彼氏がいなくなった


『やだそれ』

『褒めてんだよ』

『芥川?』

『そそ』


 “蜘蛛の糸”は唯一の救いの手立てなんだよ。


 希望に満ちた顔で言っていたが、日野よ。確かあの物語、罪人は縋った糸ごと地獄に落下するんじゃなかったっけ。


 ❄︎


 “新聞配達屋-まごころ-”は朝の配達を終えて、私が顔を出すとおじさんが暖かいストーブの前でのんびりと新聞を眺めていた。

 入り口付近で突っ立つ私に気付いたらしいおじさんは、口に添えていた湯呑みを置く。


「えっと…きみは」

「日野、今日来てませんか」

「えっ?」

「日野です。日野颯太。身長170半ば、茶髪さら毛の草食だん」

「い、いやいや知ってるけど。え。きみは…もしかして多香さんかな?」

「よくご存知で」

「やっぱりか…いや、日野くんから噂はかねがね聞いていたよ。褒めていた試しがなかったが、可愛らしいお嬢さんじゃないか」


 日野め。見つけたらフルボッコにしてやる。


 
 
 おじさんは困ったように眉を顰めると、えっと、と口籠った。かける言葉が見つからないと言った感じだ。無理もない。だって白昼堂々、平日に突然アルバイトの彼女が押しかけたんじゃ、店長さんだってどうしたらいいかいいかわからない。

 頰を掻いた店長さんが一歩踏み込んで、言葉を発する前にあっと、声を上げて先手を打った。


「日野を探してます」

「えっ?」

「どこにいますかね」

「…」

「見つけて殴ってやりたいんですけど」

「…」


 私の言葉に、店長さんは目をまるくして、言葉を探すように目をあちこちに散らして、それきり何も言わなかった。

 おじさん改め、無駄にハゲ散らかったろくすっぽ役にも立たない新聞配達屋である。

 善良な市民の人助けをするのはいつなんどきも警察ばかりではないと、証明してくれる人間が一人でもいていいんじゃなかろうか?

 これ以上問い詰めても無駄だと割り切った私はそれ以上追求せずにぺこりと頭を下げて、相変わらず真冬の平日を剥き出しの生足という制服姿で。今一度旅に出ることとする。

 何かを探すようにふらふらと歩く。いや彼氏を見つけたいだけである。
 それがこんなに骨が折れることだとは。


(日野のばかやろうめ)


 どこ行ったんだよ、あいつ。







 横断歩道の赤信号をぼんやりと見上げて、私は踵を返して逆方向に歩き出す。



 

 辿り着いた日野の家には四角い黒い箱を掲げた人間が大勢集まっていて、パシャリパシャリと音を立てていた。あれはカメラで、人混みは取材陣という名の野次馬である。

 その野次馬を浸入させまいと奮闘するのは、青い服に赤い棒を持った大人。大声が行き交う中、黒と白のツートンカラーの車が赤いランプを頭に光らせて何台も停まっていて、


 家から女性を引っ張り出して車に無理やり乗せようとしていた。

 人混みの中棒立ちだった私は、髪がほつれ、頰がこけ、骸骨のようになったそれ。

 憔悴しきった女性と目があう。


「お前が殺したんだろう!お前が殺したんだろう!息子を返せ!!返して!!息子を!!あああ!!」

「早く乗せろ!!」

「返してよお!!!」








 大人たちに捕らえられ、やがてどこかへと消えてしまう車。不躾にもそれを連写した野次馬は波のようにさっと引いて、動けないでいた私はその場にひとり取り残される。ふとそこに気配。

 横を見る。学ラン姿の一人の男子高校生が、一拍遅れて私に振り向き、やんわりと微笑んだ。



「日野」





 
 
「さがした」

「すまん」

「心配した」

「すまん」

「お腹すいた」

「なんか食い行こ」
 
 

 

