許婚――幼少のときに双方の両親が結婚を確約した者同士――。

そんなもの、この時代には存在しないとどこかで思い込んでいた。

しかしそれが誤りであることはすぐにわかった。

助けてやりたいと思った相手にその存在があった。

おれに彼女を助けてやりたいと思わせた要因の一つだった。


入野 あかね(いりの あかね)――外見は少し幼くもあるが、一見は至極平凡な高校二年生の少女だ。

県立第三高等学校第二学年六クラス、出席番号五番。

通称を三高(さんこう)というこの学校内での彼女の基本情報はその程度だ。

席は中央の列、後ろから三番目でおれの隣である。


十七年前の十二月二十九日、おれは日本の紫藤(しどう)家に長い時間を掛けた末に長男として生を受け、廉(れん)という名を与えられた。

父親はとある高級旅館に勤めており、日本を愛する中国人である母親とはそこで出逢ったという。

彼女は現在、趣味でありながら特技でもある手芸を活かして毎月高校生のアルバイト代程度の金を稼いでいる。

詳細は知らないが、なにやらインターネット上で手作りの装飾品や小物入れ、小銭入れなどを販売しているらしい。

母親が日本人でないと言うと、殆どの者がその国の言葉も話せるのかと興味津々に問う。

住んでいる国とは違う国の血が入っている芸能人はよく発音のいい外国語を話すために、そういった疑問を抱くのはよくわかる。

しかしおれの場合、中国語に触れたのは名前だけを知っていた音楽家の世界観を興味本位で覗いた程度あり、

伝えたいことをそれで伝えることはできるが、必ずや場面に合った言い回しができるわけではない。

なにせ中国語を母語とする母親が日本語しか話さないのだ。

日本に生まれ育ち、日常で使う言語が日本語ならば、この程度理解できていれば上等であると自負している。


記憶にある限り、おれの日常には必ず動物がいた。

幼稚園生の頃には家にリスがおり、幼稚園にはうさぎがいた。

家のリスが眠ってからは、うさぎが来た。

三年半ほどでそのうさぎが眠った次には、父親が弱った子犬を連れてきた。

「こんな寒い中、かわいそうで見ていられなかった」と彼は言った。

おちゃまると名付けたその当時の子犬はまだ家にいる。

おれや両親に犬種の知識がないために種類はわかっていないが、薄い茶色のその子犬は中型犬程度の大きさに成長した。

父親が幼少期より何頭もの犬を拾っては育てていたため、おちゃまるの心身の回復は想像よりも早かった。


幼稚園生の頃に得た友人である宮原(みやはら)とともに過ごしたおれの小学校生活の終盤は、至極平凡なものだった。

勉強を嫌っては遊びを好み、テストに投げやりな気持ちで挑んでは大したことのない数字を抱えて返ってきたそれを破り捨て、ゲーム機が映し出す世界に浸る。

投げやりな気持ちで挑んだテストが抱えて返ってくる数字を除けば至って平均的な小学生であった。


その神社との出会いは、宮原を介したものだった。

彼の家から徒歩数分の場所にある小さなそこで、神の存在を感じてみたのがその神社との出会いだ。

神の存在を感じてみるという思考を働かせたのは宮原の方だった。

当時、人生全体を見た場合には不運とも言えないような不運がおれと宮原を頻繁に襲っており、

神というものは実在するのかなどと年齢相応なことを考え、宮原の家の近くにあるあの神社へ行ってみた。

神などという特別なものを感じることはなかったが、当時のおれたちはそこに居心地のよさを感じた。

以来、そこでぼんやりと内容のない言葉を交わすことが増えた。

真夏のそこで、一枚の五十円玉で釣り銭が返ってくる程度のアイスバーを食べるのが好きだったのを覚えている。


神社は、現在のおれを作った小さな命との出会いを持ってきた。

それは小学校五年生の頃の真冬であったと記憶している。

当時のおれは宮原と二人、今年のクリスマスにはサンタクロースになにを頼むかと話していたはずだ。

この頃サンタクロースとやらが訪れないのだがとこぼした宮原に苦笑したのも覚えている。


年齢相応なおれたちのもとに、小さな黒猫が現れた。

黄色の目を持つその黒猫は、その後頻繁に現れた。


「あの猫、ここの猫なのかな」

前方数メートル先にいる黒猫を見ながら、宮原が言った。

「さあ、どうだろう。かわいいよね」

「かわいいか? 黒猫だぞ」

「ああ、黒猫だよ」

「かわいいのか、黒猫って?」

「いやあ……まあ、かわいいっていうのは失礼かもしれないね。黒猫は神様みたいなものだから」

おれが言葉を並べている間に、黒猫は賽銭箱の前に座るおれの足元に寄ってきた。

手を伸ばしても、特別に警戒する様子も見せなかった。

そっと触れてみるが、大きな反応はない。

「黒猫って神様なのか? じゃあ、この神社の神様を……可視化だっけ、した感じ?」

「もしかしたらそうかもしれないね」

でも本当にそうだったらこんなに馴れ馴れしく触るのも罰が当たりそうだね、とおれは笑った。

「ていうか。黒猫が神様だなんて話聞いたことねえんだけど、おれ」

「そうなの? 日本でも、黒猫は縁起物なんだよ。フクネコ――幸福の猫として、魔除けや幸運の象徴とされてたんだ」

「へえ。お前日本人でもないのに日本に詳しいのな」

宮原の言葉に、おれは苦笑した。

「そういう言い方はせめておれだけにすることだね」

「でも本当に詳しいよな。日本のことならなんでも知ってんじゃねえの?」

「そんなことないよ。ゲーム機だってたまにちゃんと動かないときがあるんだ、人間なんか所詮は生き物、誰だって完璧とは掛け離れた存在だよ」

おれが黒猫を撫でながら言うと、宮原は大げさに噴き出した。

「廉、お前ってたまに聞いてる方が恥ずかしくなるようなこと言うよな」

はははと楽しそうに笑う宮原につられ、おれも小さく笑った。