地平線の向こうから太陽が顔を出す早朝、まだ薄暗い室内に大きなベルの音が鳴り響いた。
何事かと思い音の出た方向へ首を向けると、音の出どころは亮くんの枕元に置かれた目覚まし時計だとわかった。
こんな時間に目覚ましをかけるなんて珍しい。
壁時計を見ると時刻はまだ朝の六時。亮くんが倒れるように眠りについてからたったの三時間しか経っていない。設定時刻を半日間違えてしまったのだろうか。
「ん……」
亮くんは眠そうに目を開け、静かに目覚まし時計の頭を叩く。
そのまま、今にも閉じてしまいそうなほど頼りなく開かれた瞳で目覚まし時計の針を見つめ、ゆっくりと起き上がる。
設定時刻を間違えたわけではないらしい。
「おはよ、早いね。どこか行くの?」
「ん、学校」
「あ、学校かぁ。……ん?」
学校? 今この子学校って言った?
「えっと、学校って、中学校のこと?」
「他に何があるの」
「ほぉー……」
どうやら私の聞き間違いや勘違いではないみたい。
漫画のことといい家族のことといい、物凄くやる気に満ち溢れているようだ。
「私も行っていい?」
「うん、ついてきて」
亮くんはクローゼットから制服を取り出し、手で埃を払う。
亮くんの制服姿を見るのは初めてだ。きっと凄く似合うのだろう。着る前からわかる。
「ねね、早く着て!」
「急かさないで。準備が先」
「はーい」
亮くんは日課表を見ながらスクールバッグに教科書を詰め込み、慌しく準備を始めた。
どうして急に登校する気になったのか訊きたい気持ちはあるけれど、やめておこう。きっと無駄な質問だから。
このままじゃいけないという焦り、それと同時に現状を打開してみせるという固い決意。亮くんの瞳からはそんな強い意志をひしひしと感じる。
「準備できた」
久しぶりの登校で緊張しているのか、支度を終えた亮くんの表情は若干強張っていた。
「大丈夫? ちゃんとハンカチ持った? 忘れ物はない? 教科書入れた? 車に気をつけるんだよ?」
「お母さんか」
「お姉ちゃんだよ」
「はいはい」
少しでも緊張をほぐしてあげたくて、笑いを誘いもしないようなくだらないやり取りを交わす。心なしか緊張がほぐれたような気がして、何故だか私の方が嬉しくなる。
それにしても、思った通りだ。亮くんの制服姿は目に多大な幸福感を与えてくれる。
「……じろじろ見ないで」
「いやーごめんね。あんまりにも制服が似合うから目に焼き付けておこうと思って」
「お世辞はいいから」
「むう、本心なのに」
お世辞でも冷やかしでもなく、本当にそう思う。
夏でも涼しそうな半袖の白シャツと黒いズボン。
完璧な配色と亮くん自身の完成された容姿が相まってまるで違う生物なのではと思えるほどの美しさに仕上がっている。ずっと眺めていたいくらい。
「いいから早く行こう。遅刻する」
「あいあいさー!」
部屋の扉を開け、階段を降りる。
きっとその音で目が覚めたのだろう、私たちが一階へ降りると、階段の下で亮くんのお母さんが立っていた。
たしか、涼子さんだったかな。
お父さんの名前が涼平で、どちらも「りょう」がつくから覚えやすい。
亮くんの名前もきっとそこからきているんだろう。
「亮、その恰好……」
かすれきった声の涼子さんは酷く驚いた表情をしている。
亮くんが学校に行くというのだから驚くのも無理はない。私だって今朝は凄く驚いたのだから。
「うん、学校だよ。お母さん」
亮くんはお母さんの目を見つめて、ハッキリと言った。
そして、強い口調で確認する。
「まだ離婚届は出してないよね」
「え、えぇ」
「……よし」
お母さんの返答を聞いて安堵したのか、亮くんは僅かに息を漏らす。
それから、
「僕が帰ってくるまで待っていてほしい。話したいことがあるから」
そう言って、返答も聞かずに家を出た。
日差しを遮る雲すらない空の下、亮くんは落ち着かない様子で足早に歩く。
温められたアスファルトと頭上から降り注ぐ日光に挟み撃ちにされ、みるみるうちに汗が噴き出てくる。
今年の暑さは尋常ではない。
よほどの物好きでもなければこの暑さの下で歩きたいとは思わないだろう。道行く人はみんな汗を垂らして歩いていた。
そんな猛暑とは反対に、私は涼やかで落ち着いた声で語りかける。
「亮くん」
「なに」
「久しぶりの登校で不安だろうけど、緊張しなくても大丈夫だよ。私が傍にいるから」
「うん、ありがとう」
亮くんもまた、落ち着いた声で返してくる。
内心、不安と緊張で穏やかとは言えない状態だろうに、それでも落ち着いた態度を見せてくるのは私に対する気遣いだろう。
そんな優しさを持った少年が頑張るというのだから、応援しないわけにはいかない。
学校に近づくに伴い、段々と道ゆく生徒の数が増えてくる。
なんだか緊張してきた。
本来なら全く関係ないはずの私でさえこうなのだから、亮くんの緊張は私の比ではないだろう。
「学校の中じゃ全然会話できないと思うけど、ちゃんと傍にいるからね」
「ん」
朝練で校外を回る野球部の行列を横切り、私たちは校門をくぐる。
「おぉ、石丸じゃないか!」
校門を抜けたと同時に、誰かが亮くんの名を呼んだ。
その人物は大急ぎでこちらへ駆け寄ってくる。その様子から、亮くんが登校するのを心待ちにしていたことが伺えた。
「よく来たな! ずっと待ってたぞ!」
「おはようございます先生」
紺色のジャージを着たいかにも体育会系といった雰囲気の先生はバシバシと力強く亮くんの背中を叩く。
対する亮くんはいつも通りの淡々とした対応だ。
少しだけ安堵した。
昨日、亮くんは学校にも家にも居場所が無いのだと嘆いていたけれど、こうして歓迎してくれる先生がいるのは亮くんにとって心強いことだと思う。
亮くんが孤独を感じていたのはきっと、こういった先生たちすら信用できないほど追い詰められていたからだ。
「久しぶりで不安だろうからな、何か困ったことがあったらすぐ言うんだぞ!」
「わかりました」
「つってもお前のことだからな~心配はないと思うけどな! 勉強は大丈夫か? ちゃんと家でやってるか? それから――」
「すいません、早めに教室に入ってみんなと顔を合わせたいので、お話は後でお願いします」
しつこく話を振ろうとしてくる先生が面倒なのか、亮くんは半ば強引に逃げだし、足早に下駄箱に向かう。
こういう時でも態度がブレないのは憧れてしまう。私なんて先生にぺこぺこしてばかりなのに。
「今の先生いい人そうだね」
「ん、一応担任だからね」
「亮くんって二年生だったよね」
「うん」
上靴に履き替え、階段を昇る。足を前に突き出すたびに、少しずつ教室との距離が縮まっていく。
「緊張してる?」
「……うん、かなり」
「上手く馴染めるといいね」
「うん」
亮くんが言うには、二階に上がって右折するとすぐに教室があるらしい。
私たちは階段の踊り場で立ち止まると、緊張をほぐそうと深く息を吸う。
あと十数段ほど階段をのぼるともう教室。ここが息を整えられる最後の場所だ。
「なんで君まで深呼吸してるのさ」
「私だって緊張してるもん」
不登校の生徒が学校に行くという行為が、ただごとではないとわかる。
何度か深く息を吸ったあと、私は確かめるように語りかける。
「……心の準備はできた?」
