京都祇園 神さま双子のおばんざい処

 信子さんの予約の日、私は入念に座敷席の掃除をしていた。掃き掃除も拭き掃除も、まるで塗り込めるようにした。

 信子さんと、信子さんのかつての婚約者の方が来る。

 予約のときの信子さんの顔は、夜の暗さの中でもそれと分かるほどにとても複雑な表情をしていた。その表情を思い出すと私の方が緊張してしまって、とにかく何かしないではいられなかったのだった。

 私の腕ではまだ、下ごしらえはできても実際の調理は許されていない。その代わりの環境整備だった。

 時間を確認する。予約の時間まであと一時間あった。

「ごめんください」

 たおやかな女性の声がした。信子さんだ。

「いらっしゃいませ、夢桜さん。早いですね」

 と、弥彦さんが出迎える。

「ふふ。年甲斐もなくどきどきして、いても立ってもいられへんで。まるで生娘みたいで自分でも呆れてしまいます」

 そう言っても外見はいつも通りに、きれいな和服姿のしっとりした京美人。かつての婚約者に会うなんて、私だったら絶対緊張する。力む。意識しまくる。でも、信子さんはお化粧が濃くなったり、髪や着付けに乱れが出たりはまったくしていない。それだけで、同じ女としてとても素敵に思えた。

 その信子さんは手には大きめの風呂敷包みを持っている。

「これは?」

 私が尋ねると、信子さんがほっと肩の力を抜いた。

「こっちを着よかどうしよか迷って持ってきたんやけど、この格好にしとくわ。ちょっと預かっててもらえます?」

「着物だね。僕が預かるよ」

 と、弥彦さんが二階へ持っていった。

 拓哉さんが黙ってカウンターの向こうで支度をしている。

「さっきの、着物だったんですね。私、着物って持ったことなくて。結構重たいんですね」

 無理やりな話題だったが、信子さんは乗っかってくれた。

「そやろ? 慣れないと着物を着るだけでも重うて重うて」

 お茶目な感じに信子さんが軽く口をへの字にして見せた。それから急にため息をついた。

「信子さん?」

「ふふ。あかんね。いつも通りにしよ思っても、心のどこかで激しく反応してしまう。今日来る人、咲衣さんも気になるでしょ」

「お客様のプライベートには……」

「せやけど、お友達の話やったら、聞いてもええのんちゃう?」

「お友達だなんて。恐れ入ります」

「ふふ。人に話したところでどうなるもんでもないんやけど。少しおしゃべりに付き合ってもろてもええかしら」

 後半は着物を置いてきた弥彦さんに向けてのものだった。弥彦さんは、ごゆっくりと笑って座敷席の掃除の片付けを引き受けてくれた。

『なるかみや』は人生の悩みや迷いの中にある人に、一皿の料理を通じて光を指し示す場所。その光を見るかどうかは各人次第だけど、光のありかは教えてくれる。

 まさにいまの信子さんにはその光が必要なのだと思った。

 白木のカウンターにふたりで腰を下ろす。拓哉さんが目の前で仕事をしていたが、信子さんは気にするふうでもない。拓哉さんにも聞いてほしいのかもしれない。

 拓哉さんがお茶を淹れてくれた。信子さんがお茶をひと口飲んだ。

「今日来る人の名前は水(みず)森(もり)英(ひで)樹(き)さん。かつての婚約者やと言うたけど、別に結納をしたわけでもないし、ふたりで将来を誓い合っただけの幼なじみ」

 かつての恋人のことを、信子さんはそう説明した。

 信子さんと水森さんは昔からいつも一緒にいた。同い年のふたりはごく自然に引かれ合い、信子さんが舞妓の夢桜さんになる頃には恋人同士となっていた。

 しかし、ふたりの関係をそれぞれの家の両親たちが快く思わなかったのだそうだ。

「なぜ、ご両親は反対されたのですか」

「私の母親ももともと芸妓やったんよ。だから私もごく自然に舞妓を目指し、芸妓になるつもりやった。一方、水森さんの家は昔からの名家。家柄が合わへんゆうんが大きな理由やったみたい」

「いまどき、そんな理由が……」

 信子さんがさみしげな顔をした。

「そうやね。私もそう思うわ。でも、それだけやなかったんよ」

「他にも何かあったんですか」

「母は芸妓になって何年かして、お座敷で父に見初められて結婚した。つまり、父が旦那になって身受けされたん。これは昔ながらの芸妓の在り方で、母は私もそうした方が幸せになるやろうと思ってた」

「結婚相手って、自分では選べないってことですか」

 冷めたお茶が苦い。

「いまはだいぶ事情が違ってるから、芸妓も自分で結婚相手を選んでるけど、伝統的には母のようなケースが普通やったの。そして母は芸妓の伝統的な結婚をすることができたことを、芸妓として誇りに思ってた」

 親たちの反対に遭った信子さんと水森さんは、最初は説得を試みたがまだ子供のふたりの言うことが大人たちの耳に届くわけもなく……。