安いビニール笠の側面に沿って水滴が流れ落ちる。
傘で受け止めきれない水分が横殴りの風と共に吹き付け、千里(ちさと)の服の裾を濡らした。
黒いリクルートスーツは水分を吸って重くなっている。ヒールの中にも水が入ってきて、歩く度にたぷんと靴の中で跳ねる水の音がした。
人が少ない交差点の角で、彼女は雨宿りできる店を探して、周囲を見回した。
右斜め前の街路樹の陰に、湯気を立てるカップのマークが描かれた看板が見えて、その店を目指して交差点を渡る。
店の前に来ると、ドアの前に置かれた小さな黒板のメニューを品定めした。良心的な値段の飲料が羅列してある、その上に、目立つ丸いゴシック文字で店名が書いてある。
「…おかめカフェ」
おかめってなんだろうか。千里は首を傾げたが、差し当たってはこの店がカフェであり、雨宿りに最適だと分かれば、十分だった。
彼女は傘を閉じて、店の中に入る。
「いらっしゃいませ」
店主らしき眼鏡をかけた男性が、カウンターの奥から気のない声を出す。カウンターの横に何故か鳥かごがあり、白い鳥が中で暇そうに止まり木をかじっていた。
千里はがらんとした店内を見渡し、カウンター席を避けて隅の方の席に座る。すぐに店主がお冷やを持ってくる。千里は、メニューを良く見ずに、店で一番安価と思われるコーヒーを頼んだ。
店主が注文をとって去った後、彼女は両手で顔を覆って俯く。本当なら、鞄の中の書類が水に濡れていないかチェックしなければいけない。だが、今はそんな気力は無かった。
店の外で降りしきる雨と同様に、彼女の心の中にも雨が降っていて、黒雲でどっぷり陰っていた。焦燥と不安が胸元までひたひたと押し寄せる。
千里はいわゆる第二新卒で、半年前に入社した会社を辞め、心機一転して就職活動中だった。
第二新卒を積極的に採用しているという会社を、十数社回っているが状況は梨のつぶて。
採用担当は、最初の方こそ丁寧に面接してくれるが、彼女に望むものが見出だせないと知るや、ぞんざいな態度になる。経験が無くても構わないとうたっていても、彼等が第二新卒に求めるのは、即戦力だ。
最低限、社会人としての基礎が出来ているかどうか、業務に活かせる能力があるかどうか。
しかし、半年程度の社会人経験は無いも同然だ。二回目の就職活動を始めて千里は壁に突き当たった。新卒のときは歓迎してくれた会社も、第二新卒には慎重になる。
「……っく」
俯いたまま、彼女は小さな嗚咽を漏らした。
このままどこにも採用されなかったら、どうなるだろうか。試験に合格するだけが目的ではないのに、不採用の通知を受けとる度に、自分の存在が不要だと言われているようで、心の深い部分が傷付いて血を流す。
肩を震わせて彼女は涙を堪えた。
「大丈夫ですか」
いつの間にか、注文したコーヒーを持ってきたらしい店主が傍らに佇んでいる。
千里は泣いている顔を見られないように腕で隠しつつ、コーヒーを受けとった。
「…大丈夫です」
小さな声で断ってそっぽを向く。
店主は「失礼しました」と言って去っていったが、千里がコーヒーを飲みはじめてすぐに、片手に皿を持って戻ってきた。
「これは新しいメニューの試作品なんです。良かったら召し上がって下さい」
皿には底に浅いココットが乗っていて、表面がきつね色に焦げたクリーム状の菓子が入っている。
「良いんですか?」
「はい、サービスです」
店主は皿を置いて去っていった。
千里は皿に添えられている小さなスプーンでクリーム状の菓子を掬った。スプーンでつつくと、表面の膜が軽い音を立てて割れる。口に入れると外側の膜の欠片はパリパリとしていて、すぐに口の中でクリーム状の内側の菓子と一緒に溶けた。
ほろ苦く甘い味が口の中に広がる。
それはプリンのような洋菓子だった。
甘さが抑えめになっていて、くどくないので食べやすい。すぐにココットが空になって、千里はなんだか物足りない気持ちになった。
気がつくと、就職活動のことから気持ちが逸れて、涙が少し乾いていた。
スプーンを置いて顔を上げると、カウンターの中の店主と目があった。