「……うん。多分」
「よし、なら行こう!」
いつまでも踊り場に立ち尽くすわけにはいかない。
私たちは意を決し、一段、また一段と階段を踏みしめる。
二階へ上がり少し歩くと、既に教室からの声が聞こえてくる。
男子も女子も入り混じった楽しそうな笑い声。
覚悟を決めたと思っていても、いざその声を聞くと怖気づいてしまいそうになる。部外者の私でさえそうなのだから、亮くんはもう気が気ではないだろう。
亮くんが不登校になったのは中学一年生の秋ごろ。
二年生になってクラスが替わったため、亮くんが知らない子も沢山いるだろう。だから余計に緊張すると思う。
ここを右に曲がれば、一組から六組までの教室が連なる廊下になっている。そして一番手前が亮くんの向かう一組の教室。
気温が高いせいか、それとも緊張しているせいか、段々と嫌な汗が滲んでくる。
幽霊みたいな体になっても汗をかくというのは凄く嫌だ。お風呂にも入れないし、べたべたして気持ち悪い。いつもは気が付いたら治ってるけど。
あまりの緊張に思わず立ち止まる。しかし、当の亮くんはとっくに覚悟決めていたらしく、臆することなく右へ進んだ。
「あ、待って」
置いていかれまいと私も後へ続く。
閉められたドアのすぐ向こうに、クラスメイトがいる。私の心臓はもはや限界を超えて全身に血液を送り込んでいた。
「……あけるよ」
「……うん」
短く呟く亮くんに対し、同じく短く返す。
私の声を聞き、亮くんは扉に手をかける。
――そして。
「おはよう」
そう言って、亮くんは勢いよくドアを横に引いた。
ドアがレールを滑る音に反応したのか、それとも亮くんの声に反応したのか、クラス全員の視線が一斉に亮くんへ向けられる。
そして、あれだけ私たちを緊張させた喧騒は、一瞬でどこかへ消えてしまった。
教室にいた誰もが何も言わず、ただじっと亮くんを見つめる。
誰一人動かない制止した時間。
しかし、いや、やはりと言うべきか。その静止した時間を動かしたのは亮くんだった。
クラス中の視線を一身に受けてなお、亮くんは物怖じひとつせず教室へ入る。
一番後ろの窓際の席まで歩くと、静かに机の上に鞄を乗せる。その姿を、私を含めた誰もが目で追っていた。
……これは気まずいかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
「おおー、亮じゃん」
亮くんのすぐ前の席にいた男の子が、沈黙を破った。
それを皮切りに、一人、また一人と亮くんに話しかける。
「よく来たなー」
「久しぶり」
「ちゃんと俺のこと覚えてるかー?」
よかった、歓迎されているみたいだ。
私たちが緊張していたみたいに、この子らも久しぶりに亮くんと顔を合わせたから驚いて黙っていただけらしい。
「うん、久しぶり。ちゃんと覚えてるよ」
亮くんは丁寧に一人ずつ答えていく。
昨日聞いた話を思い出すに、きっと亮くんはこの子らを信用していない。
自分が苦しんでいるのに幸せそうに過ごす彼らをどうしても好きになれなかったと言っていた。
でも、今の亮くんならきっと大丈夫だと思う。
差し出された手を振り払ってきたあの頃とは違う。今の亮くんは勇気を持って前に進む力があるのだから。
私は亮くんのすぐ左の窓、そのふちに腰掛けた。
「よかった。大丈夫そうだね」
そう言って、にこやかに笑ってみせる。
返事はないけれど、亮くんも同じことを考えているに違いない。だって、凄く穏やかな表情をしているから。
***
「それじゃあ次の問題を……そうだなぁ、せっかく来てることだし、石丸!」
数学の授業中、担任の先生がふいに亮くんを指名した。
容赦ない。
普通は今までずっと授業に出ていなかった子を指名しないと思うんだけど。
「はい」
私の心配をよそに、亮くんは黒板に綺麗な数式をえがいていく。全く迷いなく、堂々とした動きで。
この子、本当に不登校だったの?
「正解だ! 凄いな~。家で勉強してたのか?」
「少しだけ」
……かっこいい。
賢いなーとは思っていたけれど、ここまで賢いとは。
ちなみに私は解けなかった。高校三年生なのに!
亮くんが席に戻る途中、廊下側の席からひそひそと話す女の子たちの声が聞こえてくる。
「石丸くんってかっこいいよね」
「わかる。学校来てないのに頭いいとかやばくない?」
「ね、やばいよねー」
うんうん、もっと褒めてもいいよ。
自分のことじゃないのに何故か私が誇らしくなってしまう。
息子を褒められて天狗になる母親の気持ちはこんな感じなのだろうか。
「さすがだね」
席に戻ってきた亮くんに話しかける。
一瞬だけこちらを見てきた後、亮くんは小さなため息をついた。そしておもむろにペンを走らせる。
書き終わると、亮くんはこちらを見つつノートを指で叩く。
見てくれ、という合図だろうか。
「授業中にこっそり筆談って楽しいよね! 私も中学の頃よくやってた!」
亮くん以外に聞こえないのをいいことに、遠慮なく喋る。そして亮くんのノートを覗き込んだ。
『うるさいから授業中に話しかけないで。あとちらちら視界に入って邪魔だから後ろにいて』
……ごめんなさい、黙ります。
私は申し訳なさそうに頭を下げ、教室の後ろに座り込んだ。
亮くんめ、真面目ぶりやがって。
私は亮くんが構ってくれないと暇だというのに。
でも、上手く馴染めているようで安心した。
ぼんやりと亮くんの背中を眺めているうちに数学の時間が終わる。
次は英語だったかな。
短い休み時間が終わり、英語の授業が始まるとまたも亮くんは指名された。今度は別の先生だ。
……案の定、亮くんは英語も完璧だった。
先生に英語で問いかけられ、それをいとも簡単に英語で返す。そのたびに教室の端から女子たちの小さな歓声が聞こえてくる。
亮くんの活躍は数学や英語にとどまらず、国語や社会、果ては体育に至るまで多岐に渡った。
私は、体育館の隅で授業を見学している女の子たちの隣に座り、彼女らと同じように亮くんを目で追っていた。
今日の授業はバスケットボール。
亮くんがシュートを入れるたびに隣の女の子たちが騒ぎ立てる。
「やばい。超かっこいい」
「彼女とかいるのかな。いなかったら狙っちゃおうかなあ」
いや、それはダメ。
亮くんを褒めるのはいいけど、狙うのは許しません。
先に好きになったのは私なんだぞ! と声を大にして主張したい。したところで何にもならないのだけど。
***
「いや~ひと安心だね。よく頑張りました! 偉い偉い!」
帰り道、私は上機嫌で亮くんに話しかける。
もしかしたら一番安心しているのは私かもしれない。
亮くんは周囲に人がいないのを確認してから、
「うん、安心した」
そう言って僅かにほほ笑んだ。
……あーもう、可愛い。
いつもは笑わないのに、ふとした時に笑うから用心していないと心臓が弾けて心が根こそぎ奪われてしまいそうになる。もうとっくに奪われているけど。
「でもよかったの?」
「何が」
「クラスの子に一緒に帰らないかって誘われてたでしょ?」
「うん、いい。君と話す方が楽しいから」
「そ、そっかぁー。…………へへへ」
落ち着け、落ち着くんだ私!
いつもの亮くんみたいに無表情を心がけるんだ! 平常心を保たなくちゃ。
…………うん、無理!
