説得がうまくいかないとなると、信子さんたちは過激な手段に訴えることにした。
「駆け落ち、ですか」
「ふふ。それこそいまの時代に合わん言葉かもしれんね。でも、私たちは真剣やった。もう京都になんて二度と帰るもんかって。高校の卒業の日に決行することにした」
「すごいですね」それだけ、互いに真剣だったのだな。
「待ち合わせ場所は、河原町にあった鴨川の川床料理の有名な店にしたわ。そこで京都での最後の晩餐としゃれ込もうって。水森さん、そういうしゃれっ気のある人なんよ」
「素敵な方だったんですね」
「ええ。ずいぶん背伸びしてふたりで予約したわ」
鴨川の川床料理の店の中でもトップクラスの店で、ハモや京野菜をたくさん使った料理が自慢。雰囲気的に高校生カップルが行く店ではなかったそうだ。
「当然、いいお値段ですよね」
「ええ。でも、彼が、親たちの言うことを聞いて静かにしてる振りをしてバイトに精を出してお金を貯めたん。私もお座敷のおひねりをうまく誤魔化して工面してね」
「それで、どうだったんですか」
先を促すと、信子さんの顔が苦しげに歪んだ。
「それで、おしまい」
「え? 何かあったんですか」
「待ち合わせのお店に――私が行かへんかったんよ」
「そんな――」
「行こうとはしたんや。でも、親たちだけやなしに置屋やお茶屋さんの女将さんたちにも駆け落ちがバレてしまって、待ち合わせのお店に行けへんかった」
「………………」
「いいえ、それは言い訳やね。私はやっぱり行ったらあかんと思ったんよ」
「どうして……?」
「芸妓や舞妓の世界しか知らん自分が、彼の未来を支えてあげられる自信がなかったんよ。……なんて、これも言い訳めいてるなぁ」
言葉がうまく見つからない。間接照明がとても暗く感じられた。
「水森さんはどうしたんですか?」
お茶のおかわりを淹れながら先を促した。
「待ち合わせの店について、私は親にも女将さんにも教えへんかったから、水森さんが捕まったりはせえへんかったと思う。現に彼はそのまま家に帰らんかった」
「帰らなかった……?」
「その日、私たちは駆け落ちして東京に行くつもりやったの」
「じゃあ、水森さんはおひとりで?」
「先日、本人がその約束通り東京に行ったって言うてたから」
信子さんが肩を落としていた。
「水森さん、信子さんに会いに来たんですか」
信子さんが自嘲するような顔になった。
「まさか。私はどんな理由があっても駆け落ちの約束を反故にした女やで? それにいま会いに来る特別の理由はあらへん。つまり、たまたま」
「………………」
四日前、偶然、自分のところの芸妓たちを迎えに行ったときに、お茶屋の客たちの中に水森さんを発見したのだという。
着ているものも髪型も、昔とはまるで違う。しかし、目や口元はかつてのまま。
向こうも信子さんにすぐに気づいた。
「不思議やね。十五年間、まったく会ったこともないのに、見た瞬間に分かってしまうんやから」
「何で、二度と来ないと思っていた京都に、その男は来たんだ?」
不意に拓哉さんが疑問を口にした。信子さんがまた、ため息をついた。
「彼は東京で無我夢中で働いたそうやで。会社を興し、お金もえらい稼いだ。だからといって京都に戻りたいと思ったわけやなく、仕事上の付き合いで京都に来ただけやと言ってはりました」
「何で今日、うちの店で食事をすることになった?」
話の通りなら、信子さんは水森さんとたまたま再会した翌日の夜、『なるかみや』に予約を入れに来た計算になる。
信子さんがため息を重ね、額に手をやった。
「今さら何があるわけでもないし、現に何もなかったんやけど。一回だけ、お互いの気持ちにケリをつけよう、みたいな話になってしもて、食事の約束をしてしまったんです。おごるからって言われて。昔っから強引やったなぁ」
もう二度と京都に来たくないという水森さんの気持ちは多分本当だったのだろう。自分たちの将来を邪魔し、しかも信子さんは駆け落ちの場所に来なかった。思い出したくもない場所のはずだ。
しかし、もう一方で信子さんへの気持ちはどうなのだろう。
駆け落ちの場所に来なかったことへの怒りや憎しみはあるだろうが、それは愛情と両立していないと言い切れるのだろうか。当時も、そして現在も。完全に嫌いになった相手となら、わざわざいまになって食事の約束をするとは思えない。
多分、そのことは祇園で客商売をやって来た信子さんだって分かっているはずだ。
信子さん自身、自分の気持ちを持て余しているように見える。
飲食店の従業員としてはお客様の独り言として聞き流すのも礼儀かもしれないが、信子さんは私を「お友達」と言ってくれたのだ。力になりたい。
「分かった」
頷いた拓哉さんが和紙と筆を取り出し、今日の席のお品書きをまとめ始めた。
