京都祇園 神さま双子のおばんざい処

 次の日から私の修行は本格的に始まった。

 修行の第一歩は掃除から。箒で店先を掃いていると、祇園を行き交う人たちから、「がんばってね」とか、「あんたがそうなんだ」とか、たくさん声をかけてもらった。ありがたいことだが、朝の挨拶にしては少し変わっている。

 野菜の仕入れ業者である吾(あが)妻(つま)静枝さんも、私の顔を見るなり、「もう評判だね。がんばってね」と声をかけてきた。

「あの、評判って……?」

「ああ、弥彦さんの荷物持ちをしたでしょ? 『なるかみや』に住み込みで修行に来た子がいるって、もうこの辺りでは有名人よ」

「ええっ!?」

「拓哉さんと弥彦さんが認めたなら応援しようって」

「はあ……」

「私も夫を亡くして自分で商売始めるときに、同じようなことをしてもらったことがあるのよ。おかげでだいぶ助かったわ」

「吾妻さんもですか」

「静枝でいいわよ。ま、そういうわけだから、がんばってね。じゃあ、毎度」

 威勢のいい笑顔を残して静枝さんが出ていった。どうやらあの荷物持ちには思わぬ功徳があったようだ。さすが双子の神さまたちということなのだろう。

「静枝さんのときにもそんなことがあったな」と、いつのまにか調理場に降りてきた拓哉さんが、大根の皮をむきながら呟いていた。気配がしなかったのでちょっと驚いたが顔には出さない。

 納品された野菜を片付けていたら、スマートフォンに着信が来た。

「早苗だ」

 相手は岩田早苗。昨日の面接の評価を私に〝翻訳〟してくれた友達だ。

 拓哉さんに断って、店の裏へ出て電話に出た。

「はい、もしもし」

『ああ、咲衣。無事東京に戻ったの?』

「まだ京都なんだよ。実はさ、あのあとひどい目に遭ってさ――」

 そばの皐月(さつき)が花をつけていた。

 早苗と私の関係は幼馴染みで旧友で悪友で腐れ縁で大親友といえば、だいたい説明がつく。「さなえ」と「さえ」で名前が似ているから、親同士も面白がって引き合わせた節がある。

 しかし、親同士が引き合わせなくても、私は早苗と友達になっていたと思う。

 もう二十年くらいの付き合いになるから、ほとんど身内の感覚だ。短大を卒業するまでは、親と口をきかない日はあっても早苗と会話しない日はなかったくらい。

 短大卒業後、早苗は上場企業に就職が決まっていたのに、いきなり内定を蹴っ飛ばし、高校時代から付き合っていた彼と結婚して京都に引っ越した。そのせいでなかなか会えなくなってしまって、実は少し、いや、割とさみしい。

 しかし、早苗は早苗で幸せにやっているみたい。

 結婚してすぐに赤ちゃんを授かった。目元が早苗にそっくりなかわいい男の子を出産して、いまでは立派なお母さん。

 ちなみに男の子の名前は誠(まこと)くん。早苗がつけた。来年、幼稚園だと言っていた。

 電話の向こうで、その誠くんの声が聞こえる。かわいい。

『まこちゃん、絵本何冊も出さない! ……ごめん、何の目に遭ったって?』

 早苗がちょっと電話を離して誠くんを注意していた。お母さんしてるなあ。

「――早苗と話してると、何かもう、どうでもよくなってくるよね」

『失礼なこと言わないで』

「実は、あのあと八坂神社お参りして祇園を散策してたら、お財布落としちゃってさ。黄色い長財布」

 私は、財布を落として途方に暮れたこと、『なるかみや』に出合ったこと、拓哉さんと弥彦さんという双子のイケメンのことを話した。

 早苗と話しているだけでとてもほっとする。拓哉さんに話した、東京までの交通費を借りようとしていた相手は早苗。でも、さすがに気が引けて電話をかけそびれているうちに向こうからかかってきてしまったのだが、ほんと、声を聞くだけで安心できる。

 ところが早苗は妙な反応をした。

『ああ……咲衣、その話は本当なのね?』

 私の話を聞いた早苗がなぜか絶句していた。

「早苗でも同情してくれるでしょ」

『ごめん、ちょっと風邪気味で。鼻噛ませて』

 鼻を啜る音が聞こえる。

「いろいろ台無しにしてくれるよね、あんた」

『――はあ、ごめんごめん。本当にお財布を祇園で落としちゃったの?』

「八坂神社でかもしれないけどね。何よ。こんなことで嘘ついてもしょうがないじゃない。嘘つきは早苗の専門でしょ」

『心外! 私はいつだって正直な心で生きてきたわよ』

「早苗のやりたいことに正直なだけなんじゃないの? 短大の頃に本当は休講の第二外国語の授業を『予定通りにやるよ』って言ったり、高校時代には期末テストの試験範囲を本来の倍の範囲で教えたり」

『あははは。でも、試験範囲を外して教えるような悪意ある行動は取ってない』

 電話の向こうで誠くんが「あははは」と笑う声がした。お母さんの真似かな。かわいい。

「あと、あれ。高校時代に恋のおまじないも嘘教えた」

『あれは……悪かった』

「まあ、あんたの嘘つき体質はいまに始まったことじゃないし。……それにしても大丈夫? さっきから何度も鼻を啜っているみたいだけど」

『うん、大丈夫』

「声もちょっと変だけど」

『ごめん、昨日、まこちゃんが遅くまで起きてて、おかげで眠くてあくびが』

「親友と話しててあくびするかな!?」

 電話越しに早苗の様子がおかしいなと気になったのに、これだ。

 しかし、私はこのとき、もっともっと早苗のことを気遣ってあげるべきだったのだ。

 何しろ早苗は、〝嘘つき〟なのだから。

『はい、反省しました。もう大丈夫です』

「反省、嘘でしょ」

『あはは』

「かけてもらった電話でこんなこと話すのは私も反省しなきゃなんだけどさ、たとえば東京までの新幹線代を一日だけ借りることできないかな。実家に帰ってすぐ振り込むから」

 そう言った途端、早苗がものすごく嫌そうな声になった。

『それはー……』

 まるで双六のゴール直前で「振り出しに戻る」に止まったような声だった。

「何よ、その声」

『お金を貸すのが嫌って訳じゃないのよ?→。 ただ、さっきの咲衣の話だと、すごくいいお店を見つけてそこで勉強させてもらえることになったんでしょ? 東京に戻るのもったいなくない?』

「まあね」

 圧倒的な実力差だけど、それ故にいまは一日たりとも学ばずにはおくものかと思っていた。さすが親友。私の性格をよく見抜いていらっしゃる。

『それにいざ財布が見つかったときに、京都までまた取りに来るの?』

「それなんだよねぇ……。海外ならいっそ諦めもつくんだけど」

『でも、お金も何もないのは不安だよね。ねえ、今夜ってまだそのお店の予約、大丈夫かな?』

「多分大丈夫だと思うけど、どうして?」

『空いてたら、私たち家族三人で今夜食べに行くよ。そのとき、しばらくの滞在費用を貸してあげる』

 だから、料理修行に専念しなさい――。

 持つべきものは友だった。