好きな人に楽しいなんて言われたら嬉しいに決まっている。
それにしても、
「君……かぁ」
私は悩ましげに息をついた。
思えば、今まで一度たりとも名前で呼んでもらったことがない気がする。
もうそろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないかな。せめて苗字だけでも。
「ねぇ亮くん、そろそろ名前で呼んでよ!」
「えー……」
こら、あからさまに嫌そうな顔をするんじゃない。
異性を下の名前で呼ぶのが恥ずかしいのはわかるけれど、もうそんなことを気にするような仲ではないはず。
「私たちもう仲良しだからいいでしょ! 呼んで!」
「んー……じゃあこころさんで」
「さん付けは何かよそよそしい……。呼び捨てがいいなぁ」
やり直しを求める。
もうお互い腹のうちを語り合った仲なのだから、佐々木とかこころとか、そんな適当な呼び方をしてほしい。
諦めずに食い下がっていると、ついに観念したのか、亮くんは大きく息を吸った。そして、吸った量とは裏腹に消え入りそうなほど小さく、
「……こころちゃん」
恥ずかしそうに、そう呟いた。
こうも恥ずかしそうに呼ばれるとこっちまで恥ずかしくなってくる。
呼び捨てでいいと言ったのにまさかちゃん付けしてくるとは。
これからずっとこころちゃんと呼ばれるのだと思うと気が気でない。嬉しさと恥ずかしさで頭がどうにかなってしまいそうだ。
しかし照れるのも束の間、すぐに亮くんの顔から表情が消える。
視線は真っすぐ彼の家に向き、その真面目な顔つきがこれから行う母との対談に備えてのものだと悟る。
そうだ、呑気に名前を呼び合って照れている場合ではなかった。
亮くんにはこれから、学校以上に大切なことがあるのだ
「お母さんとの話し合い、私も同席していいの?」
学校への同伴は許されたものの、今回は紛れもなく石丸家だけの問題。
果たして第三者である私が入り込んでいいものだろうか。
いくら私が亮くんの事情を全て知っていたとしても、これは非常に繊細な問題だ。言葉選びひとつ違えるだけでこの子の人生が右にも左にも傾くのだから。
見守りたい反面、それを躊躇する私がいる。
「……むしろ席を外すつもりだったの? 見守るって言ったのに」
言って、亮くんは不服そうにこちらを睨んできた。
その視線を受け、私はつくづく自分が情けない存在であることを痛感する。
この子には、そもそも私を置いて話をするという選択肢が存在しないらしい。
到底一人では抱えきれない問題に向き合う彼と、支えると言った私。
そんな私の言葉をまっすぐに受け止めて、安心して心を預けてくれている。だからこそ、今になって腰が引けている私に不満そうな眼差しを向けているのだろう。
実感する。この子の決意はとうに固まっていたのだと。
この期に及んで怖気づいているのは、どうやら私だけのようだ。
今しがた自分の口から飛び出た言葉に自分で呆れてしまう。
確認するまでもなく、自信を持って傍にいればいい。それが私の役目なのだから。
睨む亮くんの瞳を力強く見返し、私は改めて覚悟を決める。
「ずっと見守るよ。一番近くで、どんな時も」
そう言って、精一杯笑ってみせた。
「うん、約束だから」
亮くんもまた、笑顔だった。
「おかえり」
かすれた女性の声が、私たちを迎え入れる。涼子さんだ。
「ただいま」
靴を脱ぐと、二階へ続く階段に一瞥すらくれず、亮くんは真っすぐリビングへと向かう。一息つく気は欠片もなく、今すぐ話を始めるつもりらしい。
リビングの戸を開けると、既に亮くんのお父さんも帰宅していた。
話には聞いていたけれど、この目で見るのは初めてだ。
清潔に整えられた短髪に、人のよさそうな垂れ下がった目じりが特徴的な男性。こうして見てみると、とても酒乱だった人とは思えない。
けれど、続いて部屋に入ってきた女性の強張った表情を見ると、それは私の勝手な印象に過ぎないのだと理解する。
昔は夕飯時に家族そろって囲んでいただろう大きな食卓に着き、亮くんは入口付近にいる二人を見やる。
その視線を受け、二人も席につく。涼平さんは亮くんの隣に、涼子さんは二人と向かい合うように。
広々とした長方形の木机はあっという間に窮屈そうな印象に変わる。
私は亮くんの隣に立ち、緊迫した雰囲気を肌で感じ取っていた。
まるで全員が警察に取り調べでも受けているかのような、誰一人歯を見せない重い空気。
「最初に言っておくけど、私はもう別れる気だから」
その空気を切り裂き、より重々しく言葉を紡いだのは、涼子さんだった。
開口一番の拒絶。実の息子、そして夫に対して言うにはあまりにも無慈悲な一言。しかし、これまでの彼女の苦悩が見て取れる発言でもあった。不愛想な語り口はやはり亮くんに通じるものがある。
紛れもなく血のつながった家族。それが今、断ち切られようとしている。
もちろん、それを許す亮くんではない。
「どうして?」
亮くんは極めて冷静に母の胸中を探る。
「もう疲れたの。亮だってわかるでしょ? その人はずっと私たちを放って、家をめちゃくちゃにしたんだよ」
見た目の麗しさとは似ても似つかないしわがれた声で、はっきりとそう告げる。
その言葉を受け、涼平さんはぎゅっと拳を握った。
けれど口を開くことはなく、じっと自分の言葉を飲みこんでいるようだった。きっともう、何を話しても無駄だと思っているのだろう。既に離婚が成立しかけている現状から考えて、諦めたと見るのが妥当だ。
それでもなお拳を握り、歯を食いしばるのは、諦めていながらももう一度やり直したいという後悔があるからに違いない。
その様子を見ているといたたまれない気持ちになる。
「でも、お父さんだってもうお酒はやめてる。暴れることもなくなった」
そんな涼平さんの意志をくみ取り、代わりに言葉として置き換えたのは亮くんだ。
亮くんはなおも言葉を続ける。
「お父さんだって、病気と仕事のストレスがあったんだよ。だからといって僕たちを傷つけたことを水に流すつもりはないけど、それでも、お父さんが後悔しているというのなら耳を傾けてあげてもいいと思う」
とても中学二年生の男の子とは思えないような冷静な口調で淡々と想いを告げる。
ここまで理路整然と意見を主張できる中学生などそうはいない。それは亮くんが賢いからと言うよりも、すらすらと話せてしまうほどに頭の中で話す内容を考えていたからだろう。
「確かにもうお酒は飲んでないし暴れてもいない。でも、この人がやったことが消えたわけじゃないの。亮はもう一度耳を傾けてもいいと言っているけど、私は嫌」
「お母さんは、お父さんのこと嫌いなの?」
「嫌いになっていたらもうとっくに出て行ってるわ。でも、それとこれとは別の話。嫌いじゃないけど、もう信じられない。だから別れるの」
なんだか、少しだけわかる気がする。
嫌いじゃない、でも信じられない。そんな想いを抱いたことはないのだけど、信じられないというのはつまり、不安を感じているということだ。それだけは、他の誰よりも共感できる。私はずっと自分を信じられず、不安を感じていたのだから。
私は思い出す。漫画家を諦めて、自分の無力さに絶望して、私には何もできないのだと全てを投げ出していた頃を。
自分を信じることができず、将来に漠然とした不安を感じていた。形は違うけれど、何かを信じられないことがどれだけ不安なのかは痛いほどわかる。
私でさえ理解できる感情を、ずっと同じ家で暮らしていた亮くんが理解できないはずはない。
けれど、ふと垣間見えた亮くんの表情は、笑顔だった。
「嫌いじゃない……か。よかった、ちょっと安心した」
重力が何倍にもなったような重苦しい空気の中で、亮くんだけはどこかほっとしたような、柔らかな表情だった。
そして言葉を続ける。
「嫌いじゃないのなら、きっとやり直せるよ。信用できないのはわかる。また同じことが繰り返されたら……そう考えると僕だって不安になるよ。それが間違いとは思わない。でも、僕たち家族に限ってはそれじゃあダメだと思う」
「……じゃあどうしろっていうの」
亮くんの言葉に思うところがあるのか、あるいは痛いところを突かれてムキになったのか、しわがれた声に力が入る。
その問いかけに対する亮くんの答えは、とてもシンプルで、今まで亮くんが発したどんな言葉よりも明るく力強いものだった。
「勇気を出して踏み出すんだよ」
不安だからこそ頑張る。怖いからこそ前に進む。亮くんが言いたいのはきっと、そんな単純なこと。
怖がって立ち尽くしていても状況は改善しない。そんな誰にでもわかる簡単なことを、誰にでもわかるからこそハッキリと言う。
「それができないから悩むんでしょ……」
