ライブが終わったあと、僕は高藤さんと近くの居酒屋の個室へ入り、ビールで乾いた喉を潤していた。あとから林道さんも合流するらしい。
店内は活気に溢れた様子の店員たちが笑顔を振りまいて、忙しく動き回っている。これだけ動き回っていれば、いずれぶつかったりしないのだろうか、と冷や冷やしたものだが、「彼らは互いの距離感を完璧に把握しているから、縫うように移動することが出来るんだ」と高藤さんに聞かされたすぐあとに店員同士がぶつかり、盛大に料理をぶちまけたのには、腹を抱えて笑った。
しばらくすると、店員が勢いよく個室の扉をあけ、林道さんが姿を現した。
「おう、どうだった?」
林道さんは席に座るなり、僕達が頼んだものの考慮を一切せず、一頻り注文を済ませると、ライブの感想を求めてきた。
「……まあ、良かったんじゃないか」
高藤さんはご機嫌ななめな様子で、ぶっきらぼうに答えた──だけど、僕は知っている。林道さんのライブが始まった瞬間から手を固く握り、目を輝かせていた高藤さんを僕は見ていた。
林道さんのライブが成功か失敗だったのかは、僕には正直なところわからない。もちろん、最初のインパクト溢れるギターの導入によって、目当てではなかった客の心を一気に引き寄せることができた。しかし、インパクトだけでは、客の興味は長く続かない。
「早く歌えよ」「前奏が長いぞ」「このバンド、ボーカルいねえじゃん。さっさと終われよ」
高藤さん曰く、そんな心無いヤジも飛んでいたらしい。僕にはもちろん届かなかったが、林道さんのステージに投げ捨てられたそれを、林道さんはどう捉えたのだろうか。
有名なインストバンドならともかく、無名且つボーカルのいないインストバンドに三十分間のワンステージは、無謀な挑戦だったともいえる。ただ、林道さんらのバンドに惹かれた客は少なくとも二人は存在それに果敢に挑んだという点を考慮して、無謀ながらも果敢に船出を切ったことを鑑みれば、充分成功したと言えるのではないだろうか。
ただ当の本人は、「いやあ、やっぱり路上とライブハウスは全然違うなあ」と高揚した気分を抑えられずにひたすら僕らにライブの話を聞かせてくれた。
「ボーカルの方は何か反応を示しましたか」
ふと高藤さんが言っていたことを思い出した僕は、林道さんに確認する。もしいい反応であれば嬉しいことだ。
「そうだな。そういえばまだ確認していないや」
林道さんはにやにやしながら、僕らが注文したフライドポテトを食べる手を止めた。
「それでは早速、反応を聞かせてもらおうじゃないか」
僕は林道さんが何を言っているのか、意味がよくわからなかった。だけど、林道さんの視線は高藤さんに向けられている。
「……え、ボーカルに誘っている人って──」
「おう、高藤だよ」
何も言わない高藤さんとは対照的に、林道さんは笑みが溢れるのを抑えられない。
「それで、どうだったんだよ」
肩を揺する林道さんを手で払いながら、高藤さんはこほん、と咳払いをした。
「……お前、本当に歌う気は無いのか」
「俺がボーカル? それはないだろう。俺はこれを弾いているだけで幸せだ」
林道さんはギターケースを擦る。「それに俺は高藤の歌が好きだしな」
「気持ち悪いなあ」
高藤さんは悪態を吐くが、決して嫌そうには見えなかった。
「わかった。次のライブだけは一緒に立ってやる。話はそれからだ」
「ええ、また保留かよお」と座敷を転がりながら悔しがる林道さんを見て、僕たちはまた大きく笑った。
これが永遠に続けばいいのに──そんな柄にもない言葉が、本気で口から出たのは、生まれて初めての経験だった。
「明、最近出歩くようになったけど、どうしたの?」
自宅から出るとき、母に呼び止められた僕はため息を吐いた。
「何でもいいだろう」
短く答えるが、母は決して折れることなく、質問を続けた。
「別に出歩いていること自体はうれしいのよ。だけど、せめて、用件くらい伝えてくれないと、心配じゃない」
手を忙しなく動かしながら、泣きそうな顔で話す母に僕はとんと嫌気が差す。
「うるさいなあ。引き篭もっていた時は、いろんなところへ出かけなさいって言っていたくせに、出歩くようになったら、今度はどこに行くか説明をしろって、もう子供じゃあないんだから」
僕は二十七歳にもなって、未だに実家ぐらしを続けている。しかし、それは仕方の無いことだ。だって、僕の両親が独り暮らしをずっと拒み続けているのだから。
ただ、両親が過保護なのかといえば、そういうものではない。どちらかといえば、過保護にならざるを得なかった、というのが正しい表現だろうか。それにかくいう僕に非がないわけではない。両親の気持ちは僕なりによくわかっているつもりだ。
僕はつい最近まで引き篭もりの生活を送っていた。最近というのは、林道さんとは出会うまでの話だ。引き篭もりといっても、母がとやかくうるさいので、なんの目的もなく、ただぼんやりと電車から窓の外を眺めるだけの時間を過ごし、誰とも喋らず触れ合わず、黙って実家に帰る往復である。あの頃の僕は鬱屈した様子で、ただぼんやりと外を出ていた。
目的のない散歩は言うなれば徘徊に近い。警察に職務質問を受けることも度々あった。その都度、事情を説明をすれば、同情する者や発破をかける者と反応は様々だったが、それもまた面倒事のひとつだった。
そんなハンデを抱えた僕を両親が簡単に手放すこともないわけで、その時の延長線上で両親は僕を常に守ろうとしてくれている。
僕だって決して両親が嫌いなわけではない。感謝もしているし、だからこそ早く自立せねば、とも思っている。
