そこまでの流れを、石像のように固まって見入っていた吾郎だったが、目玉だけを動かして、リナと粟根を見た。

 リナは目を細めて祝福するような笑顔を吾郎に送っていた。

 粟根は、やっぱり言ったとおりでしょう、とでも言いたげに口元を緩めている。

「ねえ、ちょっと、なんなのよ!?この扇も勝手に動くし」

 と自分だけが状況をわかっていないということが不満なのか、床に落とした羽根扇にただ目線を落とす。

 吾郎は、震える唇を舌で舐めて濡らすと、

「光子ーーー!」

 と、雷よりも大きな声で唐突に妻の名を呼んだ。

「な、なんだい、アンタ、そんないきなり大きな声出して」
 と、わけがわからないと言いたげに眉を寄せて目を見開いた光子は、少々身をのけ反らせた。

 戸惑う光子に吾郎はガシッと肩を掴む。

「お前、子供がいるぞ! お前のお腹に俺たちの子供がいる!」

「はあ? なに言ってるのよ。そんなはずないじゃない。子供なんてとっくに諦めて」

 と渋い顔をする光子に、吾郎は笑顔で床に落ちた扇を拾いあげて顔の前に持っていった。

「だって、ほら、この扇、動いたぞ!」
「扇が動いたからなんだっていうのよ」
 興奮したように頬を紅潮させて息遣いも荒くなった吾郎に、戸惑う光子。

 しかし、吾郎は光子の疑問に答える余裕もないようで「子供だ」とかすれた声で呟いては、泣き笑いの表情で頭を抱え、「おでと光子のー!」と、大おお仰ぎょうに両手を掲げて振り仰いだ。

 夫婦なのにふたりはまったく噛み合っていないようだ。
 見かねたリナは思わず口を挟む。

「光子さん、その羽根扇、妊娠している女性が持つと風もないのに羽根が動くんですよ! それに、私が光子さんの心の声を読んだとき、雑音を聴いたんです! たぶん、あれはお腹の子の声です!」

 リナがそう説明すると、光子の顔が驚きで赤く染まっていく。

 目を見開き、半開きの口で浅く呼吸をすると、恐る恐る光子は自分のお腹に目線を落とした。

「た、たしかに、最近月のものがきてない!」

 そう言って、光子はゆっくりとお腹に手を伸ばす。

 そんな光子を見て、粟根が口を開いた。

「妊娠の初期には、イライラしたり、頭痛がひどくなったり、体の変化が出てきます。この時期に喧嘩されるご夫婦は結構多いんですよ」
「それじゃあ、最近アタシが、妙にイライラしちゃうのは」
「そういうことですね」
「ああ、なんてことだい!? アンタ!アタシたちに赤ちゃんができたよ! アタシたちの赤ちゃんだ!」
 光子は、興奮で上擦ったような声でそう言って、先ほどから隣で天に向かって感謝の祈りを捧げている吾郎の腕をバンバンと叩いた。
 吾郎が光子に叩かれるまま横に大きく揺れるが、吾郎は涙を流して幸せそうな顔で受け入れて、優しく光子の手を取った。

 見つめ合うふたりは、目に涙をためて赤い顔をさらに真っ赤にさせていた。

 吾郎はしばらく光子を見つめたあと、悔しそうに唇を噛むと情けなく眉を下げた。

「馬鹿だ、おでは! 光子は子供を授かって大変だってときに、勝手に光子はもうおでのこと好きじゃねぇんじゃって思い込んでよ!」

 光子から顔を逸らして、吾郎が吐き捨てるようにそう言った。

 そして大きく鼻をすすると、吾郎は再び唇を歪ませて口を開いた。

「ちょっとデベソのことを言われたからって、雷鳴らすなんて! 本当は、光子が本気でおでのデベソのこと悪く言うわけないってわかってたんだ! 悪いのは全部自分に自信がないおでのほうじゃねぇか!」

 吾郎は嗚咽を交えながらそう言うと、光子から少し距離をとってソファの上で正座になり、ガバッと勢いよく頭を下げた。

 吾郎がソファの上で、光子に向かって土下座をしていた。

 光子はそんな吾郎の姿を、ぽかんと口を半開きにして見下ろしている。

 「ごめんよ、光子、俺にできることはなんでもやる。今までみたいに怠けたりしねぇ。腰布も自分で片付けるよ。いいお父さんになるから、見捨てないでくれぇ!」
 そう言って、吾郎はおいおいと滝の水が流れるように泣き伏した。頭よりも少し前に置かれた吾郎の手は固く握られ震えている。
 吾郎の後悔や光子に対する気持ちの強さが、その拳から伝わってくるようだった。

 そして、その血の気がなくなるほど強く握られた吾郎の拳に、光子の赤い手が重ねられる。

「アンタ、私もイライラしちゃって、心にもないこと言ってごめんね」

 頭上から聞こえる光子の穏やかな声に、吾郎はゆっくりと顔を上げた。

 光子が喜びの涙で濡れる目を細め、満面の笑みで吾郎を見つめていた。

「私はね、なにがあってもアンタのことが好きよ! 今まで夫婦ふたりでやってきて、それに、これからは三人家族になるんだから!」

 そう言って、光子は吾郎の涙で濡れた顔を両手で挟む。

 親指の腹で、吾郎の涙の痕を愛しそうにぬぐっていく。

 ただ泣きじゃくっていた吾郎だったが、光子の穏やかな顔を見てヒックと子供のように嗚咽を漏らすと、上体を起こしてその大きな胸板で包み込むように光子を抱きしめた。