「神にちゃんと届いたかな?」
やたら寄ってくるおちゃまるの体を撫でながら言った。
「おちゃまるは神の声が聞こえたりしないの? 仲よかったしさ」
さすがにそんなことはないのだろうかと考え、おれは苦笑した。
「それより、おちゃまるは眠くないの? まだ朝早いよ」
おちゃまるは言葉を理解したかのようにおれのもとを離れた。
寝るのかと思ったが、水を飲んで戻ってきた。
「寝なくていいの?」とおれは苦笑する。
「まあこれくらいの時間にわんこ吠えてるときあるけど。おちゃまるもこれくらいの時間に起きてたりするの?」
よしよしとおちゃまるを撫でる。
「しっかし君はいつ見てもかわいいね。早朝でも夕方でも。本当にかわいい」
おれはおちゃまるを抱きしめ、その体に顔をうずめた。
「こんなにかわいい雄がいるかね。人間以外の動物くらいだよ」
人間が嫌いなわけではないが、基本的に他の動物ほどは性別関係なく愛せない。
おちゃまるに眠気が現れた頃、おれは彼を解放し、ダイニングチェアに腰掛けた。
己のどこかにも眠るはずの神に力を貸してくれと語り掛けながら、入野の幸せをひたすら願った。
起きろという父親の声で、無意識に腕を枕にしていた頭を上げた。
照明の眩しさに目を細める。
空腹を誘うような匂いが嗅覚を刺激した。
「え……なに?」
「大丈夫か、廉。いつからいたんだ?」
「朝の五時半頃。目が覚めたんだ」
そうか、と父親は一言で頷いた。
「どこか体調でも悪かったのか?」
「いや、別に。なんで?」
「おれが起きた頃からずっとそこで寝てるから。もう夕飯できるぞ」
一気に眠気が覚めた。
言葉を選ぶ間もなく、父親へ「まじかよ」と返す。
時間を確認しようと携帯電話を求めてジャージのポケットを漁るが、中にはなにも入っていなかった。
「携帯……」
上か、と独り言を続け、おれは席を立った。
リビングを出て廊下を走る。
階段を駆け上がって自室に入ると、薄暗いそこに荒い呼吸が幾度も消えた。
枕元に置いてある携帯電話を手に取り、メールと着信履歴を確認する。
未読のメールも不在着信もあらず、おれはふうと息をついた。
よかったと思ったが、そうじゃないと思い直す。
おれに連絡をよこす余裕もない精神状態にあるのかもしれないと思った。
「元気?」と三文字を並べた下に紫藤 廉と添え、送信する。
三十秒も経たないうちに返信が届いた。
「元気よ」という三文字の下、入野あかねとあった。
深い息とともに、口から「よかった」とこぼれた。
微かな声を文字にしようと返信フォームを開いた直後、携帯電話は入野からの受信を知らせて震えた。
「なんか、お父さんがまためんどくさくなってきたけど」という文字に苦笑する絵文字が続いている。
「そうか。でも、入野は近日中に解放される。保証するよ」と返信する。
直後、「心強いわ」と返ってきた。
「当然だ。おれは神なんだ」と返信する。
なんとなく、「神」の文字は「じん」で変換した。
時計の秒針の音が響く中、おれは左耳のピアスに触れた。
己の中にも眠るはずの黒猫の名を呼ぶ。
寝起きは悪くなかった。
確認した携帯電話は七時十四分を表示した。
眠気が覚めた直後、入野のことが浮かんだ。
ざわつく胸元を落ち着けようと、左耳のピアスに触れる。
愛猫の名を呟いた。
大丈夫だと自分に言い聞かせる。
リビングでは、母親が完成した耳飾りを複雑な表情で眺めていた。
「おはよう」と声を掛けると、彼女は「あのさ」と応えた。
「なんかこれ、微妙じゃない?」
おれは母親のそばへ寄り、手を伸ばした。
布のような感触のあるものが静かに載せられた。
造花を小さな石で彩ったような揺れる耳飾りだった。
「……花が造花みたいな素材だからじゃない? 硝子みたいな、もっと爽やかに見える素材の方がよかったのかなと」
「なるほど」
「なんか安っぽい。いくらで売るつもりだったんだ?」
千二百円と答える母親へ、おれは売れないと食い気味に返した。
「よくその値段で売ろうと思ったな」
「材料にそこそこお金掛かったんだもん」
「ならば金が掛かったように見えるものを作って」
上目遣いに睨む母親へ、耳飾りとともにかわいくないからと返す。
おれはダイニングチェアに腰掛け、気を逸らそうとテレビを点けた。
しかしすぐに罪悪感に襲われて消した。