それなのに、僕の母はなかなか僕から目が離せないらしく、毎日のように僕の一日の動きを把握しようとする。
そうさせたのは僕のせいとはいえ、何とも面倒なことだ。
「とにかく行ってくるよ」
僕は母の反応を待たずに逃げるように家を後にした。
僕と林道さんが出会ってから一年の月日が流れ、母が言うように僕の生活は確かに変わった。一番大きく変わった点はといえば、仕事に就いたことだ。ようやくと言うべきか、なんとかと言うべきか、兎にも角にも自分で少しずつ稼ぐことが出来ている。
ただ、まだ両親には内緒にしている。理由は幾つかあるけれども、主に自己満足だった。自分でしっかり地に足をつけて生活ができることを両親に見せてあげたい。そんな想いで仕事を始めたわけだが、今までどれだけ自分が甘やかされて育ってきたかを痛感し、感謝が生まれた。だからこそ、自分の稼いだお金で、親に何かをプレゼントしたい。そう思うようになった。
親にはでかい態度をとっていたくせに、恩返しとは矛盾していることだが、本音と建て前という言葉があるように、言葉と心情が常に同一とは限らないのは、何も僕だけではないだろう。唯一例外があるとすれば、常に思ったことを口にできる林道さんくらいなものだろうか。
そもそも仕事に就いたきっかけはあのライブから三ヶ月ほど経った林道さんの何気ない一言がきっかけだった。
いつもの如く林道さんからご飯に誘われた僕は、居酒屋へと向かった。暖簾を潜り、店員の誘導で林道さんのいる部屋へに入ると、高藤さんも一緒にいて、僕の到着を待つより先に始めてしまっていた。
「高藤さんも一緒だったんですね」
「なんだあ、高藤だって一緒にいたっていいだろう」
もう酔っ払っているのか、林道さんは横暴な言いがかりをつけてくる。
「林道、小林はそういうつもりで言っていない。そしてお前は酔いすぎだ」
林道さんの頭を小突き、すまんな、と手を合わせる高藤さんに苦笑いで答えながら席についた。間もなくビールが運ばれ、三人は乾杯をしてビールを呷る。林道さんは半分ほど一気にジョッキを空けると、はぁ、とわざとらしいため息を吐く。
「ああ、最悪だなあ」と不自然な独り言を大声で発しながら、僕と高藤さんをちらちらと横目で反応を窺うそれは、幼児そのものである。高藤さんの方を見やると、視線が合った高藤さんは、「来てからずっとああなんだ」と心底嫌そうに言った。
「理由を聞いても、いやあ、としか言わないからこちらも参っていたんだ。恐らく小林が揃うのを待っていたんだろう」
林道さんはビールを早くも三杯ほど空けてはいたが、呂律が回っていないところを見ると、まだ酔っ払ってはいないだろう。あの個性的なテンションのせいで、素面と泥酔の区別がつかないのが難点だが、これまでの飲みっぷりから察するにかなり強いはずだ。高藤さんも、「酔いすぎだ」と言いながら、呑むのを止めないところからも、彼の意識がはっきりしていることを知っている。だからこそ、面倒くさいという言葉がしっくりくる始末になっているのだ。
「何かあったんですか」
僕は優しい口調で、林道さんに問いかける。
これは高藤さんではなく、僕の役目だ。高藤さんが尋ねても、こうなるとうんとすんとも言わなくなる。
「お、聞いてくれるか」
待ってましたと言わんばかりに、食い気味で林道さんは顔を上げた。
「はい、聞きますよ」
僕は姿勢を正し、林道さんの方を体ごと向けた。
「実はな……」
そう言って林道さんは徐に語りはじめるが、高藤さんが後ろから肩を叩いた。
「あまり真剣に聞かなくていいぞ。酒の肴程度にしておいた方がいい」
高藤さんは至って真面目な表情でとんでもないことを告げる。ああそうなんですね、と思わず相槌をしてしまいそうなほどに自然な口ぶりだった。
「あくまでも俺の持論だが、こういう時の林道の漫談は──」
高藤さんもその場を楽しんでいるのだろう、少し間をあけて、唇を湿らせた。
「──俺たちに言っても仕方のないことばかりだ」
間を開けるほどのことだったのかと呆れつつ、僕は高藤さんがだいぶ酔っ払っていることを理解した。
林道さんの話は高藤さんが言っていた通り、僕たちがどうこうできる案件ではなかったわけだが、あながち蔑ろにもできない案件でもあった──つまりは、親との確執である。
「いつまでバンドなんか続けてるの、だってさ。ちゃんとした仕事に就きなさいってどういうことだよ」
「そりゃあ、親ならそう言うだろう」
「そういうことじゃあないんだよ」
「家庭のことを持ち込まれても、俺らじゃあ何も解決出来ないぞ」
ぴしゃりと言ってのける高藤さんの辛辣な言葉に林道さんは押し黙ってしまった。
「辞めるつもりはないんだろう?」
「ああ、それは辞めない。高藤がボーカルに入ってくれたおかげで、ようやくバンドとしてもスタートが切れたところだ。今となっては、別にこれで食ってこうなんて思ってもいないが、だからといって辞めるつもりは無い。俺にとって歌うことは生きることと同義だから」
「だったら結果は出さないと」
「……結果?」
僕は二人の会話に割って入る。
「まずは大きい舞台でライブをする。俺らがよくライブをしているライブハウスなんかじゃなくて、もっと大きいところ。せめてこの市内で一番大きいライブハウス『BUMP』で演奏すること。そして、ちゃんと地に足のついた仕事に就いて親を安心させること。それがお前自身が決めた約束事だろう」
「ライブハウスは地に足のついた仕事じゃあないんですか」
