リナが頭を抱えていると、先ほどの白衣の男がふたつのカップを片手で持って、リナの対面の席に座った。

「それでは、早速ですが、明日から出勤してもらっていいですか? 時間は契約書にも書きましたが、基本十時から十九時までの出勤です。ですが、場合によっては残業も」

「いえいえ、ちょっと、ちょっと待ってください! 私、ここで働くなんて言ってませんから!」
 リナが働くのを前提に話をし始めた粟根を、リナは身を乗り出して止めた。

 すると、粟根が怪け訝げんそうに首を傾げる。

「しかし今、あなたは無職でしょう?」

 そう言った粟根の目は冷ややかで、心のなかでは『プー太郎のくせに』なんてことを思っていた。

「たしかに、今は、無職ですが! それでも働く場所を決める権利は私にあるはずです!」

 リナは力強く主張するが、粟根は呆れたように笑った。

「サトリの力人の心を読む力を持っていたら、人間社会ではなかなか生きづらいでしょう。特に会社など組織のひとりとして働くとなれば、面倒な人間関係が付きまとう。次の職場で、以前のような問題を起こさないとは言い切れないのではないでしょうか」

 そう言われてリナは驚きで息を飲んだ。彼はリナが前の職場で問題を起こしてしまったことを知っているのだ。

 おそらく父がリナのサトリの力のことと一緒に、前の職場を辞めたきっかけについても話したのだろう。

 そう思い至ると、リナは少しだけ唇を噛む。

 返す言葉がない。粟根の言うとおり、問題を起こさない自信などないし、今のリナは人間不信気味になっていた。

 今までも、基本的には人付き合いが苦手だった。
 心の声を聴いてつらい思いをしたことも、怒りを覚えることも何度もあった。
 人を信じられなくなっているのもたしかだ。

 それでも父のように裏表のない真っ直ぐな人が側にいたから、リナは失望せずに今まで生きてこれていたのだ。
 けれど。そんなリナの不安を見透かすように粟根は薄く笑った。

「しかし、その点この職場はあなたにぴったりです。なにせここは、『あやかし』専門の心理相談所なのですから」

 粟根はリナを真っ直ぐ見つめる。
 リナは少し揺らいだ。

 粟根の言うとおりだとしたら、今リナが感じているような、窮屈さを感じなくて済む職場なのかもしれない。

 しかし、そんなふうに少し揺らぎ始めている自分に気付いたリナははっとする。

 なにを迷っているのだと心のなかで叱咤し、これも新手の詐欺師の騙し方なのかもしれないと思い直す。
 父が騙されて、リナも騙されたらミイラ取りがミイラになるようなものだ。

「私は騙されませんから! だって、その、あやかし相手なんて、ありえないじゃないですか!」

 リナはそう声を荒げた。
 あやかしを相手にした商売など今まで聞いたことがない。
 リナにはたしかに、心を読めるという不思議な力はあるが、だからと言って幽霊や妖怪という類のものをすべて信じているわけではない。

 そもそもリナは、今まであやかしとかいうものに、会ったことはないのだ。

「リナさん自身が、そのあやかしの血で不思議な力を使えるというのに、あやかしを信じないとは困ったものですね。それに、私の内心を読めば、私が嘘を言っていないことはわかるでしょう?」
 リナはそう言われてむっつりと口を閉じる。たしかに、先ほどからこの男の心を読んではいるが、嘘は言っていない。

「たしかに、私は少し、人と接するのに疲れてきてる部分はありますけど、でも、そうだとしたらあなたのことは、どうですか?あなただって人間でしょう?」

 リナがそう尋ねると、粟根は飄々とした様子で、両手で両耳を覆い、そして手を離す。

 するとそこには、ふさふさの黒毛の狐のような耳があらわれた。

 リナはそのとんがったふさふさの狐耳を凝視する。

 たまにふるふると動く様子からそれが付け耳ではないとわかる。

「私は、化け狐の半妖です。半分人間で、半分妖怪。妖怪と人間の間に生まれた者のことです」
 粟根が静かにそう説明すると、リナがまじまじと見ている途中で、再びその大きな狐耳が人の耳へと変わった。

「嘘……」

 リナは、口を半開きにさせて呆然と呟いた。

 半分妖怪で半分人間だと言った男の言葉が、頭のなかでぐるぐる回っている。
 状況をうまく呑み込めない。しかし、先ほどこの男は人ならありえないものを耳に生やした。

 そして、心が読めるリナだからこそわかるが、彼は嘘をついていない。

 リナの想像を超えたことをやってのけた男は、なんてことないように余裕の笑みを浮かべている。

「嘘ではないですね。私も半分は人間ですが、半分はあやかし。そしてここはあやかし専門の心理相談所。今までのように、人付き合いで苦労することはないとお約束できます。あなたにとってはいい職場だと思いますが」
「それはそうかもしれないですけど、そもそもあやかし専門の心理相談所ってなにをするんですか?」
「言葉のとおりですよ。あやかしたちの悩みを聞くお仕事です。あなたは私の助手として、働いてもらいます。ここに来る患者の心の声を聴いてもらいたいんです。患者によっては、なかなか自分の思いをうまく口にすることができない方もおりますし、なにより心のなかでどう思っているのかがわかると私としてはすごく助かるんですよ。あなたの特技を生かせるいい仕事でしょう?」

 粟根にそう言われて、リナは納得してしまう。同時にここで働くというありえない選択肢が、少しだけ魅力的に見えてきた。リナは今までこのサトリの力にはうんざりさせられてきた。

 しかしそれが、なにかの役に立てるかもしれないというのは、リナの心を引き付ける。

 だが、ひとつ気になる点を挙げるとすれば。

「あの、あやかしってなにか悩んだりするんですか? どんな悩みを相談しに来るんですか?」

 リナは恐る恐るそう尋ねた。
 あやかしというものがどんなことで悩むのか想像がつかない。
 あやかしというのだから、人外だ。人を呪いたいとか、食べたいとかそういった恐ろしいことを相談されても、リナには対処のしようがない。

「あやかしの悩みはさまざまですが、でも、人間とそう変わりませんよ。例えば、今リナさんが抱えてる問題とか」

「私、ですか?」

「ええ、徹さんから聞きましたが、前職は相当嫌な形で会社を辞める羽目になったとか。それ以来ふさぎ込んでいると、徹さんが嘆いてました。よろしければ、その悩み、私が伺いましょう。話をするだけですっきりすることもありますよ」

 粟根にそう言われて、リナは視線を下げた。

 たしかに、前職のことをリナは引きずっている。だが、誰かに相談するにしても、サトリの力を知らない人には相談できない。
 でも、今この目の前の男は半分妖怪で、リナの事情も知っている。あのときのことを話すとなると、リナがやってしまったとある行いについても言わなければならないので少々恥ずかしい気もするが、聞いてもらいたいという気持ちのほうが強い。

 リナが前に視線を戻すと、粟根が静かにリナが話し出すのを待っていた。彼の心の声は穏やかで静かだ。リナは思い切って口を開いた。