「そうだね…」
祐介は…自身の考えを纏めるかの様に、束の間、睫毛を伏せてから答えた。
「普段は、あまりこの屋敷に寄り付かない人だったよ。仕事が済めば、さっさと姿を消してしまうんだ。でも…偶に泊まったりすると、よく東の対屋に呼ばれたな。僕とカズだけが特別に、中に入れて貰えたんだ。…子供の頃の話だけれどね。」
遠い目をして語る彼の、端正な顔を見上げながら…ボクは、言葉も無く立ち尽くした。
若い頃の親父の話を、おっちゃん以外の人から訊くのは、これが初めてかもしれない。あの親父が絵を描いている姿なんて、想像もつかなかった。
どうやら此処には、ボクの知らない親父が、沢山いるらしい──否。この屋敷だけじゃない。皆の心の中に、今でも親父は生き続けている。各々の中に、各々の親父が棲んでいるのだ。
何だか、複雑な気分だ…。
ボクが知っている『ボクだけの親父』は、一体、何処へ行ってしまったのだろう?
酒好きで。
休日には昼寝ばかりしていて…。
脱いだ服も片付けない、ちょっとダメな、ちょっと情けないボクの親父は──?
疎外感を覚えて…ボクは、我知らず唇を噛む。この屋敷に、ボクの『父親』は居ない。代わりに、六星首座・甲本伸之という名の『英雄』がいる。
それが何故か、とても寂しく思えた。
「薙。」
独り物思いに耽っていると、祐介が急に顔を近付けて言った。
「向こうに座って。立ちっ放しじゃ、話も出来ないよ。」
「…うん。」
促されて座ってはみたけれど、どうにも居心地が悪い。
それもその筈。ボクは今…閉ざされた空間に、祐介と二人きりなのだ。然程、親しい訳でもなく──況してや、第一印象が最悪だった彼と。
慣れない雰囲気に緊張していると、スイとグラスを差し出された。
「どうぞ。」
「あ…ありがと。」
蒼いグラスに、なみなみと注がれたのは、水晶を溶かした様な澄んだ日本酒だった。手吹きガラスの水玉模様が映り込み、キラキラと輝いている。
…宛ら、夜の雫を集めたみたいに。
ふと顔を上げると、祐介が静かな笑みを履いて、ボクを見ている。細めた眼差しに促されて…ボクはそっと、グラスに唇を近付けた。
仄かに、フルーツの様な香りがする。
透明な雫の集まりを口に含んだ刹那…舌に、ピリッと程良い刺激を感じた。
まろやかな口当たり。
雑味も濁りも無い、上品な後味の酒だ。
ゆっくりと喉の奥に流し込めば、微かな熱がポウッと体中に拡がる。
これは、日本酒ならではの温もりだ。
キン!と冷えた酒が体内に入ると、瞬時に熱に変わる。
その少し後から、フワリと良い香りが鼻孔に返って来て──
美味しい!
良く磨かれた、純米の大吟醸だ。
この味と香りには、覚えがあった。
あぁ。
何ヵ月振りだろう、これを呑むのは?
「これ、『鶴峯』の大吟醸だね?」
「ご名答。良く判ったね。」
「この味は良く知っているもの。」
「あぁ。伸之さんが好きだった酒だ。」
ボクは頷いた。
…そう。親父は、これに目が無かった。
そして『鶴峯酒造』は、ボクがアルバイトをしていた酒蔵でもある。
親父の紹介で始めた仕事だ。
鶴峰の杜氏と親父は旧知の仲で…ボク等は良く、酒蔵へ遊びに行った。親父と出掛けた、数少ない思い出の一つである。
…………
…………
何だろう、この感覚?