「そんなことはない」
林道さんは否定する。
「ライブハウスの運営だって必要な仕事に決まっている。俺たちのようなアマチュアバンドが演奏する機会を与えてくれるのはライブハウスのおかげといっても過言ではない」
「じゃあライブハウスの正社員になったことを伝えればいいじゃないですか」
僕は当たり前のことを呟いたと思ったが、二人の反応は思いのほか薄く、きょとんとした表情を浮かべている。
「林道……お前またちゃんと伝えていないな」
「ああ、確かに言ってなかったかもしれんな」
はあ、と深いため息を吐きながら、高藤さんは頭を掻いた。僕は何を言っているのか見当がつかないままだ。
「林道は別にライブハウスの正社員になったわけではないよ」
「え? だって汗水流してバイトをしていた自分を気遣ってライブハウスで演奏させてくれるようになったって」
「それでも、正社員になったなんか一言も言ってはいない」
確かにそうだが、と僕は唇を噛む。振り返れば路上ライブの引退宣言から高藤さんのボーカル勧誘でも同じようなことが起きていた。林道さんの曖昧な表現のせいで僕だけ取り残されている。だから常に穿った見方をする必要が林道さんには求められるのだ。そして、そんな見方をしても僕の想像の斜め上をいつも突っ走る。
「まあそれはともかくとして、結局はどこに就職されたんですか」
どうせなら祝いの席にもなれば、林道さんの気も和らぐのではないかと思い、僕は林道さんの就職先を尋ねた。
しかし、当の本人が何故か口を割ろうとしない。それに隣の高藤さんは口元を押さえて笑っている。
「いやあ、ちょっとな。俺がこの話を知り合いにするとこぞって笑い飛ばすんだよなあ。だから言いづらかったんだよ」
「こぞって笑うほど友達もいないじゃないか。ただ、笑われるような職業ではない」
「そうやってフォローを入れる高藤が笑ってたら説得力がなくなるだろう」
悪い悪いと謝りなからも、高藤さんの笑いは止まらない。
「……で、結局どんな仕事に就いたんですか」
痺れを切らした僕は強引に二人の話に割って入った。
林道さんは、「絶対に笑うなよ」と真剣な表情で訴えるが、それ自体がおかしくて笑いそうになるが、何とか堪える。
「……まあ、その……なんだ」
よし、と口に出して何かしらの決意をした林道さんの口がゆっくりと開く。
「──……中学校の先生だよ」
やはり林道さんは僕の思い描くイメージの遥か斜め上を突っ走る。
まさか子供と携わる仕事だったとは。
「──子供がさ、好きなんだよ」
ぼそぼそと語る林道さんは、顔を赤らめながら恥ずかしそうに小さくなっていた。
林道さんは教師を目指し、教育学部の大学へ現役で入学し、教員免許も取った。そこまでは両親も安心して我が子の将来を見守っていたらしい。しかし、歯車が狂い始めたのは大学三年のとき、出会ったバンドから始まっている。そのバンドは林道さんと同じ大学の生徒で構成され、洋楽を中心としたコピーバンドを行っていた。そこに林道さんがスカウトされる形でバンドに加入することとなる。担当はしかもボーカルである。そのバンドで元々ボーカルだった人物というのが──……。
「……──俺だったんだよなあ」
高藤さんが手を挙げて、ひらひらと振った。
高藤さんと林道さんは大学構内で知り合い、意気投合した。元々林道さんも趣味程度でギターを齧っており、高藤さんのバンドのライブに度々顔を出したり、練習に付き合ったりしていたこともあって、バンド全体としても受け入れは万全だった。
誤算があるとすれば、林道さんの入れ込みように尽きる。
彼は練習に励み、バンドから見れば、勤勉なメンバーの一人であった。しかし、彼らの本業である勉学がその分を差し引いて見るからに疎かへとなっていった。ともあれ、教員免許は辛うじて取得もできた林道さんだが、残念ながらそのまま学校の教師に就職することは叶わず、塾講師やライブハウスのバイトで食いつなぐ生活を余儀なくされた。それでもバンドを辞めない彼を見かねた両親の堪忍袋の緒が切れるのは当然の摂理である。
しかし、林道さんも音楽活動でずっと食っていこうと思っていた訳では無い。独りよがりな物言いで勘違いされやすい性格のため、友人と呼べる付き合いが乏しかった彼にとって、唯一の居場所だったものを無くしたくない、その一心だったのだ。だからこそバンドが解散しても音楽はずっと続けていた。そうすればまた居場所ができると信じて疑わなかったから。そんななか、バンドが解散しても付き合いを続けている高藤さんがいて、僕と出会うこととなる。林道さんには悪いが、僕にとっての音楽はあの路上ライブで死に物狂いで歌っていた林道さんから始まっている。第三者からすれば、どうでもいいよくある日常の一枚に過ぎないが、僕らにとってはかけがえのない一枚なのだ。
そして、林道さんはその音楽を通じて一人のファンと出会う。それが彼をまた教育の場へと心を向かわせるきっかけとなったらしい。
僕はそれを聞いた時、林道さんのライブハウス初ライブの様子を思い返した。あの空間のどこかにそのファンの方はいたのかもしれない。
それから林道さんの努力の甲斐あって、非常勤講師の職に就くことが出来た。そして、此度非常勤講師から教員採用試験に合格し、教師としての第一歩を踏み出したのである。
「なおさらご両親に報告するべきだと思うんですけど」
高藤さんも「そう思うだろう」と同意する。
