自宅から車で一時間ほどの場所。

 こんな山があっただろうかとリナは途方に暮れていた。
 カーナビに目的地の住所を入れて案内に沿って車で向かっていたが、どんどん人里から離れていき、途中からは舗装されてない道路をなんとか進んでここまで来た。

 しかしその砂利道もここまでだ。周りを見渡しても、鬱うっ蒼そうと生い茂る草木しか目に入らない。

 カーナビが示す場所に行くためには、目の前にある人ひとり通れるぐらいの小さな山道を徒歩で進むしか方法がないらしい。
 うんざりと頭を垂れるリナだったが、せっかくここまで来て引き返すのは癪に障る。

 リナは覚悟を決めると、車から降りて勢いよくドアを閉めた。ここからは徒歩だ。

 そうして勢いよくその山道を歩き出したが、少しして再び後悔し始めた。

 土がぬかるんで足がとられ、一歩一歩が重く感じる。まさか登山をする羽目になるとは思わず、リナの今の格好は白いシャツにカーキ色のワイドパンツ、赤のパンプスという恰好である。

 パンプスのヒールは低いが、それでもかなり歩きづらかった。

 しかも、周りは木々だらけで単調な景色が続くため、どんなに進んでも一向に目的地に近づいている気がしない。

 そのことがリナを一層疲れさせる。

「本当に、こ、こんなところに、そのあやかし専門の相談所っていうのがあるの?」

 リナが、汗ばんだ額を手でぬぐいながらそう口に出した。

 しかし、ひとりでやってきたためその声に応える者はいない。

 あまり運動が得意ではないリナにとって、緩やかな坂だとはいっても山登りというのは重労働だ。
 しかも、初夏の日差しが容赦なく降り注いでおり、それだけで体力を奪われる。

 直接乗り込もうとしたのは間違いだったかもしれない、郵送で済ませておけばよかったと、何度か思ったところで、カバンにしっかりと入れていたはずの契約書がふわりと風に舞って飛んでいく。

「へっ!?なんで!?」
 と、声を上げながらも飛んでいく契約書を必死で追いかける。

 これから詐欺師にこの意味不明な労働契約書を突き返して文句を言ってやろうとしていたので、なくすわけにはいかない。

 パタパタと飛んでいく紙を小走りで追いかけていると、突然ひらりと地面に落ちた。

 そこまで風も吹いていないはずなのに、よくもここまで飛べたものだとリナは不思義に思いながら、その契約書を拾った。

 こんなに歩いたのは久しぶりだと不満げに顔を上げたところで、いつの間にか蔦つたに覆われた木造りの建物の前に着いていることにリナは気付いた。

 建物の二階の部分にある両開きの窓が少し開いていて、白いレースのカーテンがなかではためいている。
 その窓の下には、少し錆さびついた小汚い横長の看板が飾られており、そこに、【粟根あやかし心理相談所】と書かれていた。

「ここって……」

 看板を見つけて思わず立ち止まってまじまじとその建物を眺める。

 正直に言うと、ぼろい。
 そして、なんだか古めかしい。

 建物の壁には、【あやかし、妖怪、神仏、なんでもござい!】の手書き文字とともに、河童やお化けのようなイラストが描かれたポスターが貼られている。

 しかもその文字もイラストも子供が書いたようなもので、手づくり感が凄まじい。
 ほかにも、ポスターがいたるところに貼られていて、そのどれもに、妖怪やあやかしのイラストが落書きのように描かれていた。

 父から聞いた話だと、粟根という人物はあやかし専門のカウンセラーを名乗っているとのことだったが、リナはここに来るまで信じてなかった。

 人のよさそうな父を懐柔するために適当についた嘘なのだろうと決めつけて乗り込んできたのだ。

 しかしこの味のありすぎるポスターが貼られた田舎臭い家屋を見て、詐欺師が本当にいるのだろうかと疑問が浮かぶ。
 もしかしたら本気であやかしを専門にしているカウンセラーだと思い込んでいる危ない人なのかもしれない。
 ある意味詐欺師よりも危険だと、リナは少しばかり震えた。

 しかし、ここでおめおめと逃げ帰ることなどリナには到底できそうにない。

 自分を奮い立たせると、リナは思い切って扉を開けた。
 チリンチリンと扉についたベルが軽快な音を鳴らす。そして扉の向こうの内装を見て、リナは少しばかり目を見張った。

 見た目は山小屋みたいな建物だったが、なかはそれほどひどくはない。

 木造の内装はたしかに、古めかしいが清潔だった。
 しかも意外と広い。奥に受付と書かれたカウンターがあったが、人はいない。玄関のところには傘置きと下駄箱。
 部屋の真ん中に、背もたれのない長椅子が二脚と、雑誌が差し込まれたラック、ほかにも大きな観葉植物の鉢植えが端に二鉢置かれている。

 とりあえずリナは玄関にあったスリッパに履き替える。

 外は虫の音やら風に揺らめく木々の音で騒々しかったが、この建物のなかはしんと静まり返っていた。
 靴を脱ぐ自分が出した音にさえ響くほどだ。

「誰か、いますか?」

 リナがそう恐る恐る尋ね、スリッパをパタパタと鳴らして進む。

 受付には、受付表と書かれた用紙とボールペンが雑に置かれていた。

 その表に書かれた名前を見ると……。

「恐山の天狗に、小豆洗いの権兵衛? それに大江山の酒呑童子? まさか、これって……」

 書かれている名前はどこかで聞いたことがある妖怪の類だった。

 特に大江山の酒呑童子という鬼が退治されるという昔話があったはずだと思い出して、眉根を寄せた。

 今更ながら、自分はまた変な正義感で、面倒事に首を突っ込んでしまったのではないかと後悔する。
 リナが唾をごくりと飲み込むと、カウンターの横にある扉がカチャリと音を立てて開いた。

 思わずヒッと情けない声を出してリナが扉に目を向けると、その扉の向こうから、二十代後半ぐらいの長身の男性が現れた。

 先ほどまで感じていた不気味さを忘れて、紺色の作務衣に白衣を着た男にリナは思わず目を奪われた。
 それほどまでに彼の容姿は整っていた。

 少し長めの黒い髪に、きりっとした眉。
 鼻筋はすっと通っており、シャープな輪郭に涼しげな目元が少し冷たい印象を受ける。
 和の雰囲気が漂う作務衣が、恐ろしいほど似合っている。
 男の人を表現するのには適切じゃないかもしれないが、天女のような浮世離れした美しさを彼から感じた。

「佐藤リナさんですか? 昨日の今日で、来てくれるとは嬉しいですね。私が粟根です、粟根仁。お父様からお話は聞いてくれましたか?」

 涼しげな目元を少し細めて粟根と名乗った美しい男は言った。