「ああ、のぶちゃんに怒ってたりするわけじゃないんだ。ただ、過去の出来事として話しているんだ。そのとき、待ち合わせ場所に選んだ鴨川の高級料理屋さんで」
「ということは、鴨川の川床料理とかですか」
「そうそう。彼女は来なかったけど予約した手前、そのまま帰る度胸もなく、ひとりで食べたよ。一人前に減らしてはもらったけどね。ハモなんてどこがおいしいのかさっぱり分からなかった。最後のごはんもやたらいろんなものが入ったことしかおぼえていないよ。ははは」
「そうでしたか」
「ただ、めっちゃ高かった記憶だけある。小遣いもバイト代も全部持っていたけど、まるで身ぐるみ剥がされたような感じだったよ」
水森さんが淡々と語っていた。
「ひでちゃん……」
エンドウ豆ごはんをふたりに配り、拓哉さんが座敷の端に正座した。
「この店はおばんざいを出している。他の店の強欲な人間は知らないが、ここでは季節季節でできる限りいちばんうまいものを味わってもらう。甘味だけはそういかないこともあるが、それがおばんざいの心だからだ」
信子さんがエンドウ豆ごはんを一口食べて、目を丸くする。
「ああ、おいしい。エンドウ豆ごはんはいまがいちばんやねぇ」
水森さんもその言葉に誘われるように箸を取る。
一口食べるや、「あっ……」と言ったきり、ひたすらごはんを口に運び、味わうことに専念した。
「エンドウ豆のほっこりした食感と味わい、絶妙な塩加減、それらとごはんの透明な味わいがきれいにひとつになっている。こんなエンドウ豆ごはんは食べたことがない」
お味噌汁を出しながら、弥彦さんが和歌を口ずさんだ。
人はいさ 心もしらす 古郷は
花そむかしの 香ににほひける
――さあ、人の心はわかりませんが、古里では花は昔の香りのままに匂っています。
信子さんたちがその歌に箸を止める。
「百人一首にある歌だよ。読んだのは『土佐日記』でも有名な紀貫之って人。人の心はさておき、季節の香りは変わらない。いまの季節ならまんまるに育ったエンドウ豆をおいしくいただく。値段はそんなにしなくても、それっていちばんの贅沢だよね」
「たしかに、そうですね。このエンドウ豆ごはんは絶品だ」
「さっきさ、十五年前に川床料理の店でお金をむしり取られた話してたけど、水森さんの話通りなら高校卒業の頃、つまり三月くらいの話だよね」
「ああ、そうです。僕は卒業証書を親に見せてすぐに家を出た」
「だとしたらさ、そのお店に騙されたんだよ」
「え?」と、水森さんの顔色が変わった。「お店の人がオススメだからって予約したんだぞ」
「だってさ、〝人はいさ心もしらず〟今も昔も、ハモは夏が旬だもん」
「あっ」と、信子さんが口元に手をやった。「そう言えばそうや」
すると水森さんが少し間を置いて、声を上げて笑い始めた。
「あははは。これはいい。僕は京都にいたくせにハモの旬が夏だということも知らずに駆け落ちだとか騒いでたのか。そんな世間知らず、周りの大人たちが反対するに決まってるよな。ははは――」
目尻をぬぐいながら笑い続ける水森さんに、私は言わずにはいられなかった。
「そうかもしれません。でも、あなたはその悔しさをばねにして東京で身を粉にして働かれたんですよね? そうして自分で会社を作り、お金もしっかり貯めた。それはとてもすごいことだったと思います」
水森さんが笑い声を止めて、私の顔をちょっと怖いような顔で見つめた。
「――そんなふうに言ってくれるのですか」
「はい」
「――ありがとう」
水森さんの向こうで、信子さんがそっと涙を押さえていた。
弥彦さんが続ける。
「ひどい店にあたって災難だったと思うよ。いまの時代、水菜なんかは冬でも手に入るし、それはそれでおいしいけど、旬でない食べ物はどうしてもおいしさに限界がある。その時の季節外れのハモ、きっとおいしくなかっただろうから、どんな味だったか覚えていないのも無理ないさ。一見地味でも五月が旬のエンドウ豆を、拓哉みたいな本当のプロフェッショナルが精魂込めてごはんにすれば、すばらしいごちそうになったでしょ?」
「本当においしいですわ。私、何度かこのお店に来させてもろてるけど、こないにおいしいエンドウ豆ごはんは初めてでした」
信子さんの言葉に、拓哉さんが黙って頭を下げて言った。
「一見地味で飾らないモノの中に、本当にかけがえのないものが隠れている。〝人はいさ心もしらす〟さ。でも、ふたりとも、それに気づいているんじゃない?」
軽くため息をついて、水森さんがもう一度、エンドウ豆ごはんを頬ばった。
「このエンドウ豆のごはんも、夏や秋ではここまでおいしく作れないってことなんだよな」
「ええ」
と、信子さんもまたエンドウ豆ごはんを食べる。
「のぶちゃん、僕たちはひょっとして出会うのが早すぎたのかな。幼なじみではなく、たとえばいま出会っていたら……」
「………………」
このエンドウ豆ごはんのように、いまなら素晴らしいふたりの未来を手にすることができたのだろうか――。そんな心の声が私にも聞こえてくるようで、思わず胸が詰まる。
水森さんが箸を置いて信子さんに問うた。
「もし、十五年前の店がここだったら、俺たちどうなってたかな?」
信子さんが涙を堪えるような顔で顎をそらせた。
しばらくして立ち上がると、「弥彦さん、ちょっとお願いできる?」と声をかけた。