「俺もずっとそれを言っているんだ。大きい舞台での演奏はともかく、教師への就職は、両親にとって一番の孝行話じゃあないか。それを聞かされるだけでも、音楽活動に関してはかなり友好的な回答を得られるものだと思うしな。だけど、林道自身がそれを望まないと言っている。あくまでも二つの約束事が達成するまでは、両親に黙っていると聞かないんだ。そこまで頑固になる必要性が俺にはわからない」
高藤さんは首を傾げるが、林道さんの頑なな様子をみて、少しだけその意味がわかるような気がした。
林道さんは恐らく、両親に許してもらいたいわけではない。
林道さんはただ、両親に認めてもらいたいだけなのだろう。
言っている意味合いは同じでもその本質はまるで違う。
こればかりは両親の期待を一度でも裏切ってしまった者にしかわかることは恐らく無い。
「ならば、林道さんは少しでも早くご両親に報告出来るように頑張るしかありませんね」
突然の寝返りに流石の林道さんも動揺したらしく、「お、おう」と言葉を詰まらせた。
「僕も林道さんと同じように両親に心配ばかりかけている身なので、林道さんの気持ちがわかっているつもりです」
「まあ、小林の心配と林道の心配とは質が違う気もするけどな。小林の両親の想いを心配とするならば、林道のそれは呆れや侮蔑に属するだろう」
高藤さんの方が珍しく酔っ払っているようで、冗談を口にしながらけたけたと笑っている。
「小林は何か両親への想いをぶつける機会とかあるのか」
林道さんは柄にもなく、心配そうな言葉を並べるが、僕は首を振った。
「何にもです。何をしたらいいかもわからないし、僕に何が出来るのかもわからないので」
「出来ることなんて山ほどあるだろう。俺たちにだってやることで溢れているんだ。小林にだって同じだよ」
僕と林道さんや高藤さんとは明らかに違う人種だ。それなのに、僕のことを同じだと言ってくれる。普通に聞けば、気遣いから言ってくれているとしか思えないし、下手すれば嫌味にしか聞こえない。だが、林道さんの裏表の無いまっすぐな性格にはそれが無いから心地よい。彼らの目を見ればそれが本心であることなどすぐに理解できた。
「じゃあ、まずは小林も手に職をつけるところから始めるか」
林道さんは手を叩き、僕の反応を待たずに立ち上がる。
そうして、僕の職探しは林道さんを仲介役として幕を開けたのである。
林道さんは高藤さんが揶揄するように自分でも友人が少ないと思い込んでいるわけだが、実際のところ顔はかなり広い部類に入るのではないか、と思う。恐らく高藤さんが以前に言っていた自分の殻を破らないところに他のみんなもあえて距離をとっているのではないかと僕は勘ぐっている。
その証拠に林道さんは僕に多くの職を提案してくれたし、自分の人脈を使って話を聞いてくれた。その時の彼らは決して林道さんを邪見にすることもせず、僕自身も彼のことならと話自体は聞いてくれた。
「……なのに、なんで上手くいかないんだろうなあ」
「まあ、簡単に仕事なんて見つかれば、このご時世に就職難なんて言葉は生まれていませんし」
「ところで小林は将来の夢とかは何かあるのか?」
唐突に質問を投げられた僕は言葉を詰まらせた。
「ううん……そうですねえ」
改めて考えると僕の夢は何なのか。久しくそんなことを考えることを諦めていたことに気付かされる。
「別に今じゃなくて、以前に抱いていた夢とか無いのか」
「ああ、それなら……」
僕はそこで言葉を切った。なんとなくあの時の林道さんの気持ちがわかる気がする。
「林道さんの夢に近いですね──僕も教育者を夢見ていたことはありますよ」
はは、と乾いた笑い声を林道さんに向けるが、林道さんは笑わなかった。
大学は一流とまでは行かないが、勉学に励み、地元では有数の名門と呼ばれる大学を卒業している。まあ今となってはそんなもの無意味だと僕は思っていた。
「何だよー。早くそれを言えよー」
仕方ないなあ、とため息を吐きながら、スマートフォンを取り出し、誰かに電話を掛ける。その相手は高藤さんだった。
「もしもし、高藤か──」
林道さんは高藤さんと電話越しに二言三言言葉を交わすと、電話を切った。
「あいつの知り合いに小林に適した仕事をしている奴がいたもんでな。まあ小林はいい声をしているし、大人数と接するより、一対一の方がやりやすいんじゃないか」
僕にはもうなれないと一度は諦めた夢を僕はもう一度夢見てもいいのだろうか。
一抹の不安が過るなか、僕の人生の歯車は再び動き始めることとなった。
「はじめまして。小林明と申します」
玄関先で頭を下げる僕に対し、二人の親子も同様に頭を下げた。
「よろしくお願いします。新田愛華の母です。こちらが娘の愛華です。正直、家庭教師をお願いするのも久しぶりで、わからないことも多いですが、何卒愛華をよろしくお願いします」
母親の方は心配そうな視線をこちらに向けるが、僕は笑顔で返した。隣にいる女の子は、制服姿のままこちらを見ていたが、僕が目を合わせると、すぐに俯いてしまった。
僕は林道さんと高藤さんの力添えをもらい、家庭教師のアルバイトを始めることとなった。初めの頃は緊張で上手く接することが出来ない点もあったが、教えること自体は自分の性に合っているらしく、生徒の学力向上に一助を担うことができ、それなりの評価を頂戴している。
そして、今日は僕としては二人目の生徒となる新田愛華さんの御宅へと馳せ参じたわけである。
「そうなんですか。僕も家庭教師の仕事を始めたばかりで、御無礼があるかもしれません。何卒御容赦をお願いします」
