周囲に気を使う事もなく、同調する必要もなく、自分自身を出せる場所だ。


「そういうことだ」


あたしの質問に工藤先生は頷いた。


あたしはゆるゆると口から息を吐きだし、隣に座っているみゆなへ視線を向けた。


みゆなはキュッと口を引き結び、下をむいている。


「今日1日だけだ。明日からはまたここへ来ればいい」


工藤先生の明るい声が、余計に胸を重たくした。


今日1日だけかもしれない。


けれどあたしたちにとってその1日は、とてつもなく長いものになるだろう。


「ほら、立った立った!」


工藤先生はそう言い、あたしたちが座っているビニールシートを強引に片付け始めた。
こうなると立ち上がざるを得ない。


しぶしぶビニールシートから下りて、健太と視線を見交わせた。


健太は眉を寄せ、肩をすくめてみせた。
「さぁ、自分のたちの教室に戻った戻った!!」


工藤先生があたしの背中を押して歩き、屋上のドアを開いた。


階下へと続く灰色の階段に呼吸が苦しくなるのを感じる。


後ろからみんながゾロゾロとついて来ているのを確認すると、あたしは階段に足をかけた。


今日1日。


たった1日。


自分自身にそう言い聞かせて、重たい足を引きずるようにして教室へと向かったのだった。
一週間ぶりに1年3組の教室へ向かう。


あたしの心臓は入学式の時と同じくらい早鐘を打っていた。


いや、もしかしたらそれ以上の緊張感かもしれなかった。


1度教室に行けなくなってしまった生徒が教室へ戻るのは、簡単なことじゃない。


今は休憩時間のため、廊下には沢山の生徒達が出てきていた。


時々あたしに気が付き、驚いた表情を浮かべる子もいる。


そう言う子たちは、あたしの事情を知っているのだろう。


そう思うと居心地が悪くなり、すぐにでも青空クラスへ戻りたい気分になった。


けれど、その気持ちをグッっと押し殺して、あたしは1年3組のドアの前に立った。


教卓側から入る勇気はない。


ロッカーが並んでいる後ろのドアを、極力音を立てないようにそっと開く。
その瞬間、教室中が水を打ったように静かになった。


あたしの心臓がドクンッと大きく跳ねて、嫌な汗が噴き出して来る。


けれど、ここで回れ右をするわけにはいかなかった。


ゴクリと唾を飲み込み、1年3組の教室へ一歩踏み込んだ。


途端に、クラスメートたちからの視線が突き刺さる。


正に針の筵だった。


あたしは視線を下げて、逃げるように自分の席へと向かった。


机の上のラクガキは綺麗に消されていて、ひとまずは安堵した。


椅子に座り、教科書を準備する。


そんな中、クラス内から聞こえて来る会話はなかった。


みんながあたしを見ている。


その気配だけで、空気がピリッと肌に突き刺さる感じだ。
「今日は来たんだ? っていうか、まだこの学校にいたんだぁ?」


栞奈の声だ。


振り返らなくてもわかる。


あたしは教科書を手にしたまま、硬直してしまった。


栞奈の声を火切りにしたように、あちこちからざわめきが沸き起こる。


時にはあたしをあざ笑うような声も聞こえて来た。


全身から汗が噴き出す。


冷静になれと自分自身に言い聞かせてみても、うまく行かない。


「死んだのかと思ってたねぇ?」


美月が甘えたような声で栞奈に言う。
栞奈の隣はすっかり美月にとられてしまったようだ。


少し前まではあそこはあたしの場所で、みんなをからかう側だったのに。


その頃の自分を思い出して、キリリと胃が痛くなった。


人をからかうことが、人を下に見ることがあんなにも楽しかったのに、今のあたしにはその気持ちが全然理解できなくなっていた。


「どうして今日は来たの?」


栞奈がそう聞きながら近づいてくる。


足音が近づくたびに、あたしの呼吸は荒くなっていく。


来ないで。


心の中でそう願うが、栞奈には届かない。


いい獲物を見つけたように、ニタリとした粘っこい笑顔を浮かべている。


あたしはそんな栞奈からすぐに視線を逸らせた。


栞奈や美月を本気で相手にするから辛くなるんだ。


なんでもないように、やり過ごせばいい。
「ねぇ、聞いてるんだけど?」


栞奈があたしの席までやってきて、そう言った。


「ここが教室だから」


あたしは短く返事をして鞄を机の横に引っかけた。


「確かにここは教室だけど、もう菜々花の居場所はないよね?」


栞奈は小首をかしげてそう言った。


あたしは答えない。


あたしの居場所がどこにあるのか。


それは、あたし自身が決める事でもある。


「もしかして菜々花ってドМ? イジメられるために来たとか?」


美月が栞奈の後ろから楽し気な声でそう言った。


あたしは握り拳を作り、俯いた。


こんなヤツの言う事は気にしない。


栞奈がいなければなにもできないんだから。
そう思って黙り込んでいた時、教室の前のドアが開いた。


生徒たちの私語がスッと消えて行く。


顔を上げて確認してみると、担任の先生が入って来たところだった。


女性の先生があたしを見て驚いたように目を見開く。


それからいつも通りの表情へ戻ると、教卓へ移動した。


「はい、じゃあホームルームを始めます」


その言葉に栞奈と美月は自分の席へと戻り、あたしはホッと息を吐きだしたのだった。
☆☆☆

最初からこの調子だと、1日教室にいることは厳しいかもしれない。


そう思って頭を抱える。


工藤先生は今日1日だけ頑張れと言った。


できればその言葉に従いたい。


でも……。


「枝松さん。ちょっと」


1時間目の授業が終わる頃、担任の先生に手招きをされた。


なんだろう?


最近教室に来ていないことを注意されるんだろうか。


そう思いながら、立ち上がる。


その瞬間、栞奈と視線がぶつかった。


こちらを睨み付けてきている。


なにも言わないが、無言の威圧感にたじろいた。