「さんみー」

「鼻の頭赤いよ」


 まず冬に温まるにはラーメンだろ。

 学校帰り、ゆめ屋に次いで春夏秋冬問わず通いつめた行きつけのラーメン屋がある。空腹時、二人が必ずと言っていいほど口を揃えて候補に挙げる虎飯(とらはん)”は、チャーシューも鳴門もきくらげも麺も、そのどれを取っても最高に美味い。

 因みにラーメンの要とも言えるスープは、ちょっと味が濃くて辛い。


 入るなり私は豚骨塩バターラーメンを、日野は味噌コーンラーメンを注文して黙々と食した。
 二人してスープを飲み干して、げふりとゲップを吐き出すと鼻を垂らした私に、隣から紙ナプキンをあてがわれる。


「さんきゅーです」

「頼むよ仮にも女子」

「日野が女子力高いんだろ」

「乾燥対策にスキンケア超するもんね」

「マジでちょっと引いた」

「と、二組の藤村が言っていた」

「藤村くん女子力たっか」


 ねーよな、って笑う口ぶりからして賛同してるようだけれど、お仲間、と肩を並べるには日野の顔は男の割に、女の子みたいに小綺麗すぎて困る。

 中学の頃は野球部だったらしい。その割にあまり日に焼けてない肌に(夏場はちょっと焼けるけど)、ほくろや出来物の一つない。お目目はくりくりだし二重で栗色の髪はサラサラだ。でも眉毛だけ見ると男っぽい。思春期の今時分、吹き出物に悩まされる女の子の気持ちがこの男にはどれほどわかるんだろうか。

 一体この肌にどんな秘訣が、と食い入るように見入っていたら痛い痛い、と顔面を手で避けられた。食い入るどころか、日野のほっぺたに顔面を食い込ませていたからだ。

 ごめん、と笑ってからうーんと腕組みをすると、紙ナプキンで口元を拭った日野が、得意げな顔をした。


「ま、藤村に負けず劣らず美肌だけどな俺は」

「黙れウルツヤ肌」

「認めてんじゃねーか」

 憎たらしいいいいい、と手のひらで日野の両頬をサンドしてぐりぐりしてやったら、されるがままの日野が白眼をむいた。

 女子も嫉妬するウルツヤ肌の持ち主は新聞配達に夜ふかし不節制偏食好き嫌いその他諸々。肌ズタボロ要素四六時中常備してる癖してティーンエイジャーってそれだけを武器にゴールデンタイムの就寝一つで女子が羨む美肌持ってんだから気に食わない。

 私だって負けず劣らず美肌のつもりではある。でも生理前とかはすぐにニキビ出来てしまうし自然の摂理には抗えない。

「日野のおでこに特大のニキビ出来ますように」

「やべー金貯まりそー」




 

 ラーメン屋「虎飯」を出て、二人揃って爪楊枝で歯をしーはーしていたらサラリーマンのおじちゃんに怪訝な目で見られた。

 ああ確かにね。白昼堂々、それも平日のこんな時間に高校生二人が学校揃ってしーはーしてたらちょっと補導案件だわな。
 やむなくぽきん、と爪楊枝を折って吸い殻入れに入れる。日野はいつのまにか既に爪楊枝を捨てたのかもう涼しい顔で見ていたので、にへ、と笑ってみせた。


