・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・

元カレ

・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・


─── 1月4日 金曜日 ───

6時。

俺の腕の中で、奏が身動(みじろ)ぎする。どうやら、こっそり抜け出そうとしているようだ。

俺は後ろから、ぎゅっと奏を抱きしめた。

「ゆうくん?」

「奏、おはよう。」

「おはよ。」

腕を緩めない俺に困っているようだ。

「………
ゆうくん?
今日から、仕事でしょ?」

「ヤダ。」

「ぷっ」

奏が噴き出した。

「ゆうくん、離して。
これじゃ、ゆうくんの顔も見れない。」

その言い方がかわいくて、俺は腕を緩めた。

奏が振り返って、向き合うと、俺は呟いた。

「ずっと、こうしてたい。」

「うん。」

奏は俺の胸に顔を埋めて、ぎゅっと抱きしめた。

「でも、仕事はいかなきゃ。
1日がんばったら、明日、休みでしょ?」

ずるいなぁ。
そんな事しながら言われたら、イヤって言えないじゃん。

「あーぁ。
仕方ないなぁ。」

俺は仕方なく、腕を緩めて奏を解放した。

「奏、先、シャワー浴びて来て。」

「ゆうくん、先でいいよ。
ゆうくんの方が出勤時刻が早いんだから。」

「じゃあ、一緒に。」

「ダメ!」

くくく。

2人でいるのが、とても楽しい。
もっとイチャイチャしてたい。

俺たちは、ギリギリまで2人の時間を楽しんだ結果、遅刻すれすれで出勤した。


20時。

ピアノバーで奏を待つ。

俺の特別なひと。


奏がピアノの前に座る。

いつもの演奏前の挨拶。

声がうわずってる?

表情も固い。

今朝の幸せそうな奏とは、全く違う表情。

何かあった?

演奏中も俺を見ない。

気持ちがざわつく。

時折、隣の席の男に視線が飛ぶ。


誰だ? この背が高い男。

俺よりも高そう。

やつれてはいるけど、結構イケメン。

なんかムカつく。

俺がムカついたまま、第1ステージが終わった。

休憩時間に問い正そうと思っていたのに、

『ごめん。
休憩時間にはそっちに行けそうにないの。
全部終わるまで待ってて。』

とのメッセージ。

何だ?

いつもと明らかに違う。

イラついて、いつもより飲むペースが速くなる。


22時。

第2ステージ。

やはり表情も固ければ、演奏も固い。


23時。

そろそろラストの曲かな?

っ!!

何で!?

ショパン『別れの曲』

それまでの固い演奏とは違って、感情が入った切ないメロディ。

奏が泣きそうな顔をしてる。

俺と別れたいって事?

永遠だと思ったのは、俺だけだった?

胸が苦しくなる。


演奏を終えて、奏がステージを去る。

10分後、着替えて現れた奏は、俺の隣には座らなかった。

通り過ぎる瞬間、俺の耳元で囁いた。

「お願い。信じて待ってて。」


奏は隣のテーブルに行き、俺に背を向けて座った。


誰だ? そいつ。


「こんばんは。」

奏が挨拶すると、

「こんばんは。」

その男もにっこりと挨拶を返す。

「これは偶然? それとも…?」

奏が戸惑って確認してるからには、そいつが来る事を予期してなかったんだろう。


その男は黙って携帯を見せていた。

何が写っているのかは分からない。


「初めてカナのピアノ聴いた。
俺は音楽とかよく分かんないけど、感動した。」


はぁ!? カナ!?

馴れ馴れしく呼ぶな!
しかも、感動しただと?
奏のピアノはあんなもんじゃねぇよ!

「ありがと。」

「あの後、いろいろ考えたけど、俺はやっぱり
カナを諦められないし、諦めたくない。
遠距離でもいいから、俺が毎週通うから、
やり直そう。

………これ、もう一度、受け取って。」

男は指輪を取り出した。

「これ………
あの時の………」

「そう。
完治したら、またプロポーズし直そうと
思って、大切に持ってた。
カナ、俺と結婚してください。」

俺の目の前でプロポーズとか、あり得ないんだけど!!!

