「まぁ、入れよ。」

 ぞんざいに言われて部屋に通されると、途端に安堵の溜め息が洩れる。

良かった、一慶がいてくれて…。

 少し落ち着いた處ろで、ボクは何気無く室内を見回した。高級そうなオーディオ・セット全てに電源が入っている。

テーブルの上には、コーヒーと煙草。
その横に、クラシック音楽の雑誌が山積みになっていた。

 積まれた本の上には、最新型の高音質ヘッドフォンが無造作に置かれてある。耳を澄ますと、そこから微かにピアノの音色が漏れていた。

 成程。
ノックに気付かなかった原因は、これか…。
ボクと彼を隔てていたのは、木製の引戸と、強力なノイズキャンセラーのヘッドフォンだったのだ。

何とも、一慶らしい『日常』だ。
大事な《裁定》の前日でも、ボクと違って余裕がある。

彼にとっても、明日は重要な意味を持つ日なのだが…時間の過ごし方は、普段と全く変わらない様だった。

 相変わらずのマイペース。

彼が側に居るだけで不思議に安心出来るのは、いつでも同じ時間の流れを作ってくれるからなのかもしれない。

 妙に感心していると、突然ガシッと頭を鷲掴みにされた。

「お前、何やらかした?」

 呆れた様な視線が突き刺さる。
こういう時の一慶は、ちょっと怖い。
身長差で、ボクを威圧するつもりだ。
…いや。今回ばかりは、怒られても仕方が無いとは思うのだが…。

「実は…」

 重く塞がる気持ちで、ボクは事情を打ち明けた。

「明日の事を考えていたら、急に不安になっちゃって──…少しだけのつもりで、練習をしていたんだ。そしたら」

「片方の眼だけが、戻らなくなった?」

 コクリと頷くと同時に、盛大な溜め息が頭上に降ってきた。

「お前ね──。」
「解ってる!解ってるから怒らないで!?」
「怒らないでって…幼児かよ?」
「ごめんなさい。」

「謝られてもな。やっちまったもんは仕方が無い。それで、他には?可笑しくなったのは左目だけか??」

「それが…。」
「それが?」
「頭が痛い…何故か、左半分だけ。」
「───。」

 正直に答えると、またもや深い溜め息が降って来た。

「まぁ、いいや。そこ座れよ、看てやる。」

 ボクの背をポンと叩いて、椅子を勧める一慶。

何だかんだ言っても、彼は、こういうところが優しいと思う。