「おしゃ。腹ごなし済んだことだしー、どこいくなにする」

「ゆめ屋は?」

「日野が遅いからおひとりさましちゃったっつーの」

「マジかよ」

「はいはい!」

「はい足立さん」

「死体ごっこ」

「小学生かお前は」

「道路に寝転んで死ななかったら勝ち」

「ガチで轢かれたらどうすんだよ」

「日野とか殺されても死ななそう」

「いや殺されたら死ぬわ」

「じゃあなんか他に案あるんですかー」

「んー。じゃ、冬に花火とかどーすか」

「イカすー!」

「あ、やべ…一度こうなったら聞かないんだよな多香は」

「だってロマンチック!やりたいやりたい超やりたい!」


 ぴょんこぴょんこ、と跳ねんばかりの勢いで前のめって挙手をしたら、はいはいって宥められた。でもそこで一抹の不安が過ぎる。


「あ、もしや花火…今冬だから売ってない」

「です」

「んだよー期待させといて落とすなんてあんまりだ」

「どこ行ったって手に入らんだろうな。“普通”は」

「“普通”は?」


 がっくりと肩を落とした私が振り向いて首を傾げると、日野はふふんと微笑んだ。


 ❄︎


「っひょ─────!すっげー!」


 通学路の途中、川沿いの土手で手持ち花火に火を点けると勢い良く光が飛び散った。こういうのは普通夏の夜にやるもので、冬の昼にやるものでは到底ないだけにミスマッチが過ぎるけど。
 乾いた空気を火花が虫のように迸って、わあいっと勢いよく振り回す。


「惚れ直した?」

「今惚れた!」

「いやおっっっそ」


 しょっちゅうする定番化したやりとりに、顔を見合わせて笑い合う。

 “普通”ならどこに行ったって手に入らない花火は、日野のアルバイト先・新聞屋「まごころ」のロッカーで眠っていたものだ。夏場に店長から譲り受けたものをすっかり忘れてロッカーに入れていたそうなのだけど、幸いそれが未開封のままで置いてあったこと、また新聞屋という紙に包囲された乾燥地区に置かれることで幸運にも湿気の侵入を防ぎ、今こうして季節外れの花火を出来るに至ったのではないか、と言うのが日野の見解。

 私からすると私のことを門前払いしたハゲ店長にもう一度会うのは嫌だったけど、お店に人がいなかったのが続く三つ目のラッキーだ。



 

「ほんと、大型ディスカウントショップで買ったやつっぽいからパッケージの耐久性とかも期待してなかったしダメ元だったんだけどな、まさかつくとは。おれ、天才」

「うんうん!大統領くらい偉い!」

「そこまで言うと恐縮」


 わははーっ、と両手に2本ずつ手持ち花火を携えてぐるぐる回る私に対し、日野はしゃがみながら地味でちっぽけな手持ち花火をそれは退屈そうに眺めていた。

 白昼堂々、かつ平日の真っ昼間にこんなことをしているのが顰蹙を買ったのか、土手のあちらこちらでは犬を散歩中のおばさんや買い物帰りの主婦さんがこっちを見降ろして何やらひそひそと話し始めている。


「わあ。見ろ日野、我々めちゃくちゃ有名人。なぜ」

「お前が現在進行形で両手に携えてるもん見ろ」

「てかさ、なんで冬場に花火ってだめなん?空気乾燥してるから?乾燥した雑草に引火して火事の元になったら危ないから?」

「はい多香ちゃん大正解。おれたちいま割と反社会派だよわかったら今ついてる両手の花火颯太くんに寄越そうか」

「反社会派!!かっけえ!!」

「ばかばか多香振り回すな!」

「こら───!お前らそこで何やってんだ!!」

「ほら見ろ言わんこっちゃない!!」


 ピー、と甲高いホイッスルの音に加えて駆けて来る空町駐在員の影を見て、その姿に追いつかれる前にやべやべと二人揃って慌てて土手を駆け上がる。

 花火のいくつかはまだ残っていたけれどそれも全部置き去りにして走った。だから振り向いたら楽しかった思い出だけが散らばっているのが見えて、それが名残惜しくて足が縺れる私をはよ来いって日野の大きな手が引っ張った。

 ここで振りほどくのは違うと思ったし、後にも先にもきちんと手を繋いだのはこの時だけだったような気がする。いつも気恥ずかしくてそれすら拒んでしまう手を、この瞬間だけは、振り払わずに、強く握って、手を繋いで走った。


 ❄︎


「よお、お二人さんお揃いで」

 寄ってらっしゃい見てらっしゃい、何か壊れ物があればなんでも安価で直すよ大澤工具店。そんな錆びれた表看板に、お世辞にもマッチしてます、とは言い難いルックスのひとがいる。そのお店の店主でもある、黒髪、ロン毛に作業着姿の大澤鉄人(おおさわてつじ)通称てっさんは、