酒が体に染み込んだ途端、ボクの中の記憶の鍵が解き放たれてしまったみたいだ。
懐かしくて、少し苦しい。
親父と一緒に過ごした幼い頃の思い出が、一度に胸に迫って来る。
それに…あの、掛け軸。
此処には、親父の面影が生きたまま詰まっていて、辛くなる。
俯いていると涙が出そうだったので、ボクは、自分から話題を変えた。
「ねぇ。祐介はどうして…こんな所で、独りで呑んでいるの?」
「どうして?さあ…どうしてだろう。」
硝子の酒器から溢れた光が、瑚珀の瞳の中に反射している。
「敢えて言うなら…眠るには惜しい気がしたから、かな。」
「どういう意味?」
「そうだね…多分、僕も浮かれているんだろう。皆と同じでね。」
「浮かれている?? 祐介が?…嘘だ。」
「嘘じゃないよ。キミが此処に居るというだけで、全ての魂が活性化している。…ほら、見てごらん。」
──そう言って。
祐介は、丸い格子窓をサラリと開け放った
月が見える。
その下に、虹色を帯びた淡い雲。
明るい星がひとつ、二つ…そして。
降り注ぐ月光を受けて、鑓水(ヤリミズ)がサラサラと流れていた。
他には、何も見えない。
漆黒の闇ばかりだ。
「…月が、何か??」
意図する處ろが解らず問い掛けるボクに、祐介は只、首を横に振る。そうして、小さく手招きをした。
──何だろう?
訳も解らぬらまま、丸窓に近付くと…
「外を良く見ていて。」
耳元に囁きながら、祐介がフッと明かりを消した。真の闇が訪れた…その刹那。無数の淡い光の粒が、ゆらゆらと宙に浮いているのが見えた。
綿毛にも似た白い光──これは…
「蛍?」
「蛍に見えるかい?」
「違うの??」
「…もっと良く見て。」
彼に言われた通り、ボクは精一杯、窓辺に身を乗り出した。
目を凝らして良く見れば、蛍だとばかり思っていた光の粒達は、ひとつひとつ形も色も違っているのが判る。
「蛍じゃない…何なの、これ?」
怪訝に首を傾げた途端。光の粒が一つ、ふっとボクの目の前に降りて来た。
そうして。微かな明滅を繰り返しながら、フワリフワリと虚空に円を描き始める。
(…何?)
思わず窓の外に手を差し延べると、光はスッと近寄って来て、ボクの掌に乗った。
「え──!?」
手の上に降りたモノを見て、ボクは忽ち凍り付く。白く光る玉の中に、見た事も無い《生き物》がいて不気味に蠢いていた。
「ぅわ──っ!?」
ボクは思わず、悲鳴を挙げる。
それは、全く奇妙な形をしていた。
頭部は鬼、下半身は蛇か竜の様に見える。
山羊の様に捻れた角が、二本。
口には、小さな牙まで生えていた。
「な、何これっ?!」
「魍魎(モウリョウ)だよ。水に棲む自然霊だ。」
「霊?──痛っ!!」
突如、鋭い痛みが走った。
魍魎がボクの掌を噛んでいる。小さな牙が食い込んで離れない。
痛みのあまり、ボクは慌てて手を振り払う。その途端…光の玉は、泡雪の様に熔けて消えた。
痛い…。
魍魎は去ったけれど、掌には小さな咬み傷の痕が残った。
こんな事が、あるのだろうか?
霊が攻撃して来るなんて!?
信じ難い気持ちで、自身の掌を眺める。
…ふつふつと湧き出る血の雫。
右中指の付け根付近に、二つ並んだ小さな穴が空いている。微かな痛みは、紛れも無く現実のものだった。
半ば茫然とそれを眺めていると…不意に、祐介が覗き込んで来た。
「…噛まれた?」
「うん、少しだけ。」
「見せて。」
有無を言わさず手を引き寄せられる。
親身な様子で傷口を眺める彼に、思い切ってボクは訊ねた。
「今の、あれ…本物だよね?」
「本物だから噛まれたんだろう?」
「魍魎って噛むの?」
「ごく偶に攻撃してくる事はあるよ。身の危険を感じた時なんかにはね。普段は、大人しくて無害なものだ。あまり心配しなくて良い。」
「…無害じゃないよ。噛まれたもの。」
ボクが拗ねると、祐介はフワリと破顔して言った。
「あれは、愛情表現だよ。」
「愛情表現!?噛むのが?どうして??」
「彼等は『言葉』を持たない。だから、噛んだんだ。キミに自分達の『存在』を知らせたくてね。」
「え?」
「初めてだろう、こういうものを視たのは?」
ボクは、コクリと頷いた。
所謂る『霊』という存在には、生まれてこのかた縁が無い。
勿論、姿を『視る』のも初めてだ。
知る由もなかった、異世界の住人達──
存在すら意識した事も無い…なのに。
何故、急に視(ミ)えたりしたのだろう?