簡単な世間話に花を咲かせながら、僕は玄関からリビングへと進められた。リビングのテーブルを使い、カリキュラムの話を簡単に行なう。新田愛華さんは高校二年生ということで、国数英の三教科を週二日の二時間程度で教えてもらいたい、とのことだ。受験対策、というのももちろんあるが、まずは勉強をしっかりさせてあげて欲しい、と母親は僕に語ってくれた。まだバイトを初めて経験の浅い僕だが、今回は塾長から直々に、「小林くんに行ってもらいたいのだが」と依頼を受けたので、かなり緊張して新田さんの家に向かったわけだが、別に素行の悪さなど皆無であるし、特に扱いづらい生徒、というわけではないように見えた。まあ、一応経緯や彼女についての情報は事前に上司から話を聞いており、僕に白羽の矢が立った理由も理解はしているつもりだ。そんな込み入った話は彼女の前ではするはずもなく、カリキュラムの説明をしたところで、僕は新田愛華さんの部屋へと案内してもらった。
「じゃあ、まずはどれだけの学力があるのかを確認したいので、簡単なテストを行ってもらいます」
僕はA4サイズのプリントを一枚鞄から取り出し、新田愛華さんに渡した。
新田さんは、挨拶の時からほとんど口を開いておらず、他人の存在に怯えているのか、少し俯き気味にずっと僕と目を合わせようとしない。黒髪は肩まで伸び、いわゆるショートカットと呼ばれる類の髪型だろうか。桜に近いピンク色の縁メガネを掛けた可愛らしい少女ではあるが、前髪が瞼にまでかかっているせいで、表情が上手く読み取れない。
「──緊張してる……かな」
僕も人見知りの性格なので、他人と話すのには勇気がいる。だから彼女の気持ちは痛いほど良くわかった。無理して話すのは返って逆効果だ。静かに待つことにして、相手の出方を窺うことにしようと、彼女の後ろに下がる。
静かな空間のため、カリカリと鉛筆の音が微かに僕の耳にも届いた。
三十分ほど経つと、新田愛華さんは鉛筆を置いた。僕はそれを見計らって、次のプリントを渡す。それを二回繰り返した。最後のプリントが終わると、彼女の肩がゆっくりと落ち、緊張が少し解けたのがこちらからも見て取れた。
「お疲れ様です」
僕はそう言ってプリントを受け取った。彼女には休憩をとってもらうため、一旦部屋を出てもらい、速やかに採点へと移る。
採点してみるとわかったことがある。
それは彼女の学力は平均以上に高い、ということだ。これなら普通の大学なら問題なく受かるレベルにあると思われる。少しだけ受験の要点などを教えれば、ワンランク上の大学だって夢ではないだろう。
ここまでの学力をほぼ独学で手に入れたとなると、すごい努力したのだろうな、と感心するばかりだ。
僕は彼女を呼んだ。心配そうな顔で部屋に入った彼女に椅子へ座ってもらい、今回のテストの結果を述べる。
「結果はご覧の通りです。大変よくできてるね。これなら勉強の方は楽して稼げそうだから良かったよ」
軽口を叩いてみたが、まるで反応はない。僕はぽんぽんと彼女の肩を叩く。新田さんの顔が少しだけ上がるのを確認すると、無理やり彼女の顎を持ち上げた。初対面の相手に不愉快だろうがコミュニケーションをとる上では仕方がない。ようやく彼女と目が合ったところで、僕は彼女の目を見てゆっくりと少しだけボリュームを上げて話をする。
「ようやく目が合ったね。新田愛華さん。これなら僕の口元も見えるし、何を言っているかはわかるんじゃないかな」
「──……はい」
新田さんは、小さくだが、確かに首を縦に振った。
「もし、上手く聞き取れる自信が無いのなら、これも付けるから安心して話してくれればいい」
そう言って僕は、腕や手を細かく動かしながら、彼女に見せる──そう、手話を添えて。
「大丈夫。耳が不自由でも、この世界は自由だよ。僕が保証する」
新田愛華さんは、二年ほど前に新幹線の事故によって耳が不自由になったそうだ。その事故はテレビでも大々的にニュースで流されていたため、僕もよく覚えている。死亡者も多数出ていたはずだ。その中には、新田愛華さんの父親も含まれていたらしい。家族三人で実家へ帰省している途中の事故だったらしい。詳しい話までは一家庭教師が聞けるはずもないので、皆まではわからないが、元来大人しい性格の彼女も、心根は優しく笑顔の多かった毎日が、この事件を境にぐちゃぐちゃに飛散した。そして、彼女は心を深い底の底まで沈め、閉ざしてしまった。
それでも母親は諦めず、彼女を守り続けた。そして継続していた心の籠った支えもあって、何とか立ち上がろうと試みた彼女は、まずは自分の好きだった勉強から始めようと、家庭教師を雇った。まだ外に出歩くことの出来ない彼女にとって、選択肢は大きく狭められる。新田愛華さんの場合は、全聾ではなく、声のボリュームを通常より大きく話せば聞こえると言ったレベルの難聴者である。補聴器を付ければ、周囲の音をカバー出来るため、日常生活に大きな支障は出ないが、彼女はそれを付けていない。まだ自分が難聴者だと認めたくない気持ちなのか、真意はわかりかねるが、彼女は自分の耳で聴く努力をしている。
まあ、そんなことから、僕が手話をできることを知っていた塾長が、新田さんの家庭教師に任命した、という話だ。
彼女にとって、それがいいことなのかどうかはわからない。それを決めるのは彼女であって僕ではない。ただ、少なくとも彼女の味方であることはわかってもらえたようだ。先程までの敬遠した態度が少し和らいだようなのも思える。
今日の残り時間は彼女との談話で過ごした。
新田さんは口数自体は少なかったが、ぽつりぽつりと自分のことを話してくれた。個人的にはこれから徐々に心を開いてくれればいいと思っていたので、これは御の字だった。