 年齢不詳のくせして小麦色に焼けた肌に乗った程よい筋肉が乙女心を釘付けにするその典型だ。頭にタオルを巻いて鳶職みたいな見た目が物凄いどストライクなんだけど、今日はそれどころじゃない。


 

「てっさんちょっと匿って!」

「んだよめんどくせーのはごめんだぞ」

「違う違う!直して欲しいもんがあって来ました!」

「承る」

「ネジ外れてんだよまじで!大変なの!」

「自転車の?」

「多香の」

「日野てめコラ表出ろ」


 いま外出たら見つかる!と叫ぶ日野の頭をぐいぐい掴んで外に出してやる。でもそこは悔しいかな男と女で、力量差で負けて結局散々揉み合った末二人して店前にすっ転ぶ形になった。野良猫の喧嘩みたいに、頭も服もぼろぼろになって肩で呼吸する私たちに、てっさんは呆れた様子で腕を組む。


「お前らさ、嘘でも依頼に来たとか言えよな」

「学生だもん、あってもてっさんより金ないよ」

「商売上がったりだっつー話。生憎こちとら昼間っからお熱いお二人さん相手にしてるほど安かねーんでね」

「日野くんあれ嫉妬?三十半ば越えても恋人出来てないから嫉妬してるのかね」

「結婚間際で逃げられた花屋の店主のことまだ引き摺ってんのかね」

「お前ら死ぬ覚悟は出来てるな」


 ひと世代前の殺し屋のようなセミオートのサングラスにチェーンソーを携えるてっさんを前にして、冗談冗談と二人して手を振り回す。

 真冬だというのに上のツナギを脱いで剥き出しになるタンクトップと上腕二頭筋にうはうはしていたら隣から日野に叩かれた。


 頭にタオル、煙草、タンクトップonツナギそして見える上腕二頭筋。この三拍子のロマンは男のお前にはわかるまい。




 


(しかもロン毛だぞ神だ)


「冷やかしならよそいってやれ、つーか颯太お前は前修理してやったチャリのチューブ代払え」

「ツケといてっつったじゃんそんな簡単に男子高校生が金稼げると思うなよ」

「思うなよ」

「多香エコーすんな。っつーかお前のチャリはあれ壊れすぎだ前にもチェーン外れてたろ、いい加減新しいのに買い替えろって。修理費の方が高くついてんぞ」

「さて多香さん僕らは公園にでも行きますか」

「ラジャーっすばいばいきーん」

「死ねバカップル側溝に落ちて死ね」


 ❄︎


 時折ホイッスル駐在員という追っ手の姿がないかを振り返ったりしていたけれど、こっちが過剰に心配するほどもう他人は私たちにも関心がないらしく、結局成り行き任せで町内のだだっ広い公園に辿り着いた。

 公園と言うよりかは広場に等しい。遊具の一切ないそこは夏休みになれば空町住民が朝ここへ来てラジオ体操に勤しむし、朝方の散歩やランニングに人はこの公園をよく使って、前にホームレスのハーモニカをよく吹いている爺さん・通称ハーモニカ爺さんに飴をもらったことがあったが、日野には今時何があるかわかんないんだから簡単に近寄んなとドヤされたこともあったっけ。


(て、なんで過去形?)





 ざり、と砂の音がして振り向くと、飲みものを買ってきた日野が、萌え袖した両手にココアとコンポタをぶら下げていた。

「どーっちだ」

「………ココア」

「ん」

「と見せかけてコンポタ」

「どっちやねん」

 普通ここで王道の女子はココア選ぶやろ、とエセ関西弁で告げる日野の口ぶりは極々自然だった。そういやこいつ小学校までは関西にいたんだっけ、と飲み込んで、

 手を合わせると「いただきます」とコンポタ缶のプルタブに手をかけた。が、開かない。つい最近爪切ったばっかなんだよ、と猫が扉を開けたいときみたいにカリカリカリカリしていたら、横から缶を掠め取った日野がぷしゅ、と缶を開けて私に手渡してくれた。


「世話が焼ける」

「イケメン」

「知ってる」

「黙って」