「そうなったら、妹夫婦に面倒を見てもらうから大丈夫」
「拒否!」
「何だとぉ」
言い合いが始まりそうになったが、「本当、いつも仲がいいわね」と第三者の声が入った。
「あっ、朝田さん」
声の主は朝田という年配の看護師さんだった。
「ツキミちゃん、お熱を計りましょうね」
「あのね、兄に太っとい注射してやって下さい」
「これツキミ」と母親がたしなめると、「だって」と拗ねた声に被せてピピピピッと電子音が鳴る。
「あらあら、注射が必要なのはツキミちゃんの方ね」
朝田看護師が体温計を見ながら困った顔をする。
途端に母親と葵宇宙の表情が曇る。
「先生にすぐ診てもらいましょうね」
「僕は帰るよ。今度は例の雑誌を持って来る。楽しみに待ってろ」
「お兄ちゃん」と妹が情けない声を出す。
「ゆっくり休め。手術をして退院するんだろ」
「うん、お兄ちゃん、気を付けて帰ってね」
「ああ」と葵宇宙は片手を上げ、「じゃーな」と微笑むと病室を出ていった。
彼の後ろ姿を見つめながら、そう言えば……と思い出す。
私も小学校に上がるまで再々熱を出し、病院のお世話になっていた。
(本当に丈夫になったものだ)
感慨深く思っていると、「お姉ちゃん、何しているの?」と可愛い声が聞こえた。
視線を下げるとウサギの帽子を被った大きな目の少女が私を見上げていた。
パジャマ姿――ということは、この子も入院患者だろう。
「あっ、ごめんね。私、邪魔をしていた?」
「ううん。ボンヤリしてたから気になっただけ」
小学生? 小さいから低学年だろうか?
「そのお帽子、可愛いね」
「うん、おばあちゃまが作ってくれたの」
「へー、手作り? 凄いねぇ!」
私もこの子みたいだった。入院中は誰かれとなく声を掛け、話し相手になってもらっていた。寂しかったんだ……きっと。
その頃を思い出し、葵宇宙を追うことを止めて彼女と少し話すことにした。
「あたし、藍田愛水」
「綺麗な名前だね」
「おばあちゃまが付けてくれたの」
彼女の嬉しそうな顔にこっちまで顔が綻ぶ。
「愛水ちゃんは、おばあちゃまが大好きなんだ」
「うん! 大好き」
「ねぇ、もしかしたら、そのパジャマも手作り?」
「うん! お姉ちゃんすごい! よく分かったね」
だって帽子と同柄の生地にウサギのアップリケ。どう見たってお揃いだ。
「おばあちゃまはお洋服を作る人だったの」
彼女が「あのね」と続きを話そうとしたとき、「あら、愛水ちゃん」と驚きの声が聞こえた。朝田看護師だ。
「こんなところで何をしているの? おねんねしていなきゃダメじゃない」
「だって、おばあちゃまが、まだ来ないんだもん」
朝田看護師の顔が曇る。
『さっきお帰りになったばかりなのに……』と呟く声が聞こえた。
「それでもね、ダメだよ。ほら、お手々がこんなに冷たくなってる」
朝田看護師は腰を屈め、彼女の手を取ると優しく手の甲を擦り始めた。
「お風邪を引いたらお祖母様が悲しむわよ。だから、お部屋で待っていようね」
「おばあちゃまが泣くの?」
途端に少女の口がへの字に歪む。
「やだ、それダメ! お部屋に戻る」
「いい子ね」
グスグス鼻を鳴らす彼女を朝田看護師が抱っこする。
二人の背中を見送っていると……あれっ? さっき出てきた部屋に入っていった。
(あの子と同室なんだ)
じゃあ、今度来る時は愛水ちゃんのお見舞いも兼ねよう。そう心に決め、私はその場を後にした。
葵宇宙はよく保健室に行く。目的は――。
「明らかにサ・ボ・リだよね」
「柊木先生、信じてくれないんですか?」
柊木とはあの屋上にいた若い校医のことだ。
「だったら教えてくれよ、なぜ屋上から飛び降りようとしたのか」
柊木先生、グッジョブ! カーテンで仕切られた隣のベッドで彼の返事を待つ。
「だから、あの時言ったじゃないですか、魔法使いになるんです」
しかし、葵宇宙の返事はこの前と変わることはなかった。
「嘘くさ。君が本気でそんなことを考えているとは思えない」
「柊木先生、疑い深い人間は嫌われますよ」
「俺は既に嫌われ者だ」
そんな事はない。彼の人気はダントツ一位。絶大だ。
「女子生徒にキャーキャー言われているくせに」
「だからだよ、他の先生や男子生徒の怨念を感じるんだよ」
それって、何気にモテ男をアピールしていない?