新田さんにとって一番悲しいのは、大好きだった音楽が聞けなくなってしまったことだと言う。完全に聴力を失った訳では無いが、それでも耳をすまして聞こうとすると、かなりの負荷になるため、あまり聞かなくなってしまったそうだ。僕はそれを聞いて悲しい気持ちになった。僕も初めは音楽なんて、という生活を送っていたが、林道さんの音楽に触れたことで、未開の地に足を踏み込んだ高揚感を得ることが出来た。正直なところ、彼以外の音楽には触れていないが、それでも充分と思えるくらいのインパクトだったから、僕は満足している。
新田さんも同じような出会いをしてくれれば、きっと立ち上がるきっかけになるのだろうな、と思った。
林道さんのライブが僕の脳裏に掠めたが、すぐにそれを振り払った。林道さんのような荒々しい演奏を彼女が望んでいるとは限らないし、あれは確かに人の心を引きつけるものだが、彼女には少し刺激が強すぎるようにも思えたからだ、
ただ、彼女にはおいおい林道さんの話をして、気が向けば、ライブに連れて行ってあげよう、と思った。まずは彼女の学力向上が僕の使命であることを忘れてはいない。
「少しはすっきりしたかな」
帰り際に新田さんに問いかけてみた。今度はしっかり僕の顔を見ており、軽く頷いてみせた。僕もそれに倣って小さく相槌を打ち、新田家を後にする。外は午後六時を過ぎていたが、もう陽は完全に沈み、辺り一面を黒く染め上げていた。僕は街灯を頼り、家路につく。
帰宅途中に林道さんからのメールが届いた。
「新しい生徒はどうだった?」と何とタイミングの良いことか。
僕はまずまずです、とだけ返信した。どうせ、近いうちに林道さんから呼び出しが入るだろう。林道さんも教職に就いてから、まだ勝手がわからないのか、忙しいからなのか、呼び出される回数は減ったものの、相変わらず音楽活動は続けているし、僕や高藤さんとご飯を食べに行くことも辞めてはいない。教師という職業がどれだけ忙しいのか、部外者が語るのは難しいが、それでも林道さんは林道さんらしく日々の生活を楽しく謳歌しているようで、何よりだった。
また着信を知らせるバイブレーションが胸を揺らした。
『近々集まろう。俺たちにとっての重大発表があるぞ』
文面だけでも、林道さんの声が踊っているのがわかる。
俺たち、というのに、僕にはそれが何を指すのかまるでピンと来ないけれども、林道さんが言うのならそうなのだろう。僕はスマホをしまい、前を真っ直ぐ見据える。
住宅街から駅まで一直線の大通りに出ると、目の前には忙しない雑踏の様子が映った。その雑踏に呑まれないよう、慎重に足を踏み入れたつもりだったが、僕はびっくりして立ち止まる。後ろから突然自転車がやってきたからだ。自転車に乗っていたのは僕ぐらいの男性だったが、通り過ぎざまに僕を睨んだ。僕は頭を下げたが、もうその自転車は雑踏の隙間を縫うように走り抜けていた。
僕は小さくため息を吐く。深呼吸のそれに近い。
ここからだ、と自分に言い聞かせる。しっかり自立した姿を親に見せるまで、僕はなんとしても失敗できない。
翌日、久しぶり集まった僕たちは、互いの近況を語らいながら、酒を呑んだ。そして、席も半ばに差し掛かったところで、林道さんは徐ろに立ち上がる。
「──ここで私、林道倫一郎から重大なお知らせがあります」
そこで、一旦台詞を区切り、僕の反応を窺う。僕はもう薄々と何を言いたいかはわかっていたが、無粋な真似はせず、じっくりと彼の次の句を待つ。
「──……『BUMP』でのライブが決定したぞっ!」
林道さんは高々と腕を突き上げた。
僕はこれでもか、と大きな拍手を、林道さんと高藤さんに送る。高藤さんは「おう」と小さく頷いただけだったが、顔は紅潮しているのが見てとれた。
この時の僕たちは、目の前の雄大に広がる景色──未来を眺め、その風景にただただ酔っていた。しかし、広がる景色の雄大は、まさに人生の頂上を意味する。そして、頂上の先に待つのは、下山のルートであることを、僕たちは理解していなかった。
「──林道倫一郎さんはあの日、悲願であったライブハウス『BUMP』でのライブ決定を高らかに宣言していました。あの時の彼の姿は今でも僕の目に、脳裏に焼き付いています。僕にとって彼は憧れであり、人生の先輩であり、恩人であります。そして何より、大親友だと今でも思っています。僕と林道さんの付き合いは正直、月日だけを鑑みれば、取るに足らないかもしれない。付き合いの浅さを指摘されても仕方がありません。でも林道さんと接した今までの時間は、僕が生きてきた二十数年間の中で何よりも変え難い最高の時間でした。本当はもっとその時間を噛み締めていたかった。だからこそ、僕は今本気で怒っている。林道さん──……いや、倫一郎。なんでこんなに早く死ななければいけなかったんだ。自分の両親への約束はどうしたんだ? そういった義理を何よりも大切にしている男だったじゃあないか。それを果たさず逝ってしまうなんて、お前らしくないぞ!」
僕は後半涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、笑う林道さんに、怒り、そして縋った。逝かないでくれ、何度もその言葉が喉の最前列に立っていたが、言わずに済んだのが奇跡なほどだった。弔辞のために持っていた奉書紙はまるで役に立たず、御霊前に一礼した後、遺族の方へ向き直ると、僕よりも先に林道さんのご両親が深々と頭を下げた。頭を下げた際、口元が微かに動いたのが見える。僕にだけ聞こえる、「ありがとう」の言葉は、どの言葉よりも重く──そして、暖かった。その言葉にどう対応すればいいのかわからず、僕は逃げるようにその場から離れた。