誰にでもわかるし、誰にでも言える言葉。涼子さんだって自分が逃げているというのは自覚していたんだろう、すっかり疲れきった声色にはそんな苦悩が込められていた。
怖くても勇気を出さなければ状況は進まない。一方、勇気を出したくても怖くて踏み出せない。二人の意見はそこで食い違っていた。
私にはそのどちらの気持ちもわかるし、どちらの意見も正しいと思う。
過去の私なら、涼子さんの肩を持っていたに違いない。
自分の無力さ、そして夢や目標を持つことに対する恐怖。そんな黒い塊を胸に抱えて生きてきたのだから。
けれど、亮くんはそんな私を受け止めてくれた。悪くないと言ってくれた。それどころか、感謝さえしてくれた。
亮くんは怖くて動けなかった私を認めてくれたんだ。
だから私は、怖くて踏み出せない人間が間違っているとは思わない。もし間違っていると思ってしまえば、それは亮くんが認めてくれた私自身を否定することになるから。
涼子さんが言った「できないからこそ悩む」。それは決して間違いではない。
しかし、私は知ってしまった。勇気を出した先にある温かさを。自分なんてダメだと思う心を亮くんが救ってくれたあの時の気持ちを。
だから、涼子さんにもその温かさを知ってほしい。
「亮くん、頑張って」
私が小さく呟いたのを聞いて、亮くんは意を決したように言う。
「僕、今日学校に行ったよ」
そう言ってぎゅっと制服の胸を掴んだ。
「すっごく不安だった。道で同じ制服の人を見かけるたびに心臓が張り裂けそうになったよ。怖くて怖くて、教室に入るのさえ苦痛だった」
「亮……」
「でも、頑張ったよ。このままじゃダメだって思ったから……。僕なりに勇気を出して、頑張って……そしたら」
亮くんは大きく息を吸う。
そして、
「すっごく、楽しかった」
そう言って、亮くんは華やかにほほ笑んでみせた。
心の底から満ち足りたような楽しげな言葉を受け、涼子さんの顔に戸惑いがあらわれる。
亮くんはなおも想いを語る。
「僕にだって頑張れたんだから、きっとお母さんも大丈夫だよ。不安でも僕がついてる。それに、お父さんだってもう繰り返したりしないよ」
「……俺からも頼む。もう一度やり直させてほしい。今度こそ絶対に幸せにしてみせるから」
ここに来て、ずっと口をつぐんでいた涼平さんも話を切り出した。深く頭を下げ、後悔の念が詰まった影がテーブルに落ちる。
涼子さんの反応を見るに、間違いなく決意は揺らいでいる。
勇気を持てと言われ、それを言った張本人が目の前の困難に立ち向かっているのだから。仮にも子を愛する親であれば揺るがないわけがない。
「……確かに亮の言う通りだわ。でもやっぱり、怖いの……。それに散々人に文句を言っておきながら私だってずっと亮をほったらかしにしていたもの」
「今更そんなの気にしてないよ。僕だってずっと学校にも行かず心配ばかりかけていたんだから」
「でも私は、私たちは、亮に何もしてあげられなかった。そんな夫婦なんてさっさと別れた方が――――」
「違う」
弱々しく発せられる言葉を遮り、ひと際強い言葉が被る。
亮くんは足元の鞄を開くと、中から教科書サイズの大きな封筒を取り出した。
「これを読んで。お父さんも」
そう言って封筒から中身を取り出し、テーブルに広げる。それは昨夜完成したばかりの漫画だった。
「これは……」
「亮、お前……ずっと描き続けていたのか。こんなに上手くなって……」
涼子さんも涼平さんも、驚いたように原稿を手に取った。
一枚一枚、一コマ一コマ、余すことなく目を通す。
「うん。ずっと描いてたんだよ。お母さんはさっき、何もしてあげられなかったって言っていたけど、それは違う。だって――」
亮くんは二人を交互に見やる。そして、
「二人は僕に、夢をくれたから」
静かに、けれど凛々しく口にした。
二人は一瞬だけ硬直し、顔を見合わせる。
「そういえば……昔からよく絵を見せてくれてたなぁ」
「そうね……あなたってば大げさに額縁に入れて飾ってたわね」
「酔った勢いで破ってしまったけどな……。あの時は本当に悪いことをしたと思ってる。ごめんな亮」
「いいんだよ。それに、悪いと思っているのなら、今度こそ二人で見守っていてほしいんだ。どんなに時間がかかっても、絶対に漫画家になってみせるから」
二人は何も言わないまま、再び顔を見合わせる。
私も亮くんも、そんな二人をじっと見つめ、彼らの言葉を待つ。
「成長したのね、亮」
先に口を開いたのは、お母さんの方だった。
「本当にな。俺たちよりよっぽど大人だよ……。なぁ母さん、すぐに考えを改めてくれとは言わない。でも、せめて亮が漫画家として成功するまではここにいてくれないか? その間に今度は大丈夫なんだって、そう思えるようにしてみせるから」
聴きながら、涼子さんはじっと亮くんの描いた漫画を見つめる。
冒頭からラストまで、亮くんの努力の結晶であるその漫画を、余すことなく何度も何度も読み返す。
そして重々しく口を開いた。
「……やっぱり怖いわ。でも……そうね」
涼子さんは大きく息を吸う。
そして、
「もう一度だけなら、信じてあげる。だって私たち、運命の出会いをしたんだもの」
そういって、涼子さんは上品に笑みをこぼした。
***
「やったね亮くん!」
部屋に戻るや否や、私は全力で亮くんに飛びついた。が、当然触れられるわけもなく、受け身も取れずに顔から地面に突っ伏した。痛い。
「……何やってんの」
「いやぁ、嬉しくって自分が幽霊なの忘れちゃってた」
幽霊といっても死んでないけどね!
「だと思った。疲れたから今日はもう寝るよ。三時間しか寝てないし」
「あ、そういえばそうだったね」
すっかり忘れていた。この子ほとんど徹夜で漫画を描いていたから三時間しか眠っていないんだった。
それで学校に行って涼子さんたちとお話をしたんだから、そりゃあ眠くもなるよね。
幸い、明日は土曜日で学校もお休みだしゆっくり休養が取れる。それに来週を頑張ればもう夏休みだ。
亮くんはふらふらとベッドに倒れ込み、安堵したようにひと際大きなため息をついた。
そして、
「本当にありがとう」
布団のような柔らかな声色で言って、眠りについた。
「どういたしまして」
そう言って、眠りにつく亮くんの顔を眺める。
何の憂いもなく、安らかに眠るその横顔を眺めていると、何故だか私まで眠たくなってくる。
……おかしいな、眠気は感じないはずなのに。
「何もおかしくないよ」
どこからかそんな声が聞こえてきて、私ははっと目を見開く。
風鈴のような涼しげな声。もはや姿を探すまでもなく猫ちゃんの声だとわかる。
それでも、どうせ話すのだからと視線を机に向けると、やはり猫ちゃんはそこに座っていた。
「おかしくないってどういうこと?」
「君は役目を果たしたからね。もういつでも体に戻れるんだよ。眠って、目が覚めたら元の体に戻ってるって寸法さ」
あ、そういえば人助けしたら体に戻れるんだった。
「忘れてた!」
「やっぱり君はいい子だね。損得勘定抜きに彼を救おうと考えていたなんて」
猫ちゃんは感心したように鼻を鳴らす。
褒められるのは凄く嬉しい。それに、元の体に戻れるというのはもっと嬉しい。
亮くんとの楽しい生活が終わっちゃうのは寂しいけれど、ちょっと電車に乗ればすぐに会える距離だから大した問題はない。
「いやぁ、そのことについてなんだけどね」
私の思考を読んでいるらしく、言葉を発するまでもなく猫ちゃんが語りかけてくる。何やら含みのある言い方だ。
「うーん申し訳ない。これは事前に言わなかったボクのせいだね」
「……なに?」
ただならぬ雰囲気に、思わず息をのむ。
なんだろう、凄く嫌な予感がする。
猫ちゃんは中々口を開こうとしない。それが余計に、私に嫌な緊張を与えてくる。きっとこれまでの私の行動も、私が亮くんに抱く感情も全て知っているのだろう。だから言いにくいのだと思う。
「……言って」
耐えられなくなり、口を開くよう促す。
「……いいかい? 冷静に聴くんだよ」
そんな前置きを入れてから、猫ちゃんは口にする。
「君が元の体に戻るとね、消えちゃうんだよ。二人とも、互いに関する記憶が全て」
「――え」
それは、私に絶望を与えるには十分すぎる言葉だった。
「記憶が消える……?」
思わず聞き返した。
私には理解のできない言葉だったから。いや、私の心が理解するのを避けていたと言うべきか。
「うん。消えちゃうんだよ。君が体に戻った瞬間、君たちはお互いのことを全て忘れてしまう。更に言えば、君は彼の記憶どころか体から抜け出た間のことを全て忘れるんだ」
聞き返し、そして返ってきた言葉はやはり変わりないものだった。
