恋の宝石ずっと輝かせて

「もしもし、あの、その新田仁と申しますが、ユ、ユキ……さんはいますか」

 しどろもどろになっていた。

「君は、あのときの……それがユキが、ユキが」

 動揺した声。父親は取り乱していた。

「おじさん、ユキがどうしたんですか」

「まだ帰って来ないんだ」

 ユキの父親は早口で事情を話すと、仁の胸騒ぎが大きく暴れた。

 だが行き先の見当はついていた。

「おじさん、僕、心当たりがあります。探してきます。安心して下さい」

 仁は服を着替えると、親に気づかれないようにそっと家を出た。

 そして自転車に乗り、あの山へと向かった。

「ユキは絶対あそこにいる。トイラを待ってるんだ」

 仁は咳をしながら、暗闇の中自転車を必死で漕いでいた。



 これから夏を迎える夜だというのに、ユキの突っ立っていた場所は急に寒々しい気候に変わっていた。

 ユキの目は見開き、目の前の光景がありえないと、驚いている。

「これは、あの時、初めてトイラに会ったときの私」

 10歳くらいのユキが森の中を彷徨っている姿、即ち自分がそこにいた。

 何かを必死に探そうとしているのか、辺りをきょろきょろしてウサギのように飛び跳ねている。

 ユキの記憶が遡る──。

「思い出した、あの時、誰かに呼ばれたんだ」

 ユキがまだ英語も話せず、環境や習慣の変化で戸惑い、毎日が辛かったときだった。

 学校でも上手く馴染めず、言葉でコミュニケーションがとれず、誤解が生じて、いつも虐められていた。

 父親は仕事で忙しく、構ってくれることさえなく、嫌になって家出したあの日。

 自分の居場所が欲しくて森の中に入っていった。

 それは誘われるように、何かに呼ばれた気がした。

 何を言われたかわからないのに、自分を必要としている声 だということがわかった。

 だからユキはそれを探そうとあちこちを歩き回っていた。

「あっ、転んだ」

 段差があるところで足を滑らせて、小さなユキは視界から消えた。

 その後起き上がらない。

 静かな闇を見てユキはあのときのことを思い出していた。

 落ち葉がふわふわと気持ち良く、疲れてそのまま眠ってしまったこと。

 そしてさらに小さかったユキ の心の思いがこの時再生された。

「そう、あのとき願ったんだ。私を必要としている人がいたら今すぐ私の側に来てって。そしてそのとき自分は心地よい居場所に案内されるって思えたんだっけ。だから黒豹のトイラをみたとき、それが私の探していたものだとすぐにわかって怖くなかった」

