子の正刻――現在の時刻でいうと夜中の十二時。
 例の噂話を密かに聞いていた少年は、家に帰らずその時刻に学ランのまま、あかしや橋へ向かっていた。

 その少年の名は、宮前真司。橋の近くにある宮中学校に通う中学一年生だ。

「うぅ……ここまで来るのって、やっぱり怖いな……」

 真司は、怖気づいた様子で周りをキョロキョロと見回す。

 このあかしや橋に向かうためには、街灯がひとつしかない真っ暗な公園に、電気が消えた小学校の前、さらに生い茂っている林の大きな池の間を通らなければならなかった。
 街灯は少なく、木々が風で揺れて葉の擦れる音に、濁った池が風で微かに揺れる音がする。真司にとっては、まるで肝試しをしている気分だった。いや、誰もがそう思うだろう。

 秋も少しずつ冬へと移り変わっているのか、地面には木の葉や小枝がたくさん落ちていた。歩くたびにカサ……カサ……と、葉を踏む音がする。いつもなら気にならないが、今回は真っ暗なだけあってその音すら怖く感じていた。

「…………」

 渇いた喉をゴクリと鳴らし、無理やり唾を飲み込ま。例の橋は、もう目の前にある。
 真司は、あかしや橋の手前まで来ると、その場で立ち止まった。緊張と不安のせいで、手のひらは微かに汗ばんでいる。
 今ならまだ引き返すことができる、やっぱりやめておこうか……と考えるが、真司はその気持ちを懸命に振り払った。

「だ、だめた! ここで逃げたら泣いているあの子が……。だから、ここまで来たんじゃないか! だ、大丈夫……あの子と同じモノならきっと……!」

 すると突然、坂になっている背後の道からチリリン……チリリン……と、小さな鈴の音が聞こえてきた。

「っ?!」

 真司はその音に肩をあげて驚いた。まるで蛇に睨まれた蛙のように体が硬直する。後ろを振り返るのも怖く、真司は橋の下の歩道へと続く石段の陰に脱兎の如く逃げ込んだ。

 ――チリリン……チリリン……。

 鈴の音が足音のように鳴り響き、次第に近づいてくる。
 真司の心臓は、今にも飛び出すのではないかというぐらいドキドキしている。その間も鈴の音は橋に向かってくるのがわかり、真司は自分の居場所がバレないよう、その場で息を殺した。

 ――チリリン……チリリン……。

 ついに、音がすぐ近くまで迫ってくる。真司の心臓の音も自分の耳で聞こえるぐらい強く高鳴っていた。額には薄らと汗が滲んでいる。
 それでも、真司は目を凝らして音の正体を確認しようとした。

 ――く、暗くてよく見えない……嫌なモノだったらどうしようっ?!

 雲に隠れていた月がスーッと現れ、街灯の代わりに辺りを照らす。暗くて見えなかったものが、今ははっきりと見える。真司は鈴の音を発している主を知ると、その美しさに思わず目を奪われた。

 まるで宵闇の如く黒く真っ直ぐで艶やかな髪。陶器のようなに滑らかな白い肌。大きな黒い瞳と小さな顔。ぷっくりとした唇と頬はほんのりと赤く、少し幼い感じがした。

 着ている服は着物で、黒の生地に濃い紫と青の薔薇が刺繍させれている。帯は赤ピンクに雪の結晶が散らばり、幼い外見に反し大人っぽい雰囲気が醸しだされている。
 年齢が予想できない外見だ。

 ――チリリン……チリリン……。

 真司は鈴の音にハッと我に返り、頭を左右に振った。美女は真司に気付かぬまま、素知らぬ顔であかしや橋を渡ろうとしている。

「――だめだっ!!」

 橋の先に怪し気な気配を感じた真司は、彼女を止めようと慌てて追いかけ、背後から彼女の腕に手を伸ばす。
 腕を掴まれた女性は、髪をなびかせくるりと振り返った。その瞬間、髪から漂う花の香りが真司の鼻腔を掠める。

「お前さん、私のことが見えるのかえ?」
「え? 見えるって……」

 女性の言葉に、真司は自分や女性の周りが霧で覆われていることに気がつく。そして、何気なく目についた橋の名前のプレートを見る。

 プレートの文字はゆらりと揺れ、〝あかしや橋〟の文字が変化し、〝あやかし橋〟へと変わっていく。そして次の瞬間、真司が上を仰ぎみると朱色の大きな鳥居がすぐ目の前に建っていた。

「な、なにがどうなって……」

 真司は女性の腕から手を離し後ろを振り返るが、霧が濃いせいで来た道は見えなくなっていた。

「な……っ?!」

 突然のことにパニックになり、真司は思わずよろめく。そのせいで意図せず鳥居の中へ片足を踏み入れてしまった。瞬間、一気に霧が消え目の前が晴れた。
 真司がよろめいた際に女性は真司の腕を掴んでいたが、真司は目の前の女性ではなく、周りの景色を見て呆然と立ちつくしていた。

 確かに真司は橋の上に立っていたのに、いつの間にかその橋は消え、代わりに鳥居に似たゲートが目の前に建っていた。ゲートの看板には【商店街】と大きく書かれ、向こう側には明るい町が見える。

 真司が、今目にしているのは、シン……と静まり返った薄暗い夜道ではなく、ガヤガヤと賑わいさまざまな店が建ち並ぶ町だった。
 そして、すれ違う者も、楽しそうに談笑している者たちも、〝人〟ではなかった。

 鬼のような顔をした者。腕が八本ある者。動物の耳が生えている者。堂々と二足歩行する猫がいたり、はたまたはヘビのように首が長い女性が買い物をしたりしているのだ。

 長い前髪の隙間からその風景を見ると、真司は魚のように口をパクパクとさせた。言葉は出てこず、頭の中は真っ白だ。

「……あの、もし?」

 女性は、真司に向かって声をかける。真司はぎこちない動きで彼女の顔を見ると、突然、体がグラリと傾きそのまま倒れ込んだ。

「えっ?! ……こりゃぁ、困ったねぇ」

 女性は倒れる真司の体をその細い腕で支えると、途方に暮れるように空を見上げた。
 倒れている本人はというと、女性の膝の上で目を回し、「う~ん……」と唸っていたのであった。