信子さんは軽く頭を下げると、いぶかしげに見上げる水森さんには何も説明せずに、弥彦さんを伴って奥へ行ってしまった。
「ということは、鴨川の川床料理とかですか」
「そうそう。彼女は来なかったけど予約した手前、そのまま帰る度胸もなく、ひとりで食べたよ。一人前に減らしてはもらったけどね。ハモなんてどこがおいしいのかさっぱり分からなかった。最後のごはんもやたらいろんなものが入ったことしかおぼえていないよ。ははは」
「そうでしたか」
「ただ、めっちゃ高かった記憶だけある。小遣いもバイト代も全部持っていたけど、まるで身ぐるみ剥がされたような感じだったよ」
水森さんが淡々と語っていた。
「ひでちゃん……」
エンドウ豆ごはんをふたりに配り、拓哉さんが座敷の端に正座した。
「この店はおばんざいを出している。他の店の強欲な人間は知らないが、ここでは季節季節でできる限りいちばんうまいものを味わってもらう。甘味だけはそういかないこともあるが、それがおばんざいの心だからだ」
信子さんがエンドウ豆ごはんを一口食べて、目を丸くする。
「ああ、おいしい。エンドウ豆ごはんはいまがいちばんやねぇ」
水森さんもその言葉に誘われるように箸を取る。
一口食べるや、「あっ……」と言ったきり、ひたすらごはんを口に運び、味わうことに専念した。
「エンドウ豆のほっこりした食感と味わい、絶妙な塩加減、それらとごはんの透明な味わいがきれいにひとつになっている。こんなエンドウ豆ごはんは食べたことがない」
お味噌汁を出しながら、弥彦さんが和歌を口ずさんだ。
人はいさ 心もしらす 古郷は
花そむかしの 香ににほひける
――さあ、人の心はわかりませんが、古里では花は昔の香りのままに匂っています。
信子さんたちがその歌に箸を止める。
「百人一首にある歌だよ。読んだのは『土佐日記』でも有名な紀貫之って人。人の心はさておき、季節の香りは変わらない。いまの季節ならまんまるに育ったエンドウ豆をおいしくいただく。値段はそんなにしなくても、それっていちばんの贅沢だよね」
「たしかに、そうですね。このエンドウ豆ごはんは絶品だ」
「さっきさ、十五年前に川床料理の店でお金をむしり取られた話してたけど、水森さんの話通りなら高校卒業の頃、つまり三月くらいの話だよね」
「ああ、そうです。僕は卒業証書を親に見せてすぐに家を出た」
「だとしたらさ、そのお店に騙されたんだよ」
「え?」と、水森さんの顔色が変わった。「お店の人がオススメだからって予約したんだぞ」
「だってさ、〝人はいさ心もしらず〟今も昔も、ハモは夏が旬だもん」
「あっ」と、信子さんが口元に手をやった。「そう言えばそうや」
すると水森さんが少し間を置いて、声を上げて笑い始めた。
「あははは。これはいい。僕は京都にいたくせにハモの旬が夏だということも知らずに駆け落ちだとか騒いでたのか。そんな世間知らず、周りの大人たちが反対するに決まってるよな。ははは――」
目尻をぬぐいながら笑い続ける水森さんに、私は言わずにはいられなかった。
「そうかもしれません。でも、あなたはその悔しさをばねにして東京で身を粉にして働かれたんですよね? そうして自分で会社を作り、お金もしっかり貯めた。それはとてもすごいことだったと思います」
水森さんが笑い声を止めて、私の顔をちょっと怖いような顔で見つめた。
「――そんなふうに言ってくれるのですか」
「はい」
「――ありがとう」
水森さんの向こうで、信子さんがそっと涙を押さえていた。
弥彦さんが続ける。
「ひどい店にあたって災難だったと思うよ。いまの時代、水菜なんかは冬でも手に入るし、それはそれでおいしいけど、旬でない食べ物はどうしてもおいしさに限界がある。その時の季節外れのハモ、きっとおいしくなかっただろうから、どんな味だったか覚えていないのも無理ないさ。一見地味でも五月が旬のエンドウ豆を、拓哉みたいな本当のプロフェッショナルが精魂込めてごはんにすれば、すばらしいごちそうになったでしょ?」
「本当においしいですわ。私、何度かこのお店に来させてもろてるけど、こないにおいしいエンドウ豆ごはんは初めてでした」
信子さんの言葉に、拓哉さんが黙って頭を下げて言った。
「一見地味で飾らないモノの中に、本当にかけがえのないものが隠れている。〝人はいさ心もしらす〟さ。でも、ふたりとも、それに気づいているんじゃない?」
軽くため息をついて、水森さんがもう一度、エンドウ豆ごはんを頬ばった。
「このエンドウ豆のごはんも、夏や秋ではここまでおいしく作れないってことなんだよな」
「ええ」
と、信子さんもまたエンドウ豆ごはんを食べる。
「のぶちゃん、僕たちはひょっとして出会うのが早すぎたのかな。幼なじみではなく、たとえばいま出会っていたら……」
「………………」
このエンドウ豆ごはんのように、いまなら素晴らしいふたりの未来を手にすることができたのだろうか――。そんな心の声が私にも聞こえてくるようで、思わず胸が詰まる。
水森さんが箸を置いて信子さんに問うた。
「もし、十五年前の店がここだったら、俺たちどうなってたかな?」
信子さんが涙を堪えるような顔で顎をそらせた。
しばらくして立ち上がると、「弥彦さん、ちょっとお願いできる?」と声をかけた。
信子さんは軽く頭を下げると、いぶかしげに見上げる水森さんには何も説明せずに、弥彦さんを伴って奥へ行ってしまった。