「先生って医者でしょ。何を非科学的な事を」
呆れ眼の葵宇宙を柊木先生は冷めた目で見る。
「君こそ、ファンタジーな台詞を吐く奴に言われたくない」
うーん、どっちもどっちだ。
「魔法使いは非科学的なんかじゃない。本当にいるんです」
キッパリ言い切る葵宇宙に、柊木先生は「その根拠は?」と大人げなく言い返す。
「奇跡は誰にでも起こり得るものでしょう?」
「確かにな」
そこは肯定しちゃうんだ。
「僕は別に魔法使いにこだわっているわけじゃありません。妖精でもサンタクロースでも、願いが叶うなら神にだってなります」
「めちゃくちゃアバウトだな」
「その中で魔法使いが一番なりやすいと思っただけです」
「いや、それならサンタクロースが一番じゃないか?」
「彼は一年で一回しか願いを聞き届けません!」
回数の問題か? いやいや論点が完璧にズレている!
「それで、君は何を叶えたいんだい?」
「それは秘密です。だって、願いを口にしたら叶わないじゃないですか」
「いや、不言実行より有言実行の方が自発的で男らしいぞ」
これで本当に医者かと疑いたくなるが、彼は医師免許を持つ、正真正銘の医者だ。
噂では、東之大高校の理事長が柊木先生のお祖父様で、理事長たっての願いで校医になったらしい。ゆくゆくは柊木先生がこの学校の理事長になるみたいだ。だが、本人は医療の現場に戻りたいと事あるごとに言っているようだ。
「そうそう、君の妹って入院しているんだよね?」
「なっ、何で知っているんだ?」
ガバッと葵宇宙が起き上がった。
元々美しい顔に〝怒〟がアクセントとなり、その顔は恐ろしく怖かった。
「だって、俺、医者だぜ」
彼の迫力に怯みもせず、柊木先生がのほほんと答える。
意味不明だ。葵宇宙も同様のことを思ったのだろう。「医者がどうした?」と怒鳴るように訊く。
「俺ねっ、夜間と休日、甲賀総合病院で救急の手伝いしてるんだ」
「僕は救急病棟なんて行った覚えはない」
「確かに来ていない。でも……」
柊木先生がニヤリと笑う。
「君って無自覚だけど、目立ち過ぎるんだよね」
ああ、それは分かる。
「君が病院に現れると、すぐ噂になるんだ『妖精王子が来た』ってね」
「はぁ? 僕は既に妖精だったのか?」
「期待を裏切らない反応だ」
ゲラゲラ笑う柊木先生を葵宇宙は冷ややかに見つめる。
「で、噂で妹のことを聞いたということですか?」
「そう。確か心臓だったね、妹さんの悪い所」
噂って怖い! プライバシーも秘密保持ナンチャラも有ったもんじゃない。
「医者なら隠しようがないか……ええ、移植しか手がないみたいです」
「あと何年?」
「……手術をしないと、中学生にはなれないみたいです」
嘘っ、あんなに可愛い子が……。
「ということは、妹を助けるために魔法使いになりたいってことか?」
「くそっ、そうだよ、悪いか!」
(そうだったんだ……)
「分かってる。無茶なこと言ってるってことは……」
「あっ、まさか」柊木先生の顔色が変わる。
「君は自分の心臓を、妹さんにあげようとしているんじゃないだろうね?」
えっ? じゃあ、やっぱりあの時、彼は自殺しようとしていた……ということ?