「どうでした?」
聞かれて、試作品だと言う菓子の味の感想を求められているのだと気付く。
「美味しかったです」
「それは良かった」
美味だと伝えると、店主は嬉しそうにする。
「就職活動中なんですか?」
続けて聞かれて、千里は曖昧に微笑んだ。
このリクルートスーツ姿を見れば、千里の立場は第三者にも分かるだろう。しかし今は就職活動に触れられるのは痛い。
「大丈夫ですよ」
「え?」
「どれだけ困難な道のりに思えても、必ず何とかなります。人生そんなもんです」
唐突な店主の励ましに、千里は目を丸くした。
落ち込んでいる事情を見透かされたことや、頼んでいない励ましは彼女に複雑な感情を与えた。しかし店主には他意は無いようだった。邪気のない顔でにこにこしている。
カウンターの横の鳥かごの鳥が、頭を振りながら奇声を上げる。
「モーマンタイーー!」
その滑稽な仕草と声に、千里はつい笑ってしまった。
「さっきから気になってたんですけど、その鳥は一体なんなんですか?」
「こいつはオカメインコという、まあ、インコの一種ですね。この店の看板鳥です」
「ああ、それで…」
店の名前が「おかめカフェ」なのか。
腑に落ちた千里は、ゆっくりコーヒーの残りをすすった。
店の外を見ると、雨は止んだようだった。
鞄の中を確かめて席を立つ。財布から小銭を取り出して清算すると、ドアへ向かった。
「あ、虹が出ていますね」
「え?どこに…」
店主が指し示す方向を見ると、灰色のビルの上の空にうっすらと七色の帯がかかっていた。
「良いことがありそうですね」
虹を眺めながら言う店主に、千里はそうだといいな、と思った。雨上がりの水の臭いと、明るくなり始めた空と、虹。
店に入った時より少し上向きになった気分で、千里は雨上がりの空の下へ踏み出した。
その次の日に受けた面接が通り、数日後に千里は待ちに待った内定を手にした。内定を貰った後に、あの「おかめカフェ」が気になって、近くを通った時寄ってみたが、不思議なことに交差点にあのカフェの姿は無かった。
傘で受け止めきれない水分が横殴りの風と共に吹き付け、千里(ちさと)の服の裾を濡らした。
黒いリクルートスーツは水分を吸って重くなっている。ヒールの中にも水が入ってきて、歩く度にたぷんと靴の中で跳ねる水の音がした。
人が少ない交差点の角で、彼女は雨宿りできる店を探して、周囲を見回した。
右斜め前の街路樹の陰に、湯気を立てるカップのマークが描かれた看板が見えて、その店を目指して交差点を渡る。
店の前に来ると、ドアの前に置かれた小さな黒板のメニューを品定めした。良心的な値段の飲料が羅列してある、その上に、目立つ丸いゴシック文字で店名が書いてある。
「…おかめカフェ」
おかめってなんだろうか。千里は首を傾げたが、差し当たってはこの店がカフェであり、雨宿りに最適だと分かれば、十分だった。
彼女は傘を閉じて、店の中に入る。
「いらっしゃいませ」
店主らしき眼鏡をかけた男性が、カウンターの奥から気のない声を出す。カウンターの横に何故か鳥かごがあり、白い鳥が中で暇そうに止まり木をかじっていた。
千里はがらんとした店内を見渡し、カウンター席を避けて隅の方の席に座る。すぐに店主がお冷やを持ってくる。千里は、メニューを良く見ずに、店で一番安価と思われるコーヒーを頼んだ。
店主が注文をとって去った後、彼女は両手で顔を覆って俯く。本当なら、鞄の中の書類が水に濡れていないかチェックしなければいけない。だが、今はそんな気力は無かった。
店の外で降りしきる雨と同様に、彼女の心の中にも雨が降っていて、黒雲でどっぷり陰っていた。焦燥と不安が胸元までひたひたと押し寄せる。
千里はいわゆる第二新卒で、半年前に入社した会社を辞め、心機一転して就職活動中だった。
第二新卒を積極的に採用しているという会社を、十数社回っているが状況は梨のつぶて。
採用担当は、最初の方こそ丁寧に面接してくれるが、彼女に望むものが見出だせないと知るや、ぞんざいな態度になる。経験が無くても構わないとうたっていても、彼等が第二新卒に求めるのは、即戦力だ。