私は深く息を吸う。静まり返った部屋には時計が秒を刻む音だけが響いていた。
蝉の声も夏の暑さもなく、不気味な静寂だけが今はこの空間を満たしている。
十秒か二十秒、あるいはもっとかかったのかもしれない。猫ちゃんの言葉から多くの時間が過ぎ去り、ようやく私は理解する。理解せざるを得なかった。
私が何分何時間と黙り込み、逃げたとしても、この現実は変わらない。何度聞き返しても答えは変わらないのだから。
「そっか……」
遅すぎる返事はすぐに空気に溶け込み、消滅する。
全部、消えちゃうんだ。
一緒に映画を観て、ああでもないこうでもないと言いながら漫画を描いて、励ましあった記憶が、全て。
……そんなの、絶対に嫌だ。
「記憶が消えると言っても、君が彼から貰った想いまで消えるわけじゃない。彼のことは思い出せなくても君はまた漫画家を目指すし、彼も君から与えられた勇気を持ったまま歩み続ける。……それでも、君は嫌がるだろうけど」
そんなの当たり前だ。
確かに、想いが残るのなら猫ちゃんの言った通り私はもう一度漫画家を目指すと思う。でも、だからと言って亮くんのことを忘れるなんて納得できない。
亮くんは私にもう一度夢をくれた大切な人。
大切なものをくれた人を忘れるなんて嫌に決まっている。
「猫ちゃん、どうにか――」
「できないよ。残念だけど」
私の言葉を遮り、猫ちゃんは断言する。
「こればっかりはボクにもどうにもできないことなんだ。ちょっと関わる程度、それこそ前にも言ったように幽霊のふりをして道端に現れるくらいなら記憶を消す必要はないんだけどね」
そういえば、最初私に説明したときにもそんな例え話をしていたっけ。
「でも、君たちは違う。君たちは深く関わりすぎてしまったんだ。互いに心の闇を全て打ち明けられるほどに」
「……それの何が悪いの?」
「何も悪くないよ。ボクだってできることなら君たちの記憶を消したくはないんだ。でもごめんね、これは決まりなんだ」
決まりだからって、そんなの受け入れられるわけがない。
信じあって、励まし合って、頑張った結果がそれなんてあまりにも理不尽だよ。
猫ちゃんだってたった今、仲良くなるのは悪くないと言ってくれた。なのに、どうしてダメなの? 私の心が読めるというのならすぐに答えて。
「……君たちは本来なら今頃出会っていない運命だった。それはわかるね?」
私は無言で頷く。
私は事故に遭って、猫ちゃんに頼まれてここに来た。それはとても特別なことで、普通に生きていれば出会うことはなかったはずだ。
「出会うはずのない二人が記憶を持ったまま再会するとね、その後の運命まで変わっちゃうんだよ。君が変えていいのはあくまで彼の不幸だけだからね」
そして、その不幸な運命は既に解決してしまった。
さっきから徐々に押し寄せてくる眠気は、そんな私をもとの体に引き戻すためのものらしい。
互いの記憶が消えて出会う前の状態に戻れば、必要以上に運命が変わることはない。猫ちゃんはきっとそう言いたいのだろう。
「じゃあ、記憶が消えた後は会ってもいいの?」
「うん。それは問題ないよ。といっても何の接点もない君たちがもう一度出会える確率なんてたかが知れてるけどね」
確かにそうだ……。
口ぶりからして、亮くんと一度話しているお母さんの中からも彼の記憶が消されてしまうだろうし。
もし私が眠ってしまったら、もう亮くんに会えなくなってしまうかもしれない。
そう思った途端、この眠気がたまらなく恐ろしくなる。
本当に何も手はないんだろうか。
「どうしてもダメなの?」
「んー……一応、記憶を残せないわけでもないんだけど、それをするともっと辛くなると思うよ?」
「……教えて」
懇願する私に、猫ちゃんはため息をついた。
そして、
「記憶を残すことはできる。でも、その代わり君たちは二度出会うことができない運命になってしまうんだ」
そう言って、憐れむような瞳でこちらを見つめてきた。
元々出会うはずのない運命だったから、記憶を残すのなら今後は一切接触することができなくなるということだろうか。
「そういうこと。記憶を消す理由はさっきも言った通り、記憶を持ったまま再会させないためだからね。逆に言えば再会さえさせなければ記憶を消す必要もないんだ」
「どうやっても絶対に会えないの?」
「うん無理だよ。もし記憶を残すと、君はどんなに頑張っても二度とこの家に辿りつけない運命になるし、手紙やメールなどの意思疎通すらできなくなっちゃうんだ。それでもいいの?」
「嫌に決まってるでしょ……」
「……だろうね。でもどちらかを選ばなきゃいけないよ」
記憶を消す道を選べば、亮くんと会うことはできる。でももう一度出会って仲良くなれる確率は無いに等しい。
記憶を残せば、もう二度と亮くんと出会うことはできない。どれだけ会いたくて、想い続けても道ですれ違うことさえできない。
そんなの、どちらも嫌だ。
亮くんを忘れるのも、会えなくなるのも嫌だ。
けれど、選ばなくてはいけない。私がこの眠気に負けてしまう前に。
「……すぐに選ばせるつもりはないよ。ボクだってできることなら君が納得できる形で終わらせてあげたいんだ」
納得できる形と言われても……。
どちらを選んでも報われないのだから納得も何もない気がする。
思い悩んでいると、猫ちゃんは机から飛び降りて私の膝に乗ってきた。
「どうしたの?」
「好きなところに連れて行ってあげる。ピラミッドでもマチュピチュでもどこでもいいよ。世界中の観光名所を案内してあげるよ。何なら月面でもいいくらい」
「……ありがと。でもごめんね、今はここから離れたくないの」
きっと気を遣ってくれているんだろう。
正直、ピラミッドもマチュピチュも凄く気になる。月面なんてもっと気になる。でも、今は残された時間を一秒でも多く亮くんの傍で過ごしたい。
「私が眠らなかったら、ずっとここに居られるの?」
「理屈ではそうなるね。でも、段々眠気が強くなってくるよ」
「あとどれくらい耐えられるかな」
「多分、明日の朝くらいが限界だと思う。六時か七時」
それを聞いて私は壁の時計に目をやる。
時刻は十九時手前。明日の朝までちょうど半日くらいだ。
それまでに、決めなくちゃいけない。
「ありがとね、猫ちゃん。ちょっと考えてみるよ」
「そっか。決断ができたら呼んでね。すぐに駆け付けるから」
「うん、ありがとう」
猫ちゃんは私の膝から降りると、段々と透けていき、いなくなった。
それを見届けてから、私は床に寝ころぶ。
頭の中はさっきの二択でいっぱいだった。
もう一度出会えるという僅かな望みをかけて記憶を失うか、二度と会えない代わりに亮くんとの思い出を守るか。
タイムリミットは明日の朝。とはいえその前に眠気に負けてしまう可能性もある。かろうじて意識を保ったとしても、正常な判断ができるとも限らない。
あまり時間は残されていないように思える。
やはり亮くんの意見も訊くべきだろうか。
これは私だけでなく亮くんの問題でもある。
しかし私は亮くんに猫ちゃんのことや、体に戻る条件があることを話してはいない。
ただ迷い込んだから居候しているだけ、そういう設定だ。
だから体に戻る際に記憶が消えるなんて言えば「何でそんなことがわかるのか」という違和感を与えてしまう。
でも、どちらを選ぶにせよもう最後なのだから、全て打ち明けてもいいかもしれない。いや、きっとその方がいい。
隠していたことをきちんと謝って、その上で記憶のことを話そう。
亮くんなら、どちらを選ぶだろうか。
もう会えなくても、私との思い出を優先するだろうか。それとも、もう一度私と会える可能性を信じて記憶を捨てるのだろうか。
……考えても、私にはわからない。
やっぱり全部話してしまおう。
明日は学校も休みだし、話し合う時間は十分にある。二時か三時か、それはわからないけれど深夜になれば目を覚ますはずだ。
何の憂いもなく安心しきった表情で眠る亮くんを見ると、胸が苦しくなる。
泣いても笑っても、この愛おしい寝顔を見るのは今日が最後になるのだから。
「ん……」
そんな声に反応して、私は咄嗟に時計を見やる。
時刻は三時過ぎ。概ね予想通りの時間だ。
「おはよ」
「ん、おはよう」
短いやり取り。
今はその僅かな会話さえ愛おしい。
さあ、話をしよう。全てを打ち明けて、二人で決断するんだ。
残された時間は長くて三時間程度。
眠気は既に結構強くなっていた。けれど、まだ耐えられるレベル。思考にも不自由はない。
「亮くん、ちょっといい?」
「なに?」
記憶のことを話さなくちゃ。
そのためにはまず嘘を謝らなくてはならない。
「実はね、隠していたことがあったの」
「うん、知ってる」
「えっ!?」
あれ? バレていたの……?