 眠りについていた小さいユキの側に、黒豹のトイラが現れ、そっと添い寝した。

「トイラ!」

 ユキの胸は押し込められたように切ない思いでいっぱいだ。

 思わず触れたくて手が前に出る。

 すると辺りの景色はぐるっと回り出す。

 今度は違う場面になり、トイラと過ごした日々が映画を見るように目の前に現れては、また違うシーンに移り変わっていった。

 ユキはどんどん成長していく、そしてトイラへの思いもやがて恋に変わっていった。

 トイラもユキを愛していく。

 二人の固い絆を織り成していった様子が綴りだされる。

 トイラと過ごした日々。

 かけがえのない大切なとき。

 涙がまた止まらない。

「過去を見るのは辛すぎる。この後には別れがあるのに。どうして私は過去を見せられているの。これは何が言いたいの」

 目の前には自分と楽しく過ごすトイラの笑顔。

 ユキはそれにすがりつきたくなった。

「トイラに触れたい」

 過去のトイラの姿に近づき抱きつこうとするが、すっと体を通り抜けて、つかめなかった。

「嫌、トイラ、お願い今の私を見て。そして側に居て」

 過去のトイラは、そこに居るユキが見えていない。

 しかし、過去のユキを見て楽しそうに笑っていた。

 それが自分なのに、現在の自分じゃないことが悔しい。

「どうして、こんな辛いものを見せるの。誰がこんなことをするの」

 ユキは気が狂いそうになった。

「トイラ、トイラ!」

 どんなに呼んでも、過去のトイラは現在のユキの方を見ない。

 自分の胸に手を当てて、トイラを感じようと努力してもトイラは側には来てくれなかった。

「トイラの命の玉が私の体にあるのに、どうして私はトイラのことを感じられないの。こんなにもトイラが必要なのに。こんなにも愛しているのに」

 気がつくとまた大木の前に居た。

 ユキはこの木をじっと見つめる。

 答えが欲しいとそっと木に抱きついて目を閉じてみた。

 すると、今度は自分の知らない映像が見えだした。

「えっ? これはトイラの記憶?」

 合戦のようにふたつのグループに分かれて森の守り駒達が戦っている。

 あれは他の森から来た敵なのだろうか。

 必死で森に侵入するのを防いでいるように見えた。

 その中に銀の狼がいた。 キースだ。

 キースが後ろから大きな鋭い爪を持つ熊に引っかかれ、それに反応して駆け寄っているのか映像がズームアップされていく。

 そして熊に飛び掛っていた。

「そっか、トイラが見た光景なんだ」

 その戦いはトイラたちの勝利だった。

 キースが助けてもらった礼を言っているのに、トイラは無視してプイと横向いて去っていった。

「トイラらしい」

 他の映像も見える。

 森の木々を低い視線で見ているのは、トイラが黒豹の姿で彷徨っているのだろう。

 そして木の前で止まってこの木を見上げている。

『我が体はかなり老いた。だが、お前はそんな私をいたわってくれる』

「えっ、木が喋った」

 どれほど驚いただろう。

 だがどこかそれを知ったことが嬉しい驚きだった。

 さらに会話は続いている。

『トイラよ、お前はいつか大切なものをみつけるときが来るだろう。必ずお前に必要なものになる。それが悲しい結果となってもじゃ』

「えっ、それって私のこと? もしかしてこの木があのとき私を呼んだの?」

 そのときだった。

 トイラの記憶から、キースが歌っていたあの『森の緑の歌』が聞こえた。

 でもキースが歌っているものじゃなく本当の森が歌う『森の緑の歌』。

「これが、キースが言ってたあの音なのね。なんて耳に心地いいの。これが森の緑の歌」

 その音は風の音とハープの音色が混じったような、そして軽やかな鐘の音にも聞こえる、心がどんどん軽くなって、清らかな水が湧き出てくるイメージだった。

「あの森の匂いが強く香ってくる」

 胸いっぱいにその匂いを吸い込んだ。

 ユキの心に、澄んだ真っ青な青空と、エメラルドのような草木の緑と、すがすがしい風が現れる。

「わかった、トイラがこの木を好きだった理由。ここに座るといつもこの音が聞こえたんだ。この木がトイラのために歌ってたんだ」

 ユキは目を開けた。

「あなたが私をここへ呼んだのね。そして過去のトイラの映像を見せたのね。あなたは何もかもお見通しだった。私もトイラと共にあなたに見守られていた。でも私はこれからどうしたらいいのですか。トイラを失ってとても辛いんです」

 しかしその木は何も答えなかった。

 ずっしりとそこに威厳を持って立っているだけだった。

 それはまるで答えは自分で見つけなさいと言われているようでもあり、ユキを励まして見下ろしているようでもあった。

 急に木が視界から遠ざかり、闇が辺りを包んでいく。

 ユキの気も段々遠くなってゆき、知らずと倒れこんでいた。

「ユキ、ユキ」

「ん? 仁の声?」

 ユキが気がつくと、仁に体を起こされていた。

「ユキ、気がついたかい。心配したよ。ゴホッ、ゴホッ」

「仁、どうしてここに。それにあなた風邪を引いているんじゃ」

「ちょっと熱が出て今日は学校を休んだんだ。ユキのことが心配で電話したら、ユキのお父さん、ユキが帰ってこないって慌ててたよ。僕はすぐにここだってわかったから、迎えに来たよ。さあ、帰ろう」

