無事に掛け軸の願いも叶い、菖蒲は商店街へ帰ると言うので真司は菖蒲をあかしや橋まで送ることにした。
「あの……菖蒲さん」
「ん? なんや?」
真司は菖蒲が大事に抱えている風呂敷を見つめる。
無事、柴犬の姿が戻った掛け軸だったが、依然として損傷が激しく、女の子と犬の絵も色褪せてしまったため、真司は掛け軸を直すことはできないかと菖蒲に相談したのだった。菖蒲は「腕のいい知り合いがおるから私に任せんしゃい」と応じてくれた。
真司はその時の会話を思い出し頭を下げた。
「その掛け軸のこと……どうか、よろしくお願いします」
「あい、わかった。掛け軸の修復が終わり次第、お前さんに渡すから安心おし」
「はい」
すると、菖蒲が真司に一歩、また一歩と近づいてきた。やがてふたりの距離は、まるで恋人同士が寄り添うくらいまで縮んでいく。
「え……? え? あ、あああのっ、菖蒲さん!?」
距離が突然縮まり驚いた真司は、一歩身を引こうとした。すると、菖蒲はおもむろに真司の長い前髪に触れると上にかきあげた。
視界が明るくなり、真司は急な眩しさに目を閉じてしまう。
おそるおそる目を開けてみると、頬を膨らませ、拗ねている菖蒲の顔が間近にあった。真司は思わず息を飲む。
「真司、お前さんはもったいない男ぞ?」
「……え?」
「髪で隠しているのは、他の妖怪と目を合わせないため、関わらないためというのはわかる。怖かったんじゃろ?」
菖蒲の真っすぐな目と確信を突く言葉に、真司は目だけを菖蒲から逸らし、黙ったまま小さく頷いた。
「お前さんの判断は人間として正しい。じゃが、もうお前さんはひとりではない」
――ひとりではない。
その言葉に、真司はゆっくりと菖蒲と目を合わせる。菖蒲は真司と目が合うと、ニコッと笑った。
その笑みは、まるで真司を暗闇から救い出してくれる太陽のようだった。
「これからのお前さんには、私がついている。ゆえに! お前さんは、もっと己の心に自信を持つこと! 何事も隠すことを禁ずる! ……私が、お前さんを護ろう。周りにわかり会える者がいなければ、私がお前さんとわかち合おう」
菖蒲の言葉を聞いて過去のトラウマや孤独だったときを思い出し、真司の目には自然と涙が溢れだした。
「っ……うっ……」
菖蒲は真司の前髪を梳くように元に戻すと、今度は子をあやすようにポン……と頭を優しく叩き、体を寄せ抱き締める。
「うっ……うぅっ……うわぁぁっ……」
「よう頑張ったな。もう、隠す必要も前髪を伸ばす必要もない。安心せぇ」
真司は泣きながらも菖蒲を抱きしめ返す。
まるで、迷子だった子供がやっと親に出会えたように。
しばらくして、菖蒲は落ち着きを取り戻した真司の頭を優しく撫でると、そっと、距離を置いた。
「さて、と。そろそろ行かないとねぇ」
「もう、ですか?」
「これこれ、言ったやろう? お前さんは、もうひとりじゃないって。せやから、そんな顔をするんちゃう」
「……はい。でも――」
子犬が寂しそうにしているように見え、菖蒲は思わず苦笑したが、すぐに優しく真司に微笑みかけた。
真司がなにか言おうとすると、菖蒲は真司の唇に自分の人さし指を当て言葉を遮る。
「それ以上の言葉は不要じゃ。……真司、明日、商店街に遊びにおいで。きっと、今よりもよいよい方向へと変わるじゃろう」
なにが変わるのか聞こうとする前に、菖蒲は着物の袖口からある物を取り戻し、それを真司の手のひらに置いた。
菖蒲が真司に渡した物――それは、赤い数珠のブレスレットだった。中央には銀の鈴があり、菖蒲の花が彫られていた。
「真司、お前さんにはこれをやろう」
「これは……?」
「これは私の妖力が込めてあるブレスレットじゃ。私らはいつでも商店街に来られるが、〝人間〟は別なんよ。日付が変わる瞬間、妖怪の町である商店街と繋がっている場所を通ると、稀に迷い込んでしまう者もおる」
そう言うと、菖蒲は袖口を口元に当てクスリと笑った。
「ふふっ。お前さんの場合は『迷い込んだ』というより、私が引き込んでしまったようなものやけどね」
赤い数珠が夕日に反射してキラリと光る。今日の夕日は、この数珠のように真っ赤な空をしていた。
菖蒲は、夕日を背に真司の目を見て話を続けた。
「ともあれ、これがあれば、時刻を気にすることなく自然と商店街へと行けるじゃろうし、お前さんに悪さをする妖怪も下級なモノも寄って来ぬ。なるべく肌身離さず身に付けておくんじゃぞ?」
「あ、ありがとうございます」
菖蒲が「では、待っておるからな」と言った瞬間、突然強い風が吹きつけた。真司は風の強さに一瞬目を閉じたが、次に目を開いたときには、目の前に立っていた菖蒲の姿は忽然と消えていたのだった。
