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蕎麦

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12月8日(土)

昨夜、アルバイトで帰りが遅かった私は、朝9時過ぎまでのんびりと朝寝坊した。

遅い朝食を食べ、洗濯物を干すと、荷物が入ったままの段ボールが気になったが、ピアノを弾くことにした。

自分でも分かってる。
引越しの片付けをしたくない事による現実逃避だ。


11時半、満足するまでピアノを弾いた私は、ゆっくりとピアノの蓋を閉め、防音室を出た。

このマンションは、楽器可の防音の作りにはなっているが、グランドピアノを弾くには、やはり防音室が欠かせない。

私は、時計を見て、昼食の準備をすべきか、荷物の片付けをすべきか、迷っていた。

ベッドに腰掛け、考えていると、

─── ピンポーン!

玄関チャイムが鳴った。


ん!?

下からのインターホンではなくて???

モニターを見ると、そこにいたのは、ゆうくんだった。



ガチャ

ドアを開けると、

「こんにちは。」

そう言って、にっこりと微笑むゆうくんがいる。

「こんにちは。
どうしたの?」

「腹減ったから、昼飯行かないかなぁ…と
思って。」

「えぇ!?
でも、私、スッピンだし…。」

「別にいいじゃん。
奏はそのままでもかわいいし。」

は!?

か、かわいい!?

ゆうくん、何言っちゃってんの!?

突然、心臓がドキドキと大きな音を立て始める。

「ムリ!!
絶対、ムリ!!」

「何で?
俺、気にしないよ!?」

「私が気にするの!!」

「じゃあ、奏の化粧が終わるの待ってるから、
それから行こ?」

ムムム…。

何だろう!?
ゆうくんのこの甘々な感じ。
私の知ってるゆうくんじゃない。

まさか、これは腹話術で、誰かに操られてる?

「なぁ? 行こ?」

そんな風に甘えられると、無下にも出来ず…

「分かった。15分待ってて。
ゆうくんの部屋に呼びに行くよ。」

「ここで待ってちゃダメ?」

「ここで!?」

「うん。奏が化粧してるとこ、見てる。」

にこっとゆうくんが笑う。

「っ!!
ダメに決まってるでしょ!!!
大人しく、部屋で待ってて。
ゆうくん、何号室?」

「うちは502だよ。
でも、俺は奏といたい。
化粧してるとこ見ないから、ダメ?」


ふぅぅっっっ……

大きなため息がひとつ。

「分かった。
じゃあ、絶対に見ないでよ。
ピアノでも弾いてて。」

私、何でこんなにゆうくんに弱いんだろ!?

それより、何より、今日のゆうくん、どうしちゃったの?



私が洗面所にこもって化粧を始めると、ピアノの音が漏れてくる。

昔、ゆうくんが弾いてたバイオリンの曲。

右手だけで弾いてる…。

昔は、ゆうくんがお母さんとバイオリン持って遊びに来てくれて、よく一緒に合わせて遊んだなぁ。

あの頃が1番幸せだったかも。

恭子の事もなくて、全然ドロドロしてなくて、純粋で、ただ仲良しで。



そういえば、恭子とはどうなったんだろ?

金曜の夜や土曜の昼に私を誘いに来るって事は、もう付き合ってないのかな?

他にデートする恋人もいないのかな?



10分後、簡単に化粧を済ませて洗面所を出ると、ピアノにもう飽きたのか、防音室を出たゆうくんがこっちを向いて微笑んでいた。

「うん。奏は化粧すると美人になるね。」

っ!?

私、今、絶対、顔赤いよね!?

ほんとに今日のゆうくんはどうしちゃったの?





「奏、何食べたい?
就職&引っ越し祝いにおごってやるよ。」

「えぇ!?
いいよ。
私、1年前まではちゃんと働いてたから、
それなりに蓄えはあるんだよ。」

「いいの!
俺が奢りたいんだから。
和洋中、何でもいいよ。」

ゆうくん、やっぱり変。

「じゃあ、お蕎麦。
引っ越し蕎麦、食べてないから、付き合って。」

「そんなので、いいの?」

「うん。」

「じゃあ、おいしいとこあるから、車で行こ?
歩ける距離じゃないから。」

そう言うと、ゆうくんは、私の手を引いて歩き出した。

手っ!!

「ちょっ、ちょっと待って。
鍵!!」

私は、慌てて繋がれた手を振りほどいて、戸締まりをする。

私が鍵をバッグにしまうと、やはりゆうくんは、私と手を繋いでエレベーターに向かうのだった。


何なの!? この展開!?



エレベーターで地下に下りると、1台の車の横に立ち、助手席のドアを開けてくれた。

これ!?

