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待ち伏せ

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仕事始めとはいえ、通常業務と何ら変わりない作業を終えて、15時半過ぎ、他のパートさん達とオフィスを出た。

通用口を出て、数人のパートさん達と駅方面へ向かうと、突然、

「カナ!」

と声を掛けられた。

聞き覚えのある声。

振り返ると、かつての交際相手、山本博臣(やまもと ひろおみ)が、立っていた。

もともと長身で細身の彼だったが、以前とは見違えるほど、げっそりと痩せてやつれて見えた。

前を開けたままのコートの隙間から見える見覚えのあるそのセーターは、昔、クリスマスに私がプレゼントした手編みの物。

「お先に失礼するわね。お疲れ様でした。」

空気を読んだ高木さんが声を発すると、他のパートさん達も、「お疲れ様でした」と去って行く。

残された私は、無視して立ち去る事も出来ず、立ち尽くしていた。

「カナ…」

かつてのようにそう私の名を呼びながら、彼は近づいて来た。

「話があるんだ。少し付き合ってくれないか?」

彼の声に我に返ると、

「私には、ないわ。」

と拒絶の意思を示した。

「カナに酷い事をしたのは、分かってる。
それでも、話を聞いて欲しいんだ。
これで終わりにするから。」

彼の切迫した表情は、やつれた体と相まって、強く拒絶するのが申し訳なくなってしまう。

「今夜は、予定があるの。少しだけよ。」

と私が言うと、

「あぁ。
ありがとう。」

と彼は微笑んだ。


私たちは、駅前のカフェに入り、1番奥の席に座った。


「どういう事?
なんでここにヒロがいるの?」

私から口を開いた。

「SNSで検索した。」

「嘘。
だって、私、名前しか登録してないよ。」

「カナと連絡取りたくても、電話番号も
変わってるし、新しいSNSはフォロー
できなくなってるし、連絡取りようがなくて
困ってたら、年末にこれを見つけたんだ。」

ヒロが自分の携帯で見せてくれたのは、高木さんのアカウント。

『久しぶりにお仕事始めました。
慣れるまで大変だけど、
がんばります o͡͡͡͡͡͡͡͡͡͡͡͡͡͡╮(。❛ᴗ❛。)╭o͡͡͡͡͡͡͡͡͡͡͡͡͡͡ 』

ご丁寧にOK銀行のアカウントが添付されていて、私の他に数人のパートさんがタグ付けされていた。

しかも、コメント欄を見ると、

『フルタイムで働くの〜?』
という質問に
『9時半〜3時半までだよ。
子供が保育園に行ってる間だけだから、
無理なくできそう。』

『銀行で働くの?』
『系列のコンピュータの会社』

などと詳細が出ている。


「銀行系列なら、今日から仕事始めだし、
待ってれば、きっと会えると思って来てみた。」

ネットって怖い。


「あの時、酷い別れ方をしたと思う。
ずっと申し訳なく思ってた。」

私は何も答えず、黙ってヒロの話を聞いた。

「実は、1年前の1月、健康診断の再検査を
受けたんだ。
結果は2月の初めに出た。
胃がんだった。」

「!?
胃潰瘍じゃなかったの?」

「俺が入院したのは知ってたんだ?
みんなにあまり心配されたくなくて、表向き
胃潰瘍って事にして、会社には長期休暇を
もらって治療に入った。
すでにステージ3だった。
ステージ3って分かる?」

「がんの進行具合でしょ?」

「うん。
5年生存率が50%を切ってた。」

「………」

「それを聞いて、俺はカナの事しか考えられ
なかった。
俺が死んだら、カナは泣くだろうな…とか、
もう守ってやれないのかな…とか。
いろいろ考えて、俺は苦しいけど、カナと
別れる事を決めたんだ。
俺が恋人のまま死んだら、カナはきっと
悲しんで苦しんで辛い思いをするだろ?
でも、赤の他人が死んでも、それ程、
苦しまずに済むんじゃないか…と思って。」

彼の表情から、嘘は言ってないと思った。

「でも、決して生きるのを諦めたわけじゃ
ないんだ。
頑張って治療して、完治した暁には、カナと
もう一度やり直そうって思って、辛い
治療にも耐えて頑張った。」

「今、具合はどうなの?」

「うん。
おかげさまで、一応、がんはなくなった。
まだ再発の危険はあるけど、この先、5年も
カナなしでは頑張れなくて、迎えにきた。
カナ、俺とやり直そう?
俺と結婚してください。」

「ヒロ…」

彼の想いは、表情からもよく伝わって来た。

でも…。

「ごめん…。
ヒロの事情は分かったし、ヒロの気持ちも
伝わった。
でも、私の中では、もう終わった事なの。
今は、もう考えられない。」

「終わったなら、もう一度始めよう。
俺の中では、終わってないんだ。」

「無理だよ。
ごめん…」

「カナ…」

ヒロの顔が悲壮感に歪んでいく。

「ごめん。
この後、予定があるから、もう行くね。」

私は、1000円札を置いて、店を出た。


今日は、金曜日。
ステージに影響が出ないように心を落ち着けないと…



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20時。

いつもの席にゆうくん……と、その隣のテーブルにヒロ!!

なんで!?

軽くパニックになる。


どうする?

どうしよう?