話の流れからすると、こいつが1年前に奏にプロポーズして、奏の誕生日に振ったヤローか?

どの面下げて、奏に復縁迫ってるんだよ。

あぁ! ムカつく!


「ごめん。
何度言われても、無理なの。
ほんとにごめんなさい。」

頭を下げている奏を見て、俺は心の底からほっとする。

そうか!
あの『別れの曲』は、こいつに向けて弾いたんだな…。


「何で?
他に好きな奴でもできた?」

男は焦っているように見えた。

「付き合ってる人がいる。」

男が固まった。

「いつから?」

「先月…」

「最近じゃん。
俺たち3年も付き合って結婚の約束をする
くらい上手くいってただろ?
カナは、絶対、俺との方が上手くいくよ。
俺はカナのためなら何でもできる。
お願いだよ。俺とやり直そう?」

奏を傷つけて捨てたくせに、何言ってんだ?

俺は、もう我慢の限界だった。

黙って立ち上がり、奏の横に立った。

「お話し中、失礼します。
隣の席まで話が聞こえてしまったものです
から…
私は田崎優音と申します。」

冷静に話すため、俺は名刺を出して自分の中でビジネスモードのスイッチを入れる。

「課長さん?」

名刺を受け取った男は、俺の顔と名刺を見比べて怪訝な顔をした。

まぁ、同世代で管理職についている奴は少ないだろう。

「すみません。
今、プライベートなので名刺を持って
いなくて…」

「構いませんよ。
しかし、彼女は先程から迷惑をしているように
見受けますが、あなたは好きな女性を困らせて
平気なのですか?」

俺の言葉に男の動揺が見える。

「今、奏と付き合ってるのは、私です。
私個人としては、交際期間の長さは、想いの
深さとは比例しないと思うのですが、
まあ、しかし、あなたがそれを重要視したい
のであれば、私から言わせると、たかが3年
付き合った位で奏の何が分かる?と思います
けどね。
私は20年以上、彼女を想い続けてますから。

あなたは、結婚の約束をしたとおっしゃい
ましたが、私は奏の両親に挨拶をして、結婚を
前提とした交際に快く了承をいただいて
います。

何より…」

俺は感情を抑え切る事は出来なかった。

「奏が今愛してるのは、俺だけだ!」

俺がそう言い放つと、男は座ったまま、うなだれていた。

「ヒロ?
ほんとにごめんね。
でも、ありがとう。
気持ちは嬉しかったよ。
裏切られたと思ってたから、そうじゃないって
分かって嬉しかった。
体に気をつけて、どうか幸せになって。」

奏が奴に優しい言葉を掛けているのを聞くと、無性にイラついた。

俺は奏の腕を取って立たせた。

「奏、行くぞ!」

「うん。
ヒロ、ほんとに体には気をつけて。
ヒロの幸せを祈ってるから。」

奏はまだ奴の心配をしている。

俺は奏を引きずるように店を後にした。


俺は奏の荷物を持ち、手を繋いで歩いた。

「ゆうくん、ありがと。」

奏が小さな声で言った。
俺は思わず立ち止まって言った。

「俺こそ、ごめん。勝手に話に割り込んで。
奏は待っててって言ったのに…。」

「そんな事ない。
ゆうくんが言ってくれた事、嬉しかったよ。
ありがとう。」

俺を見上げる奏がかわいくて、ちょっと癒された。

そして、またゆっくり歩き出した。

しばらく無言で歩き、マンションの前まで来た時、俺は言った。

「ほんとは、今日も奏と一緒に過ごしたかった
けど、今日は帰ろう。
今日は奏に優しくできそうにないから。
奏を抱き潰してしまいそうだから。」

俺は出来るだけ冷静に落ち着いて伝えた。

すると、奏は俺の首に腕を回してきた!

「いいよ。
それでゆうくんの心が落ち着くなら。
優しくなくていいから、ずっと一緒にいて。」

と耳元で囁く。

奏、それは反則だろ?

「バカ…」

俺は奏を抱きしめた。

俺は奏を自分の部屋に連れて帰り、朝まで奏が自分のものである事を確かめた。

それでも俺は奏と離れられず、結局、月曜の朝まで、何をするにも一緒にいた。