「……」


 紫陽花通りには誰も居ない。


 私はゆっくりと、いつもアマネが待っていた場所まで歩を進めた。

 そこには見慣れた紫陽花たちが静かに咲いている。数日前と変わらない風景。



 ただ、彼が居ない。



「アマネ……」


 そう小さく呼んでみる。


「アマネ、居ないの……?」


 反応は無い。


「ねえ、アマネったら……っ」


 瞳の奥へと熱がせり上がり、やがてそれは外へと溢れだした。


「アマネ、梅雨が明けちゃうよ。明けたら、アマネはどうなるの? 教えてよ……」


 ゆらり、と穏やかに紫陽花が揺れた気がした。はっとして視線を彷徨わせる。


『美雨……』


 遠くで呼ばれたような気がして、私は必死になって周りを見回した。


「アマネ?」


 少し離れた所に、アマネが姿を現した。けれど、その姿は透けている。
 私はアマネに走り寄った。


「アマネ、もう、お別れなの?」

『ああ……』


 彼の声が、聞こえにくい。消えてしまいそうなほどに弱く聞こえた。


「また来年、会えるんだよね?」

『いや、俺の命はこの梅雨の間だけだ』

「え……」


 この梅雨の間だけ?


『毎年新しい存在が生まれる。俺は、もう消える』

「そんな、嫌だよ! もっと一緒に居たい!」

『お前に出会えて良かった。お前の居ない数日間は落ち着かなかった。何故だろうな』

「アマネ……」

『元気でな。お前を見ていると、不思議と雨の雫を見ている時と同じ気持ちになった』


 雫を見ている時と同じ――?


『それは特別な気持ちだ』


 アマネがふわりと微笑った。一瞬にして胸が締めつけられる。

 アマネの手が、ゆっくりと私へ伸びてきた。
 けれどその手は私には触れられず、すうっとすり抜けてしまう。

 同時に、私の涙が地面へと吸い込まれるように零れ落ちた。


『お前の瞳から零れる雫だけは見たくないと思ってしまう。何故だ……』


 アマネの姿が先程よりも薄くなっている。もう、本当にお別れなのかもしれない。


『今、お前に触れられなかった。この胸の苦しみは……?』


 私はアマネが雨の雫を見ている時の眼差しを思い出した。
 とても穏やかで優しくて、もう雫以外は見えていなくて、それはまるで、



 恋に落ちた少年のような眼差しで――。



 それだけ分かれば、もう充分だった。
 私は幸せな気持ちで別れる事が出来る。

 心の準備は出来た。

 私はきっと、大丈夫。


「アマネ」


 私は今にも消えてしまいそうなアマネの名前を呼んだ。


『美雨……』

「元気でね。寂しいけど、仕方ないよね……」


 私は無理やり笑顔を作って言った。


『美雨、俺に幸せな一生をありがとう。俺は他の大勢の仲間たちの中でも、最高の一生を送れたと思っている』

「私も、今年の梅雨は最高に幸せだったよ。そんなふうに思ったのは、生まれて初めてだった」

『美雨――』


 アマネが再びこちらへ手を伸ばしたけれど、それは私へと届く前に、すべて見えなくなってしまった。


「さよなら、アマネ……」


 無理やりに作られた笑顔が崩れていく。
 私は顔を埋めるようにして、その場にしゃがみ込んだ。
 少しだけでいいから、今は泣かせてほしかった。


 間もなくして、走り寄ってくる足音が近づいてくる。


「小川さん!?」


 その声に聞き覚えがあって顔を上げた。


「青空せんぱ――」

「どうしたの!? 大丈夫!?」


 どうしたのだろうか。いくら座り込んでいたとはいえ、そこまで心配される状態ではないはずだ。


「誰かに何かされたの? 怪我は!?」

「先輩、どうしたんですか?」

「え、だってそれ、君の傘でしょう? 凄い事になってるじゃないか!」


 え? 傘?


 私は自分の足元に置きっぱなしになっている傘を見た。


 戻っている。


 アマネの不思議な力で綺麗になっていた傘が、今はボロボロの状態に戻っていた。


「それに小川さん、泣いてるし……。様子がおかしかったから追いかけてきてみて正解だったよ」

「怪我はないです。傘も、ちょっと引っかけちゃって、無理やり引っ張ったら派手に壊れたというか……。……心配して来て下さって、ありがとうございました」


 私がしっかり笑ってみせても、先輩の心配顔はそのままだった。


「……やっぱり、お別れでした」

「え? あ、その、好きな人と……?」

「はい」


 意外にも湿り気のない返事が出来た。


「少しの間は立ち直れないかもしれませんが、すぐに元気になります」


 今度は自然に笑えていたと思う。そんな私の顔を見て、青空先輩は少し考えたような表情になってから口を開いた。


「夏休み、どこかに行かない?」

「え?」


 先輩を見上げると、メガネ越しの真っ直ぐな視線とぶつかった。


「こう見えても、気晴らしが出来る場所くらいは幾つか知ってるよ」


 そう言って、青空先輩は爽やかに優しく笑う。


 気晴らしか……。そうだよね。


「……はい、お願いします」


 私は迷いながらも、先輩に返事をした。


 了