「それはねぇ。おでたちには子供ができねぇんだ。何百年と連れ添ってきて、もちろんほしいと思っていたころもある。けれど授かることはなかった。光子も俺ももう諦めてるんだ。悪いがその話は光子にはしないでやってくれ」
そうしおれたような表情で吾郎は言う。
ふたりは今まで子供を授からなかった経緯があって、妊娠という可能性はないと決めつけているようだ。
また、吾郎の心の声からは光子に変な期待を持たせたくなくてこれ以上追及したくないという気持ちが入ってくる。
リナは痛ましい気持ちになったが、そういえばと光子の心の声を聴いたとき、雑音が混じっていたことを思い出した。
あれはもしかすると……。
「あの、でも私、光子さんの心の声を聴いたとき、その……雑音を聴いたんです」
本当は、お腹の子の声かもしれないと続けたかったが、もし妊娠していなかった場合、ふたりを傷つけるだけかもしれないと思って続けられなかった。
すると粟根は、感心したように「ほう」と頷き、「それなら、試してみる価値はありそうですね」と、リナのその言葉を受けて立ちあがった。
窓際に設置されてるデスクの引き出しを開けて、そこから赤茶色の羽は根ね扇おうぎを取り出す。
粟根はそれをさっと開いた。
赤茶色で、ところどころ真っ赤な目玉のような模様がついた扇だ。
「これは、姑う獲ぶ鳥めという妖よう鳥ちょうの羽でつくった羽根扇です」
「姑獲鳥の羽根扇? たしか妊婦が持つと」
と吾郎が続けて、粟根が頷いた。
「そう、妊婦が持つと、風もないのに羽根扇が勢いよくそよぎ出す代物です。鬼子母神の子育ての相談を受けたときにもらったんですよ」
と粟根が得意げに言うと、扇を閉じて吾郎のほうに差し出した。
「光子さんに持ってもらいましょう。妊娠していたらそれはそれでいいことです。していなかったら、今までと変わらない。ただそれだけのことですから」
粟根にそう言われて、吾郎が神妙な顔つきで受け取る。
そのとき、カチャリと心療室の扉が開いて光子が戻ってきた。顔色は先ほどより青ざめている。
「光子、大丈夫か? 最近、よく気分が悪くなってるみたいやけど」
「たぶんちょっと疲れてるだけよ。食欲もないし」
と言って、光子がゆっくりとソファに身を沈める。
吾郎がごくりと唾を飲んだ。
手元の羽根扇を掴む手に力が入る。
吾郎が心のなかで葛藤する声がリナに伝わってきた。確かめたい気持ちと、確かめるのが怖い気持ち。
もしも妊娠していなかったら、一度期待をしてしまった吾郎はひどく落ち込むだろう。
そんな吾郎を見て光子が首を傾げた。
「アンタ、どうしたんだい? それにその扇は……」
「あ、えっと、さっき粟根先生に見せてもらってたんだ。珍しい扇らしい。き、綺麗だろう? 持ってみるか?」
そう言って、吾郎が不自然な笑みを浮かべながら、扇を光子のほうに手渡す。
「え? 珍しい扇……?」
様子のおかしい吾郎に戸惑いながらも、光子は差し出された扇を持った。
すると、羽根扇が、そよ風に吹かれたかのように微かに揺れたように見えた。その瞬間、吾郎がぴくりと目を見開いて反応するが、しかし羽根扇の揺れは一瞬だけ。
再び扇は普通の扇のように静まり返った。
吾郎が顔を強張らせる。
「光子さん、その羽根扇、開いてもらえますか?」
粟根が真剣な顔でそう言った。どうやら扇が揺れるかどうかを確かめるには、扇を開かないといけないようだ。
一瞬気落ちした吾郎が、再び緊張した様子で唾を飲み込んだ。
心療室は妙な沈黙に包まれている。
この部屋にいる全員が、その羽根扇に視線を注いでいた。
光子は異様な空気を感じながらも、恐る恐る両手で羽根扇を開き始めた。
最初に羽根扇の異変に気付いたのは、それを手に持っている光子だった。
ものすごい圧力を感じたと思うと、手に持っている扇の羽根の一本一本が、まるで生きている鳥が羽ばたくかのようにばっさばっさと揺れ始めたのだ。
そよぐ、というレベルではないが、風もないのに羽根扇が動き出した。
吾郎があんぐりと口を開けて固まった。
「やだ、なんだいこれ、なんか突然動き始めたよ!」
光子が慌てた様子でそう言うと、鳥のように羽ばたいてどこかに飛んでいってしまいそうな扇から手を離し、そのまま床に落とした。
すると、先ほどまで激しく羽根を揺らしていた扇が、一瞬にして動かなくなる。