黑猫はかごの小鳥にキスをする。


「顔がそこそこよくて性格もいいやつを好きになったんだろう? ところで、当時そいつに告白はしたのか?」

「わたしの理想が高いというよりも……その人が完璧だったのよ。他にも好意を寄せている人を何人か知ってたわ。告白はしてない。勇気が出なかったの」

「はあ、もったいないことしたな。そんなやつ、他にいないだろうに」

「そうね。そんな素敵な人、他にはいないでしょうね」

「なんで告白しなかったかなあ。今超後悔だべ」

「……別に。まだ可能性あるし」

「ああ……。まあ、確かにそうかもな。相手もこの辺りに住んでるなら、結構再会の機会はあるからな」

「……そうね」

少しの沈黙のあと、入野は「鞄」と呟いた。

「ロッカー入れてくれば?」

「ああ、そうだな。にしても、その入野の初恋の相手は、今も顔と性格のよさを保ってたら、今頃女子を選び放題だろうな。まあでも馬鹿みたいに優しいらしいから、そんなことはしないのかね」

「しないと思うわ。それに彼、女の子に興味なさそうだもん」

「女にまるで興味のない男なんているのかな。当時は冷めていそうでも、今となっちゃ興味しかないだろう、年齢的にも」

「……紫藤は女の子に興味あるの?」

「まあ、人並みには。出逢いというかきっかけというか――がないからまあ、察してほしいところだが」

「へえ。興味があるなら、もっと女の子からのアピールにアンテナ張ってみたらどうよ?」

「まあ、おれは『馬鹿で鈍感な神様』だから」

おれは苦笑した。

入野はため息に似た息をつく。

「もっと敏感になりなさいよ。この鈍感野郎め」

「鈍感ってのも、馬鹿と同じで簡単に治るもんじゃねえんだよ、きっと」

治るのならとっくに治してるさと続け、おれは鞄を持って席を立った。


「ところで入野、親父さんとはどうだ?」

席に戻って問うと、入野は苦笑した。

「本当に、わたしに関してはそれにしか興味がないのね」

「いや……そんなことはないけどさ」

「じゃあ他にわたしの興味のある部分は?」

「えっと……あの……」

ないじゃないのと苦笑する彼女へ、ちょっと待てと笑い返す。

「別にいいわよ、無理に興味を持ってくれなくて。本気で興味を持ってほしかったら、いろいろ頑張って興味を持ってもらうから。

お父さんとは、まあまあよ。時々、薄っすらと不穏な空気が漂う感じ」

「……不穏か」

「まあ、あまりに執拗に言ってくるものだから、向こうもいらいらしつつあるんじゃないのかしら」

「なるほどな……」

「まあ、今になって不安になってきたのが、お父さんが口を利いてくれなくなることね。そうしたらまた振り出し。むしろもっと後ろかも」

「そうだな。うまく加減しろよ」

「ちょっと。最悪の場合には助けてくれるっていう話だったじゃないの」

苦笑する入野へ、「もちろん助けるよ」と返す。

「だけど、ある程度は自力で頑張れ。入院中の病院みたいなものだ。ちょっとやそっとでは薬出さないだろ?」

「幸せなことに病気とは無縁な生活を送ってきたものでね。よくわからない」

「そうか」とおれは苦笑した。

「まあ健康ならなによりだ」


「紫藤は入院したことあるの?」

「いや。おれ心身ともにかなり健康だから」

「ふうん。それでよく病院のことわかるわね?」

「なんか、父親が過去に入院したことがあるらしくて。そのときの話を聞いて知った」

「へえ……」

入野は静かにうつむいた。

「わたし、家族のことってほとんど知らないな。誕生日と血液型くらいね、知ってること」

ぽつりと並べた。


「さすがに、妹たちの通ってる学校くらいは知ってるだろう?」

「まあ、それくらいはね。でも……学校の様子とか、学校でどんなことがあったかとか、まったく知らない」

「そうか」

「お父さんだって、日中なにしてるか、具体的なことはわからないし。

お母さんだって、経営の手伝いのようなことをしているというのは前に聞いたけど、やっぱり具体的なことはまったく……」

繋がりの薄い家族ね、と入野は苦笑した。

「別に悪いことではないと思うけどな。家族だといってもいちいち縛られていちゃ、さすがに精神的にきつい」

入野はゆっくりとこちらを向いた。

「紫藤家はどんな感じなの?」

「そうだな……家族全員がおちゃまる第一で、母親は日々おれに様々な命令を下し、父親が帰宅してからはおちゃまるの争奪戦が起こる――」

「楽しそうな家ね」

「それが実際住んでみるとそうでもないんだよ。おちゃまるが父親の元にいると腹の底から嫉妬するし。

