信子さんがうつむく。
「そんなことない」
「じゃあ、どうして」
「あの日は、私、両親にも女将さんにも見つかって、あほなことはやめなさいって」
「………………」
「みんなに散々怒られて部屋から一歩も出してもらえなくなって。ひとりで部屋で泣きながら思ってん。私は舞妓しかしたことない。東京に行ってもひでちゃんの足手まといになるだけやって」
「そんなことない。俺にはのぶちゃんが必要だったんだ」
「支えられるだけの女になんてなりたなかったの」
「それならそれでふたりで力を合わせて」
「舞妓しかしたことない私では、東京に居場所はないんよ」
弥彦さんがするりと座敷に入った。
「さあ、料理をお持ちしましたよ」
「ああ。ありがとう」
と、水森さんが冷静になる。
「人間って、面倒ですよね」
弥彦さんの意外な言葉に、信子さんと水森さんがぎょっとなる。
「それは――」
弥彦さんが静かにおばんざいを並べる。
「好き合っていた者同士がほんのささやかな掛け違いで人生を別れていく。別れてみて、いなくなって、自分の隣の空虚さに驚いて、嘆いて、悲しんで。この瞬間は気持ちを伝えきるために使うべきなのに、また過去の影に囚われて。いまを生きないで死んでいく」
「………………」
弥彦さんがくるりと表情を改めた。
「なんて。さ、どうぞお召し上がりください」
それぞれの料理がきらきらと光って見えた。このまえと同じだ。
「いきなり、昔のことを蒸し返して悪かった」
「いいえ。私こそ……」
「シンプルだけどおいしそうなおばんざいだね。さ、せっかくのぶちゃんが予約してくれたお店だ。食べよう食べよう」
少しばつが悪そうな水森さんがしゃべってごまかしている。あれ? 水森さんにはあのおばんざいのきらきらが見えないのかな。
「弥彦の言葉が料理に光を与える。それは誰にでも見えるわけではない」
拓哉さんが次の料理の用意の手を休めずに言った。まるで思いを見透かされているみたいだった。
「え……あ、そうなんですか」
それにしても、別に私は霊感が強い人間でもないのに何でだろう。
「何でおまえにそれが見えたかは、いつか分かるだろう」
神さまには隠しごとはできないらしい。
座卓の上には生麩焼きやひじきの煮物などが並んでいる。
「お菓子で食べるもんやとばかり思ってた生麩もこうして食べると大人の味がするんやね」
「甘いだけじゃないのが大人の味なんだろうな」
なかでも目を引くのが煮物で、五月のこの時期にふさわしい鰹の生節とふきの炊き合わせ。生節にすることで鰹の旨味が凝縮し、拓哉さんの出汁でさっと煮ることで嫌味のない上品な料理に仕上がっている。味見させてもらったが、私にはまだまだ真似できない繊細さと力強さの融合した品だった。
料理を食べながら、再びふたりに笑顔が戻ってくる。弥彦さんの言葉が伝わったのかしら。そして、いまこの瞬間、ふたりは何を思っているのだろうか。
私が聞いている範囲では、信子さんはまだ結婚していない。水森さんも、結婚指輪をしていない。
信子さんは本当ならまだまだ現役の芸妓としてやっていける年齢のはず。最初に挨拶に行ったときからずっと気になっていた。
しかし、水森さんが来る前に話したときに、芸妓は旦那に身受けされて結婚するといった昔のしきたりにヒントがあるような気がした。
ひょっとしたら信子さんはどの旦那の身受けも断るために、芸妓もやめたのではないだろうか。
それは私のただの勘ぐりかもしれない。でも、もしそうだとしたら、祇園のお座敷の中に何て可憐な純愛の真っ白い花が咲いていたことだろう。
「ごはんもの、そろそろ出しますか?」
料理の進み具合を見ながら私が確認する。
ごはんは俺たちで持っていくぞと言われ、私は拓哉さんと一緒に調理場を出た。拓哉さんがおひつを持ち、私が茶碗を持つ。
「ごはんもののあと、最後に甘味です」
と、私が案内する。
拓哉さんがごはんをよそっていた。炊きたてのごはんと独特の青い匂いがする。
「この匂い……エンドウ豆ごはん」
という信子さんの声に水森さんが意外そうな声を上げた。
「実は私が無理を言ってのぶちゃんに来てもらった以上、今日は私がおごると言ってあったんです。お店はのぶちゃんに任せましたが」
「そうでしたか。――いまが旬のエンドウ豆ごはんです。どうぞ」
と、水森さんに茶碗を手渡しながら、私は相づちを打った。
「ありがとう。――そうしたらこちらのお店は、外観も祇園らしく町家づくりだし、店内も洗練されている。いかにも高級なお店という感じで、私はてっきりあの日ふたりで食べそびれたハモとかを出されると思ってました」
そして、会計のときにはどこかの川床料理の店のように法外な金額を請求されると思っていたと水森さんが皮肉そうに笑った。
「そういうお高いお店によく行かれるんですか」
と、私が聞くと水森さんは首を横に振った。
「のぶちゃんが話しているかどうか分からないけど、実は私は高校卒業の時にのぶちゃんと駆け落ちをしようとして彼女に振られた人間でね」
水森さんの話に、信子さんが少し苦笑いしていた。
「そうだったんですか」
お客様のプライベートは聞き流す。私が内容について初めて聞くようなふりをする。もっとも、事前に知っていることを水森さんに打ち明けたところで、私に何ができるか見当がつかなかったのもある。
