「ここに来たのは、弘人への想いを引きずったままじゃ、本当の意味で担任についていけないと思ったからなんだ。担任はそれでもいいって言ってくれてるけど、本心では早く吹っ切ってほしいって思ってるはずでしょ。私だったらそうだもん。だから、このシガレットケースも、弘人が好きだったヒノキの香りがする香水も、自分の手元に置いておくのは最後にしようと思って。……でも無理だね。どこかに捨てるつもりだったんだけど、拓真を見て弘人が帰ってきたって勘違いしちゃうし、結局、捨てきれなくて今も持ってるし。こんなんじゃ、赴任先に一緒には行けない。美容室を辞めて退路を断ったはずだったんだけど、ここに来たら、かえって踏ん切りがつかなくなっちゃった……」


 失恋を美味しく淹れてもらうつもりだったんだけどなぁ。


 そう言って苦笑した珠希さんの右頬に静かに涙が伝い落ち、エスプレッソに溶け込む。こんなはずではなかったという彼女の心中は、推し量るのも憚られて胸が痛い。


 それと同時に、渉はひどい焦燥感に駆られた。


 ここに店を構えていれば、どうにもならない想いを抱えたまま立ち止まってしまっている人たちが訪れる。