私でも分かるドイツ車。
円いエンブレムは、青と白のツートンカラー。

「どうぞ。」

私は、今日、何度目かの ゆうくんのにっこりを目の当たりにした。

「ありがと。お邪魔します。」

おずおずと助手席に座って、シートベルトを締める。



ゆうくんが運転席に座ると、車はゆっくりと走り出した。

ゆうくんの運転は、静かで安心して乗っていられた。

窓の外を 葉のすっかり落ちた街路樹が流れていく。

気になるのは、信号待ちのたびに向けられるゆうくんの甘い視線。

どうしていいのか、分からなくなる。


それでも、15分程走ると、目的地のお蕎麦屋さんに着いた。

車から降りると、助手席側に回って来たゆうくんにまた手を繋がれた。

「行こ。」

振りほどくのも気が引けて、そのまま店に入った。



席に案内されて私が座ると、何故かゆうくんは向かいの席ではなく、隣の席に座った。

… 何で?

メニューを広げたゆうくんは、

「奏、何食べる?」

と小首を傾げて、私の顔を覗き込んで来る。


ちっ、近い!!!

今日は、ずっと、ドキドキさせられっぱなし。

ほんとに、ゆうくんは、何を考えてるの!?


「俺、天ぷら蕎麦。奏は?」

「う、うん。じゃあ、私はとろろ蕎麦に
しようかな。」

「おっけ。すみませーん。」

ゆうくんは、手を挙げて店員さんを呼ぶと、

「とろろ蕎麦と天ぷら蕎麦ください。」


注文を終えて、メニューを片付けると、ゆうくんはやっぱり半身になって、私を見ている。

「奏、金曜の夜のバイトって、何してるの?」

「えっ?
あぁ。
駅前のホテルの最上階にピアノバーがあるの、
知ってる?」

「あぁ。
前に1回だけ職場の人と行ったことあるよ。」

「そこで、毎週金曜日にピアノ弾かせて
もらってるの。」

「っ!!
言ってくれれば、絶対、聴きに行ったのに。」

ふふっ
ゆうくん、悔しそう。

「そんなに悔しがらなくても…
ふふふっ」

「来週も弾く?」

「うん。
でも、来なくていいよ。」

「何で?
絶対行く!」

「あそこ、安くないし…
ピアノ聴きたいなら、部屋で弾いてあげる
から。」

「っ!!
それって、プライベートコンサート?
それもめっちゃ嬉しい!
でも!!
ピアノバーで弾く奏も見たい!
だから、絶対行く!!」

ふふっ
何だか、子供みたい。

「じゃあ、来てもいいけど、無駄遣い
しないでね。
アルコール1杯で十分だからね。」


そんな話をしてる間に、蕎麦が来た。

「奏、海老天好きだろ?
2本あるから、1本やる。」

そう言ってゆうくんは、私が返事をする前に、私の蕎麦の上に海老天を乗せた。


「奏はさぁ、何で音大行かなかったんだ?
コンクールでもいっぱい賞貰ってたし、
才能あるじゃん。」

南瓜の天ぷらをかじりながら、ゆうくんが尋ねた。

「才能なんて、ないよ。
私が賞とれるのは、地方大会までだもん。
毎回、全国に行ったら、かすりもしなかったし。
日本の大会で優勝する人は、毎年出るんだよ?
日本一になっても、ピアニストだけで食べて
いける人なんて、ほんの一握りでしょ?
世界で優勝できる位の実力がなきゃ、
ピアニストじゃ食べていけないもん。
私、人見知りだから、ピアニスト崩れで
ピアノの先生になるのも嫌だったし、手に
職を付けようと思って大学は情報処理学科に
したの。
幸い手先は器用だから、キーボード打つのも
簡単かなぁって思ってね。」

「そうなんだ。情報処理やって良かった?」

「うん。
SEの仕事は嫌いじゃなかったよ。
人間関係でいろいろあって、やめちゃった
けど。」

「いろいろって?」

「まぁ、いろいろよ。
あんまり思い出したくないから、聞かないで。」


蕎麦を食べ終わると、ゆうくんが何か言いた気だったけど、私からはあえて何も聞かない事にした。


「ゆうくん、ごちそうさまでした。」

お会計を済ませたゆうくんにお礼を伝えると、

「どう致しまして。」

と優しい笑みが帰ってきた。



車に乗って、走り出すと、ゆうくんが口を開いた。

「奏、この後、どこか行きたいとこある?」

「別に…。
それより帰って引っ越しの片付けしなきゃ。」

と私が答えると、

「じゃあ、手伝うよ。」

と答えるゆうくん。

「ぜぇったい、ダメ!」

「えぇ!? 何で?」

「見られて困る物も入ってるの!」

私だけが焦って、バカみたい。



しばらく沈黙が続いた後、ゆうくんが口を開いた。

「奏さぁ、今、付き合ってる奴、いる?」






「………いないよ。
………ゆうくんは、いるの?」

私のボソッとした答えを聞いて、ゆうくんはほっとしたように、ふぅぅぅっと長い息を吐いた。

「いない。」



その後ゆうくんは、まっすぐ前を見たまま運転を続け、ほとんどしゃべらなかった。


ほんとに今日のゆうくんは、よく分からない。