「あの……菖蒲さん」
「ん? なんや?」
真司は菖蒲が大事に抱えている風呂敷を見つめる。
無事、柴犬の姿が戻った掛け軸だったが、依然として損傷が激しく、女の子と犬の絵も色褪せてしまったため、真司は掛け軸を直すことはできないかと菖蒲に相談したのだった。菖蒲は「腕のいい知り合いがおるから私に任せんしゃい」と応じてくれた。
真司はその時の会話を思い出し頭を下げた。
「その掛け軸のこと……どうか、よろしくお願いします」
「あい、わかった。掛け軸の修復が終わり次第、お前さんに渡すから安心おし」
「はい」
すると、菖蒲が真司に一歩、また一歩と近づいてきた。やがてふたりの距離は、まるで恋人同士が寄り添うくらいまで縮んでいく。
「え……? え? あ、あああのっ、菖蒲さん!?」
距離が突然縮まり驚いた真司は、一歩身を引こうとした。すると、菖蒲はおもむろに真司の長い前髪に触れると上にかきあげた。
視界が明るくなり、真司は急な眩しさに目を閉じてしまう。
おそるおそる目を開けてみると、頬を膨らませ、拗ねている菖蒲の顔が間近にあった。真司は思わず息を飲む。
「真司、お前さんはもったいない男ぞ?」
「……え?」
「髪で隠しているのは、他の妖怪と目を合わせないため、関わらないためというのはわかる。怖かったんじゃろ?」
菖蒲の真っすぐな目と確信を突く言葉に、真司は目だけを菖蒲から逸らし、黙ったまま小さく頷いた。
「お前さんの判断は人間として正しい。じゃが、もうお前さんはひとりではない」
――ひとりではない。
その言葉に、真司はゆっくりと菖蒲と目を合わせる。菖蒲は真司と目が合うと、ニコッと笑った。
その笑みは、まるで真司を暗闇から救い出してくれる太陽のようだった。
「これからのお前さんには、私がついている。ゆえに! お前さんは、もっと己の心に自信を持つこと! 何事も隠すことを禁ずる! ……私が、お前さんを護ろう。周りにわかり会える者がいなければ、私がお前さんとわかち合おう」
菖蒲の言葉を聞いて過去のトラウマや孤独だったときを思い出し、真司の目には自然と涙が溢れだした。
「っ……うっ……」
菖蒲は真司の前髪を梳くように元に戻すと、今度は子をあやすようにポン……と頭を優しく叩き、体を寄せ抱き締める。
「うっ……うぅっ……うわぁぁっ……」
「よう頑張ったな。もう、隠す必要も前髪を伸ばす必要もない。安心せぇ」
真司は泣きながらも菖蒲を抱きしめ返す。
まるで、迷子だった子供がやっと親に出会えたように。
しばらくして、菖蒲は落ち着きを取り戻した真司の頭を優しく撫でると、そっと、距離を置いた。
「さて、と。そろそろ行かないとねぇ」
「もう、ですか?」
「これこれ、言ったやろう? お前さんは、もうひとりじゃないって。せやから、そんな顔をするんちゃう」
「……はい。でも――」
子犬が寂しそうにしているように見え、菖蒲は思わず苦笑したが、すぐに優しく真司に微笑みかけた。
真司がなにか言おうとすると、菖蒲は真司の唇に自分の人さし指を当て言葉を遮る。
「それ以上の言葉は不要じゃ。……真司、明日、商店街に遊びにおいで。きっと、今よりもよいよい方向へと変わるじゃろう」
なにが変わるのか聞こうとする前に、菖蒲は着物の袖口からある物を取り戻し、それを真司の手のひらに置いた。
菖蒲が真司に渡した物――それは、赤い数珠のブレスレットだった。中央には銀の鈴があり、菖蒲の花が彫られていた。
「真司、お前さんにはこれをやろう」
「これは……?」
「これは私の妖力が込めてあるブレスレットじゃ。私らはいつでも商店街に来られるが、〝人間〟は別なんよ。日付が変わる瞬間、妖怪の町である商店街と繋がっている場所を通ると、稀に迷い込んでしまう者もおる」
そう言うと、菖蒲は袖口を口元に当てクスリと笑った。
「ふふっ。お前さんの場合は『迷い込んだ』というより、私が引き込んでしまったようなものやけどね」
赤い数珠が夕日に反射してキラリと光る。今日の夕日は、この数珠のように真っ赤な空をしていた。
菖蒲は、夕日を背に真司の目を見て話を続けた。
「ともあれ、これがあれば、時刻を気にすることなく自然と商店街へと行けるじゃろうし、お前さんに悪さをする妖怪も下級なモノも寄って来ぬ。なるべく肌身離さず身に付けておくんじゃぞ?」
「あ、ありがとうございます」
菖蒲が「では、待っておるからな」と言った瞬間、突然強い風が吹きつけた。真司は風の強さに一瞬目を閉じたが、次に目を開いたときには、目の前に立っていた菖蒲の姿は忽然と消えていたのだった。