「駆け落ち、ですか」
「ふふ。それこそいまの時代に合わん言葉かもしれんね。でも、私たちは真剣やった。もう京都になんて二度と帰るもんかって。高校の卒業の日に決行することにした」
「すごいですね」それだけ、互いに真剣だったのだな。
「待ち合わせ場所は、河原町にあった鴨川の川床料理の有名な店にしたわ。そこで京都での最後の晩餐としゃれ込もうって。水森さん、そういうしゃれっ気のある人なんよ」
「素敵な方だったんですね」
「ええ。ずいぶん背伸びしてふたりで予約したわ」
鴨川の川床料理の店の中でもトップクラスの店で、ハモや京野菜をたくさん使った料理が自慢。雰囲気的に高校生カップルが行く店ではなかったそうだ。
「当然、いいお値段ですよね」
「ええ。でも、彼が、親たちの言うことを聞いて静かにしてる振りをしてバイトに精を出してお金を貯めたん。私もお座敷のおひねりをうまく誤魔化して工面してね」
「それで、どうだったんですか」
先を促すと、信子さんの顔が苦しげに歪んだ。
「それで、おしまい」
「え? 何かあったんですか」
「待ち合わせのお店に――私が行かへんかったんよ」
「そんな――」
「行こうとはしたんや。でも、親たちだけやなしに置屋やお茶屋さんの女将さんたちにも駆け落ちがバレてしまって、待ち合わせのお店に行けへんかった」
「………………」
「いいえ、それは言い訳やね。私はやっぱり行ったらあかんと思ったんよ」
「どうして……?」
「芸妓や舞妓の世界しか知らん自分が、彼の未来を支えてあげられる自信がなかったんよ。……なんて、これも言い訳めいてるなぁ」
言葉がうまく見つからない。間接照明がとても暗く感じられた。
「水森さんはどうしたんですか?」
お茶のおかわりを淹れながら先を促した。
「待ち合わせの店について、私は親にも女将さんにも教えへんかったから、水森さんが捕まったりはせえへんかったと思う。現に彼はそのまま家に帰らんかった」
「帰らなかった……?」
「その日、私たちは駆け落ちして東京に行くつもりやったの」
「じゃあ、水森さんはおひとりで?」
「先日、本人がその約束通り東京に行ったって言うてたから」
信子さんが肩を落としていた。
「水森さん、信子さんに会いに来たんですか」
信子さんが自嘲するような顔になった。
「まさか。私はどんな理由があっても駆け落ちの約束を反故にした女やで? それにいま会いに来る特別の理由はあらへん。つまり、たまたま」
「………………」
四日前、偶然、自分のところの芸妓たちを迎えに行ったときに、お茶屋の客たちの中に水森さんを発見したのだという。
着ているものも髪型も、昔とはまるで違う。しかし、目や口元はかつてのまま。
向こうも信子さんにすぐに気づいた。
「不思議やね。十五年間、まったく会ったこともないのに、見た瞬間に分かってしまうんやから」
「何で、二度と来ないと思っていた京都に、その男は来たんだ?」
不意に拓哉さんが疑問を口にした。信子さんがまた、ため息をついた。
「彼は東京で無我夢中で働いたそうやで。会社を興し、お金もえらい稼いだ。だからといって京都に戻りたいと思ったわけやなく、仕事上の付き合いで京都に来ただけやと言ってはりました」
「何で今日、うちの店で食事をすることになった?」
話の通りなら、信子さんは水森さんとたまたま再会した翌日の夜、『なるかみや』に予約を入れに来た計算になる。
信子さんがため息を重ね、額に手をやった。
「今さら何があるわけでもないし、現に何もなかったんやけど。一回だけ、お互いの気持ちにケリをつけよう、みたいな話になってしもて、食事の約束をしてしまったんです。おごるからって言われて。昔っから強引やったなぁ」
もう二度と京都に来たくないという水森さんの気持ちは多分本当だったのだろう。自分たちの将来を邪魔し、しかも信子さんは駆け落ちの場所に来なかった。思い出したくもない場所のはずだ。
しかし、もう一方で信子さんへの気持ちはどうなのだろう。
駆け落ちの場所に来なかったことへの怒りや憎しみはあるだろうが、それは愛情と両立していないと言い切れるのだろうか。当時も、そして現在も。完全に嫌いになった相手となら、わざわざいまになって食事の約束をするとは思えない。
多分、そのことは祇園で客商売をやって来た信子さんだって分かっているはずだ。
信子さん自身、自分の気持ちを持て余しているように見える。
飲食店の従業員としてはお客様の独り言として聞き流すのも礼儀かもしれないが、信子さんは私を「お友達」と言ってくれたのだ。力になりたい。
「分かった」
頷いた拓哉さんが和紙と筆を取り出し、今日の席のお品書きをまとめ始めた。