そのまま外に出ると、心地よい風が僕の身体をすり抜ける。まとわりついた汗や涙をそっと撫でるような優しいそれは、今の僕にとってなによりも暴力的だった。
「お疲れさん」
僕の後をついてきた高藤さんが、缶コーヒーを片手にこちらに手を振っている。それを受け取り、プルタブを指にかけるが、上手く引っ掛けられず開けられない。
くそっと毒突く僕を高藤さんは何も言わずに黙って見ていた。僕はしゃがみこみ、また泣いた。
林道さんが交通事故で亡くなったことを僕はニュースで知った。その日に限って携帯がマナーモードから解除されて、バイブレーションに設定されていなかったため、高藤さんの連絡にも気付くのが遅れしまった。トラックの暴走運転によって轢き殺されそうになった児童から身代わりになった、と後から高藤さんに教えてもらった。
結局のところ、林道さんは『BUMP』で演奏することは叶わなかった。あれだけ自分に正直で、誰よりもまっすぐ生きていた彼の命を神様は何故、簡単に捨ててしまうのだろう。林道さんの音楽は神様を震わすことは出来なかった。今でと、あの棺桶から笑いながら起き上がってもおかしくないと僕は思えてしかたない。まだ俺は約束を果たしちゃいねえ、と。なのに、林道さんはいつまで経っても起き上がろうとはしなかった。
馬鹿野郎、と柄にも台詞を宙に吐き捨てる。
自暴自棄になって周りが見えなかったせいか、隣に人が座り込み、僕にハンカチを寄越しているのに気付くのが遅れた。高藤さんではない、小さいな華奢な女の子の手だった。
僕は顔を上げる。そこには見知った顔が作り笑いを浮かべていた。
「……──新田さん、なんでここに?」
「私もお葬式に参列していたんです。そしたら、小林先生が弔辞を読んでいらしたので、びっくりして……」
「林道さんと知り合いだったんだ」
新田さんは頷いた。
「林道先生は、中学時代の家庭教師だったんです」
林道さんが家庭教師をしていたなんて僕は全く知らなかった。しかし、新田さんの中学時代となれば、僕よりも知り合う前の話なので、それは仕方の無いことだろう。
そこからぽつぽつと新田さんは、昔を懐かしむ老人のような優しい顔つきで、僕に林道さんの話を聞かせてくれた。
新田さんと林道さんは家庭教師と生徒という関係以外の何物でもなかったが、こと音楽に関してはひたすら好みが合い、彼のライブにも時折、顔を出していたらしい。しかし、件の事故によって、彼女は心を閉ざし、家庭教師を辞めざるを得なかった林道さんは当時の入院先の病院に押しかけた。
一家庭教師が入院先まで来るなんて、と初めこそ戸惑った。しかし、考えてみれば林道さんは家庭教師とかそんな枠にとらわれた人間ではない。あの人は来たかったら来ただけだ、と平然と言える人なのだ。だからすぐに家庭教師が来たのではなく、林道さんが来たと考えただけで、すぐに納得できたらしい。
「家庭教師はもう断ったはずですけど」
新田さんは一応体裁的な台詞を告げる。
「家庭教師とか関係ないだろ。知り合いが入院してるんだ。駆けつけて何が悪い」
この時には既に、彼女の聴力はほぼ失われており、林道さんの早口な言葉は聞き取れなかった。しかし、何故か新田さんには彼が何を言っているかがわかったらしい。
「林道さんは入院中は毎日のようにお見舞いに来てくれたんです。いろいろ難聴のことについて勉強もしてくれていたみたいで、私の顔を見て、たくさん話しかけてくれました。当時の私にはそれに答えられるだけの気力がなかったので、今となっては申し訳なかったと思っています。でも退院の日からぱったりと来なくなってしまいました。それ以来、会っていなかったんです。連絡先とかも知っていましたけど、なんか何話せばいいのかわからなくて」
君が黙っていても、林道さんなら隙間を埋め尽くすように話してくれるんじゃないか、と思ったが、口には出さなかった。
「結局、私が一番家庭教師と生徒の枠に縛られていたんだと思います。あの事故の後、本当は悲しかったけれども、母が新しく一歩を踏み出すために、母方の旧姓に戻したので、あの頃にみたいに、秋月ちゃんって呼ばれることもないんだな、と思うと、もっと林道先生と関わっておけばよかった」
彼女は僕に笑いかけるが、上手く笑えていないせいで、顔がしかめっ面になっている。
「そっかあ、林道さんが家庭教師とはねえ」
僕はため息を吐くかわりに呟いた。
「私もびっくりしたんですよ。林道先生が、本当に教師になっているだなんて。私の約束を覚えていてくれたのか、と嬉しくなりました」
「約束?」
「病院から帰り際に行ったんです。林道先生みたいな教師のいる高校に行けたらいいのにって。そしたら待ってろって言ってくれたんです。約束だ、俺は先生になる。先生になって、お前達の道標になってやるって。可笑しいでしょ、道標なんて言葉、今時厨二でも言わないのに。真顔で言ってくれたんです。本当に教師になるなんて」
僕は「中学校の、だけどね」と言ったが、彼女は「それが、林道先生らしいじゃないですか」と言い切った。どうやら新田さんは僕より林道さんのことを理解しているようだった。それが悔しくもあり、嬉しくもあった。
この葬儀の弔問客には、彼が在籍していた中学校の生徒や先生らも多数参列していた。