そういえば、ここに来た経緯を話した時に凄く疑われていたような。
ということは嘘だと気付いた上で知らないフリをしてくれていたってこと?
「あからさまに怪しかったから。いつ話してくれるんだろうって思ってた」
「あちゃー……ごめんね」
ちょっと驚いた。
でも都合がいいと言えば都合いい。一分一秒が惜しい今となってはその賢さが凄く頼りになるのだから。
「実は、私がここに来たのは神様の使いを自称する猫ちゃんに言われたからなの」
「……胡散くさい」
「本当だもん」
実際、同じことを言われたら私も同じ反応をする自信がある。
喋る猫とか神様の使いとか、普通の人からしたら怪しいにも程があるもの。
だからこそ、最初に会った時に言わなかったわけだし。
「まぁ信じるよ。続けて」
「それでね、猫ちゃんのおかげで亮くんにだけ私の姿が見えるようになったの。だから迷い込んだっていうのは嘘です……ごめんなさい」
言い訳はしない。
あの時は信じてもらうのに必死だったけど、嘘は嘘だもん。私が悪い。
「別にいいよ。どんな事情があれ、傍にいてくれたんだから」
「うん……ありがと」
なんていい子なんだ。初対面の時にクソガキって思ってごめんなさい。
思い返してみれば、あの時とは随分と態度が違う。
最初は何をしても「帰って」か「邪魔しないで」としか言わなかったのに、今では見守ってほしいとまで言われるようになった。
私がいつでも体に戻れるようになったのは亮くんを救ったからだし、きっと心の底から信じてくれているんだと思う。
そのせいで今は悩んでいるというのは少し皮肉な話ではあるけれど。
「それより、どうしてその神様の使いは僕にだけ見えるようにしたの? 僕たち知り合いでもないのに」
「えっとね、今だからこそ言えるんだけどね、亮くんが悩みを抱えているっていうのは元々知ってたの」
具体的な内容までは知らされてなかったけどね。
「それで、亮くんを救ったら体に戻してあげるって言われたの」
「…………は?」
瞬間、亮くんの拳に力が入る。
「なにそれ。聞いてないんだけど」
「隠しててごめんね。それで、もうすぐ体に戻――」
「そんなのどうでもいい!」
私の言葉を遮り、亮くんはベッドを乱暴に殴る。
普段声を荒げない亮くんが突然大声を出したものだから、思わずびくっとしてしまった。
何かまずいことを言ってしまっただろうか。
私はたった今自分が言ったことを振り返り、そして気が付いた。
亮くんを救えば体に戻れる。その言い方じゃあまるで、体に戻るために偽善的に手を貸していたみたいじゃないか。
私は本気で亮くんを救いたいと思っていた。体に戻るなんて二の次。だからこそ今の言葉を無警戒に口にしてしまっていた。
時間がないこの状況で、とんでもない誤解を招く物言いをしてしまった。
おそるおそる、顔色を伺うように亮くんを見やる。
そして私は驚愕した。
拳を握りしめ、怒りを露わにしながら、亮くんは泣いていた。
「僕を救ったら体に戻る……? それじゃあ今までずっと、体に戻りたいがために僕を励ましていたってこと?」
思った通り、亮くんは私の言葉をそう捉えていた。
「ちが――」
「信じてたのに! 本気で、心の底から僕を助けようとしてくれていると思っていたのに……なのに……」
「違うの、私は本当に……」
本当に助けたかったんだよ。
そう言おうとしたけれど、涙を流す亮くんを前にすると、喉が詰まってしまう。
きっとこの子は、物凄く勇気を出して私に全てを打ち明けてくれたのだと思う。
信じてもいいのか疑心暗鬼になりながらも、私を信じてくれた。
それなのに、私が体に戻るために亮くんを利用していたと思われたのだから、この子が涙を流すのは必然だ。
体に戻ることなんてどうでもいいのだと、本当に救いたかったのだと、すぐにでも言わなければいけない。
けれど、何と弁明すればいいのかが全くわからない。
きっと何を言っても、言い訳にしか聞こえない。ただでさえ私は亮くんに隠し事をしていたのだから。
「……もういい。体に戻れるのならさっさと戻れば?」
怒りと悲しさが入り混じった声が、震えながら私の心を突き刺す。
亮くんはベッドから起き上がるとすぐに部屋を出ていく。
その姿を茫然と眺めていた私は、乱暴に閉められたドアの音ではっと我に返る。
「待って! 亮くん!」
呼びかけも虚しく、階段を下る足音だけが耳に入る。
私はすぐにドアノブを掴む。けれどドアはびくともしない。
「お願い! 待って! 亮くん……」
私はドアに縋り付き、涙を流した。
やがて玄関の扉が開く音が聞こえ、亮くんが外に出たのだと気付く。
けれど私にはどうすることもできなかった。
たった数センチの厚みしかないドアひとつ開けられず、無力に地に伏した。
どうしてすぐに弁明しなかったのだろう。
言い訳に聞こえるかもしれないなんて考えずに、正直に話すべきだった。
時間がないのだからとにかく話をするべきだった。
言葉を選んでいる余裕などないというのに。
後悔しているうちに、瞼が重くなってくる。
嫌だ。眠りたくない。こんなところで終わりたくない。
何度もドアを叩き、薄い扉を必死に開けようとする。
だけど、今の私にはこの扉をどうすることもできなかった。
……嫌。 こんな最後は絶対に嫌!
「もう、君は本当に困った子だね」
ふいに背後から声がかかる。
この状況で私に声をかける存在なんて猫ちゃんをおいて他にいない。
私は重たい瞼を気合いだけで大きく開く。
「猫ちゃんお願い! このドアを開けられるようにして!」
「言われなくてもそのつもりだよ。やれやれ、こんなの神様にバレたら怒られちゃうよ」
小言を唱えながら、猫ちゃんは私の頭の上に飛び乗ってくる。ついてくるらしい。
直後、私は直感的に扉を開けられるようになったのだと悟った。
私はすぐにドアを開け階段を降りる。
「ありがとう猫ちゃん!」
「乗りかかった船ってやつだよ。それに、君たちがどんな選択をするかボクも興味があるからね」
階段を駆けおりながらそんなことを話す。
神様の使いは私のような幽霊みたいな存在に必要以上に手を貸す行為は禁止されているらしい。あくまで本人の力で人助けをさせるのが目的なんだとか。
だから、今私に手を貸していることがバレたら神様に怒られてしまうそうだ。
もう悠長に構えていられる余裕はない。既に眠気は限界に近づきつつある。
ここで眠ってしまったら亮くんを傷つけたことさえ忘れて私はのうのうと生きることになってしまう。それだけは嫌だ。
玄関の扉を開け、肩で息をしながら全速力で街を駆ける。
眠気でふらつき、夜道で視界が悪いのも相まって何度も転んでしまう。
痛みでいくらか眠気が浅くなるけれど、立ち上がって走っているうちにまた眠くなり、転倒を繰り返す。
「亮くんがどこにいるかわからないの!?」
「わかるけど! そこまで干渉するとさすがにボクもまずいんだって! というかボクが教えなくても冷静に考えたらすぐわかるでしょ!」
「わかんないよ! 猫ちゃんのけち! 乗りかかった船とか言ってたくせに!」
冷静に考えたらわかるなんて言われても、こんな状況で冷静に考えられるわけがないでしょ! 眠いし!
「うるさい! いいから走って!」
「あーんもう! わかったよ!」
猫ちゃんに頭を叩かれながら走る。
手当たり次第に光のある場所――コンビニやファミレスを見て回る。
けれど、そのどこにも亮くんの姿は見当たらなかった。
やがて息もきれ、体力を失った私は立ち止まる。
眠気で怠けつつある意識に活を入れるために両手で自らの頬を叩いた。
「もう……わかんない……」
肩で息をしながら、頭上の猫ちゃんを地面に降ろす。重たい。
「あーもう! じれったいなぁ! わかったよ! ヒントだけあげるよ!」
「本当!?」
「これで神様に怒られたら一生恨むからね!」
「うん!」
さすが猫ちゃん、いざという時に頼りになる!
「彼が時々理由もなく訪れる場所、どーこだ!」
「公園!」
「正解!」
そうだ、公園だ!
確かこのすぐ近くだったはず!
