名瀬先生がもう小説を書かないと言った時、私は大切な人が死んでしまったことを聞かされたかのような喪失感に囚われた。その場で泣き崩れてしまいたかったが、そんなことをしてしまえば先生が困ってしまうだろうから、私は最後の最後まで涙をこらえ続けた。

 それが決壊したのは、公生さんが呆然としていた私を心配して、部屋へと入れてくれた時。私はその場にへたり込み、壊れたように泣き崩れた。それから彼は、部屋の中で私を慰め続けてくれた。彼がいてくれなかったら、私はきっと立ち直ることができなかっただろう。

 先生は、もう小説を書かない。その事実をようやく頭の中で理解できた頃には、すでに涙は枯れ果てていた。仕方のないことなのだと、私は諦めにも似た感情を心の中に抱く。

 それから壁にかけられた時計で時間を確認して、私は焦った。

「もう、終バス終わっちゃってる……」
「えっ?!」

 最終バスは、もう三十分も前に最寄りの駅を通過していた。事前にバスの時間を調べていたはずなのに、泣き崩れていたため、すっかりと頭の中から抜け落ちていた。

 公生さんはタクシーを呼ぶよと言ってくれたけど、夜中に娘が涙で目元を赤く腫れさせて帰ってきたら、きっとお父さんとお母さんは心配してしまう。だから無理を言って、今日だけ部屋に泊めさせてもらった。

 今日会ったばかりの人に、その提案をすることは少しばかりの勇気が必要だったけれど、不思議と抵抗はなかった。この人なら、信頼できる。そんな予感が、密かに私の心の中にあった。

 結局は無理を押し通すことに成功して、公生さんは私が部屋に泊まることを了承してくれた。私たちは一緒の部屋に寝たけれど、それ以上は何もしなかったし、何もされたりしなかった。私の心には、ただ純粋な安心感が芽生えていた。