昔住んでいた町へ帰ってきた日。
 俺は見知らぬ少女を助けるために飛び出した。
 あの瞬間、トラックが迫り来る光景を見て、俺は覚悟を決めた。
 しかし、

「何だ今の……」

 俺は無傷だった。
 もちろん抱かかえた女の子も無事だ。
 そして俺の背中側には、急速で迫ってきたトラックが止まっている。
 何が起こったのかを簡単に説明すると、あのトラックはギリギリの所で俺達を躱したのだ。
 それはもう本当に、文字通りスレスレのギリギリで躱していった。
 下手な絶叫マシーンなんかよりよっぽのスリリングな体験をだった。
 正直あれは漏らしてもおかしくない……いや、漏らしては無いけど。
 俺は抱かかえた女の子の顔を覗いた。

「もう大丈夫、目を開けてごらん」

 少女は固く閉じていた両目をゆっくりと開けた。
 そして自分が無事な事を知り、瞳は涙で潤んだ。
 俺は少女の頭を撫でて、ニッコリと笑った。
 それからある場所を確認する。

「居ない」

 俺が確認したのは、トラックが迫ってきた方向のさらに後ろ。
 覚悟を決めた一瞬、見知らぬ和装の少女が立っていた場所だった。
 でも今は誰もいない。
 あの時は確かに居たはずで、大丈夫と口が動いていたはずなのに……
 夢だったのか?
 夢にしてはハッキリしすぎていた気がする。
 それに何だろう……懐かしい感じがした。
 見ず知らずの、初めて見た少女だったのに、なぜだかとても懐かしくて……とても切なく感じたんだ。
 ずっと昔――

 また会いましょう。
 
 誰かと交わした約束を思い出す。
 自分の中にある他人事のような思い出が、俺の脳裏を過ぎる。
 
 それからすぐに警察が来た。
 俺は状況を説明して、女の子は駆けつけた母親に保護された。
 警察からの事情聴取によると、トラックの運転手は徹夜明けで意識が朦朧としていたらしい。
 完全に寝ていたわけではなく、信号が青になったのは見えていた。
 でもそれしか見えていなかったのだ。
 それでもギリギリで躱せたのは奇跡と言って良い。
 奇跡……といか、奇妙な感覚に襲われてハンドルをきったと運転手は言っていた。
 まるで誰かに操られるように、無意識でハンドルをきったらしい。
 操られたと言えば聞こえが悪いけど、それで命が救われたのなら良いことなのだろう。
 俺は一通り話し終えた後、実に一時間かかってやっと解放された。

「はぁ……ってやばい! もうこんな時間かよ!」

 左手にはめた腕時計で時間を確認する。
 すでに短針と長針はどちらも12時を回っていた。
 予定では午前中にあいさつに行く予定だったのに、これは完全に遅刻だ。
 俺は荷物を担ぎなおしてから走った。

「はぁ……はぁ……」

 全速力で走ってきた俺は両膝に手をついて息をきらしていた。
 目の前には急勾配な坂道が見える。
 スマホで地図を確認すると、この坂道を上った先に目的地はあるようだ。
 それにしても急な坂、加えて少し薄気味悪い。
 もう昼だと言うのに霧が出ている。
 いや、あれは雲なのか?
 ここ九十九町は周囲の町に比べて標高が高い。
 具体的に言えば、ちょっとした山くらいの高さにあるらしい。
 そうだとしても不気味だ。
 坂道の先がまったく見えない。
 だけど地図上ではこの先になっている。
 時間も越えているし行くしかない。

「よし」

 俺は呼吸を整えてから昇り始めた。
 霧なのか雲なのか曖昧な白い靄に踏み入れる。
 その瞬間寒気がしたような悪寒に襲われた。
 白い靄の中を歩きながら、俺は昔の記憶を辿った。
 そもそもこんな場所に坂道なんてあったっけ?
 確かに俺が暮らしていた時から区画整理とかで道は新しくなっている。
 だからってわざわざ坂道を作るか?
 いやそんな面倒な事はしないだろう……
 俺の記憶が確かなら、こんな場所に坂道なんて無かったし……それにしても長いな。
 もう十分位歩いているぞ?
 全然この白い靄は晴れないし、周りの風景すら見えないくらい濃くなってきた。
 どうしよう……一旦戻ったほうがいいのかな?

 そう思った時、急に白い靄は晴れた。
 だけどその代わりに、俺の心に靄がかかった。

「なっ……なんだよここ……」

 俺は目を疑った。
 白い靄が晴れて見えた先には、見た事がない街並みが広がっていた。
 幻想的というより不気味と表現した方が的確だろう。
 本やテレビで特集されている江戸時代の街並み、それを薄暗くしたようなイメージ。
 そもそも空が青くない。
 暗く濃い紫色をした空が見える。
 時刻的には昼真っ盛りのはずなのに、太陽が昇っていない。
 かといって月も出ていない。
 一体ここは――

 考え事をして立ち止まっていると、後ろから来た誰かにぶつかった。
 よかった、他にも誰か居るみたいだ。
 そう思って振り返る。

「すいませ――」

 振り返らなければ良かった。
 ぶつかった人の顔を確認しなければ良かった。
 そもそも顔なんて無かった。

「あら珍しいお客さんね?」

「うっ……うおぁ――」

 顔の無い通行人が喋った。
 声は意外と普通に女性の声だった事に驚いた。
 それ以前に驚きすぎて、俺はその場から逃げた。

 何なんだ!何なんだ!何なんだ!?
 今の人顔無かったぞ??
 っていうか人だったのか?

 俺はわけも分からず走った。
 走って走って走りつかれて、呼吸を落ち着かせるために立ち止まった。
 すると、

「お待ちしておりました」

 少女の声が聞える。
 俺は前屈みになっていた上体をゆっくりと起こした。
 そこに立っていたのは、

「ようこそ――百鬼夜荘へ」

 和装の少女だった。