「彼等はキミに会いに来たんだよ。本来は、とても用心深いんだ。水辺の草むらに隠れ棲んで、滅多に人前に姿を見せたりはしない。こんな風に行者の前に、のこのこ顕われたりはしないものだよ。見付かった途端、消されてしまうからね。なのに…キミに焦がれるあまり、危険を冒して姿を顕した。憐れで小さな訪問者達さ。」
「ボクに会いに…?何故!?」
「キミが当主の血を引く人だから。」
「血…また、それ?」
不満を込めたボクの呟きと、突拍子も無い祐介の行動は、ほぼ同時だった。
「──っ!?」
思わず、ヒッと喉を鳴らす。
祐介が…ボクの掌に唇を押し当てるなり、流れていた血を、舌先でペロリと舐め取ったのである。
「ちょっ…祐介!」
「──応急処置。」
「自分で出来るから!離して!!」
慌てふためくボクを見て、祐介は悪戯に笑った。
「キミの血は甘いな。」
「へ、変な事言わないでよっ!」
振り払おうともがけばもがく程、祐介は面白がって、ボクの手に舌を這わせた。
指の間を舐ぶられ る感触に、ゾクリと肌が粟立つ。
湿った舌先。
吹き掛けられる生温い吐息に、押し殺した喉から、奇妙な声が洩れる。
物も言えず身を竦めるボクを、上目遣いに見上げながら…祐介は言った。
「本当に──キミの血は甘い。甘露の様に喉に沁みるよ。それに、とても良い香りがする。僕達にしか判らない『首座の味』だ。」
「祐介…」
「この血を慕って、これからもっと多くの魂が集まって来る。皆、嬉しいんだ。この家に当主が還って来てくれて。」
「…ボクは未だ…当主じゃない、よ…」
「それでも、血は裏切らない。些少な魍魎達ですら、キミが『何者なのか』を本能的に知っている。一度は失われた存在──だが、こうして再び『キミ』という継承者を得た。だから、喜んでいるんだよ。」
そんな!ボク…
ボクは未だ…当主になるかどうかも決め予ていると言うのに!?
「…僕は、事実を言ったまでだ。だけど、怖がらせちゃったのなら謝るよ。」
こちらの動揺が伝わったのか、祐介の声が少しだけ優しくなった。
「でもね、薙。これだけは覚えておいて?首座の血は甘い誘い水だ。全ての魂が寄る辺るとする。生ける者も、死せる者も──皆、首座の救済を待っている。だからこそキミに、無条件の愛情を注ぐんだ。皆が浮かれているのは、その所為だよ。皆、キミに救いを求めている。首座によって与えられるそれを、心待ちにしているんだ。」
「救いだなんて…出来ないよボク、そんな大それた事!」
「──そうかな?少なくとも、ここにいる連中は、キミを当主と認めたようだよ?」
「ちょっと待ってよ。ボクは未だ何も…」
「僕も…待っていたんだよ。」
「え?」
そう言うと──。
祐介は含みのある眼差しで、ボクを覗き込んだ。
「待っていたって…何を?」
「勿論、キミを。」
「どうしてそこまで」
「キミが《神子》だからだよ。決まっているじゃないか。」
此方が言い終わらない内に、彼は畳み掛けて来た。
「キミに逢えて、本当に嬉しかった。僕が仕える当主は可愛い女の子で──しかも《神子》だと言う。六星行者として、こんなに幸運な巡り合わせは無いよ。神子とは文字通り『神の子』だ。生まれながらに、比類なき力を備えている。僕は是非、キミに首座に就いて欲しいと思っているよ。」
祐介は、ボクが首座になると、確信している様だった。
何を根拠にそう思うのか、ボクには解らない。もしかしたら、何かしらの思惑があるのかも知れない。
月に群雲が掛かる様に…ボクの未来にも、みるみる暗雲が立ち込めた。
彼等の熱意にほだされて、このままズルズルと当主に祀り上げられちゃあ堪らない。
流されない様に気を付けなければ…。
「他に質問は?」
「え?」
「まだ何か釈然としないって顔をしているね。僕で解る事なら、何でも答えるよ?」
「それ…さっき、一慶にも言われた。」
「カズが?へぇ…」
…また、だ。
ボクが一慶の名を出した途端、祐介の表情が、また少し鼻白んだ様に見えた。
何やら奇妙な感覚に捉われて、ボクはふと尋ねてみる。