 仁は再び苦しそうに咳き込んだ。

「仁、病気なのに」

「大丈夫さ、とにかく帰ろう。送っていくよ」

 仁は自転車でユキを送っていった。

 ユキは森をまた振り返る。

 もうこの森はあの森とは繋がっていないことがその時はっきりとわかった。

 あの木が見せたもの。

 あれはあの木の最後の別れの言葉だった。

 ユキに何かを伝えるための最後の別れの挨拶──。

 ユキはその意味を考えていた。

 長い道のりをユキを後ろに乗せて、汗を掻きながら仁は自転車を漕いでいる。

 かなり苦しそうだ。

 そしてユキの家にたどり着いたとき、仁は力果てて、倒れこんでしまった。

 ユキが仁に触れたとき、その熱の高さに驚いた。

「仁、大丈夫? やだ、しっかりして。パパ、救急車呼んで!」

 ユキはおろおろと慌てて叫んでいた。

 深夜はとっくに過ぎている。

 冷たくひっそりとした病院は不気味で一層の不安を煽った。

 病院の廊下の長椅子にユキはポツンと座わり、落ち着かない表情で考え込んでいた。

 ──仁まで失ってしまったら…… 

 不安でいたたまれなくなる。

 もうこれ以上誰にも迷惑は掛けられない。

 自分がやるべきことは何か、ユキは強く決心する。

 ──トイラのことを忘れよう。

 ユキはジークの巾着のことを強く考えていた。

 あれさえあればうまく行く。

 だか体が震えて仕方がない。

 思い出を削られることを身をもって恐れていた。

 その時、慌てて仁の父親と母親がやってきた。

 多少不安な表情をしている。

 しかしユキをみると気を遣って笑顔を見せた。

 ユキの心はまた罪悪感にさいなまれ た。

「おじさん、おばさん、ごめんなさい。私のせいで、仁が」

 ユキは取り乱していた。

「ユキちゃん落ち着いて。仁は大丈夫だから」

 母親はユキを抱きしめる。

「でも、おばさん、仁は肺炎をこじらしているって」

「それくらい大丈夫よ。治る治る。仁はそんなこと気にもしてないって」

 母親はにっこりしていた。

 そばで父親も頷いていた。

 仁の両親の優しさをもってもユキは自分は許されるべきじゃないと素直に受け入れられなかった。

 自分のことしか考えてなかったのに、周りは皆ユキを心配し てくれる。

 それが恥ずかしくて仕方がない。

 そこにユキの父親が現れた。

 仁の両親と挨拶して、病院での手続きの経緯を説明しだした。

 看護師も後からやってくると、仁が運ばれた部屋へとみんなを案内してくれた。

 幸い軽い症状ですぐ治ると言われ、仁の母親も『ほらね』とユキに笑顔を見せていた。

 ユキはベッドに横たわっている仁の手を取り、祈る思いで強く握りしめた。

「ごめんね、仁。私自分のことしか考えてなかった。仁はこんなにも私のこと心配してくれてるのに」

「ユキ、みんなの前で恥ずかしいよ」

 仁はまた母親になんか言われると思うと、気が気でなかった。

 しかしユキに握られた手が嬉しいのか照れていた。

「ほら、いったでしょ、ユキちゃん。仁は大丈夫だって。病気になってユキちゃんに看病して貰った方がラッキーって思ってるくらいよ」

 仁の母親がそういうと、周りは安堵の笑いが漏れた。

「母さん、余計なこと言わないで。でもちょっとだけユキと二人っきりにしてくれない」

 息子にそういわれ、母親はユキの父親にそうしましょうと合図をとって、みんな部屋から出て行った。

 やっとユキと落ち着いて話ができると、仁は軽くため息をついた。

 体を起こしてユキの目をじっと見る。

「ユキ、君のお父さんと電話で話をしたとき、ちらっと聞いたんだけど、また向こうに戻るかも知れないんだってね。お父さんはそれで悩んで家を出たって思ったらしいよ。ユキは本当に向こうに行っちゃうの?」

「えっ?」

「向こうに行けば、トイラがいた森の近くになるもんね。そしてそこにはトイラの思い出もいっぱいだよね」

 仁はユキの古傷をつつく気分だった。

 しかしユキにもはっきりといいたいことがあった。

「仁、あのね、今日あの山で私の思い出の中のトイラの姿を見せられたの。私とても辛かった。やっぱりトイラのこと忘れられないって思った。仁、お願いがある。ジークから貰ったもの、あれはトイラたちの記憶を消すものでしょ。それを私に使って、私から記憶を消して欲しいの。そうじゃないと私はいつまでもトイラのこと思い続けて苦しいの。ここに居ても、あっちに戻ってもきっとこのままじゃ苦しいだけ」

