「そのままでも、良いかもしれない」

「え?」


 不思議に思って彼を見上げた瞬間、私は固まってしまった。


「美雨、綺麗だ」


 アマネが私を見つめて、そう言った。

 あの眼差しで。

 身体中の熱が一瞬にして顔へと集まる。
 胸の奥がぎゅっと締めつけられる感覚に、呼吸が苦しくなって倒れてしまいそうだった。


「……好き」

「何だ?」

「好きだよ、アマネ」


 今伝えてしまわなければ、胸が潰れてしまいそうだと思った。
 伝えてしまえば、少しは気持ちが軽くなるはずだと思った。


 それなのに――。



「〝すき〟とは何だ」


 え――?


「〝すき〟とは、どんなものだ?」

「あ、……ごめん。……今の忘れて」


 今までに感じた事のない衝撃が胸の中を走り、私はその場から逃げ出すように駆け出していた。


 〝好き〟が伝わらない。


 そうだよね。アマネは人間じゃない。梅雨の妖精だ。
 雨を降らせるためだけに生きる存在なんだ。

 きっと恋なんて知らないし、しない。


「馬鹿みたい」


 人間と妖精が一緒になれるわけないのに。そんな事は、考えなくたって分かる事なのに!

 制服に泥が跳ね上がることも気にせずに、私は傘を閉じて、力いっぱい走った。






「小川さん、最近ぼーっとしてるけど、どうしたの?」


 片付ける本を持ったまま本棚の前で突っ立っていた私に、青空先輩が声をかけてきた。


「あ、すみません……」


 あれから数日が経った。

 私は雨が降ってもアマネに会いに行かなくなってしまった。
 今は紫陽花通りを通らずに、迂回して帰宅している。
 よく晴れた日でも、何となくその道は通れなくなってしまった。


「梅雨が明けたら夏休みだね。夏休みはどこか行くの?」


 青空先輩が私の手から本を取ると、棚に並べながら訊ねてきた。

 梅雨が明ける。

 梅雨が明けたら、アマネはどうなってしまうのだろう。また来年になれば会えるのだろうか。


 それとも――。



「小川さん……」

「あ、ごめんなさい! 夏休みですか? 夏休みは、特別何もないです。昔は家族旅行で海とか山とか行きましたけど、最近は家族の休みが合わなくなってきたので、どこにも行かなくなっちゃいました。お盆に祖父母の家に行くくらいですよ」


 そう言って笑いかけた時、隣の本棚から話し声が聞こえてきた。


「もうほんと、早く梅雨明けしてほしいよね~。薄暗くて気分が下がる~」

「あ、さっき職員室に用事があって行ったんだけどさ、テレビがついてて、今年の梅雨は短いって聞こえてきたよ」

「え、マジ~? めっちゃ嬉しいんだけど~」

「なんか、あと二、三日くらいで明けそうだってさ」



 え? あと二、三日で……?



「うそ……」

「小川さん、本当に大丈夫?」


 どうしよう。もうアマネに会えないの?

 ちょっと待って、お別れなんて、まだ心の準備が出来てないのに。


「そろそろ閉める時間だね。小川さん、座って休んでていいよ。あとは僕がやるから」

「いえ、やります。大丈夫です」


 私は本を片付けながら、残っている生徒たちに声をかけていく。そうしている間も、頭の中はアマネのことで一杯だった。

 でも、どんな顔して会えばいいのか分からない。アマネは何も気にしていないかもしれないけれど、でも、私は彼の顔を見るのがつらい。

 つらいと思うけれど、でも、やっぱり、



 逢いたい――。



「迷ってる時間はないよね……」


 私は鞄からスマートフォンを取り出して、週間天気予報を検索した。


「うそ、そんな……」


 今週の天気は、曇りや晴れマークが並んでいる。そしてどの日も降水確率が低かった。


「小川さん、お疲れ様。どうしたの? 僕でよかったら話を聞くよ?」

「先輩、私……」


 気がつけば涙が頬を伝っていた。


「好きな人に、もう会えないかもしれないんです」

「好きな人……」


 言葉に出したら、それが現実になりそうな気がして怖くなった。


「アマネ……」


 私はよろよろと立ち上がると、紫陽花通りへと足を向けた。
 後ろで青空先輩の声が聞こえたけれど、何を言っていたのか、耳に入ってはこなかった。




 空は薄明かるかった。雨が降りそうで降らないような微妙な空模様。今日の天気は曇りだ。


 アマネには会えないかもしれない。


 躊躇いながらゆっくりと歩いていたはずなのに、気がつけば早足になっていて、紫陽花通りへの曲がり角に着く頃には小走りになっていた。


 曲がり角の手前で立ち止まる。


「アマネに会わせて。お願い」


 アマネから受け取った傘を強く抱き締め、私は一歩踏み出した。