亮くんはなおも想いを語る。
「僕にだって頑張れたんだから、きっとお母さんも大丈夫だよ。不安でも僕がついてる。それに、お父さんだってもう繰り返したりしないよ」
「……俺からも頼む。もう一度やり直させてほしい。今度こそ絶対に幸せにしてみせるから」
ここに来て、ずっと口をつぐんでいた涼平さんも話を切り出した。深く頭を下げ、後悔の念が詰まった影がテーブルに落ちる。
涼子さんの反応を見るに、間違いなく決意は揺らいでいる。
勇気を持てと言われ、それを言った張本人が目の前の困難に立ち向かっているのだから。仮にも子を愛する親であれば揺るがないわけがない。
「……確かに亮の言う通りだわ。でもやっぱり、怖いの……。それに散々人に文句を言っておきながら私だってずっと亮をほったらかしにしていたもの」
「今更そんなの気にしてないよ。僕だってずっと学校にも行かず心配ばかりかけていたんだから」
「でも私は、私たちは、亮に何もしてあげられなかった。そんな夫婦なんてさっさと別れた方が――――」
「違う」
弱々しく発せられる言葉を遮り、ひと際強い言葉が被る。
亮くんは足元の鞄を開くと、中から教科書サイズの大きな封筒を取り出した。
「これを読んで。お父さんも」
そう言って封筒から中身を取り出し、テーブルに広げる。それは昨夜完成したばかりの漫画だった。
「これは……」
「亮、お前……ずっと描き続けていたのか。こんなに上手くなって……」
涼子さんも涼平さんも、驚いたように原稿を手に取った。
一枚一枚、一コマ一コマ、余すことなく目を通す。
「うん。ずっと描いてたんだよ。お母さんはさっき、何もしてあげられなかったって言っていたけど、それは違う。だって――」
亮くんは二人を交互に見やる。そして、
「二人は僕に、夢をくれたから」
静かに、けれど凛々しく口にした。
二人は一瞬だけ硬直し、顔を見合わせる。
「そういえば……昔からよく絵を見せてくれてたなぁ」
「そうね……あなたってば大げさに額縁に入れて飾ってたわね」
「酔った勢いで破ってしまったけどな……。あの時は本当に悪いことをしたと思ってる。ごめんな亮」
「いいんだよ。それに、悪いと思っているのなら、今度こそ二人で見守っていてほしいんだ。どんなに時間がかかっても、絶対に漫画家になってみせるから」
二人は何も言わないまま、再び顔を見合わせる。
私も亮くんも、そんな二人をじっと見つめ、彼らの言葉を待つ。
「成長したのね、亮」
先に口を開いたのは、お母さんの方だった。
「本当にな。俺たちよりよっぽど大人だよ……。なぁ母さん、すぐに考えを改めてくれとは言わない。でも、せめて亮が漫画家として成功するまではここにいてくれないか? その間に今度は大丈夫なんだって、そう思えるようにしてみせるから」
聴きながら、涼子さんはじっと亮くんの描いた漫画を見つめる。
冒頭からラストまで、亮くんの努力の結晶であるその漫画を、余すことなく何度も何度も読み返す。
そして重々しく口を開いた。
「……やっぱり怖いわ。でも……そうね」
涼子さんは大きく息を吸う。
そして、
「もう一度だけなら、信じてあげる。だって私たち、運命の出会いをしたんだもの」
そういって、涼子さんは上品に笑みをこぼした。
***
「やったね亮くん!」
部屋に戻るや否や、私は全力で亮くんに飛びついた。が、当然触れられるわけもなく、受け身も取れずに顔から地面に突っ伏した。痛い。
「……何やってんの」
「いやぁ、嬉しくって自分が幽霊なの忘れちゃってた」
幽霊といっても死んでないけどね!
「だと思った。疲れたから今日はもう寝るよ。三時間しか寝てないし」
「あ、そういえばそうだったね」
すっかり忘れていた。この子ほとんど徹夜で漫画を描いていたから三時間しか眠っていないんだった。
それで学校に行って涼子さんたちとお話をしたんだから、そりゃあ眠くもなるよね。
幸い、明日は土曜日で学校もお休みだしゆっくり休養が取れる。それに来週を頑張ればもう夏休みだ。
亮くんはふらふらとベッドに倒れ込み、安堵したようにひと際大きなため息をついた。
そして、
「本当にありがとう」
布団のような柔らかな声色で言って、眠りについた。
「どういたしまして」
そう言って、眠りにつく亮くんの顔を眺める。
何の憂いもなく、安らかに眠るその横顔を眺めていると、何故だか私まで眠たくなってくる。
……おかしいな、眠気は感じないはずなのに。
「何もおかしくないよ」
どこからかそんな声が聞こえてきて、私ははっと目を見開く。
風鈴のような涼しげな声。もはや姿を探すまでもなく猫ちゃんの声だとわかる。
それでも、どうせ話すのだからと視線を机に向けると、やはり猫ちゃんはそこに座っていた。
「おかしくないってどういうこと?」
「君は役目を果たしたからね。もういつでも体に戻れるんだよ。眠って、目が覚めたら元の体に戻ってるって寸法さ」
あ、そういえば人助けしたら体に戻れるんだった。
「忘れてた!」
「やっぱり君はいい子だね。損得勘定抜きに彼を救おうと考えていたなんて」
猫ちゃんは感心したように鼻を鳴らす。
褒められるのは凄く嬉しい。それに、元の体に戻れるというのはもっと嬉しい。
亮くんとの楽しい生活が終わっちゃうのは寂しいけれど、ちょっと電車に乗ればすぐに会える距離だから大した問題はない。
「いやぁ、そのことについてなんだけどね」
私の思考を読んでいるらしく、言葉を発するまでもなく猫ちゃんが語りかけてくる。何やら含みのある言い方だ。
「うーん申し訳ない。これは事前に言わなかったボクのせいだね」
「……なに?」
ただならぬ雰囲気に、思わず息をのむ。
なんだろう、凄く嫌な予感がする。
猫ちゃんは中々口を開こうとしない。それが余計に、私に嫌な緊張を与えてくる。きっとこれまでの私の行動も、私が亮くんに抱く感情も全て知っているのだろう。だから言いにくいのだと思う。
「……言って」
耐えられなくなり、口を開くよう促す。
「……いいかい? 冷静に聴くんだよ」
そんな前置きを入れてから、猫ちゃんは口にする。
「君が元の体に戻るとね、消えちゃうんだよ。二人とも、互いに関する記憶が全て」
「――え」
それは、私に絶望を与えるには十分すぎる言葉だった。