「じゃあ、それを使えば、ユキはあっちに戻るんだ。でもそれって、ユキは逃げてるんじゃないの?」

 仁はがっかりする。

「でも、このままじゃ、辛くて辛くて。それにみんなに迷惑をかけてしまう」

「トイラはどうするの? トイラはユキを思って、自らをユキに託した。それでもトイラのことを忘れてしまいたいの?」

「仁、何が言いたいの? 仁だって私からトイラを離して、忘れるようにしようとしたじゃない」

 ユキは反発する。

「それはそうだけど、あれはユキを助けようと思って血迷っただけ。これとは話が違う」

「何が違うの?」

「ユキ、忘れたくないものを無理に忘れる必要がないってことだよ。大切な思い出はきっと将来、持っててよかったって思えるよ。今は時間がかかるだろうけど、トイラの思い出と一緒に生きて、ユキはトイラのこと忘れちゃいけないって思うんだ」

「仁……」

 ユキの目にじわりと涙が溢れてくる。

「僕、待つよ。ずっと待つよ。ユキがトイラのことを思い出しても苦しくなくなるまで。ずっと待つ。だってこの世界で僕だけが、ユキの大切な思い出を理解できるんだもん。僕は忘れないよ。トイラやキース、そしてジークのことだって。僕には大切な友達、そしてかけがえのない思い出。ずっと胸に抱いていたい。きっと大人になったとき懐かしんで、宝石のような輝いた思い出となってると思うんだ。大切なことから逃げちゃだめだ。過去があるから未来へと続く。これからのユキには今まで経験したことが絶対必要だったって思えるときが来るよ」

「仁……ありがとう」

「ユキ、君なら乗り越えられる。トイラと共に。だってトイラはいつも君の傍にいるんだろ? そうじゃなかったかい?」

 仁に言われてユキはトイラの言葉を思い出した。

『どこにも行かないさ。俺は君のすぐ傍にいる。すぐ傍に』

「うん。そうだよね。私はトイラと共に生きてる。この思い出と共に、いつもトイラはここにいる」

 ユキは胸を押さえる。

 自分の心臓の鼓動が体で響く。

 これはトイラの鼓動の音でもある。

 一緒に生きている。

 ユキの目からまた涙がこぼれてきた。

 でも、それは悲しさの涙ではなかった。

 トイラと共に生きる喜びの希望の雫のように、キラキラと美しい水玉が落ちていった。

 仁はちょっと大げさだったかなと恥ずかしげに笑っていた。

 だけど、それなりに悩んで出した答えだった。

 仁も本当は、黙ってあの銀の粉をユキに振りかけてやろうと、何度思ったことか計り知れない。

 捨てたことをユキに伝えると、ユキはそれでよかったと頷いてにっこりとした。

 仁の前向きな姿勢はユキにひしひしと伝わった。

 ユキは仁に心から感謝するとぎゅっとハグをした。

 突然の柔らかな感触に、仁の動きがとまり、顔が赤くなる。

「仁、早く良くなってね」

「ああ、でもまた熱出たかもしれない」

 仁はバタンとベッドに倒れてしまった。

「やだ、仁、大丈夫」


 仁は暫く入院することになった。

 あれから病院を後にして、ユキが家に戻ったときは日付はとうの昔に変わっていた。

 寝る時間があまりなく、その日は欠伸をしながら登校する羽目になった。

 二日連続あまり寝ていない。

 かなり疲れているがそれでもユキはどうしても学校に行きたかった。

 やらなければならないことがある。

「逃げちゃだめか」

 その言葉を呟きながら、ユキはマリのことを考えていた。

 ねちねちと言葉で虐められていても、決して手を出されたことはなかった。

 頬をまたそっと撫でる。
 痛かったが、この時になってその痛みは胸に響いた。

 ――あのとき矢鍋さんは私を心配してくれていた。だから抑えられない感情があんな形になったんだと思う。本当に心配してくれてなければそんな感情なんてでてこないよ。

 ユキは体育館に向かっていた。

 そこで朝練が終わったマリを見つける。

 走って来たためにハアハアと息をしながらユキは近づいた。

 以前マリに言われたように、自分の殻を破り飛び込んでみようと思った。

「矢鍋さん、昨日はごめんなさい。心配してくれてたのに、私、馬鹿なことを言って」

「謝るのは私の方よ。叩いてごめん。それに今まで私もネチネチと意地悪して悪かったわ」

 ユキは驚いた。マリが自分に謝った。

 思わずアメリカナイズの行動に出てしまった。

 ユキは思いっきりマリにハグしていた。

「やだ、春日さん、みな見てる」

「いいの、これが私流のやり方。私たちいい友達になれるよね」

「うん」

 マリも恥らうように笑っていた。


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