかけ方を間違えると、次が怖いんだよ」
「……」
むっとした顔で元樹君が黙る。
「……そんなの、渉さんらしくもない」
「ごめんね、今日も送ってくれてありがとう」
言って、あからさまに追い出そうとしたら。
「最近の渉さんのコーヒー、正直、美味しくないっす」
元樹君は悲しそうに微笑して、ドアベルの向こうに消えていった。
「……それは俺も自覚してるよ」
ズバズバ言うなぁ……と苦笑しながらも、渉もその通りだと認めるしかなかった。
「ああ、もうっ! 女子ってほんっっと、わっかんねー!」
その日の恋し浜珈琲店では、重くどんよりと垂れ込める分厚い雨雲を吹き飛ばすがごとき元樹君のそんな遠吠えが、もうかれこれ四回は響いていた。
「そんなもんでしょ、女子なんて。ていうか、汐崎君が鈍感すぎるんだよ。世話焼きでも庇護欲でもなんでもいいけど、わかったら必要以上に構わないでくれる?」
対する野乃は氷点下並みのクールさでそんなことを言う。その隣では、嘉納《かのう》響希《ひびき》さんという女の子が、どうしたらいいのかわからずオロオロするばかりだった。
事の発端は、二日後に迫った体育祭の練習中だったという。
実行委員の仕事でクラス全員参加のムカデ競争の練習になかなか顔を出せなかった野乃を、実行委員に祭り上げたクラスの一女子グループが責め、推薦したのはお前たちなんだからそれは筋が違うだろうと割って入った元樹君にまで火の粉が降りかかり、最終的には「そうやって汐崎はいつも宮内さんを庇う!」と、グループの中の一人に泣かれたらしい。
さすがにマズいと思った元樹くんは、逃げるようにしてその場から走っていった彼女を追いかけた(正確にはグループのほかの女子たちに追いかけろと言われたらしいが、悪いことをしたと思ったのは本当だから追いかけるのは自分の役目だと思ったそうだ)。
水飲み場付近で追いつき、とりあえず「みんなの前で悪かった」と謝るに至る。
すると彼女――三川《みかわ》さんは、泣きながら「そんなに宮内さんが好きなの?」と尋ねてきたそうだ。
ずいぶん話がかけ離れていて質問の意味がよくわからなかった元樹君は、「好きとか嫌いとか、今はそんな話をしてるんじゃないだろ」と、優しく諭すつもりで本筋に戻そうとした。
が、再びわっと泣き出した三川さんは言った。
「汐崎なんか、大嫌い」と。
そして彼女はそのまま練習には戻らず、場が白けてしまった今日は練習なんてしている場合ではなくなり、野乃たちは早めに帰ってきた――と。
そういうわけである。
なぜ嘉納さんまでいるのかといえば、彼女もまた体育祭実行委員に祭り上げられた人の一人だったからだ。
一クラス男女二人ずつが選出されるという委員は、元樹くんのほかに行田《ゆきた》君という男の子がいるらしい。しかし彼は塾に通っていて、今日は塾の日。
もともと運動は好きではないらしく、練習がなくなったので早々にそちらに向かったというわけで、今の『恋し浜珈琲店』には高校生三人と渉の計四人が在店している。
ちなみに、今日も客入りはぽつりぽつりといった具合で、午後になると実にのんびり、ゆったり……早い話が閑古鳥が鳴いている状態だった。
なので、いくらでも愚痴っていいけれど、あんまり声が大きいと響くからほどほどにしてほしいなと渉は眼鏡の奥で苦笑する。
まあ、青春らしいと言えば、青春らしいけれど。
「鈍感すぎるってなんだよ。俺はクラスでカーストっぽい序列があるのが許せなかっただけで、大嫌いなんて言われるようなことを言った覚えはねえよ。構うなって言われてもこれが俺のやり方なんだから今さら変わんないし、つーか転校生が来たんだから、みんなしてよそよそしいのもおかしいだろ。俺はただ、クラスみんなで仲良くさぁ」
「うん、それはわかるよ。おかげでクラスにもだいぶ慣れたし。でもそれ、一ヵ月以上も前の話でしょ? 汐崎君のその発想がそもそも、高校生のあれこれを考えてないっていうことなの。カーストがないのはいいことだよ。いちいち顔色を窺わなくて済むのは、とっても救われる。でも、理想論だよ、そんなのは。なくならないの、永久に」
「……んだよっ。なんでそんなに冷めてんだよ、野乃は」
「汐崎君が熱すぎるだけ。だから何度も鈍感だって言ってるの」
「つーか、それも意味わかんないんだけど。なんなの、俺の何が鈍感なの」
「全部」
「ぜ、んぶ……」
その間も、野乃と元樹君のいつもの口ゲンカは止まらず、野乃の間髪入れない「全部」に元樹君はうぐっという感じで半身を引く。
相変わらず嘉納さんは二人の様子をオロオロしながら見ているばかりで、チラチラと『どうにかしてください……』と渉に助けを求める視線を投げかけるだけで精いっぱいなようだ。
元樹君からかいつまんで事情を説明してもらっただけで、渉だって三川さんが何を思って〝大嫌い〟なんて言ったのかがわかったのだけれど。
というか、むしろあの場面ではその台詞しか出てこないだろうと察せるのだけれど、当の元樹君はこの通り、いまだにピンとこないらしい。
それが野乃を若干苛つかせるのだろうし、嘉納さんのこともオロオロさせる原因になっているとは……元樹君は夢にも思っていないのだろう。
罪作りな男だな、と渉も若干、呆れてしまう。
野乃がいつも必要以上に元樹君を煙たがっているのには、もしかしたらこういう理由も含まれているのかなと思っていたのだが、渉の予想もだいたい当たっていたらしい。
嘉納さんも含め、ここにいる三人はわかっているのに、元樹君だけわからないなんて……。三川さんも、なかなか手強い男の子を相手にしているようだ。
「お待たせ。今日は蒸し暑いからアイスコーヒーね。ミルクと砂糖はご自由にどうぞ」
「あ、渉さーん。野乃がめっちゃ冷たいんですけど、どうしたらいいんすかね……」
人数分のコーヒーと、ミルクとガムシロップを入れた籠を持って行くと、この間ズバリ『美味しくない』と言った元樹君がおいおいと泣きついてきた。
こういうところは相変わらず可愛らしいなと渉は思う。それはそれ、これはこれとして場面を切り替えることのできる彼のほうが、よっぽど大人だと思い知らされる部分でもある。
……ある一点ではかなり恋愛偏差値は低いけれど。でも、何か欠点がないと、人間、可愛げがない。
と、思うことにしようと思う。けっして根に持っているわけではない。
渉も最近、淹れたコーヒーが美味しくないと思うことしばしばだ。梅雨のせいで豆の味が若干落ちているわけではないのはわかっている。原因は、自分の中にある。
「はは。じゃあ野乃ちゃんが、はっきり言ってあげたらどうだろう?」
「てことは、渉さんもわかって……? え、じゃあもしかして、嘉納も?」
「うん、まあ一応ね」
「……うん。私もわかってる。たぶん、わからないのは汐崎君だけというか」
「――なにっ?」
渉を見て、野乃を見て、もう一度渉を見てから嘉納さんを見た元樹君は、一人、戦慄の表情を浮かべる。