林道さん、あなたにはたくさんの人から愛されてますよ、と心の中で彼に話しかける。
そして、僕はもう一つ納得したことがあった。
「新田さん──君がいたから、僕は林道さんと友人になることが出来たんだ。ありがとう」
新田さんは、当然何を言っているのか理解しておらず、きょとんとした表情を浮かべた。
あの時、駅のホームで林道さんと出会ったのは、偶然の出来事だったが、それからの彼との物語は新田さんによって紡がれていたのだ、と僕は思った。
新田さんと同じ、難聴を抱えた僕にあれだけ優しく接してくれた彼の背景に新田さんがいてくれたから、僕は彼とここまで接することができた。
いつも目を見て話しかけてくれる林道さん。
電話ではなく、気遣ってメールをこまめにしてくれる林道さん。
しっかり声が届くように、個室の席をいつも準備してくれた林道さん。
やはり、あなたはまだたくさんの人と接し、笑い合う人生が似合っている。こんなにも悲しませるなんて、本当に不幸ものだ、と僕は心にもないことを吐き捨てた。新田さんもそうですね、と言いながら泣いていた。
空を見上げる。雲ひとつない青空が広がっている。
春はもうすぐそこまで来ていた。
「今日は俺たち『Ring-Ring』のライブに来てくれてありがとう。最後までしっかり心を共に震わせてくれ」
高藤さんはマイクに顔を近づけながら、ボリュームを徐々に上げてシャウトした。高藤さんのそれをきっかけに、ギターの音が鳴り響く。補聴器の調子がよく、僕の耳にもよく届いた。
隣で聴いていた新田さんもリズムに乗って身体を上下に揺らしている。
林道さんの葬儀から一年の月日が流れ、今日は高藤さんのバンドがライブハウス『BUMP』で行なう初ライブだった。
「こんな素敵なライブに招待してくれてありがとうございます」
新田さんは間奏で場が落ち着いた時に、僕の顔を見て言った。
「そんなことはいいよ。今日は君の卒業祝いでもあるんだから」
僕は彼女の頭をぽん、と叩き、口元だけ動かして「おめでとう」と伝える。
「それに今日、僕が呼んだのは君だけではないしね」
そう言うと、彼女はふくれっ面をしてみせたが、慣れていないせいか、すぐに吹き出した。
このライブには新田さんの他に、僕が招いた客がいる。
林道さんのご両親と──僕の親だった。
「こんな所に来て、本当に大丈夫なの?」
しきり僕にそう話しかける母親に、僕は「大丈夫だよ」と何度も告げる。
「あのさあ、彼女も見ているんだから、あんまり心配するのやめてくれないか」
母親は「あら、ごめんなさい」と素直に謝り、「それにしても、すごいわね。私まで若返っちゃいそう」とはしゃぐ方に切り替えたようだ。
「まだゲストもいるらしいですよ」
新田さんは母親にそっと耳打ちする。
あらそうなの、ときゃっきゃする様子は母娘のそれに見えて微笑ましく思った。
隣で静かに鑑賞している林道さんのご両親も、表情はどこか柔らかかった。林道さんの一周忌ということもあって、ライブに招待したのだが、呼んでよかった、と思うように務めている。どれが正解なんてわからない。僕らは僕らが正しい、と思うことしか出来ないのだ。林道さんがずっとそうしていたように。
ライブは滞りなく進み、早くも一時間が過ぎたようだったた。高藤さんの前情報からすれば、あと二曲で終わるはずだ。そろそろか、と僕は新田さんらを残して、その場から離れる。母親はライブに熱中していてまったく気付いていないようだった。
客席を出て、通路を足早に歩いていく。
「さあ、ラストの曲になったわけですが、次の曲はもう一人メンバーを加えたいと思います。今は亡き友人に捧げる曲の演奏に俺の親友が演奏をサポートしてくれます」
客席がしん、と静まり返る。そして、ステージに現れたギターを抱える僕の姿を見るなり、ファンの方々の暖かい歓声がどっと響いた。
初めてギターを持った日のことを思い出す。
葬儀のあと、林道さんのご両親から、ギターを渡された時は、まさかこんな日が来るなんて思いもしなかっただろう。
「私たちは最期まで聞けずじまいだったけど、あの子の大切なものは、あの子の大切な人に持っていてもらいたいの」
「それなら高藤さんの方が──」
「あの子が言っていたの」
僕の言葉を遮って林道さんのお母さんは語る。
「俺の弔辞は小林明に頼むって。そして、俺のギターも小林に渡してくれって。死の間際まで、あの子は自分よりも他人のことを考えていたわ」
そう言って笑っていたご両親の顔を僕は今でも忘れない。
ステージに立つと、広々した客席が一望でき、新田さんや母親の位置も確認できた。心配そうな母の顔がこちらからも鮮明に見える。
母さん、見てますか。僕は心の中でそう呟く。僕はもう一人なんかじゃない。こうして支えてくれる仲間がいて、今の僕が成り立っている。だから心配しないで──。そんな想いを込めて、頭を深々と下げた。
そして、僕はギターを構え、顔を伏せる。だらんと力の抜けた状態で立ちながら、観客の様子を肌で感じる。観客は、始まらないステージの異様さにざわめきを取り戻し始めた。それを待ちわびたかのように僕は右腕をゆっくりと高く掲げると、勢いよく振り下ろした。
弾かれた弦はアンプを通じて空気を震わせ、僕の鼓膜を揺らす。
観客の心を揺らす自信はないけれど、僕は神様に喧嘩を売るつもりで、一心不乱にギターの弦を弾いた。そして、林道さんに届けばいいな、と思っている。
外はもう暗闇に覆われているが、明日はきっと雲ひとつない青空が広がっていることだろう。
春はもうすぐそこまで来ている──。