ダイニングテーブルに肘を載せて手を組み、それに額を当てた。
入野の幸を願う。
父親との将来に関する話し合いが穏やかに済み、彼女が現状と将来から解放され、自由に生きられますように――。
「頭でも痛いの? 鎮痛剤、あと二回分あるけど」
不意に母親が言った。
「いや、大丈夫」
「考えごとかなにか? 珍しいね。たまには頭を使うのも悪くない」
「そう思うなら静かにしていてくれ。普段はなんらかの命令を下すときしか話し掛けないだろう」
母親は「はいはい」と頷いたあと、数秒空けて「嫌な言い方するね」と口をとがらせた。
おれは言葉を返さず、入野の幸を願った。
これは試行などではない。
母親の収入が倍になるだの、そばを歩く二人がぶつかるだのといった、実現しなかった場合に誰一人として困らないようなものではない。
人一人の人生が懸かっているのだ。
しかもその人は、おれとこの非現実的な現象を信じてくれている。
いかなることがあろうとも、彼女の幸は実現させなくてはならない。
母親の作業の音がいやに気になりおれが腰を上げると、「出掛けるの?」と母親は問うてきた。
おれは「散歩に」と答えたあと、「買い物なら今日は断る」と付け加えた。
玄関の外は晴れており、適温だった。
玄関前の段に腰を下ろし、深く呼吸をして邪念を払う。
頭を下げて目を閉じた。手を組み、親指を眉間の辺りに当てる。
入野、頑張れ――きっともう少しだ――。
入野が家の事情から解放されますように――入野が幸せになりますように――。
入野が――入野が――入野――。
ひたすら願っていると、意図せぬ涙が親指から手首に向かって線を引いた。
鼻をすすり、震えた息を口から吐き出す。
引き続き入野の望む将来を願った。
入野の名を発した声はあまりに頼りなく震えていた。
入野が望む将来を生きられますように――。
手と頬に幾筋もの線を描く涙を拭い、何気なく顔を上げた。
太陽は外に出た頃よりも高くなっていた。
入野を思った数秒後、心臓がピアスを外した瞬間のように痛みを伴いながら震えた。
頭はなぜだといやに冷静に思考を巡らせる。
疑問の答えは出なかったが、愛猫の姿になった直後、体は戸惑う脳や愛猫の姿に慣れない心臓を連れることなく走り出した。
確かにこんなときに母親が出てきたらまずいと考えたが、冷静な脳は体に操られるように思考を変えた。
今までならばまだ愛猫の姿に慣れないはずの心臓も、今回ばかりは時間を掛けずに対応した。
入野のもとへ行きたいと思った。
思考が行動と一致すると、意図せずとも走りは速まった。
走っている道は知らない。
しかしなにゆえか、どこをどう進むべきかはわかった。
入野という二文字の漢字の下に五文字の英字が並ぶ表札を抱えるその家はやたら大きく、いわゆる豪邸というものだった。
どんな生活をしていたらこれほど多くの部屋が必要になるのだと考えてしまうほどだ。
「入野っ、入野」
叫ぶ声は確かに愛猫のもので、自分が少し愛らしく思えた。
しかし同時に、また神に触れたいと複雑な思いも芽生えた。
それを振り払うように入野の名を叫ぶ。
「入野っ、入野あかねっ」
これほどの豪邸にもなると、猫の声など聞こえやしないのだろうかと思った。
これで届かなければしばらく待とうという考えのもと、大きく息を吸ったとき、遠くに小さく見える重たげな扉が開いたように見えた。
その隙間から出てきた小さな人間は、足音とともに姿を大きくしながら駆け寄ってきた。
相手の名前なら、走ってきた道のようにわかった。
「入野あかねっ」
入野は「紫藤」と叫び、派手な洋風な門扉のそばでなにかを操作した。
やがてその門扉が動き出し、入野は僅かな隙間からこちらへ出てきた。
おれの前にしゃがみ、頭や体を撫で回す。
おれは、やめろそうじゃないと告げる代わりに口で入野の手を追った。
「紫藤……神ちゃん……」
ありがとう、と震えた声を続けると、入野は笑顔で、大粒の涙で頬を濡らした。
「入野、首輪を外してくれ」
「首輪?」
わかったと頷くと、彼女は涙を拭い、「外すよ」と宣言してから首輪を外した。
慣れない痛みと感覚が胸元を襲う。
「びっくりした」と地面に尻をつく入野を、おれは呼吸を整える前に抱きしめた。
いつの間にか震えていた喉で入野の名を呼ぶと、頬に温かみを感じた。