答えを得た途端、私の脚は自然に動いていた。一分でも、一秒でも早くそこに辿りつくために、心よりも先に体が動いていたのだ。
「何で今まで思いつかなかったんだろう!」
「だから冷静に考えたらわかるって言ったじゃん!」
とんでもない正論をぶつけてくる猫ちゃんに心の中で感謝して、私は全力で走る。
もう時間がない。急がなくちゃ。
公園の入口を抜け、狭い園内を見渡す。
そして、公園の奥――以前私たちが話をしたベンチに、亮くんは座っていた。
証明に淡く照らされるその姿はどことなく寂しそうに見える。
「亮くん!」
すぐに駆け寄り、息を整える。
猫ちゃんはどこかに隠れたのか、姿が見えない。けれど、どこからか私たちのことを見ているのだろう。
「何で来たの」
亮くんはぶつけるように不機嫌そうな言葉を吐く。
「そりゃあ来るよ……。まだ、話さなきゃいけないことがあるから」
「何を話すっていうの」
訝しげに、不信な眼差しを向けてくる。その態度は初めて会った時と同じものだった。
亮くんは、私が体に戻るために嫌々手助けをしていたと思っているのだろう。勘違いするのも当然だ。普通は魂だけになったら戻りたいと思うのだから。
実際最初は焦ったしすぐに戻りたいと思った。
彩月との一件もあって、引け目を感じてもいた。
でも、亮くんと関わるうちに、私は自分の体など関係なく彼を応援したいと思うようになった。
だから、私は決して自分のためにこの子に手を差し出したわけではない。
「亮くん聞いて。私は体に戻るために励ましていたわけじゃないの。本当に心の底から亮くんを助けたいって思ってたの」
「今更そんなこと言われても信じられない。だって普通は――」
「亮くん!」
最後まで聞きもせず、強く、彼の名前を呼ぶ。
さっきは私が言葉を遮られたのだから、今度は私の番だ。
今にも落ちそうになる瞼を必死でこじ開けつつ、私は大きく大きく、今までにないほど深く息を吸った。たった一言、何よりも伝えたい気持ちを言うためだけに。
「好き」
たった二文字の言葉。口に出せば一秒にも満たないほど短い言葉。
けれど、その言葉が持つ意味は決して一秒では言い表せない。
「私は亮くんが好き。だから、助けたいって言葉は嘘じゃない」
恐らく、何を言っても言い訳と思われてしまう。
さっきまでの私はそう考えていた。でも、きっとこの言葉だけは真っすぐに伝わってくれるはずだ。根拠があるわけではないけれど。
「な……急に何を……」
亮くんは目を丸めて驚いている。その表情にさっきまでの棘はない。
「最初は体に戻りたいとも思っていたんだけどね、でも気が付いたらそんなこと忘れちゃってた。なんでかわかる?」
「……わからない」
「亮くんが私を救ってくれたからだよ」
その時もちょうど、この公園だった。だからハッキリと思い出せる。
ずっと自分なんてちっぽけで、どうしようもなく恥ずかしいと思っていた私を、亮くんは悪くないと言って認めてくれた。
あの時、私がどれだけ嬉しくて、どれほど救われたか。きっと心が読める猫ちゃんでさえわからないと思う。
気が付いたら、あっという間に好きになっていたのだ。
それだけじゃない。
「それに、亮くんは私に夢を思い出させてくれた」
家族のことで悩んで、ずっと苦しんでいたのに、それでも夢に向かって突き進む亮くんの姿は、私に多くの勇気を与えてくれた。
私は亮くんを救うという立場にありながら、逆に救われていたんだ。
「亮くんのおかげでね、私ももう一度漫画家を目指そうって思えたの。だから私は本当に感謝しているし、心の底から亮くんを救いたいと思ったの」
我ながら滅茶苦茶だと思う。
突然好きと言ったかと思えば、救われたとか夢を思い出させてくれたとか、そんなことを口走ってしまった。本当に支離滅裂だ。
でも嘘は言ってない。眠たくて頭も回っていないけれど、回っていないからこそ思ったことをそのまま口にできる。
私の言葉を受け、亮くんはしばらく黙り込む。
その間、耐えがたい睡魔に襲われたけれど、それでも私はじっと待ち続けた。
そして、
「……わかった。信じるよ。疑ってごめん」
「私の方こそ勘違いさせるような言い方してごめんね」
……よかった。誤解は解けたみたいだ。
でももう時間はない。
誤解が解けたことにいつまでも浸ってはいられないのだ。
いよいよもって、限界がすぐそこまで差し迫っている。
私たちは選ばなくてはいけない。記憶が消えるかどうか、その究極の二択を。
今にも消えてしまいそうなこの意識を何とか保ち、私はこの子と話さなければならない。
けれど、その前に、どうしても訊きたいことがある。
「ねぇ亮くん。私、役に立てたかな?」
この眠気は、私が彼を救ったことの証明でもある。だから今の質問の答えは解りきっているし、時間が惜しい今この瞬間においては愚問でしかない。
でも、どうしても、この子の口から聞いておきたかった。
「正直、最初は鬱陶しいと思った。しつこいしうるさかったから」
「うぐ……」
耳に痛い言葉だ。
「でも、いてくれてよかった。君が……いや、こころちゃんがいてくれなかったら、僕は今頃ダメになっていたと思うから」
「…………そっか、よかった」
ちゃんと役に立てていたんだ、私。
想いは伝えた。半ば勢い余ってだったけど。でも、ちゃんと言えた。
聞きたいことも聞けた。それどころか、また名前を呼んでもらえた。
悔いはない。あとは、最後に二人で選ぶだけだ。
「亮くん、あのね」
「待って、まだ全部言ってない」
「え?」
全部って、他にもまだあるの?
すっかり怒りの色が抜けた亮くんを見ると、今度は耳まで真っ赤にして俯いていた。
そして私の同じように大きく大きく息を吸って、
「僕も、好き」
大きな声で、はっきりそう言った。
一瞬、思考が止まる。
そして、跳ねるような心臓の音とともに一度は引いた波が押し寄せるように意識がクリアになる。眠気など微塵も感じないほどに。
止まった思考が動き出し、亮くんの言葉を理解した途端全身が熱くなる。
「ま、まさかの両想い……!」
「恥ずかしいからあんまり言わないで」
照れ臭そうに言いつつ、亮くんは優しく微笑んだ。
救ってもらって、夢をもらって、その上好きとまで言ってもらえなんて思ってもいなかった。
嬉しくてつい頬が緩んでしまう。
「それで、さっき言いかけてたことって何?」
……そうだった。
その一言で、鮮明になった私の意識は否が応にも最後の選択を思い出す。
嬉しさのあまり眠気とともにそれさえ失念しかけていた。
「亮くん、聞いて」
そう言って、私は猫ちゃんに言われた通りに記憶のことを話す。
体に戻ればお互いに関する記憶はなくなる。
記憶を保持する方法もあるけど、二度と会うことはできなくなる。
それらを全て説明した。
「……それで一晩悩んでたの?」
「うん」
「バカみたい」
「ば、ばかって……」
ひどい。私は真面目に考えていたというのに。
「じゃあ亮くんはどうすればいいと思う?」
「そんなの記憶が消える方を選ぶに決まってる」
「どうして?」
「だって、また会えるじゃん」
……この子、ちゃんと私の説明聞いていたのかな。
また会えるって簡単に言うけど、互いに関する記憶もなくて何も接点がない私たちがどうやって再会すると言うの。
仮に出会えたとしても、すれ違う程度の出会いじゃ仲良くなることもないし。
「どうやって出会うの?」
「簡単だよ。だって、僕たち漫画家になるんでしょ?」
「そうだけど……」
「なら、きっと会える。同じ夢を持って同じゴールに行きつけば、必ずそこで再会できるよ」
……私以上に支離滅裂だ。
同じ出版社で本を出すとも限らないし、そもそも二人とも漫画家になれる保証なんてどこにもない。私は諦めないけど。
亮くんらしくもない穴だらけの理屈。
けれど……どうしてだろう。不思議と安心できてしまう自分がいる。
この子となら、もう一度出会えるような気がする。
「不安じゃないの?」
「記憶が無くなるのは嫌だけど、不安はないよ。僕たちは既に一度出会っているんだから、きっとまた会える」
「……そっか、そうだよね」
それを聞いて私も覚悟が決まった。
必ず、亮くんと再会してみせる。
