「ということがありまして、私はあの会社をクビになったんです」
そう言って、ことの経緯を粟根に話し終えたリナは恥ずかしさで顔を下に向けた。
「くく、このハゲですか!傑作ですね!」
粟根が腹をを押さえて、苦しそうにひーひー声を上げて笑っているのを、リナはじろりと睨む。
「笑い事じゃありませんよ! そのせいでクビになったんですから!」
「別にいいじゃないですか、そんな会社。クビにしてくれてラッキーですよ」
「でも、その女の子も、結局働きにくくなって辞めたと聞きました……。私がやったことは無駄だったんですよ」
リナはそう言って、深いため息とともにうなだれた。
先ほどまで声を上げて笑っていた粟根はようやく落ち着いたのか、顔を上げてリナのほうを見た。
「ほう、それはよかったじゃないですか。あなたのおかげで、その女性も辞めるべき会社だとわかったんですよ」
そう言われると、そうかもしれないという気持ちもある。
しかしなかなかリナの表情は晴れない。
「私、あのあとからずっと気になっているんです。なにか引っかかるというか。もしかしたら私は自分の言動を、後悔しているのかもしれません。ずっともやもやした気持ちが消えないのは、馬鹿正直に正義感を振りかざして、結果クビにされて、あのまま見て見ぬふりをしたほうが賢かったって思っているのかもしれない。そう思うと、自分が嫌いになりそうで……」
なんて言葉にすればいいのかわからない。リナは自分のなかで葛藤していた。
見て見ぬふりをするほかの同僚に対しても怒っていたはずなのに、自分の性根の汚さに失望しそうだった。
言葉を止めてリナが俯くと、心療室に静寂が訪れる。しんと静まり返る心療室で、粟根は真摯な眼差しでリナを見つめていた。
先ほどゲラゲラと笑っていた顔とは違う、真剣な表情を浮かべている。
「そのときのあなたは、きちんと後悔しない選択をしています。人は、行動にうつした後悔よりも、うつせなかったときの後悔のほうが強いものです。もしあのとき、あたなが見て見ぬふりを続けていれば、もっと後悔することになったでしょう」
「行動にうつせなかったときの後悔……」
「そう。リナさんは別にあのときやったことを後悔しているわけではありません。後悔する気持ちがあったとすれば、もっと早く彼女のために行動を起こしていればよかったということではないですか?」
粟根はにやりと笑ってそう言った。
すべてを見透かしているかのような粟根の笑みに、思わず反発したくなったリナだったが、先ほどの粟根の言葉がリナのなかにストンと落ちてきてしまった。
そうだったと、リナはあのときのことを改めて思い出す。
あのとき、見て見ぬふりをしてしまった自分自身に対してリナはひどく後悔していた。
それなのに、そのあと周りから非常識だと責められ、追い出されるようにして会社をクビになり、あのときの悔いた気持ちが中途半端な状態で宙に浮いてしまっていたのだ。
そして自分がなにに後悔していたのか、わからなくなっていた。
でも、思い出した。
あのまま見て見ぬふりをすればよかったなんてことで後悔をしていたわけじゃない。
そう思うと、心のなかにじんわりと温かいものが広がっていく感覚がした。
「そう、そうでした。私、あのときの言動を後悔してるわけじゃなかったんです」
リナは、胸の前に手を置いて、噛みしめるようにそう言った。
自分ですらわからなかった気持ちの迷路に出口が見えて、リナの瞳にはうっすらと涙が滲にじむ。
リナは、やわらかい笑みを浮かべてぺこりと頭を下げた。
「なんだか話を聞いてもらって、本当にすっきりしました。別になにも解決したわけではないんですけど、自分の気持ちがわかって、ほっとしたっていうか。あの、もしかして、粟根さんも、人の心が読めるあやかしなんですか?」
リナがそう言うと、粟根は一瞬目を丸くして驚いたような顔をしたが、すぐにおもしろそうに片方の口の端を吊りあげてクスリと笑う。
「まさか。だったら、リナさんを雇おうと思うわけないじゃないですか」
「まあそうなんですけど……。でも私、自分のこのもやもやした気持ちがわからなかったんですよ? それなのに、粟根さんはすぐに気付いてましたし」
「誰もが自分の本当の気持ちを自覚してるわけではありません。自覚してないからこそ、悩むんですよ。私たちの仕事はその心の迷路に出口をつくってあげること」
粟根はそう言った。
はじめは辞めたら罰金一億円とか、そのやり口に詐欺師ではないかと疑ったが、この人はそんなに悪い人ではないのかもしれない。
リナがそう思い始めたころ、粟根がしめたと言うような笑みを浮かべた。
そして、すばやく手元のクリアファイルから契約書を取り出し、生き生きと説明をはじめる。
「それでは労働条件の説明に戻りますけど、休みは週に二日ありまして」
「いえいえ、だからちょっと待ってくださいって!」
先ほどまでのいい雰囲気をぶち壊す粟根に、リナは勢いよく突っ込みを入れた。
「え?なんです?」
「そもそも私まだ働くとは言ってないですよ! いえ、先ほどの話で素敵な仕事だなと思いましたけれど、やっぱりあやかし相手となると、なんていうか、その、覚悟がいるというか」
「え?人間がいる職場も嫌で、あやかしのいる職場も嫌ってことですか? 困った人ですねぇ」
非難するような視線がリナに刺さる。
まるで、『正義感しかないプー太郎のくせに』とでも言いたそうな目だ。
「だって私はその、今まであやかしとか妖怪になんて会ったことないんですよ⁉ そりゃ、サトリの能力はありますけど……」
「今更なにを言っているんです? 今目の前にいるじゃないですか。私も半妖ですよ。はい、これで問題解決ですね。それに、契約書にはサインをもらっているので、働いてもらうのはもう決定ですし、半年はいてもらいますよ。そうじゃないと罰金ありますから。見ました?」
そう言って、小馬鹿にするような目で粟根がリナを見る。
「それは見ましたけど! そんなの法律が許すわけないじゃないですか! 無効です!」
「はは、ここは人間社会とはちょっと違いますからね。意外とまかり通りますよ。それに、リナさん本当は乗り気でしょう? 行動に移した後悔よりも移さなかったときのほうが後悔するんですよ?」
そう勝ち誇ったような顔で、粟根はリナに向かって言ったのだった。