佐藤リナは一枚の名刺と、無駄に上機嫌な様子の父を前に困惑していた。

「お父さん、これ、なに?」

 父から先ほど渡された名刺を紋所を掲げるかの如く突き出すと、父はハハーと平伏する、ことはなくヘヘーと誇らしげに笑って鼻を掻いた。

「リナのためによ、次の新しい就職先を見つけてきたんだ!」
 どうだ、と言わんばかりの父の笑顔にリナは、思わず全身から脱力した。
 彼女の長い髪が揺れる。

 リナの父である徹は酔っ払うとたまに突拍子もないことをしでかす。
 いいことをしたと思っている徹の目は、キラキラと少年のように輝いているが、この夢見心地な状態の父になにを言っても伝わらないことを、リナは重々承知していた。

 それでもリナは呆れながら口を開く。

「なんで勝手にそんなの決めてくるのよ!この雇用契約書、ちゃんと目を通したの!?」

 そう言ってリナは徹から手渡された契約書を彼の顔に突きつけた。そこには、

【雇用契約を拒否、もしくは半年契約の雇用期間のうち途中で自主退職などをした場合は、罰金一億円の支払いを命ず】

 と書かれていた。

 こんな労働基本法もくそもない契約書があるだろうか。それなのに父親は昨晩、この恐ろしい契約書に佐藤リナの名前でサインを書いてしまったのだ。

「大事な部分はばっちり見てるから大丈夫だ! ほら、給料とかは結構いいだろ? それになにより素敵な先生だった! イケメンだよ、イケメン! リナもイケメンは好きだろ?」

 と、徹は憤るリナの前で歯を見せてニカッと笑った。

 その事の重大さをわかっていない様子に、リナは再び呆れを含んだため息を落とす。

 たしかにイケメンは嫌いではないが、辞めたら一億円の罰金など小学生みたいなことを平気で書き込む男は、たとえイケメンであっても御免だ。

「それにほら、仕事内容、心理相談所の助手って、リナにぴったりだろ? 心を読めるリナだからこそできる仕事だ。そのイケメン先生もそんなリナの力を知って是非にと誘ってくださったんだ」
 俺の娘はすごいんだと何故か誇らしげに胸を張る父親に、リナはあんぐりと口を開けた。

「え、ちょっと、待って。お父さんそれってまさか私が心を読めるって、その人に話したってこと?」

 目鼻立ちがはっきりした顔立ちのリナが睨みを利かせると、かなり迫力がある。
 しかしリナの父はまったく気にしてないようで、満面の笑みで頷いた。

「おうよ。先生はあやかし専門の先生みたいでさ、俺らのご先祖様のサトリっていう心を読む妖怪のこともよーくご存知だ。だから、リナも安心して働けるってことよ」

 先ほどの説明のなかに安心して働ける要素が果たしてあっただろうか。

 リナが思わずこめかみを指で押さえる。
「ありえない。あやかし専門なんて聞いたことないし、心が読めるなんていう変な話を信じるやつなんて、変人か詐欺師に決まってるじゃん」

「そんなことないぞぉ。リナが心を読めるのは本当のことだろう?その能力を先生は認めてくださったんだ。しかもその力は特別で、決して恥ずべきことじゃない、むしろ世の中に埋もれるなんてありえないものだとおっしゃった!父ちゃんは嬉しかった」

「お父さん……」

 娘を褒められて、だらしなく顔の筋肉を緩ませて嬉しそうにしている父を前に、リナは再び脱力した。

 父の心の声を聴いてみると、先ほど父が話していたことに嘘はないとわかる。だからこそ厄介だった。たしかにリナは心の声を聴くことができる。

 口には出していない人の心のなかの声だ。

 その力はリナの幼少期に突然あらわれた。

 最初はそういうものだと思って過ごしていたが、あまりの察しのよさに周りから気味悪がられ、リナは人とは違う声を聴いていることに気付いた。

 塞ぎ込んでしまったリナに、父がそれはご先祖様の力かもしれないと教えた。
 父曰く、父の一族の祖先が妖怪の﹃サトリ﹄らしい。サトリというのは、人の心の声を聴くことができる妖怪だそうだ。
 そして稀に、一族のなかにサトリの血を色濃く継ぎ、心の声を聴く力を持って生まれてくる者がいるのだと、父は語った。

 小さかったリナは、父の話を信じ、心の声を聴かないようにする努力を始めた。

 今では、基本的には聴こうとしなければ、人の心の声が流れ入ってくることはない。

 それでも、思春期のころなどは好奇心で周りの人の心の声をこっそり聴いてしまい、強く後悔することもあった。

 失恋をして落ち込むクラスメイトに対して心配そうに声をかけている女の子から、いい気味だと嘲笑うような心の声を聴いてしまうこともあった。
 ほかにも仲のいい友人同士だと思っていたふたり組が、互いを比べて心のなかではけなし合っているのを聴いたこともある。

 平気な顔で嘘をつく人間は、思いのほか多かった。そういったドロドロとした人の心の声を聴いて毎回嫌な思いをしてしまうのが、学生時代のリナの常だった。

 そのときの経験のせいか、はたまた生まれ持った性格か、嘘を嫌うリナは誰に対しても正直であろうとした。

 それが原因で自分から面倒事に首を突っ込むことが多かった。
 正義感が強いと言えば聞こえはいいが、トラブルに巻き込まれ悔やんだことも一度や二度ではない。

 つい最近も、心を読むサトリの力が原因で問題を起こし、そのせいで会社をクビになっていた。
 そんな私を心配した父親が酔った勢いで、怪しげなカウンセラーから契約書にサインさせられる羽目になったのだ。

 その父親である徹は、先ほどからむっつりと黙っているリナの様子を少々怯えた目でうかがっている。
 どうやらやっと、まずいことをしたかもしれないと気付いたのだろう。

 そんな徹を見たリナは、いたたまれなくなって眉尻を下げて口を開いた。

「お父さん、わかった。とりあえず、この話は電話で私から断っておくから」
 リナはそう言って、深くため息を吐く。

 なんだかんだと男手ひとつで自分を育ててくれた父親に、リナは甘かった。

 たまに突拍子もないことをしでかす父だが、それもすべてリナのためを思ってしていることで、あまり強く出れずに大体許してしまう。

「えー?せっかくいい話なのに」
 と、きょとんとした顔で徹が言う。
 どうやら徹は、自分が持ってきた厄介な話を諦めきれないらしい。
 リナは父を説得することを諦め、契約書に再び目を向けた。

 一番下の署名欄には、父がサインをした【佐藤リナ】の名前。
 そしてその左隣に、【粟根あやかし心理相談所粟根仁】と書かれていた。

 しかし、住所の横には……。

「あれ、これ、電話番号がない」

 契約書を前にそう呟いてリナは眉根を寄せた。

 裏表改めて見返しても電話番号は書かれていない。
 最初に徹から渡された彼の名刺を取り出すが、そちらにも電話番号は表記されていなかった。

 どうしたものかと、リナはしばらく契約書に書かれている住所を見つめる。
 聞いたことのない地名だったが、同じ市内ではある。車で行けばそう遠くない距離だろう。

「明日、車で行って直接断ってくる!」
 リナは勢いよくそう宣言した。

 拒否すれば罰金一億円なんて書かれてはいるが、こんなことがまかり通るわけがない。
 裁判になれば絶対に勝てるはずだ。
 リナは今後も父がカモにされないように、強く言っておかなければと思った。

 心を読む能力のおかげで、危ないことになりそうなときは察知できるはずだ。
 この怪しい心理カウンセラーにお灸をすえてやるのだと、リナは固く決意した。