決意した瞬間、頭上に重たい物がのしかかる。さっき街を走っている時にもあった感覚だ。
頭上に手を伸ばして触ってみると、見事な毛並みを感じる。
「答えは決まったみたいだね」
「あっさりね」
頭上からの声に苦笑しながら答える。
一晩中考えても結論が出せなかったというに、亮くんはいとも簡単に決断してしまった。そういうところも、凄く好きだ。
「……なに一人で喋ってるの」
亮くんは私を見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「あ、言い忘れてた。ボクの姿はこの子には見えてないからね」
このポンコツ猫ちゃんはどうしてこう、大事なことばかり言い忘れるの。亮くんに変人だと思われたらどうしてくれるというんだ。
頭の中で文句を垂れつつ、私は亮くんに一歩近づく。
答えを得て安心したせいか、再び睡魔が襲いかかってくる。今度こそ限界みたい。とはいえ、もう抗う気もなかった。
「それじゃあ亮くん、私もういくね。そろそろ眠くて倒れちゃいそう」
「うん、おやすみ」
遠くの空から昇る朝日が私たちを優しく照らす。
おやすみなんて言う時間ではないけれど、それがしっくりくる。
「ブランクがある分、私の方が後に漫画家になると思うけど、ちゃんと待っててね」
「わかった、待ってるよ。いつまでも、ずっと」
そう言って笑う亮くんは、少しだけ泣いていた。
やっぱりこの子は寂しがり屋さんだ。早く会いに行ってあげなきゃね。
ああ、朝日が凄く暖かい。まるで旅立つ私を優しく包んでくれているようだ。
悔いはない。
亮くんを救い、私も夢を貰った。
自信を持つこともできた。
体に戻ったらもう一度彩月ともやり直そう。
記憶はなくても、きっと私はそうするだろう。
……最後に、私は大きく息を吸う。
そして、
「それじゃあまたね。大好きだよ、亮くん」
そう言って、静かに目を閉じた。
***
目を開けると、真っ白な天井が見えた。
ゆっくりと身を起こして状況を確認する。
腕に繋がれた管、頭に巻かれた包帯。判断材料はそれだけで十分だった。
「そっか、私車に轢かれたんだった」
ちゃんと声が出るだろうかと思い、一人部屋の病室で呟く。
何だろう、とても長い夢を見ていたような気がするのに、思い出せない。
頭の中に靄がかかったような感じだ。
でも、気分は晴れやかだった。
私は床に置かれた鞄からスマートフォンを取り出す。よかった、壊れてないみたいだ。多少画面にヒビが入ってはいるけれど。
電話アプリを起動し、発信ボタンを押す。
「もしもし、お母さん? うん私。こころだよ」
電話で目を覚ましたことを伝えると、お母さんはすぐに病室まで来てくれた。
「こころ! よかった!」
そう言って抱きついてくるお母さんを力強く抱き返し、心配をかけてしまったことを深く詫びる。
「それでね、お母さん」
私は鞄から一枚の用紙とペンを取り出した。
この晴れやかな胸の内側から湧いてくる想いを、迷いなくその用紙に刻み込む。
そして書き終えたそれをお母さんに見せつけ、私は高らかに宣言する。
「私、漫画家になる!」
握りしめたペンをそっと机に置き、佐々木こころは結んだ両手を高く天に突き上げて背筋を伸ばした。
「やっと終わったー。今回は締め切りギリギリだった!」
亮と再会の約束を交わしてから五年、二十三歳となったこころは新人漫画家として活躍していた。もっとも、本人は約束のことなど覚えてもいないが。
こころはすぐにポケットからスマートフォンを取り出し、ある人物に電話をかける。
「もしもし、彩月? こころだよ。今原稿終わったの。後でそっちに行ってもいい? うん、うん、わかった! じゃあ二時間後ね!」
約束を取り付け、こころは静かにスマートフォンを置いた。
電話の相手は九条彩月。かつてこころと仲違いした不登校の女性だ。
亮と別れ、意識を取り戻したこころは退院後、彼女の家に強引に押しかけて玄関先で強烈な土下座をかましたのだ。
酷いことを言ってごめん、ずっと謝りたかった。何度もそう繰り返すこころ。
それを受け、彩月もまた、こころに対し深く詫びた。
彼女も、悔いていたのだ。
紛れもない親友に手を差し伸べられていたのにもかかわらず、その手を握らなかったことを。
彩月は自身に起きた悲劇――両親の死というトラウマを打ち明け、仲直りを受け入れた。
以来、二人は何よりも強い絆で結ばれた親友以上の友人になっていた。
「約束まで時間あるなー、ちょっとお散歩してこよっと!」
ひと仕事終えた解放感からか、こころは年甲斐もなく軽やかなスキップで家を出る。そのはしゃぎぶりは、近所の住民に見られでもしたら羞恥心で倒れてしまうほど盛大なものだった。
家を出て少し歩けば、そこは大きなビルが立ち並ぶ都会だった。出版社が近いからというだけの理由で、こころはこの街に居を移したのだ。
あまりの人の多さに初めは戸惑いもしたこころだったが、住めば都という言葉があるように、慣れてみれば不自由はなかった。
約束まで時間を持て余したこころの視界に、ふと真っ白い塊が飛び込んでくる。
「猫だ!」
街の中心に位置する大きな交差点。そのさらにど真ん中で、白線に擬態でもしているかのような白猫を見つけ、こころのテンションは急激に上昇する。
道行く人々は大声を発したこころを訝しげな瞳で見つめ、白猫もまた、じっとこころを直視していた。
「ついて行ってみよう」
向かい側から押し寄せる人の波を慣れた様子でかわしながら、白猫の後を追う。
先導する白猫は迷う様子もなく街を歩き、時折こころが付いてきているか確認するかのように振り返る。
歩くこと五分。白猫は一件の店の前で脚を止めた。
「お、アニメショップだ」
そこはかつて、こころと亮が訪れた店。
「暇だし覗いてみよっかな」
店内に入り、自身の漫画が置かれていることにちょっとした優越感を覚えながら、こころは上機嫌で店中を徘徊する。
漫画コーナーを抜け、フィギアやCDをひとしきり見た後、こころはとあるコーナーで立ち止まった。
「へー……トーンとかも売ってるんだ」
それは、トーンやベタ塗りなどの作業はすべてパソコンで行うこころにとっては非常に新鮮なものだった。
ゆっくりと棚に近づき、スクリーントーンを一枚手に取る。
色々な柄があるものだと思い、興味深く眺めるこころ。
その時だった。
「あの、買いたいんですけど、どいてくれませんか」
こころの背後から、不愛想な声がかかる。
「あ、ごめんなさい」
慌ててトーンを棚に戻し、場所を譲る。
声をかけた青年はこころを一瞥し、小さくお辞儀をするとおもむろにトーンを漁り始めた。
こころは、その青年に見惚れていた。
端正な顔立ちに、長く伸びた脚はモデルを思わせる。
しかし、そんな容姿の美しさ以上に不思議と心惹かれる何かがあった。
「あの、漫画描くの好きなんですか?」
何を思ったのか、気が付いた時、こころはそんなことを尋ねていた。
青年は棚を漁る手を止め、こころに向き直る。
「えぇ。一応漫画家ですから」
青年は淡々と抑揚のない声で喋る。
「本当ですか!? 実は私もそうなんです! よかったらペンネームを教えていただけませんか?」
こころの問いかけに対し、青年は若干面倒くさそうに頭を掻いたあと、小さく、そして短く呟く。
「石丸亮」
***
二人のやり取りを、白猫は遠くから眺めていた。
踵を返し、店を出てから、白猫は呆れたように鼻を鳴らす。
「やれやれ。本当は再会できない運命なのにね。あんな約束をされたら会わせたくなっちゃうじゃん」
漫画家になって再会する。
そんな約束が叶うほど世界が甘くないことを白猫は知っている。
記憶のない彼らは、再会できないことを嘆くことさえ許されない。
勇気を与えてくれた存在がこの世界にいるとも知らずに、夢を与えてくれた存在がいるとも知らずに、彼らはこの世界を生きるのだ。
白猫には、それがどうにも納得いかなかった。こころの前に姿を現し、彼女を導いたのはそんな理由からだった。
「あーあ、また神様に怒られちゃうんだろうなぁ。いつになったら出世できることやら」
ため息交じりに愚痴をこぼし、しかしどこか満ち足りたような表情で、白猫は都会の雑踏に溶け込んでいった。