「それは違います。あれはあくまでも魔法使いになろうと……でも、飛べずにそこで寿命が尽きたら、それまでだと思っていました」
「君はそれをあくまでも自殺ではない、と言うんだ?」
そうです、と葵宇宙は真摯な瞳を柊木先生に向けた。
彼の言っていることは……屁理屈だ。
「それは、自殺という行為で家族を悲しませたくないからか? だが、どんな理由だとしても君がこの世を去ったら、たとえ妹さんが助かったとしてもご家族は悲嘆に暮れるだろうな」
柊木先生の言う通りだ。
「でも、僕より妹が生きている方がいいんだ……」
さっきまでの太々しい態度は消え失せ、弱々しい声がポツリと呟いた。
「命に重いも軽いもない。妹さんより君が価値のない人間だと誰か言ったのかい?」
柊木先生は心底怒っているようだ。だがその声には悲哀が籠もっていた。
私には何となく葵宇宙の気持ちが分かる。姉と私なら……十中八九、両親は姉を選ぶだろう。
「……誰も。でも、僕には分かるんです。だって……」と言いかけて葵宇宙は言葉を飲んだ。
「だって、何だ?」
柊木先生の鋭い視線が葵宇宙をギッと睨む。
「蛇の生殺しもいいとこだ。吐け! 吐いてしまえ!」
「絶対に言いません」
再び布団に潜ってしまった葵宇宙を見下ろしながら柊木先生は、「必ず吐かしてやるからな」と、刑事の捨て台詞みたいな言葉を残して仕事に戻った。
(本当、つくづく大人げない人だ)
***
あれ以来、柊木先生も葵宇宙の周りをウロウロし始めた。『だって』の続きを探っているようだ。
私的には柊木先生が葵宇宙から聞き出してくれたら好都合なのだが、葵宇宙的には迷惑極まりないようだ。
「先生、ストーカー行為で訴えますよ」
苦虫を噛み潰したような顔で応戦する葵宇宙に、「それなら俺は」と柊木先生は大人の余裕で応じる。
「行為の理由を詳細に説明して、危険極まりない人物、という理由で君を二十四時間僕の監視下に置かせてもらえるようにするまでだ」
悔しそうに唇を噛む葵宇宙を見ながら、柊木先生は、どうだ、とばかりに鼻を高くする。
「本当、そんなんでよく医者になれましたね?」
眉をひそめる葵宇宙に、「当然だ!」と柊木先生は胸を張る。
「俺はね、祖父の言いなりになるロボットになりたくなかったの。だからメいっぱい反発して医大に入った。本当はね、経営を学べと留学を勧められていたんだよ」
「でも、反抗し切れずここにいるんですよね? 祖父さんに負けたも同じじゃないですか」
フンと鼻で笑った葵宇宙に柊先生が嗤い返した。
「だから子供だと言うんだ。負けるが勝ちという諺を知らないのか」
「わざと負けた、ということですか?」
「まぁ、そういうことだ。目上の者は尊ばないとな」
葵宇宙の頭をガシガシと撫でながら、「だから君も俺を尊べ!」と柊木先生が命令する。
「やめろ! 髪が乱れるだろ。尊ぶ? まさかだろ」
反抗する葵宇宙を尚も構う柊木先生。
じゃれ合い? 実に楽しそうだ。 そう言えば、こんな風に誰かとふざけた記憶もない。
羨ましげに二人を見ていると、柊木先生が唐突に「祖父に怒られたんだよ」と告白する。
「医者になった動機が不純だと叱られたんだ」
柊木先生の瞳がどこか遠くを見る。
「俺、祖父に反発するためだけに医者になっただろ。祖父にそれがバレちゃって、『そんなお前に患者を診る資格はない』と叱られたんだよ。で、俺、妙に納得しちゃったんだよね。そうだなぁって」
柊木先生の顔に自嘲めいた笑みが浮かぶ。