でも、出番だ。

深呼吸して、ピアノの前に座る。

平常心。

いつもより、心を落ち着けて演奏を心掛ける。


曲目も前回とは大きく変えた。

クリスマスソングは封印して、和の曲を織り交ぜる。

惰性では弾けない。



緊張の中、1時間のステージを終えた。

今日は中休みにゆうくんの所へは行けないから、メッセージだけ送る。

『ごめん。
休憩時間にはそっちに行けそうにないの。
全部終わるまで待ってて。』



22時。

ヒロは、まだいた。

お酒は弱いはずなのに…。



緊張のステージ再び。

ラストはいつもゆうくんに向けて弾いていたが、今日はヒロに向けて演奏する。

ショパン『別れの曲』


心を込めて、さよならの気持ちを乗せて…。



演奏後、着替えてフロアに出る。


ゆうくんの横を通り過ぎる時、耳元で囁いた。

「お願い。信じて待ってて。」


ヒロのテーブルに来ると、私はゆうくんが見えないように背を向けて座った。

ゆうくんに頼らず、甘えず、自分の言葉で終わりにするために。


「こんばんは。」

私が挨拶すると、

「こんばんは。」

ヒロもにっこりと挨拶を返す。

「これは偶然?
それとも…?」

ヒロはまた携帯を見せた。

そこに出ているのは、この店のホームページ。

ヒロがタップすると、ピアニストのスケジュールが表示された。

1月4日 Kanade Tachibana


やっぱりネットは怖い。


「初めてカナのピアノ聴いた。
俺は音楽とかよく分かんないけど、感動した。」

「ありがと。」

「あの後、いろいろ考えたけど、俺はやっぱり
カナを諦められないし、諦めたくない。
遠距離でもいいから、俺が毎週通うから、
やり直そう。

………これ、もう一度、受け取って。」

そう言って、ヒロはポケットから、見覚えのある指輪を取り出した。

「これ………
あの時の。」

「そう。
完治したら、またプロポーズし直そうと
思って、大切に持ってた。
カナ、俺と結婚してください。」


「………ごめん。
何度言われても、無理なの。
ほんとにごめんなさい。」

私は、頭を下げた。

「何で?
他に好きな奴でもできた?」

ヒロの顔には焦りが見える。

「付き合ってる人がいる。」

ヒロの顔がこわばっていく。

「いつから?」

「先月…」

さすがに4日前とは言えない…。

「最近じゃん。
俺たち3年も付き合って結婚の約束をする
くらい上手くいってただろ?
カナは、絶対、俺との方が上手くいくよ。
俺はカナのためなら何でもできる。
お願いだよ。俺とやり直そう?」

私が、どう答えれば諦めてくれるのか、必死で考えていると、私とヒロの間にスッと影が現れた。


「お話し中、失礼します。
隣の席まで話が聞こえてしまったものです
から…。
私は田崎優音と申します。」

ゆうくんは、スーツの内ポケットから、名刺入れを取り出し、1枚ヒロの前に差し出した。

ヒロは条件反射で名刺を受け取った。

「課長さん?」

ヒロはゆうくんの顔と名刺を見比べて怪訝な顔をした。

一浪してるヒロは同期だけど、ひとつ年上の28歳。

未だ平社員のはずだ。

「すみません。
今、プライベートなので名刺を持ってなくて…」

「構いませんよ。
しかし、彼女は先程から迷惑をしているように
見受けますが、あなたは好きな女性を困らせて
平気なんですか?」

ゆうくんの指摘にヒロはたじろいで見えた。

「今、奏と付き合ってるのは、私です。
私個人としては、交際期間の長さは、想いの
深さとは比例しないと思うのですが、
まあ、しかし、あなたがそれを重要視したい
のであれば、私から言わせると、たかが3年
付き合った位で奏の何が分かる?と思います
けどね。
私は20年以上、彼女を想い続けてますから。」

ゆうくんは、なおも続けた。

「あなたは、結婚の約束をしたとおっしゃい
ましたが、私は奏の両親に挨拶をして、結婚を
前提とした交際に快く了承をいただいてます。
何より…」

ゆうくんは語気を荒げた。

「奏が今愛してるのは、俺だけだ!」

ゆうくんは、怒りを露わにヒロを見下ろしている。

ヒロは座ったまま、うなだれていた。

「ヒロ?
ほんとにごめんね。
でも、ありがとう。
気持ちは嬉しかったよ。
裏切られたと思ってたから、そうじゃない
って分かって嬉しかった。
体に気をつけて、どうか幸せになって。」

私がそう言うと、ゆうくんは私の腕を取って立たせた。

「奏、行くぞ!」

「うん。
ヒロ、ほんとに体には気をつけて。
ヒロの幸せを祈ってるから。」

そう言って、ゆうくんに引きずられるように店を後にした。



控え室から荷物を取ってくると、ゆうくんと手を繋いで歩いた。

「ゆうくん、ありがと。」

ぼそっと私が言うと、ゆうくんは立ち止まった。

「俺こそ、ごめん。勝手に話に割り込んで。
奏は待っててって言ったのに…。」

「そんな事ない。
ゆうくんが言ってくれた事、嬉しかったよ。
ありがとう。」

私がゆうくんを見上げて言うと、ゆうくんは少し照れたように笑った。

そして、またゆっくり歩き出した。

しばらく無言で歩き、マンションの前まで来た時、ゆうくんが口を開いた。

「ほんとは、今日も奏と一緒に過ごしたかった
けど、今日は帰ろう。
今日は奏に優しくできそうにないから。
奏を抱き潰してしまいそうだから。」

ゆうくんの声が苦しそうで私は放っておけなかった。

ゆうくんの首に腕を回すと、

「いいよ。
それでゆうくんの心が落ち着くなら。
優しくなくていいから、ずっと一緒にいて。」

と囁いた。

目を見開いたゆうくんは、

「バカ…」

と言って、私を抱きしめた。

私たちはエレベーターに乗り、5階のボタンだけを押した。