とりあえずそれを確認したら手を洗ったか訊く。汚い手で触ろうものなら何度でも殴るし蹴る」

入野は小さく噴き出した。

「それ本気?」

「まさか。父親は真面目で、家での決まりを一度も破ったことがない。その決まりというのも、おちゃまるに触れる前に着替えと手洗いうがいを済ませるというものなんだがな」

「おちゃまるちゃんに触るのにうがいもするの?」

「口からなにかをうつすかもしれない。神が少し早かったから、動物の健康管理と衛生管理は徹底してるんだ」

「へえ。じゃあ健康診断……定期検診か。そういうのも行ってるの?」

「ああ。母親が日中に済ませてるから、いつ頃行ってるかといったことは把握してないが、毎度問題はないらしい。

前は行った日に毎度結果を聞いていたのだが、それでは直前の緊張でこちらの寿命が縮むと判断し、結果を報告するのは異常が見つかった場合だけという決まりを作った」

「へえ。おちゃまるちゃん、愛されてるのね」

羨ましいわ、と入野は切なく目を細めた。


「完敗だ」

放課後、おれは碁石の並んだ碁盤を眺めて苦笑した。

「まあ、本来の結果はこれってわけよ」

向かい側に座るおのっさんは嬉しそうに口角を上げた。

そうかあ、と宮原は目元に手をやる。

「おのっさん、やっぱり強くなって帰ってきたね」

「おれも、これでも練習したんだがな。何年も前のゲームだけど」

「おらも絶対レンが強くなってくると思ったから練習したよ。おらもゲームだったんだけど、たぶんレンと同じやつ。おらたちが小六くらいの頃に流行ったやつだろ?」

「そうだよ。『強い』に設定した機械相手に、ひたすら真剣に挑んでた」

「そうそう、おらもまったく同じ。でも物足りなくて、さっき宮原から連絡あったときは嬉しかった」

おらの相手になれるのはレンだけだと笑うおのっさんへ、恐縮ですと笑い返す。

「僕には天才同士の言葉は理解できないね」

苦笑する宮原へ、おのっさんは「そんなことねえよ」と笑う。

「当時は何回も解き直した中学の問題も、今は常識の範囲みたいになってるだろ? そんな感じだよ」

「基本的に努力だけでどうにかなる勉強と、そうじゃない競技を同じもののように説明されてもね」

宮原は肩をすくめて苦笑した。


「けっ。せっかく凡人にもわかりやすいように説明してやったのに。

ていうか、勉強は努力だけなんかじゃどうにもならねえよ。それならおらもお前と同じ三高にいる」

宮原は「基本的にと言ったでしょう?」と笑った。

「凡人にもわかりやすいようにと言うけど、別に僕はおのっさんたちの言葉が理解できないことに劣等感なんて感じてなかったよ」

「てめえ、本当に生意気な男だな」

「ちょっと生意気なくらいが生きてる方は楽しいんだ」

「おらは本当に生意気な男だと言ったんだぞ、ちょっとなどとは一ミリも言っちゃいねえ。お前ほどの生意気は、人様の心に苛立ちを募らせるんだよ」

「苛立ちを感じるなら感じさせる方が幸せだね」

「てめえ最低だな。お前には利他的な部分はねえのかよ」

「僕はわがままで自己中心的な人間なんだ」

「どんなことを誇りに思ってやがる。わがままで自己中心的な人間は多くの人に嫌われるんだぞ。それを理解しても尚、自分のそれをそんなふうに語れるか?」


二人の間を行き交う言葉を聞きながら、おれは笑った。

この二人は本当に仲がいいのだなと思った。


おのっさんには、二度目の対局でも負けた。

一度目より差は小さかったが、確かに負けた。


「いやあ、やっぱりレンに勝つのは面白いな。途中、何回もはらはらする」

大の字に寝転び、おのっさんは楽しそうに言った。

「おれはおのっさんに負けるのがかなり悔しいよ」と返す。

「途中で何度も勝てるかもしれないと感じさせられながら、最後には結局負ける。おのっさんに勝ったのは、前回、引き分けのあとの一度だけだ」

「それだけおらが強いんだよ」

「まあ強いのは否定しないけどさ」

おれが苦笑すると、宮原は「本当に強いよね」と笑った。

「もう化け物だよ、ここまでくると」

最高の褒め言葉だとおのっさんはにやりと口角を上げる。


「そういやさ、レンって好きな人とかいるのか?」

おれが窓の外、遠くの建物の屋根から飛び立つ鳥を見送ったあと、おのっさんは言った。

「いや、いないよ」

「へえ。かわいいなあと思う子とかは?」

「ああ……。普通というか、素直にしていれば男受けよさそうなのにもったいないなと思うやつはいる」