最低限、社会人としての基礎が出来ているかどうか、業務に活かせる能力があるかどうか。
しかし、半年程度の社会人経験は無いも同然だ。二回目の就職活動を始めて千里は壁に突き当たった。新卒のときは歓迎してくれた会社も、第二新卒には慎重になる。
「……っく」
俯いたまま、彼女は小さな嗚咽を漏らした。
このままどこにも採用されなかったら、どうなるだろうか。試験に合格するだけが目的ではないのに、不採用の通知を受けとる度に、自分の存在が不要だと言われているようで、心の深い部分が傷付いて血を流す。
肩を震わせて彼女は涙を堪えた。
「大丈夫ですか」
いつの間にか、注文したコーヒーを持ってきたらしい店主が傍らに佇んでいる。
千里は泣いている顔を見られないように腕で隠しつつ、コーヒーを受けとった。
「…大丈夫です」
小さな声で断ってそっぽを向く。
店主は「失礼しました」と言って去っていったが、千里がコーヒーを飲みはじめてすぐに、片手に皿を持って戻ってきた。
「これは新しいメニューの試作品なんです。良かったら召し上がって下さい」
皿には底に浅いココットが乗っていて、表面がきつね色に焦げたクリーム状の菓子が入っている。
「良いんですか?」
「はい、サービスです」
店主は皿を置いて去っていった。
千里は皿に添えられている小さなスプーンでクリーム状の菓子を掬った。スプーンでつつくと、表面の膜が軽い音を立てて割れる。口に入れると外側の膜の欠片はパリパリとしていて、すぐに口の中でクリーム状の内側の菓子と一緒に溶けた。
ほろ苦く甘い味が口の中に広がる。
それはプリンのような洋菓子だった。
甘さが抑えめになっていて、くどくないので食べやすい。すぐにココットが空になって、千里はなんだか物足りない気持ちになった。
気がつくと、就職活動のことから気持ちが逸れて、涙が少し乾いていた。
スプーンを置いて顔を上げると、カウンターの中の店主と目があった。
「どうでした?」
聞かれて、試作品だと言う菓子の味の感想を求められているのだと気付く。
「美味しかったです」
「それは良かった」
美味だと伝えると、店主は嬉しそうにする。
「就職活動中なんですか?」
続けて聞かれて、千里は曖昧に微笑んだ。
このリクルートスーツ姿を見れば、千里の立場は第三者にも分かるだろう。しかし今は就職活動に触れられるのは痛い。
「大丈夫ですよ」
「え?」
「どれだけ困難な道のりに思えても、必ず何とかなります。人生そんなもんです」
唐突な店主の励ましに、千里は目を丸くした。
落ち込んでいる事情を見透かされたことや、頼んでいない励ましは彼女に複雑な感情を与えた。しかし店主には他意は無いようだった。邪気のない顔でにこにこしている。
カウンターの横の鳥かごの鳥が、頭を振りながら奇声を上げる。
「モーマンタイーー!」
その滑稽な仕草と声に、千里はつい笑ってしまった。
「さっきから気になってたんですけど、その鳥は一体なんなんですか?」
「こいつはオカメインコという、まあ、インコの一種ですね。この店の看板鳥です」
「ああ、それで…」
店の名前が「おかめカフェ」なのか。
腑に落ちた千里は、ゆっくりコーヒーの残りをすすった。
店の外を見ると、雨は止んだようだった。
鞄の中を確かめて席を立つ。財布から小銭を取り出して清算すると、ドアへ向かった。
「あ、虹が出ていますね」
「え?どこに…」
店主が指し示す方向を見ると、灰色のビルの上の空にうっすらと七色の帯がかかっていた。
「良いことがありそうですね」
虹を眺めながら言う店主に、千里はそうだといいな、と思った。雨上がりの水の臭いと、明るくなり始めた空と、虹。
店に入った時より少し上向きになった気分で、千里は雨上がりの空の下へ踏み出した。
その次の日に受けた面接が通り、数日後に千里は待ちに待った内定を手にした。内定を貰った後に、あの「おかめカフェ」が気になって、近くを通った時寄ってみたが、不思議なことに交差点にあのカフェの姿は無かった。