夕焼けの名残がそろそろ消える頃、仕立てのよいスーツを着こなした男性が『なるかみや』を訪ねてきた。
久しぶりに東京の匂いがした。それが具体的にどうと言われても困るのだけど、たとえば私がいた店が夜になるとどこからともなく匂っていた男性整髪料と女性の香水の匂いみたいなもの。だからその人が東京から来た男性であり、水森英樹さんであることはすぐに分かった。
「ごめんください。『なるかみや』さんはこちらですか」
想像よりも声が控えめだった。京都弁のイントネーションはほぼ抜けている。
意志の強さを感じさせるくっきりした眉と顎の形をしていた。少し肌が荒れているのは、これまでの苦労のしわ寄せだろうか。目つきは鋭く、いかにも切れ者らしい顔だった。ただし、少し我が強そうな雰囲気がある。三十代で会社の経営者をやっていると言われて間違いなく納得できる人。高そうなネクタイと腕時計をして、よく磨かれたストレートチップの靴を履いていた。
「ようこそいらっしゃいました。水森様ですね。お連れ様は先にお待ちです」
弥彦さんがそつなく座敷席に案内する。
信子さんが下座で深く礼をして待っていた。
「本日はご招待いただき、おおきに」
いかにも京都の雅な女将姿に水森さんの方が面食らったような顔をしていた。
「あ、ああ。今日はわざわざ来てくれてありがとう」
信子さんの前にある透明な壁のようなものが水森さんを阻んでいるように見えたのか、しゃべり方がぎこちなくなっていた。
頭を上げた信子さんに、水森さんが笑いかける。信子さんが笑い返すと水森さんがさらに笑顔を咲かせた。さっきまでの押しの強いビジネスマンの顔から、学生時代の屈託のない顔に戻っていた。
信子さんの方がまだ緊張しているようだった。
調理場で盛り付けの手伝いをしながら、私はそんなふたりの姿をどきどきしながら見ていた。
「よそ見するな。あしらう木の芽の角度が違う」
「あ、すみません」
盛り付け終わった先付けを弥彦さんが運ぶ。
「俺が京都にいた頃は、この店は知らなかったな」
「隠れ家みたいなお店やさかい」
「よく、来るの?」
「ときどき。ひとりで来たり、うちの子たちを連れてきたり」
「うちの子って……子供?」
「ふふふ。まさか。水森さんも見たでしょ。うちで面倒見ている芸妓や舞妓です」
「あ、ああ。はは。そうなんだ」
表面上は穏やかな会話だが、やはりぎこちない。
「不思議なものやね。舞妓だった私とジーンズ姿の水森さんが、こんなふうになるんやから」
「あのさ!」と、水森さんが大きな声を出した。「その『水森さん』っていうの、いまだけやめてくれないか。堅苦しいのは本当は苦手なんだ。知ってるだろ? 昔みたいに呼び合えないかな。……のぶちゃん」
ネクタイを少し乱暴に外した水森さんがそう言うと、信子さんが苦笑した。
「ほんま、変わらへんなぁ、ひでちゃんは」
水森さんがうれしそうに笑った。目尻に光るものが見えた。
先付けに箸をつけ、お酒を注ぎ交わす。
しばらく、近況を話していたが、ふとした拍子で水森さんが核心に触れた。
「まさかこんなふうにのぶちゃんにお酌をしてもらうことになるとはなあ。本当ならお店じゃなくて家で毎晩、こんなふうにしてもらえたはずだったのに」
思わず盛り付けていた手が止まる。信子さんの肩が緊張していた。
「ひでちゃんもすっかり東京の言葉になってしもたね」
水森さんがおちょこを置いた。
「十五年前のあの日、何で来てくれなかったんだ。連絡もなかった。俺と一緒に行くことがそんなにも嫌だったのか」
静かな声ながら、水森さんは堰を切ったようにたたみかけた。
久しぶりに東京の匂いがした。それが具体的にどうと言われても困るのだけど、たとえば私がいた店が夜になるとどこからともなく匂っていた男性整髪料と女性の香水の匂いみたいなもの。だからその人が東京から来た男性であり、水森英樹さんであることはすぐに分かった。
「ごめんください。『なるかみや』さんはこちらですか」
想像よりも声が控えめだった。京都弁のイントネーションはほぼ抜けている。
意志の強さを感じさせるくっきりした眉と顎の形をしていた。少し肌が荒れているのは、これまでの苦労のしわ寄せだろうか。目つきは鋭く、いかにも切れ者らしい顔だった。ただし、少し我が強そうな雰囲気がある。三十代で会社の経営者をやっていると言われて間違いなく納得できる人。高そうなネクタイと腕時計をして、よく磨かれたストレートチップの靴を履いていた。
「ようこそいらっしゃいました。水森様ですね。お連れ様は先にお待ちです」
弥彦さんがそつなく座敷席に案内する。
信子さんが下座で深く礼をして待っていた。
「本日はご招待いただき、おおきに」
いかにも京都の雅な女将姿に水森さんの方が面食らったような顔をしていた。
「あ、ああ。今日はわざわざ来てくれてありがとう」
信子さんの前にある透明な壁のようなものが水森さんを阻んでいるように見えたのか、しゃべり方がぎこちなくなっていた。
頭を上げた信子さんに、水森さんが笑いかける。信子さんが笑い返すと水森さんがさらに笑顔を咲かせた。さっきまでの押しの強いビジネスマンの顔から、学生時代の屈託のない顔に戻っていた。
信子さんの方がまだ緊張しているようだった。
調理場で盛り付けの手伝いをしながら、私はそんなふたりの姿をどきどきしながら見ていた。
「よそ見するな。あしらう木の芽の角度が違う」
「あ、すみません」
盛り付け終わった先付けを弥彦さんが運ぶ。
「俺が京都にいた頃は、この店は知らなかったな」
「隠れ家みたいなお店やさかい」
「よく、来るの?」
「ときどき。ひとりで来たり、うちの子たちを連れてきたり」
「うちの子って……子供?」
「ふふふ。まさか。水森さんも見たでしょ。うちで面倒見ている芸妓や舞妓です」
「あ、ああ。はは。そうなんだ」
表面上は穏やかな会話だが、やはりぎこちない。
「不思議なものやね。舞妓だった私とジーンズ姿の水森さんが、こんなふうになるんやから」
「あのさ!」と、水森さんが大きな声を出した。「その『水森さん』っていうの、いまだけやめてくれないか。堅苦しいのは本当は苦手なんだ。知ってるだろ? 昔みたいに呼び合えないかな。……のぶちゃん」
ネクタイを少し乱暴に外した水森さんがそう言うと、信子さんが苦笑した。
「ほんま、変わらへんなぁ、ひでちゃんは」
水森さんがうれしそうに笑った。目尻に光るものが見えた。
先付けに箸をつけ、お酒を注ぎ交わす。
しばらく、近況を話していたが、ふとした拍子で水森さんが核心に触れた。
「まさかこんなふうにのぶちゃんにお酌をしてもらうことになるとはなあ。本当ならお店じゃなくて家で毎晩、こんなふうにしてもらえたはずだったのに」
思わず盛り付けていた手が止まる。信子さんの肩が緊張していた。
「ひでちゃんもすっかり東京の言葉になってしもたね」
水森さんがおちょこを置いた。
「十五年前のあの日、何で来てくれなかったんだ。連絡もなかった。俺と一緒に行くことがそんなにも嫌だったのか」
静かな声ながら、水森さんは堰を切ったようにたたみかけた。