入野さんだねと宮原は言った。

鋭いなと返すと、廉くんよりはまともな感覚を持っていたいからねと笑われた。


「そのイリノって人はかわいいのか?」

「ああ、まあ……見た目は結構だと思うよ」

おれは言った。

「へえ。どんな感じ?」

「髪が長くて、目が丸くて、顔が小さいせいかその目がでかく見える。背は平均より少しあるくらいで、まずおれとは違う性別だなと思うような体」

「へえ。スタイルいいんだ?」

「いや……それは別に普通じゃないかな。おれが言いたかったのは、守りたくなるような体つきってこと」

「ああ、細いのな。ならそう言えよ」

変な想像したじゃねえかとおのっさんは笑う。

「で、レンはそのイリノをどう思ってるんだ? 好き?」

「別に嫌いじゃないけど……。普通の友達かな」

「へえ。かわいいと思う瞬間はないのか?」

「なくはない。むしろ度々思うけど……」

「好きじゃないのか?」

「好き……まあやっぱり、嫌いじゃないけどって感じ」

「へえ……」

おのっさんは小さく笑った。

「それ、好きじゃねえの? 好きでもない女の子をかわいいとか思わねえだろ」

「……そうか? 見た目はいいけどこういう性格の子好きじゃねえんだけどみたいなこともあるだろう」

「まあそうだけど。レンはイリノの性格好きじゃないのか?」

「いや……嫌いじゃないけど」

「じゃあ、やっぱり好きだよ。今はそうじゃないにしても、そのうち好きになる系だぞ、それ。これでイリノの方がレンのこと好きとかだったらおもしれえのにな」

おのっさんが言い終えた直後、宮原は小さく咳き込んだ。

「なんだ、風邪か?」

おのっさんの声に、彼は「いや、大丈夫」と頼りなく返す。


「いやあ、ぜひそのイリノってやつ見てみたいな」

「やめておいた方がいい。おのっさんみたいな人じゃ、慣れるまではぼろくそに言われる」

「……ぼろくそ?」

おのっさんは控えめに言った。

ああ、とおれは頷く。

「おのっさんはおれと似てる部分がある。おれは前、入野に

『本当に頭が空っぽなのね、あなたには考えることがないのかしら、というかあなたに脳という臓器は存在するのかしら』

みたいなことを毎日のように言われた。実際に会ったら、おのっさんもそれに近いことを言われるはずだ」

まじか、とおのっさんは苦笑した。

「イリノ、おっかねえな」

「ああ、おっかないよ。素直になってくると男受けのよさそうな部分も多いんだがな。人見知りかなにかなんだろう。

ただ、おれは入野と仲よくなってから結構経つが未だに彼女の言動は理解できない」

「それは廉くんがくそみたいに鈍感だからだよ」

水を飲んで咳払いを繰り返していた宮原が言った。

「なんであの入野さんの言動が意味することがわからないんだい」

「……へえ」

なるほどな、とおのっさんは怪しく口角を上げた。

「……えっ、なに?」

「レンって鈍感なんだな?」

「ああ、宮原に言わせればそうらしい。入野にも言われた」

「ほう、なるほどな」

じゃあおらはおとなしくしておくよ、とおのっさんは笑った。

「レンとイリノの関係は大方想像できた。おらがちょっかい出すべきようなもんじゃねえな」

「……なんでおのっさんがこんな一瞬でわかるんだ。おれ、全然わかんないんだけど」

「確かにレン、鈍感だな」

はははとおのっさんは楽しそうに笑う。

宮原が「鈍感なんてものじゃないよ」と彼に返す。


昇降口が近づいた頃、何者かに背中を殴られた。

痛みに慣れることはないが、それが誰に与えられたものかはわかる。

「……朝から暴力的だな、入野」

「なぜわたしが紫藤を殴るか――。理由はただ一つ、そこに紫藤がいるから」

「馬鹿野郎、おれは貴様に殴られるために生きてるんじゃない」

「……じゃあ、なんのため?」

「さあな。そんな――」

わかったと入野は人差し指を立て、おれの言葉を遮った。

「そんな……そんなものは、生きてるうちにわかるもの、とか?」

おれは苦笑した。

「当たりだね?」

「そう思うならそう思え」

「言われなくてもそう思うわよ」

「今はわかった気もするけどな」

「なに? さらに恥ずかしい言葉聞かせてくれるの?」

「おれは今、人を助けるために生きている」

入野は小さく笑った。

「なんかもう、紫藤のおかげで少し変なくらいの言葉では驚かなくなったわ」

「それは複雑だな。驚きがあった方が面白いのに」

「驚きねえ……」

入野は呟いた。そんなもの求めてはいないとでも言いたげな声だった。