鬼の夫婦は信じられないとばかりにお互いを見合い、光子が改めて粟根を見て訝しげに口を開いた。

「じゃあ、本当に、へそのことを言わないだけでいいんですか?」
「そうです。実際に夫婦喧嘩の流れを見させてもらったところ、ご主人の怒りが爆発するきっかけは"おへそ"について触れたときだけです。男の鬼にとってはおへそはプライドに関わるデリケートなことですから」

 吾郎は粟根の言葉を聞いて真剣に頷いている。
 吾郎にとっておへそというのは、本当にとても大切なもののようだ。

 以前のリナだったら冗談にしか聞こえなかっただろうが、妖怪図鑑のおかげですんなりと理解できた。本にも一部の鬼族の間では、おへその良し悪しが男鬼の沽こ券けんに関わる重要なものだと書かれていた。

「それに、光子さんは本気で、ご主人のおへそのことを悪く思っているわけではありませよね?」 粟根が訳知り顔でそう言うと、光子ははっとした顔をして下を向いた。

「そりゃあ、三百年連れ添った亭主のおへそよ。悪いものだなんて思うわけないやないの」

『むしろあの形がキュートで可愛いって思ってる』という光子の心の声をリナは聴いてしまい、まじまじと吾郎のおへそを見る。
 キュートで可愛いおへそだと光子は言うが、リナの目から見たら、ちょこんと飛び出た少々黒ずんだただのへそにしか見えない。
 そもそもそこまでへそを気にかけたことがないので、へその美醜がよくわからなかった。

「そんなわけがねぇ! いいんだ、光子。気なんて遣うな。思ってねぇなら、あんなふうに口に出るわけねぇ」
 と悔しそうに、吾郎が言った。
 彼の目には先ほどから涙が滲んでいる。

「いえ、本当に、光子さんはそんなこと思っていないはずですよ。リナさん、光子さんの心のなかはどうでしたか?」

 粟根に話を振られて、リナは小さく頷いた。

「はい、たしかに。むしろご主人のおへそが、キュートで、その、可愛いって言ってました」
 とリナが先ほど聴き取った光子の心の声を伝えると、光子は驚いたように目を見開いた。

「ええ⁉なんでアタシが思ってることがわかるん!?」

 慌てる光子をどうどうと宥なだめ、粟根はリナのことをふたりの前に出した。

「すみません、紹介が遅れてしまいましたね。彼女は私の助手をしてくれている佐藤リナさんといいまして、妖怪サトリの力を持ってます。心の声を聴くことができるんですよ」

 あっさりとリナの力のことを明かす粟根に、リナは嫌な汗を流した。
 こんなこと普通の人間に話せば、気持ちが悪いと怖がられてしまう。
 ふたりにも気味悪がられたらどうしよう。そう不安に思ったが……。

「そうなんか!」
「便利ねぇ」

 と、リナの予想に反して、ふたりの鬼は感心している。
 むしろ褒めるような言葉さえ交わしていた。

「リナさんの力は本物ですからね。それに、光子さんは、ご主人が怒るとわかっていて、へそのことを口にしていませんか?」

 すると光子はばつが悪そうに、自分が吾郎に言ってきたことを振り返る。

「言われてみれば、アタシ、主人がそのことをすごく気にしているのを知っとる。ひどく傷つくだろうことも、アタシ、知ってて……」

「なんで、光子、わざわざ怒らせようなんて」
「ついカッとなって……」

 光子の本心がわからないというように、悲しそうな顔をする吾郎を見た粟根は言葉を続ける。

「吾郎さん。怒りなどで我を忘れたときに言ってしまう言葉は、その人の本心なんだと思いがちですが、本当は逆なんです。怒っているときほど、その言葉の多くは本心ではありません」

「え、それって、先生、どういう意味なんですか?」

 怒っているときの言葉は本心ではないと言うが、夫婦喧嘩中の心の声を聴いたリナからすれば、ふたりの心の声と発している言葉は同じようなものだった。

 納得しきれていないリナと鬼の夫婦を諭すように、粟根はやわらかな笑みを浮かべて口を開く。

「本当に怒っているときは、相手を傷つけたいという思いが強く働いてしまうんです。相手にも自分と同じぐらい嫌な思いをしてほしいって思ってしまう。ですから、相手が一番言われて傷つく言葉を選ぶんです。本心には関わらず、ね」

 リナは粟根の言葉を聞いて、改めて自分が聴いたふたりの心の声を思い出す。

「たしかに喧嘩の最中、光子さんがご主人のおへそを指摘したときの心の声は、ただ怒りの表現でした。イライラするとか、頭にきたとか感情が先立っていました」

 リナの言葉に粟根が頷くと、再び夫婦のほうに視線を戻す。

「夫婦というのは、長年一緒にいるから相手のことをよくわかっています。だからこそ相手が一番傷つく言葉も知っている。三百年も一緒にいるならばなおさらでしょう」

「そうなんか……」
 と吾郎は納得したように呟いたが、彼の心のなかはまだ腑に落ちていないようだった。

 『今までも喧嘩はしたことあるけど、デベソのことを指摘してくるんは最近や。光子はそれほどまでに怒ってるってことやろ? なんで急にそんな怒りっぽくなったんやろか』

 リナは吾郎がそう心のなかで呟いたのを聴いた。

 するとそのとき、光子が「う」と苦しそうにに呻うめき出し、口元に手を当てた。

「す、すみません、ちょっとお手洗いを借りてもいいかしら」

 と気分悪そうに光子が言う。
 リナは急いで立ちあがって、光子の背を支えると、トイレまで案内した。
 光子は苦しそうに駆け込んでいった。

 そんな光子の様子に、リナはある仮説を立て、慌てて粟根に報告しようと心療室のソファに戻るが、そこでは吾郎がこの世の終わりかのように頭を抱え込んで落ち込んでいた。

「光子は、もうおでのことなんか好きじゃないのかもしんねぇ。最近は特におでといると機嫌が悪いし、一緒に食事もしたくないみたいで、食事中に気分が悪くなって席を外すことも多いんだ。デベソを悪く言うのは本心ではないって言ってたけど、きっともうおでたちは終わりなんだ」
 と、吾郎が顔を俯かせ、悲痛な声色で嘆き出した。そんな吾郎をなんとか元気づけようと、リナは励ましの言葉を探す。

「あの、奥さんはたしかにイライラはしてましたけれど、ご主人のこと、本当に愛してます。さっき別れ話をし始めたときだって、別れたくないって、はっきりと心の中で言ってました」
「だけどよう」
 と言って、吾郎がしょんぼりとうなだれた。

 粟根はそんな吾郎を見て、左下に視線を落とした。
 そしてなにかを考えるように顎の下に手を置くと、視線だけ上げて吾郎のほうを見た。

「吾郎さん、つかぬことを聞きますが、奥さんが妊娠している可能性はありませんか?」

 リナが先ほどもしかしてと思っていたことだ。
 気分が悪そうに奥さんがトイレに駆け込んだのは、悪つわり阻なのではないか、と。

 だけど吾郎は、悲しそうに表情を曇らせて首を振る。