「そんなことない」
「じゃあ、どうして」
「あの日は、私、両親にも女将さんにも見つかって、あほなことはやめなさいって」
「………………」
「みんなに散々怒られて部屋から一歩も出してもらえなくなって。ひとりで部屋で泣きながら思ってん。私は舞妓しかしたことない。東京に行ってもひでちゃんの足手まといになるだけやって」
「そんなことない。俺にはのぶちゃんが必要だったんだ」
「支えられるだけの女になんてなりたなかったの」
「それならそれでふたりで力を合わせて」
「舞妓しかしたことない私では、東京に居場所はないんよ」
弥彦さんがするりと座敷に入った。
「さあ、料理をお持ちしましたよ」
「ああ。ありがとう」
と、水森さんが冷静になる。
「人間って、面倒ですよね」
弥彦さんの意外な言葉に、信子さんと水森さんがぎょっとなる。
「それは――」
弥彦さんが静かにおばんざいを並べる。
「好き合っていた者同士がほんのささやかな掛け違いで人生を別れていく。別れてみて、いなくなって、自分の隣の空虚さに驚いて、嘆いて、悲しんで。この瞬間は気持ちを伝えきるために使うべきなのに、また過去の影に囚われて。いまを生きないで死んでいく」
「………………」
弥彦さんがくるりと表情を改めた。
「なんて。さ、どうぞお召し上がりください」
それぞれの料理がきらきらと光って見えた。このまえと同じだ。
「いきなり、昔のことを蒸し返して悪かった」
「いいえ。私こそ……」
「シンプルだけどおいしそうなおばんざいだね。さ、せっかくのぶちゃんが予約してくれたお店だ。食べよう食べよう」
少しばつが悪そうな水森さんがしゃべってごまかしている。あれ? 水森さんにはあのおばんざいのきらきらが見えないのかな。
「弥彦の言葉が料理に光を与える。それは誰にでも見えるわけではない」
拓哉さんが次の料理の用意の手を休めずに言った。まるで思いを見透かされているみたいだった。
「え……あ、そうなんですか」
それにしても、別に私は霊感が強い人間でもないのに何でだろう。
「何でおまえにそれが見えたかは、いつか分かるだろう」
神さまには隠しごとはできないらしい。
座卓の上には生麩焼きやひじきの煮物などが並んでいる。
「お菓子で食べるもんやとばかり思ってた生麩もこうして食べると大人の味がするんやね」
「甘いだけじゃないのが大人の味なんだろうな」
なかでも目を引くのが煮物で、五月のこの時期にふさわしい鰹の生節とふきの炊き合わせ。生節にすることで鰹の旨味が凝縮し、拓哉さんの出汁でさっと煮ることで嫌味のない上品な料理に仕上がっている。味見させてもらったが、私にはまだまだ真似できない繊細さと力強さの融合した品だった。
料理を食べながら、再びふたりに笑顔が戻ってくる。弥彦さんの言葉が伝わったのかしら。そして、いまこの瞬間、ふたりは何を思っているのだろうか。
私が聞いている範囲では、信子さんはまだ結婚していない。水森さんも、結婚指輪をしていない。
信子さんは本当ならまだまだ現役の芸妓としてやっていける年齢のはず。最初に挨拶に行ったときからずっと気になっていた。
しかし、水森さんが来る前に話したときに、芸妓は旦那に身受けされて結婚するといった昔のしきたりにヒントがあるような気がした。
ひょっとしたら信子さんはどの旦那の身受けも断るために、芸妓もやめたのではないだろうか。
それは私のただの勘ぐりかもしれない。でも、もしそうだとしたら、祇園のお座敷の中に何て可憐な純愛の真っ白い花が咲いていたことだろう。
「ごはんもの、そろそろ出しますか?」
料理の進み具合を見ながら私が確認する。
ごはんは俺たちで持っていくぞと言われ、私は拓哉さんと一緒に調理場を出た。拓哉さんがおひつを持ち、私が茶碗を持つ。
「ごはんもののあと、最後に甘味です」
と、私が案内する。
拓哉さんがごはんをよそっていた。炊きたてのごはんと独特の青い匂いがする。
「この匂い……エンドウ豆ごはん」
という信子さんの声に水森さんが意外そうな声を上げた。
「実は私が無理を言ってのぶちゃんに来てもらった以上、今日は私がおごると言ってあったんです。お店はのぶちゃんに任せましたが」
「そうでしたか。――いまが旬のエンドウ豆ごはんです。どうぞ」
と、水森さんに茶碗を手渡しながら、私は相づちを打った。
「ありがとう。――そうしたらこちらのお店は、外観も祇園らしく町家づくりだし、店内も洗練されている。いかにも高級なお店という感じで、私はてっきりあの日ふたりで食べそびれたハモとかを出されると思ってました」
そして、会計のときにはどこかの川床料理の店のように法外な金額を請求されると思っていたと水森さんが皮肉そうに笑った。
「そういうお高いお店によく行かれるんですか」
と、私が聞くと水森さんは首を横に振った。
「のぶちゃんが話しているかどうか分からないけど、実は私は高校卒業の時にのぶちゃんと駆け落ちをしようとして彼女に振られた人間でね」
水森さんの話に、信子さんが少し苦笑いしていた。
「そうだったんですか」
お客様のプライベートは聞き流す。私が内容について初めて聞くようなふりをする。もっとも、事前に知っていることを水森さんに打ち明けたところで、私に何ができるか見当がつかなかったのもある。



